真空
心がとても空っぽになってしまって、
言葉が言葉として浸透してこなくなり、
イメージがイメージとして沸き立ってきません。
昨日のクレーはよかったです。
クレーを見てホッとすることと、精神の弱さはどこか似ているところがある気がします。
淡々と、作品を矢継ぎ早に出してゆくクレーの心のうちには、どのような荒波がたっていたのでしょうか。
荒波が己れを削るということにはどのような効果があるでしょう。
痛手を受けた心が描く作品には、どのような恩寵があるのでしょうか。
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出会っていると思っていたのは錯覚にすぎず、出会いのような顔をした岩石だった。
上眼目線の世の中が嫌になり、しかし、下眼目線の私は、人の悪意を引っ張り出す原動力となってしまう。
力の威力は偉大でこの威力を知っていながら、これを無視するのは超自然的な事柄である。
それは、たとえば、異性を意識するとかそうしたことも含まれる。
生きるのが嫌になって、力の巣窟のようなアカデミズムのなかで、息も絶え絶えのうちに出会った人々。
なぜ、私のなかのなにかを見てくれるのだろうかと考える。
死の香が死へと直接的に向かうのではなく、死の香が生を振りまいてゆく不思議。
そのことなのだろうか。
縁。
ふち。
ふちにすぎないのだから、すぐさま消えってゆくものであり、消え去ってゆくものを消え去ってゆくものとして見つめる勇気。
詩。
一見善良そうに見える市民も、上眼目線の塊とも言える。そうであるならば、あたうかぎりの力を手にして、そうしてふっと力から距離をとる、その生き方が、芦には必要なのかもしれない。
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残酷さはある日突然やってくる。いや潜在的な残酷さが表面化したにすぎない。自分を映す鏡を求める人間の醜悪さが、ごく身近なやさしい気持ちのなかからギョッとするかたちであらわれる。
集団の言語は、集団を離れた直後においても、余韻のように付きまとう。だから、三人称の他者を二人称の他者に接続しようとする営みは、暴力以外のなにものでもない。
きたなさ。みにくさ。このようなかたちで突きつけられるのなら、出会いなどないほうがよい。
『男性・女性』を観る。『女と男のいる舗道』のように成功している作品とは言えないけれど、自立した女性の姿には、救われる。これは、1966年の作。そのなかでアメリカの女性はもっと自立しているとある。日本などどうなってしまうのだろう。
しかし、自立とは言っても、最低限の健康、最低限の容姿、最低限の頭脳がなければなされえない。
立てないこと。そのことをどう受け入れてゆくのか。
資本主義社会の恩恵を空気のように吸って生きている現代。その亀裂から見えてくるもの、それを見ようとしない態度は、駄獣に堕することと同じこと。
人を欺くこと。できないし、されたくない。
男女が、メンタル面で、交流するあり様は確かに生のエネルギーの一形態だ。だがそれは、相手にとっても、自分にとっても、ごく身近の親しい人に傷を与えない場合にかぎられる。この点に関して最大限の注意を払いたい。
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今日で、11月も終わり。26日は大変な一日だった。26日は記念日だと勘違いしていて、でもまあせっかくだから外食しようということになって、前に行っておいしかったお好み焼き屋さんに行った。食べた直後にお腹が痛くなった。それから清算をごまかされた。ごまかされたことに腹がたってもう一度お店に行って、そのことでおっくんとけんかした。それから、お腹だけではなく、胸が痛くなってとうとう起き上がることができず、おっくんが救急車をよんでくれた。消防車も来てくれた。救急車の人はとても親切だった。ストレッチャーから見上げた夜空がきれいだった。帰宅すると、今度はおっくんが寒気がするという。案の定、翌日発熱で、おっくんは予定をキャンセルしなければならなくなった。
27日には授業中に一度同じ症状が出て、授業を中止にしようかと思ったけれど、なんとか持ちこたえた。午後に、R.Sの会があったからどうしても行きたくて、その間に、おっくんは症状が悪化しており、帰宅したときには、いつもが饒舌なおっくんは何もしゃべらず、弱ったペンギンのようになっていた。
健康は自分のものだけれど自分のものじゃない。どこでどう奪われてしまうか分らないし、また、どこでどう取り戻せるかどうかも分らない。
愛。力。必然性。