シンガポール通信-中国の覇権主義を考える2

鄭和の南海大遠征」とは、明の初期永楽帝の時代に1405年から1431年まで朝貢貿易を勧めるため宦官鄭和に命じて7回にわたって大艦隊を海外に送ったことをさしている。欧州における大航海時代の始まりに数十年先行し、かつその具体的な成果であるコロンブスアメリカ発見(1492年)やヴァスコ・ダ・ガマによる喜望峰到達(1497年)に約90年先んじている。

しかもその艦隊は、例えば鄭和の第1回航海の場合は大きな船は長さ約140メートル、重量8000トンという巨艦であり、62隻の船団よりなり乗組員は2万8000名にのぼったという。これをアメリカ発見の際のコロンブスの船団と比較すると、コロンブスの船団はサンタ・マリア号を中心として3隻で乗組員は約100名。最大の船であるサンタ・マリア号でも長さ20メートルに満たず重量は約80トンであると言われている。

なんと船の長さや重量、船の数、乗組員数などいずれを比較しても、鄭和の船団はコロンブスの船団に比較して数十倍〜数百倍の規模を持っていたのである。これだけの船団と武力を持っていれば、行く先々の国々を武力で制圧し植民地化することは容易であったであろう。ところが鄭和の大艦隊がめざしたものは、訪問先の国々が明を宗主国として認め朝貢を行うことであった。

朝貢とは貢物を捧げることであるが、それ以上の贈り物が明の皇帝から下賜品として与えられるのであるから、相手国を植民地しそこの生産物をいわば強奪するのとは全く異なる。植民地支配における二国間の関係が支配者と被支配者の関係であるとすれば、朝貢貿易における明と他の国々との関係は親子の関係に近いものであったということができるだろう。

それ以降の歴史を見ると、中国の対外政策と西洋の対外政策の大きな相違が明らかになる。明の場合は、鄭和の最後の航海である第7次の航海が終了しほどなく鄭和が死去するとともに、明は自由貿易を禁じる海禁政策をとり鎖国的な政策をとるようになった。それとともに南海大遠征は取りやめとなり、これらの巨艦は朽ちるに任されるようになったと言われている。

それに対してヨーロッパの国々の対外政策は全く異なる。例えばコロンブスアメリカ発見(1492年)と共に、新大陸の富を強奪しようとしたスペイン人が続々と新大陸へと渡った。そしてそれは1521年のエルナン・コルテスによるアステカ征服、1533年のフランシスコ・ピサロによるインカ征服へとつながり、スペインによる中央アメリカ・南アメリカの植民地化へとつながるのである。スペイン人によるアメリカの征服の際やその後の圧政、さらにはスペイン人が持ち込んだ病原菌により新大陸の原住民(インディオ)は数千万人単位で死亡したといわれている。

一方バスコ・ダ・ガマ喜望峰到達さらにはインド到達とともに、ポルトガルがインド・東南アジアに進出し、インドや東南アジアに貿易拠点をもうけ、これらの地域とヨーロッパとの貿易を独占した。さらにポルトガルの衰退とともにイギリスが進出し、インドや東南アジアの国々をイギリスの植民地へと変えていったのである。

ヨーロッパの国々と中国の対外政策のこの大きな違いはなんだろう。またそのような大きな違いがどうして生じたのだろう。どうもここにそれ以降の世界の歴史の流れを決めた大きなカギがあるのではないだろうか。かたや明のように漢民族による中国の歴代の国々は、周辺の諸国を植民地化する十分な力を持っていながら、中国大陸を支配することで満足してそれ以上の領土拡大の野望を持たなかったのであろうか。もちろん中国大陸はそれだけでも十分に広大ではあり、明はローマ帝国を凌ぐ広大な土地を支配したいたわけではあるが。

一方では、大航海時代の始まりを切り開きその後の現代に続く欧米の文化・科学技術が世界を支配する時代の発端となったポルトガルは、当時は人口数百万人にしかならない西欧の小国であった。それが東回りでインドに到達する航海路を開拓し、東南アジアの国々を支配下におき、一時的ではあったとはいえスペインと世界を二分して植民地化していた時代があったのである。

当時のスペインはポルトガルに比較すれば大国であったとはいえ、多くの国が乱立していた欧州の国の一つに過ぎなかった。またその後ヨーロッパ諸国の植民地戦略に加わったオランダも欧州の小国に過ぎない。さらにはその後これらの国々に代わって世界の多くの国々を植民地化し日の沈むことなしと豪語した英国は日本と同じ小さな島国である。

いずれも明に比較すると当時は欧州の小国に過ぎない。さらには明に先んじた宋の時代に中国ではヨーロッパに先駆けて一種の産業革命を実現し製鉄業が大いに栄え産業・経済でも中国は欧州を圧倒していたのである。それを示す具体的な証拠が先に述べた鄭和の南海大遠征に用いられた明の巨艦(宝船と呼ばれた)であり、それは当時の欧州が持つ通常の帆船の数十倍の規模を持っていたのである。