NHK ハートをつなごうLGBT


ゲイ・レズビアンのものもふくめ、みていない。春に放送されたものを一回だけみてなんだかおちこんだので、あんまりパワーがないときには見られないだろうとおもったからだが、録画するのすら忘れたというのはどうだろう。どこかで誰かにかりるべきかも。


それはそれとしてこんな番宣を見つけたのだが、これで全部なのだろうか。だとしたらこれはちょっとひどくないか。



「いかにも男」と「いかにも男」、あるいは「いかにも女」と「いかにも女」が手をつなぐようすが、見事なほど映像から消しさられている。その「男」と「女」が戸籍上どうであろうと自認上どうであろうとかまわないのだが、このつくりでは、すくなくとも視覚イメージとしては「男男」「女女」のカップリングを明示しないようにしているととられても、仕方ないのではないか。


さらにいえば、「むちゃくちゃ男っぽい」Lとか、「むちゃくちゃ女っぽい」Gとか、というイメージも忌避。まあこれは協力者のなかに見いだせなかっただけなのかもしれないが、それはそれでこまった気もする。


ちなみに、ハートをつなごうの番組では特設サイトに相談窓口リストがあって、これは評価されるべき。海外でくらしていたころ、ソープオペラだの火サスみたいな安い刑事ドラマだのでも、たとえばホモフォビアだったり性別違和だったり家庭内暴力だったり薬物依存だったりがとりあげられると、番組の最後に「ヘルプコールはここ。サポートはここ。」みたいな情報が必ずしめされていたことを思いだす。それがたとえエクスキューズにすぎないものであったとしてもその情報で助かるひともいるだろうしし、その意味ではちゃんと相談窓口を提示しているのは、やっぱりえらい。


とはいえ、やっぱりbやqの状態にある若者だと、行けるところは少ないかもなあ。自分はgでもlでもtでもないがヘテロでもない、いったいどうしたらいいんだろう?みたいなことで悩むような子は、いまどきいないのかもしれないが。

アネット・メサジェ展@森美術館

『アネット・メサジェ:聖と俗の使者たち』展へ。

六本木ヒルズという場所なのか、それともなんかぬいぐるみっぽいよね?というイメージがあるのか、こども(というより幼児)連れが意外におおい展覧会。しかし、こどもがこんなのみちゃうと、怖くなったり夜ねむれなくなったりしないのかと心配になるほど、ダークな作品がおおい。まあ、怖くなったり夜ねむれなくなったりする作品をみることも経験だよ、ということかもしれないが。

展覧会をとおして最初に気がつくのが、身体の分断というか非統一というテーマ。剥製の鳥や小動物にぬいぐるみの頭をかぶせた作品にせよ、大がかりなしかけで天井からつるされたぬいぐるみのような布製のオブジェが上下するタイプの作品にせよ、身体部位をアップで撮った写真をつあった作品群にせよ、徹底して身体の予期された統一性を拒絶する方向へとむかう。

ただ、個人的にもっともグロテスクにおもえた点は、そのような身体の分断や統一性の破壊から直接に生じるものではなかった。身体ばらばらで死体まがいのオブジェもおおいのだが、それらはスプラッター映画的なグロテスクさというか、アブジェクト的なものを連想させるような、ぐちょっとした、あるいはどろっとした、そういう触感をまったく連想させない。基本的におどろくほどに乾いている。

グロテスクさはどこからくるかといえば、とりわけ布製のオブジェを利用する作品のばあい、それらのオブジェの奇妙な重さからきていたようにおもう。粘液を欠き、そして骨格を欠いた布製のオブジェで強調されるのは、たとえば「関節」からだらりとたれさがる手足や頭である。串刺しにされ、ワイヤーでつるされているその点からぐったりとたれさがるさまは、重力に抗するちからをもたない「肉」の重みをかんじさせる。

身体の表面にも、かといってその「内部」にも還元できないような、重量のある「肉」の表現のグロテスクさ。これは死体のこわさなのかもしれないが、たぶんそれとは違う。むしろ、いきているはずの自分の身体のかかえこんだ物質性(といってはいけないのかもしれないが)、かかえこんだ他者性のようなものからきているような。

あとは、ヴェネチア・ビエンナーレで金獅子賞をとったという〈カジノ〉がよかった。こちらはいかにも〈胎内〉モチーフで、展示されていたインタビュービデオによるとメサジェ自身もそれを意識しているようなのだが、その点については、なんかねーフランスのひとってどうしてそっちが好きだろうねー、みたいな<偏見。

ただ、〈胎内〉をかんたんに〈母体〉に還元せず、なんか微妙にエイリアンシリーズをおもわせる、みょうになまなましいSci-Fi空間をつくりだしているところは、すき。ゆっくりとふきだす風の音とともに赤い布がなみうち、おしよせ、その下で(またしても骨格を欠いた)やわらかい物体がぼんやりと発光している光景には、どこか催眠的なものがある。ざ〜っ、ざ〜っとくりかえされる風の音の「自然さ」をつきさすように、きりきりきりと鋭い音をたてながら、天井からオブジェがおろされてくるあたりの違和感も、非常におもしろい。

たたり


たたり [DVD]

たたり [DVD]

The Haunting (1963) dir. Robert Wise

レズビアンホラーあるいはクィアホラーとして名高い作品だが、これが初見。ホラーが苦手とはいっても昔の作品だし、と少したかをくくって見てしまったのだが、じゅうぶんにこわかった。具体的ななにかがでてくるわけではなく、ほとんどの場合にカメラワークとサウンドだけで緊張感がうみだされていく。

肝心のレズビアンモチーフはというと、これは複数のレベルでおどろくほどはっきりしている。

主役であるEleanorは、長年病気の母親の介護にしばられたあげく、母の死後は姉の家庭で「居場所のない」生活をおくっていて、そこから逃げだし、未知の、おそろしくもあり魅惑的でもあるHill Houseへ、居場所をもとめてやってくる。彼女はそこでミステリアスな官能と自信とをただよわせたTheodoraと出会い、ESPを持つ彼女の容赦のない発言や挑戦的な態度に翻弄されつつも、それまで自分がもとめてやまなかった友情/愛情の可能性をも感じ取って、アンビヴァレントな、しかし強い感情をTheodoraに対していだくようになる。

自分をTheoと呼んでほしいと自己紹介をし、family nameを持たず、結婚はしていないがだれかと一緒に住んでいるらしいTheodoraにレズビアンイメージがつよく投影されていることは疑いようもないし、EleanorとTheodoraとのあいだの緊張の強度は性的なものを喚起せずにはおかない("You revolt me")。

しかしおそらくそれよりもつよくクィア性を感じさせるのは、恐怖の対象であると同時に待ちこがれた「居場所」でもあるHill HouseにあらがいようもなくひきつけられるEleanor自身だ。「Hill Houseがわたしをよんでいる」から、「わたしはHill Houseを離れない」「わたしはここにいたいのだ」「わたしこそが望まれているのだ」へ、彼女はすこしずつすこしずつ自らの欲望をみとめ、それを積極的に主張しはじめる。

Hill Houseへの欲望が明確な形をとりはじめるにつれ、EleanorとHill Houseに滞在しているそれ以外のひとびととのあいだには亀裂がうまれ、Eleanor自身の安全のために彼女をたちさらせようとする他の人々に対して彼女をひきとめるのは、The Houseそれ自体のひきおこす超常現象ではなく、「Hill Houseはわたしのものだ(Hill House belongs to me)」と宣言するEleanorの欲望である。そして、介護要員としての人生しかしらなかったEleanorが、その欲望をつうじて「ようやくなにかがわたしにおきようとしている(Something at last is really really happening to me)」ことをみとめ、そのよろこびが欲望への恐怖をうわまわるとき、EleanorはHill Houseの住人の世界へ移り住んでしまう。

もちろん、このプロットに典型的なレズボフォビア(あるいは女性の欲望への嫌悪)をよみとることは可能だ。しかし、Eleanorが彼女以外の登場人物の側からHill Houseの側へと境界線をふみこえていくのであり、そして〈フォビア〉が前者から後者へとむけられるものであれば、観客が前者の側にたって後者の領域へとフォビアを向けることを妨げるしかけもまた、この映画にはちりばめられている。

映画冒頭ではDr. Markawayがしめていた「語り手」の位置がEleanorの登場と同時に彼女にうつり、彼女は「死後」もそのまま語り手をつとめる。したがって観客は一連のできごとに立ち会ったそれ以外の登場人物の側ではなく、なかばEleanorの側に巻き込まれた形でラストを迎えることになる。

とりわけ、死の直前にEleanorが「ようやくなにかがわたし自身におきようとしているのだ」という独白とそれにつづく恍惚ともあきらめともつかない表情とをともなってHill Houseへの欲望をうけいれるシーンと、ラストの'We who walk here walk alone'というEleanorの台詞とは、EleanorがHauntする欲望の主体であることをつよく示唆していて、これは、その二つのシーンにはさまれた部分で示される、当初の語り手であるDr. Markawayによる分析(Hill Houseが彼女を欲したのであり、かわいそうなエレノアの混乱した頭はその誘惑に抵抗できるほど強くはなかったのだ)の正当性というか信用を完全に損なってしまう。この点は、その場でのTheodoraの台詞によって強調されている。Dr. Markawayの台詞をうけて彼女は「かわいそうじゃないわよ、彼女が望んだことだもの。いまやこの家は彼女のものでもあるんだわ。今の方が幸せかも」と言うのである。

Eleanorの死を、のろわれたHill Houseに魅了されたあげくの悲劇とみなすのではなく、彼女自身がのぞんだ幸福な結末かもしれないとみなすこと。Theodoraのこの台詞は、ある意味では、映画の中盤でのEleanorとTheodoraとの会話を変奏したものだといえるかもしれない。Theodoraが、Hill Houseでの緊張と恐怖からすこしずつ正気をうしないつつあるようにも見えるEleanorに「あなたが正気で世の中の残り全部が狂っているなんて、信じられるわけないでしょう?You expect me to believe you're sane and the rest of the world is mad?」と問いかけると、Eleanorは「どうして?世の中には辻褄のあわない、不自然なことばかりよ。(…)たとえば、あなたも。Why not? The world is full of inconsistencies. Unnatural things. (...) You, for instance.」と応じる。Eleanorが移り住んだ「あちらの」世界が狂気と不幸と死の世界であり、彼女が立ち去った「こちらの」世界が正気と幸福と生の世界であると、簡単にきめつけることはできないのだ。

なんといっても、死んだはずのEleanorは、映画のラストにおいてもまだ語っているのである。視覚的な表象可能性の領域を越え、しかしその「声」を遠くに聞き取りうるものとして。この映画は、彼女を死んだものとして表象するのではなく、むしろ、観客のいる「こちらの」世界では近づき得ない、知覚しえない、あるいは表象しえない領域に存在しているものとして、表象していると言うべきだろう。

いまのところこれ以上はまとまらないので、ここまで。

P. Whiteの論文があったはずなのでそちらも読んで、まとめられれば書き足す予定。

カラミティ・ジェーン

Calamity Jane [VHS]

Calamity Jane [VHS]

Calamity Jane (1953) dir. David Butler

ゲイアイコンでもあるDoris Dayの主演作。そもそもCalamity Janeといえば、passing womenのひとりにかぞえられるわけではないにせよ、アメリカの想像力においては西部開拓時代の男装の麗人ならぬ男装のガンマンとして伝説的な人物であり、この映画は映画版のThe Celluloid Closet (1995, dir. Rob Ebstein and Jeffrey Friedman)でもきっちり言及されていた。

基本的に50年代の西部もののミュージカルということで、政治的にはもうひっかかりどころ満載なのだが、しかしたしかにDoris Dayは見事にbutchなイメージだ。映画の途中からは妙にドレスシーンがふえてしまい(それにつれて「これだから女はダメだ」みたいな台詞も頻出して)どうもそこは気になるのだが、前半部でのDoris Dayは、声のだし方、たちいふるまいから、不必要なほどのアグレッシブさにいたるまで(この映画で意味なく銃をぶっ放すのは、基本的にCalamityのみである)、これぞbutchとは言わないまでも、すくなくとも基本がこういう雰囲気のbutchはたしかに今でもいそう、というような説得力。彼女がシカゴでであったKatieに驚嘆し、Deadwoodへ、さらには自分のまもるべき女性として我が家へとつれかえるあたりまでは、きわめてナチュラルにマッチョですらある。

で、ここからはもう完全にこちらの目にバイアスがかかっているのかもしれないが、そういう前半での描写を念頭におけば、CalamityとKatieとの関係はそもそもいわゆる「女の子同士の友情」というよりはロマンチックなそれにつながるべきものとしか見えようがなく、しかもふたりの感情の発展の具合が時間をとってていねいにえがかれているだけに(30分から70分ほどまで、およそ40分間)、プロット上のロマンチック関係の落としどころであるCalamityとWild Bill Hickokとの関係(こちらは、二人の関係性がかわるきっかけを舞踏会のシーンだとかんがえると、そこから「キス」にいたるまで10分ほど)が、なんともとってつけたように感じられてしまう。

いや、とってつけたというのはおかしいのか。CalamityとBillの間につよいつながりがあることは何度も示唆されているのだが、Calamityの過剰なほどの「男っぽさ」のせいで、どうもこの二人の関係は、CalamityとBill、KatieとDannyという二組のヘテロカップルに居心地よくおさまらないのだ。

そもそもこの「キス」のあとでも、町を去ったKatieをつれもどそうと馬にまたがってかけだしたかとおもうと、すれちがったwild Billに行きがけの駄賃とばかりについでにがっつり口づけをしていくCalamityは、良くもわるくもどうしようもなく「男前」であり、「あなたはDannyを愛しているのでは?」というKatieの問いに「そりゃ女の考えってもんだ。やっかいごとにまきこまれるだけだよ。That's female thinking. Nothing will get you into more trouble.」と応えてしまったりする。だいたい、Katieをつれもどすのは伝統的には恋人であるDannyの役割のはずなのに、そのお株をうばってなにやってるんですかCalamity!

そういうCalamityの「男前ぶり」は、KatieとCalamityとの関係性を「ともだち」路線から脱線させそうになっていると同時に、CalamityとBillとの関係をも「異性愛カップリング」からはみださせる、つぎのような疑問をひきおこす。そもそもCalamityって女?男だと思って見るべきじゃない?CalamityとKatieとの関係を、ホモエロティシズムにうらがきされた強い感情的なつながりとみなしうるならば、CalamityとBillとの関係も、まさしくそれと同じ、ホモソーシャルにして強くホモエロティックなものだと考えられるのでは?

ここにおいてCalamityは、Butch lesbianの形象としてではなく、この映画においてえがかれる愛情や欲望の関係性がヘテロホモセクシュアルの安定した分割線にそって配置されることをさまたげる、クィアな形象として機能することになる。

Calamityが"My secret love's no secrets any more."と歌う時、彼女の秘密の愛とは、いったいどの愛なのだろう。この映画がその画面上にあきらかに描き出した秘密の愛とは、どのような愛だったのだろうか。

PUFFY x Tokyo Ska Paradise Orchestra @ 新木場

友人にさそわれてライブへ。

本当にひさしぶりのことで、無意味に暗い会場や赤いライトのついたトイレを見て微妙に気持ちがあがる。ライブ会場内では誰も喫煙していないことにびっくり。教育効果というのか、世代の違いというのか。いずれにせよ、立錐の余地もないようなところでタバコを吸われるのは実際に怖かったし、良い傾向なのだろう。それでも、もうモッシュの中フロアに突っ込んでいく気力や体力はなく、あ〜若者はたのしそうだねえ、とモッシュを鑑賞。

オーディエンスは主にスカパラ目当てという人が多かったようだが、自分としては圧倒的にPUFFYだ。自分でわざわざライブに行くほどの熱意はないのだが、たまたま誘われた以上は生PUFFYが見たい。

途中でBasket Caseのカバーをしてくれたので、もうそれだけで満足。それほど盛り上がらなかったのはオーディエンスが若い世代だからなのかもしれないが、個人的にはその瞬間が頂点だった。

Avril Lavigneが作曲に加わったというナンバーも確かにかわいいのだが、アメリカのティーンズドラマで主題歌になりそうなメインストリーム感があって(ロックだから仕方ないのか)、やはりOffspringの曲の方がPUFFYのポップパンクなずれ感の魅力が引き出されるような気がする。そういう意味でも、Green Dayというのは実に王道のチョイス。

Hitler pincushion
Photographer: Elia Diodati
License: Creative Commons (by-nc-sa)
Tool for photo selecting: Gigazinize Tools - Image


お世話になったアーチストの方をかこんで昼食。self-representation/self-misrepresentationの問題など、いろいろと考えを触発されてたのしい。

講義がはじまっているのだが、今年は必修で履修している学生が多くて、そもそも興味のある人だけが来ることを前提としてシラバスをくんでしまったので、ちょっと先が見えない。科目設定がかわったのなら教えてほしかったなあと思いつつ、でもそういう入門的で幅広いオーディエンスに対応できる授業を期待されているわけでもないんだろうし、難しい。

知人と飲み会。怖い話を聞いたりしながら。

先日来いやな話が届くようになり、もともと性格がねじけて他人の批判だの悪口雑言だのが日常茶飯事の自分ですらちょっとどんびきするような聞くに堪えない誹謗中傷なども耳にはいってきて、さすがにぐったりしていたのだが、すこし回復。

スウィーニー・トッド

スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師 特別版 (2枚組)

スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師 特別版 (2枚組)

Seeney Todd: The Demon Barber of Fleet Street (2007) dir. Tim Burton

見なくてはと思って借りたホラー映画を見るのがいやで(怖そうだし)、手ならしというか目ならしに。

Butronの映画が特にすきだというわけではない。しかし、 The Nightmare Before Christmas (1993)は楽しかったし、Sleepy Hollow(1999)は夜間の公園での上映で見たせいもあってか結構こわかったし、Burtonのつくりだす絵それ自体は嫌いではない。この映画も、それなりにダークで少しホラーで絵が良くできていて、ということを期待して鑑賞。

しかしこれはどうかな。ミュージカル映画は好きだし、映像というより「絵」と表現したいような、何かフラットで、けれども描き込みと省略とのイレギュラーなリズムがある、Burtonの「絵がら」と、写実的なというか「現実的な」それとは明らかに違う時間の流れをもつミュージカルという形態とは、あっているはずだと思う。ただ、その組み合わせが、この映画の場合にはうまく機能していない気がする。

ホラーになるには絵がらのフラット感とコントロールのきいた印象が邪魔をしているように思うし(流れる血や暗い雲に覆われた空やロンドンの下水道などが映しだされているにもかかわらず、何か小ぎれいだ)、ダークなユーモアを醸し出すには演技も演出も妙にストレートだし、感情をかきたてるヒューマンドラマにするにしては脚本がいそぎすぎるし。

個人的にはJohnny Deppは芸達者だなとは思うがそれ以上ではなく、むしろHelena Bonham Carterの演じるMrs. Lovettが印象ぶかい。歌はひっどいけど。登場人物の中でいちばん下手なんじゃないか。

それでも、現実的なのだか夢見がちなのだかわからず、残酷なようでいてあっさりと情にほだされ(と思うとまたしてもあっさりと情を断ち切り)、すべてをなげうつような情熱に従いつつもきっちりと打算的で、Bonham Carterの演じるMrs. Lovettの、矛盾をそのまま抱え込んだ魅力は、目をひきつけるものがある。

それがもっとも強く印象づけられるのが、終止色あせたトーンですすむ映画のなかほど、Mrs. LovettがToddとTobyとの三人でのバラ色の「家族」生活を夢見る、そこだけひときわ明るい色彩で撮られたシーンだろう。彼女のそれまでの「常軌を逸した」行為となんとも凡庸で退屈な「海辺の家」のファンタジーとの対比の強烈さと言ったら(とりわけ海辺のボードウォークのシーンは、今でも英国のそこここにあるさびれた「ビーチリゾート」の数々を、苦笑いとともに思い出させずにはおかない)。そしてその常軌を逸した行為の背後にある打算(お肉がもったいないね)と海辺の家のファンタジーとをつなぐ小市民的とでもいうような感性と、そのような小市民的な感性から明らかにずれてしまった、彼女のなんとも「ゴス」な風貌との、組み合わせの奇妙さといったら。もちろん、そういう小市民的な感性があるからこその「ゴス」な表出ではあるのだが。

Sweeney ToddもMrs. Lovettも、表面的には社会に不満をもち、その不満が過激な形での規範の逸脱へとつながるキャラクターなのだが、実のところ両者はまったく違っているように思える。Toddの方は、要するに女を寝取られたこと、もともと「所有していたはずのもの」が「他の男に不当に領有された」ことに対して怒りを抱いているのであって、気の毒ではあるがそこには特に何の意外性もない。最後まで「愛する妻」と「復讐」しか念頭になくて、実に単調な人物だ。

それに対して、Mrs. Lovettは、何が不満なのかも明確になるわけではなく、Toddへの愛に促されているのは確かにせよ、それだけが行動原理というわけでもなさそうだし、彼女から受ける印象もそこに収束させきることができない。妻のいる男に強引におもいをよせ、そのおもいのためには節度も良識も法も平然とやぶってのけ、凡庸で規範的な「家族」のファンタジーをそれとはまったく異なる「家族」に上乗せしてその奇妙さを気にもとめないMrs. Lovettのセクシュアリティは、そもそもの最初から、舞台となるロンドンの規範をSweeney Toddなどよりはるかに過激に逸脱しかねない予測のつかなさを示している。

つまりMrs. Lovettはただしく魔女なのであり、だからこそ焼き殺されもするし、映画としても(もともとのミュージカルがそうなのだろうけれど、見ていないから知らない)彼女をきちんと葬り去ることになる。Mrsl Lovettは実にあっさりと殺されてしまって、正しい夫婦であるToddとその妻とをうつしだすラストシーン(それが「正しい夫婦」のネガであるとしても)に、Mrs. Lovettの居場所はない。

けれども同時に、Mrs. Lovettを殺したToddを殺すのは何があってもMrs. Lovettを守るよと約束した拾われ子のTobyであり(TobyはToddにとってはあくまでも取り替えのきく使い走りだが、Mrs. Lovettのファンタジーにおいては家族の一員である)、非常にねじれたかたちではあれ、ある意味でそれは、Mrs. Lovettの夢想したクィアな家族が、Toddの「正しい夫婦」を生き延びた瞬間であるとも言えるかもしれない。そして、たとえ最後に焼き殺されてしまうとしても、血の色以外はほとんどがうすいグレーのベールをかけたようにくすんだこの映画の世界において、それをいきなり突き抜けるファンタジーを現出させる力をもったこの「魔女」の魅力を、誰が忘れることができるだろう。