乱反射の光跡 - blog2 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-05-24

[]【酔っ払いがこぼす】

酔っ払いながらも、頭から離れないふたつの文章を引用する。

どちらも孫崎享『戦後史の正体』からの引用。

鈴木貫太郎内閣が(一九四五年)八月十七日に総辞職したことをうけ、東久邇宮稔彦王首相とする史上唯一の皇族内閣が誕生していました。関係者は、みな(ポツダム宣言受諾の)調印式で屈辱的な降伏文書に署名しなければならないことを知っています。ですからできればその役割を担いたくない。みな、逃げます。 (p.28)

九月二日の降伏文書への署名のあと、(中略)米国はなにを一番重要だと思っていたでしょうか。それは戦争犯罪人の処理でした。(中略)

さあ、大変です。戦犯になれば銃殺される可能性すらあるのです。

その結果、多くの人がなんとか戦犯になるのを逃れようと、米軍と接触し始めます。「自分は罪がない」という人もいれば、「罪があるのは別の人間だ」といって罪を逃れようとする人も出てきます。

(中略)

「最上級の幹部たちが、ひんぱんにマッカサーのもとを訪れるようになり、みな自分の安全を図ろうとしている」 (p,35-36)

「責任の回避」と「自己保身の優先」は、71年前から、日本の政治家の性根に刻み込まれている、ということでは、ないですかねえ。ないですよねえ。ないと信じたいですよねえ。…ねえ?

2016-04-11

2016-03-31

[]【酔っ払いがこぼす】失言やら暴言やら、その根底の「社会認識」やら


政治家の失言やら暴言やら、規範に外れた発言やらが頻出してますが。

ご本人は「自分の認識」について、どのように反省されているのかは、報道では見えてきませんな。

「感情を害したのなら謝罪する」「言い方が悪かったのなら謝罪する」というのは、謝罪しているのではなくて「自分は何も外れたことを言ったつもりはないが、聞いた他人が不快に思っているから(とりあえず)謝罪する」という意味にしか取れず、ご自分の(語ったことについての)「自分の認識が誤っていたことを認識し、反省する」という意味には取れないのだが。

女性蔑視の問題とか貧困の問題とか、「現状の認識」が(当事者と発言者の間で)食い違っていることが問題発言の根っこにあるのではないか、と感じられるのだが、そこに対して「自分の認識の間違い(ずれ)を認識して反省する」態度は、発言者の謝罪や弁明からは聞き取れないなあ、と感じてます。

「自分は間違ったことは言ってないけど、怒られたから謝ります」は、「反省」ではないですよね。その場限りを取り付くためだけの謝罪謝罪すれば、それでその問題は終わる。喉元すぎればで、だから時間をおいて再び問題発言を繰り出したりする。「反省してない」から、ですよね。

そうした問題発言をした政治家の「認識を変える」ことは、とても難しいことなのかもしれないけれど、でも、そうした「認識を変えない、反省しない」政治家ばかりが国の運営の代表として居座っている状況は、国際的にも恥ずかしいし、国民としても情けないことなのでは、と思えてしまう。

国民は(もちろん、世論の代表者であるつもりのマスコミならば当然のこととして)もっと政治家にツッコミを入れて、自身の認識の間違いに気づいてもらうだけのことはしたほうがいいのかもしれません。

もちろん、政治家に「自分が認識を変えないと、国民は自分を支持してくれなくなる」と感じるくらいまでは、ツッコミを入れ続ける必要があるのではないか、と。

そう、「ツッコミを入れ続ける」こと、これは国民の仕事なのかもしれません。それをサボっていたから、政治家は「どうせ国民は忘れるから」とか発言するようになるのでは、ないでしょうか。違いますかね?

2016-02-29

[]【寝言】のように


いろいろネットの意見を漁っていて、国会議員の定数削減というのは、さほど国家予算の低減に繋がらず、逆に国民の声が国会に届きにくくなるのではないのか、という意見を複数聞いて、政策としてそれほどいいものではないのかも、と思い始めていたりする。


一票の格差」を問題視するのなら、逆に人口の少ない選挙区を基準にした議席配分(増えてもいい)を貫徹したほうがいいのかも、とも。自分の中では、結論は出ていないのだが。

2016-02-21

[]はてなブログ更新


はてなブログ、更新してます。

http://namiheijodee.hatenablog.com


それと、高市総務相電波停止答弁。「政府が放送内容を判断する」というのは、(全体だろうが個別の番組だろうが)どう考えても「表現の自由」に政府が介入する、という憲法違反だとしか受け止められない。放送局は猛反発していい発言だと思うんだけどな。

2016-02-08

[][]聞いておきたいことが、ひとつだけ

これは、聞いておきたいな、と思ったことがひとつ。

以前から自民党を支持する方々へ聞いてみたい気がする質問がひとつ。今の安倍政権安倍自民党は「あなたの支持する自民党と、同じ党なのか、違うのか」ということ。

自民党支持者ではない自分から見れば、それは外から見た「外面的な自民党像」であり、自民党を支持する方や、自民党員として活動する方々からすると「見え方が違う」のは当然だとは思いますけど。

でも、以前の自民党ならば、もっと市井の人々の意見に対して、敏感に反応した発言をする議員が多くいた印象があるのですが、その印象は間違っているのでしょうか?

安倍首相国会答弁は、野党の質問に明確な答弁をすることなく、質問の内容を(故意に、と思えるような答え方で)取り違え、反らし、言質を取られないことだけが目的のような答弁に終始しているような気がします。

これは、安保法制の論議から一貫しているように感じられます。安倍政権閣僚の答弁は、徹底して「国民の理解を得る」話し方ではなく、「言質をとられることを避ける」話し方に終止しているように感じられるのです。

これは、どういうことなのでしょう。

徹底して言質をとられることを避ける答弁というのは、突きつめていくと「この先、今と別のことを主張することが前提」になっているのではないのか、と思えてしまいます。多分は夏の参院選、あるいは衆参同時選挙まで、何とかのらりくらりとかわして行きたいのではないのか、と勘ぐってしまう答弁なのです。

では、衆参同時選挙を乗り越えた時、安倍政権が主張することは、どんなことなのでしょう。

それは、自民党を支持する方々にとっても、納得できる主張なのでしょうか。

そんなことを思うのは、政党としての自民党支持率と、安倍政権政策に対する支持率乖離が生じているからです。宜野湾市長選では「自民党推薦候補の支持率」と「基地の辺野古移設への支持率」とは明らかな乖離を生じています。それでも自民党は、辺野古移設の争点化を避けた佐喜真候補の当選を「辺野古移設への支持」と主張しています。自民党政策は「国民の支持を得ている」のでしょうか。

自民党支持者にとっても、今の安倍政権政策に部分的に異議を唱えることが可能なはずです。市井の自民党支持者の方々が、全て「自民党中央執行部の意見に上意下達」でないならば。多様な意見の表出こそが、この国が「民主的に運営されている」ことの証しなのですから。

民主主義政治とは「大同小異」ではなく、「小異こそを大同に取り込む」、「少数者の意見を取り込んだ多数意見を形成する」政治なのではないか、と思います。今の自民党政権に、それができているのでしょうか。

「小異を無視して大同を主張する」のは民主主義的ではない、と考えます。「多数決主義」は「民主主義」とは違います。「選挙で勝利したから、自分らの主張は全て国民に支持されている」という主張は、支持率政策各論の支持率との乖離から、誤った主張であると思えるのですが。

再度、聞いておきます。今の自民党安倍政権は、「あなたが支持する自民党」と同じものですか?


あ、返事は必要ありません。返事をされても、応答している時間はないと思われるので。

2016-02-07

[][]思考の種子、流に差される棹、あるいは池に投げ込まれる小石


いろいろ考えなければ、などと勿体つけたことを言いながら、日々の生活に押し流されてしまうと思考の種も押し流されてしまう。とりあえず思いつくままに。


[政治]政治と金、というより政治家と金の問題。

そもそも「一人の政治家」はその支持者、支援団体地縁血縁その他の支持を受けて「政治家」をやっているわけで、「一人の政治家」が、例えば日本国民の全ての意見を代弁するわけではない。

もちろん「政治家として政治に参加」するときは、その政治組織が代表する国家、地域全体を視野に収めながら発言し、自分の主張を述べることになるのだが、「一人の政治家」の意見としては、どんな意見でもありだと思う。


単純な思いつきで、それ以上のことはまだ考えていないので、制度的にどうとか、何も考えてないし、暴論じみた考えではありますが。


だとしたら、政治家への企業・団体献金は全て公開の上で認めたらどうか、とか思ってしまう。

もともと「一人の政治家」とは、ある限られた支持者と支援者の上に成り立っているのだから、いっそのことそれを公開した上で、堂々と金を受け取って政治活動をすればいいし、そういう制度にしたほうがいいのではないか、と思う。

「一人の政治家」はもともと「公明正大」でなくて良いし、もともと「一部の意見を代表する」にすぎないのだから、自分の立場を鮮明にして意見を言い、議論をすればいいのではないか。

「自分はこういう団体から献金を受けているから、こういう立場で、こういう意見を主張する」と言えばいいわけで、そうなれば、具体的な政策議論へも道が開けるように思うが。


いろいろ考えると難しくなるけど。

というか、このことは「政治家の、国民への態度、姿勢」と「国民の、政治家への態度、姿勢」に結びつく問題でもあったりするのだろうな、と思ったり。