ナマステじじの旅話(43話)


チェンマイ滞在記(18)
クンヨムの不思議(2)

ふと、私の脳裏に過るものがあった。
「あなたには、日本人の血が混じっているのではないですか」
「はい、そう言う人もいますが、それは、はっきりしません。父も母も亡くなって今は確かめようもありませんが私は他の姉妹と顔付きが違うのです」
と言って、彼女は店の奥から引き伸ばして額に入れた写真を持ち出してきた。
「私の家族の写真です。これが両親、これが姉、これが私です」
なるはど、姉妹共に美しい顔立ちであるが、彼女だけ姉妹とは変わって少し面長である。
このような話しの間も、彼女の表情には微笑みとか優しさは浮かばない。一重まぶた、切れ長の目、その奥の強い光がたまに和らぐだけである。
私は、何処と無く常人と異なるこの人の印象から「あなたは、霊能者ですか?」と聞いてみたくなり、手もとの電子辞書をひいてみたが「霊能者」は無く、「霊」しか無いのでそこを指してみたところ、彼女はうなずき、
「他人は、私のことをクレイジーと言います。しかし、これは本当のことです」
「この谷の下の方にも日本軍人の遺跡などがあります。明朝9時に来ますから、ここで待っていて下さい。ご案内します」
彼女は、上の娘と二人で10分ほど離れた別のところに住んでいると言う。

翌朝9時、彼女は約束通り現れた。昨夜、傍に居た5歳の女の子が同行をせがむ。彼女は、しばらく考えていたが幼女の手を取った。(後で分かったことであるが、彼女がためらったのは、幼女にとって道が悪いということであったようである)
ハウスの前の通りを200メートルほど歩いてから左手、下り斜面の細い道に踏み入った。雑草の茂る人間一人がやっと通れる道である。滑らないように用心して下る。途中、一軒の粗末な高床式の農家の傍を過ぎると、それから下の方は、谷へ向かって深くなり丈高い雑草が茂るジャングルである。
それを、押し分けながらしばらく下って、左へ入り込むと、小さな滝が現れた。3メートルほどの高さから清冽な水が流れ落ち、滝壷は、一辺が1,5メートルほどの三角形状で、澄んだ水が1メートルほどの深さにたたえられ、底に落ち葉が積もっている。
彼女は、両手を胸の前に組んでワウの礼をしてから滝壷の傍に進む。
日本兵に教えられてここに初めて来たとき、あそこに(と、滝壷の右横の斜面を指差し)胴の直径が15センチほどの大蛇がトグロを巻いていました。私が、両手を合わせて拝むと、静かに去って行きました」
「この水は飲めるのですか?」彼女はうなずいた。私は滝壷に手を差し込んでみた。水は冷たかった。私も両手を合わせて滝を拝みながら、その大蛇は、日本兵の化身であったのではないか、などと考えていた。
滝壷の帰り、彼女は、幼女の手を引いて身軽に坂道を上がって行く。私は、重い体をゆっくり、ゆっくりと運び上げながら、この道を水筒や飯盒を提げて喘ぎつつ水汲みに通ったであろう野戦病院の兵士たちのことを思い浮かべていた。

ハウスに帰ってから、私らは、お寺の境内にある慰霊碑に詣で、その向かい側にあるミュウジアムを訪れ、昼近くなってGHにもどり軽い昼食を取った。奥から現れた彼女は、
「これから、私たちも用事があって、あのトラックでメーホンソンに行きますが、荷台でよければ一緒にどうぞ」
と、道路縁に停められた車を指して言われる。
これ幸い。喜んでお願いすることにした。乗合バスの本数は少ないのだ。私の食事が終わるや、お茶を飲む暇もなく、急き立てられるように道路のトラックへ歩き、リュックを荷台にほうり込んで乗り込んだ。
1時間半ばかり、山岳道路を右に左に急カーブを切りながらトラックはすっ飛ばす。
昼過ぎ、灼熱の熱帯の直射日光を浴びる荷台は楽じゃない。ジャンバーを被って直射を避け、水分の補給をしながら連続カーブでの左右の遠心力に耐えて走っているうちに、メーホンソンに到着。市街の中心部の道路端で停車。荷台から下りた私たちに、彼女は「シーユー、アゲン」との一言を残して、別れを惜しむ風もなく、振り返りもせずに幼児の手を引いて去って行ったのであった。

彼女から聞いた話を総合してみると、彼女の生まれは、1968年(昭和43年)と言う事になる。
彼女の父親が日本兵であったとすると、若い兵士であれば40台半ばである。
母親が、若ければ子を産めない歳ではない。
生まれて数年を経たずして両親とも亡くなり他家に預けられ兄姉4人の末っ子として育てられた、とすれば話の筋道は立つ。
日本軍人であった父親は、南国の片田舎で育った身寄りの無いこの子の行く末を案じて夢枕に立ったのではなかろうか。
そして、日本人である私との出会いのきっかけを作ったのではなかろうか。
メイホンソンの池の傍にあるGHに宿を取ったその夜、静かに更けてゆく部屋で寝もやらず思いを回らしたのであった。
(写真は、滝壺で)