シンガポール通信-アリス・ロバーツ「人類20万年 遥かなる旅路」:3

約20万年前に現在の形に進化した現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)は、その後数万年間はアフリカにとどまった。これはちょうど、地球が19万年前〜13万年前までOIS6と呼ばれる氷期にあったからだと考えられる。氷河が北のほうから押し寄せアフリカでも生物が住むのに適した環境は南部のほうに限定されていたのであろう。

そのため、前回書いたように16万年前〜12万年前にかけて南アフリカのピナクルポイントに住んでいた現生人類は、貝や魚などの海洋資源を食料として生き延びることに成功したのである。と同時に彼らが赤色オーカーを使って顔や体に彩色することを行っていたことにも注目する必要がある。これは化粧であると同時に芸術の起源であるとも考えることができる。つまり現生人類は、その誕生からそれほど経たない時期にすでに芸術というものを作り出していたのである。

その後地球は、13万年前〜7万4000年前の間続くOIS5と呼ばれる間氷期に入る。これに伴い、現生人類は再び数を増やすとともに北上しアフリカの北部にも居住地域を広げるとともに、一部はアフリカを出て中東に広がったと考えられる。それを示すものがイスラエルのスフール遺跡で発見された現生人類の化石や石器である。それらは16万年前〜12万年前のものであると考えられている。
ここで興味深いのは、スフール遺跡で発見された現生人類の化石が埋葬された形で発見されたものであるということである。埋葬する習慣を持っていたということは、死や来世という概念をすでに持っていたということを意味している。死や来世の概念は宗教と深く結びついているから、このことはすでに始原的な宗教を当時の現生人類が持っていたということになる。

芸術や宗教はかなり高次の概念であり、そのような概念を発達させるためにはかなりの時間を必要としたため、それが生まれるのは人類文明の発祥の頃つまり1万年前以降であろうと、現在の私たちは考えがちである。しかしながら、現生人類発祥からそれほど時間が経たない間に芸術や宗教という概念を現生人類が持ったということは、それらの概念がヒトという種にとっては極めて本質的な概念であって、それこそがヒトを他の動物から差別化するものなのかもしれない。

さてアフリカを出てイスラエルに進出した現生人類は、そこを足がかりにしてヨーロッパやアジアへ進出したのだろうか。残念ながらそれを証明する化石や遺跡は見つかっていない。現生人類がアフリカを出て世界に拡散して行ったのは、スフール遺跡からずっと下って8万2000年前〜7万8000年前の頃であると言われている。

イスラエルのスフール遺跡に現生人類が住んでいた13万年前〜10万年前は、13万年前〜7万4000年前の間継続するOIS5と呼ばれる間氷期である。従ってその間は現生人類にとってアフリカを出てヨーロッパやアジアに居住地域を拡大するチャンスだったはずである。ところがその過ごしやすい間氷期に間に9万年前から8万5000前までの一時期、ハインリッヒイベントと呼ばれる一次的な地球の寒冷化と乾燥化が生じた。そしてイスラエルなどの中東地域は人が住むに翟さない場所となったと考えられる。そのためにイスラエル地域にまで進出していた現生人類は再び南下してアフリカに戻らざるを得なかったのであろう。

現生人類がアフリカを出て世界に拡散して行ったのは8万2000年前〜7万8000年前のどこかであろうと言われている。この時期はハインリッヒイベントが終わり、地球が再び温暖になり過ごしやすくなった時期である。現生人類は一旦引き上げたアフリカから再びアラビア半島へと進出して行ったのである。

先にも述べたように、現在では遺伝子の分析によって現生人類の祖先を厳密にたどることが可能になってきている。そしてそれに基づくと、現生人類は8万2000年前〜7万8000年前のどこかで約100〜200人のグループとしてアフリカを出て世界中に拡散したのだということが証明されている。

もちろん他にもなんども脱アフリカが行われたのであろうが、現在までその子孫が続いているという意味ではこの1回の脱アフリカが唯一の成功例であり、しかもその成功はその唯一成功した100〜200人のグループの子孫が世界中に拡散するという極めてドラマティックな結果を生んだのである。