シンガポール通信−テロを防ぐ道はイスラム教の内部変革にある

イスラム国やアルカイダなどのイスラム過激派と呼ばれるテロ集団が、イスラム教の戒律を厳格に守り欧米文化に毒されない過去への回帰をめざしている一方で、欧米の科学技術の成果である最新の武器を装備しているという内部矛盾を抱えている事を前回指摘した。

ここにこそ、イスラム文化やそれがよって立っている所のイスラム教が抱えている大きな矛盾があらわれている。そしてそれは同時に、イスラム教自身が内部の変革を必要としている事を示しているのではないかと私は考える。

イスラム教の内部変革とは何か、それはイスラム教の根本的な考え方である政教一致の原則を捨て、政教分離を基本的な考え方として取り入れる事である。本来宗教は人間の精神のよって立つものである。しかし精神は人間を構成している基本的な要素であるため、ある宗教の教えに深く帰依すればするほど宗教はその人の精神面のみならず日常の生活における行動をも律して来る。そしてその延長には人間が形成している社会もそして社会を動かしている政治も宗教と深く関わるかもしくは宗教の戒律を基本として成り立つようになる事が考えられる。これが政教一致の考え方であり、イスラム教においてはこれまで厳格にこれが実行されて来た。

本来宗教の究極的なあり方とはそのようなものではないだろうか。その意味ではイスラム教は宗教の究極の形を実現したものであるといえるだろう。そのような宗教が存在している事自体が驚異といってもいい。しかし私たち凡夫にとっては宗教の戒律を守る事を生活の基盤におく事は大変難しい。

精神の深さ豊かさを求める人の大半にとっても、日々の生活においては物質的な豊かさも求めるだろうし、欧米の科学技術が提供してくれる便利さや効率を追い求めたいというのは避けがたい欲望であろう。精神的な深さを求める事と物質的な豊かさを求める事をどう両立させるか。いいかえると宗教と政治・経済も含めた社会のあり方とをどのようにすれば並び立つのか。これは人間にとって、古来からの大きな問題だったのではあるまいか。

これに対する解決策が、政治と宗教は別の次元のものとして分けて取り扱かおうとする政教分離の考え方である。政教分離の考え方は、厳密に言えばごまかしだまやかしだと言えなくもないだろう。しかしながらこの政教分離の原則は、宗教と世俗的な世界とを両立するための方策として古くから採用されて来た。キリスト教においても「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」という新約聖書に記されたキリストの有名な言葉があるように、政治と宗教は別のものであるという考え方が古くからあった。

そして何度も指摘して来たが政教分離の原則こそが、宗教の規律に縛られる事なく自由に人間の好奇心を羽ばたかせることとなり、それによって近代科学が生まれたのである。そして聖とは別に俗の世界を認めることによって、私たちは精神面での向上を心がけることと並行して、科学技術の成果によってもたらされる生活の豊かさ・便利さ・効率の良さなどを享受することができるのである。

現代の世界を支配している欧米文化は、このような悪く言えば妥協的なそれと共に良く言えば柔軟な原則の元に成り立っているのである。これまでの歴史をかえりみても、このような原則を否定する宗教そしてそれに基づいて成り立っている文化は、欧米文化に駆逐される運命にある事は明白なのではあるまいか。唯一生き延びられる方策は、自らも欧米に劣らず柔軟な考え方を持ち、欧米文化の良い所取りをしながら自らの文化を温存しまた欧米文化と融合させようとする生き方である。

日本も含めてアジアの大半の国々は、このような方策を取ることにより欧米文明に押しつぶされる事なく生き延びて来た。そして中国も共産主義と資本主義を両立させるという離れ業をしながらこの流れに乗り、そして欧米中心の世界のトップになる事をめざしている。

イスラム諸国が欧米諸国に対抗できる独自の文化を持った国々として生き延びるには、結局はこのような方策を取らざるを得ないのではないだろうか。そして私はイスラム国やアルカイダの指導層も心の底ではそれを認めているのではないかと思う。結局は欧米文化と自分たちの伝統文化との共存を図らなければ、イスラム教のそしてイスラム文化の将来はないということを彼等は無意識かもしれないが自覚しているだろう。

あとはそれをいかにして彼等が意識し実際の行動に移すかである。これは欧米諸国を中心とした他の国々からの圧力だけでは困難だと思われる。これまで述べて来たような危機感を持ち、それに基づいてイスラム教の基本的な教義・価値観と欧米の価値観の共存を認める論理を構築し、それをイスラム教徒に向けて教え諭す人物がイスラム教徒の中に現れる必要がある。

これを困難にしているのが、例えばキリスト教におけるローマ法王をトップとした聖職者がイスラム教には存在しないという事実である。ローマ法王の言葉がキリスト教徒の多い欧米社会の世論を左右するのに対し、イスラム教ではローマ法王に相当する高位の聖職者がいないことが、イスラム教徒の世論を導く事を困難にしていることは事実であろう。

イスラム教では聖職者という人々に代わって、人々を教え導く立場にある人達としてウラマー(いわゆるイスラム知識人とでもいったらいいだろうか)が存在している。とするならば、ウラマーの中でも人々の信頼の厚い人達が、イスラム教のおかれた立場そして将来を考えて人々に向けてイスラム教のあり方に関して言葉を発するべき時はなかろうか。