なぜ絵を描くのか?

 前に日記で出てきたお絵描き掲示板、レベルの高いイラスト・CGが見られるので時々お邪魔しているが、BBSで、「絵を描く動機は「こんなにうまく描けた」という自己愛か「褒められたい」という願望だ」というような主張が描かれていた。
 「『絵が好きだから描く』という人はよく考えていないのだ」と言うのだが、その言葉、そっくりまるまるお返ししたい。というより、よく考えた結果がこれならば、非常に精神が浅薄だといわねばなるまい。
 そういえば、「会社は儲けることがすべて」なんて言っている人もいたか。なんでもかんでも単純化しようとするのは、デジタル時代の象徴だろうか? そもそも物事はそれほど簡単に割り切れるものではないのだが。
 こういう論理の危うさは、それがまったくの嘘ではないため、盲目的に信じてしまう人のいることである。
 もちろん反対意見がたくさん寄せられていたが、書いた張本人は聞く耳を持たないし、なんだかぐだぐだな議論になっていた。ネットでは深遠な議論をするのは難しいのかなと思う。


 それにしても、人はなぜ絵を描くのだろう。
 その理由は百人いれば百通りあり、まとめること自体無理があるかもしれないが、この件をきっかけに、私なりに考えてみた。


 ラスコーの壁画から分かるとおり、人は大昔から絵を描いてきた。
 記録のためか、儀式のためか、楽しみのためか、意志伝達のためか。
 権威を象徴するため、メッセージを訴えるため、人を感動させるため、広告のため、お金のため、暇つぶしの道楽。
 目的はさまざまで、とてもひとつに割り切れるものではない。
 しかしその根源に、多くの人間が抱える何かを造りだしたいという欲求、創作欲、いや、一種の表現欲のようなものがあるのではないかと私は思い始めた。


 私はそれほどたくさん絵を描くほうではないが、美術館に行って心を打つ絵画を見たり、本やネットで素晴らしいイラストを見たりした後、出し抜けに頭の中に見たことのない映像が閃くことがある。
 そうすると、いてもたってもいられなくなり、筆を取らずにはいられない。忘れないうちに描き止めておきたい、頭の中の絵を具体化してみたいと思う。
 もっとも、私の絵の腕はかなり未熟なのでまともに完成しないことが多いが、絵に限らず音楽でも小説でも、こういう願望、すなわち表現したい、具体化したいという欲求にかられて創作することが多い。


 作ってみて、できばえがよければ当然ながら人に見せたくなる。褒められれば嬉しい。
 しかしできばえがよくなくても見せることもあるし、誰にも見せずにお蔵入りしてしまうこともある。
 「褒められたいから描く」というのは順序が逆で、「描いたものをできれば褒めてほしい」なのだ。


 そもそも、なぜ絵を描くのかという以上に、もっと大きな課題がある。「なぜ絵でなければならないのか」ということだ。
「自分を認めたい」「褒められたい」だけならお洒落をしたり、スポーツに励んだりしても良いわけで、そのほうがよっぽどもてる。勉強や仕事を頑張れば、それこそ「自己満足」し回りからも「褒められる」。
 お洒落やスポーツでは飽き足らない理由、それこそ、先にあげた表現・創作欲なのではないかと思う。


 表現・創作にもいろいろあるが、その中でとくに絵を選ぶ人がいる。
 その理由は、「他の表現より絵が好き」「演劇やダンスや音楽に比べ、絵が手軽だった」「たまたま絵が上手だった」など色々だろうが、絵によって一番手軽に心の無意識を意識化できるということもあるのではないだろうか。
 心理療法などにも使われるとおり、絵を描くことは、癒しや自分の再発見につながる。画家に長命な人が多いのも、おそらくそのためだろう。絵を描くことは内なる自分との対話なのだ。
 人が、「私は何者なのか?」と問い続ける生き物である以上、絵を描くのは、ただ楽しいからというだけでなく、一種の宿命なのかもしれない。


 絵を描く目的が、「自分で自分を褒めたいから」「人に褒められたいから」とだけ認識している人は、おそらく絵が得意で、人から褒められてうちに目的と結果があべこべになってしまったのでないかと思う。
 幼い時分、絵を見るのが好きで自分も真似して描いてみた。描く過程が楽しい。描き終わってみると思いのほかうまく、嬉しくなった。私って僕ってすごい! みんなからも褒められる。褒められるからもっと描く。そのうちに褒められることが、絵を描くことに対する当然の報酬となり、褒められないと物足りなくなる。不満になる。そこで技術を磨く。しかし技術が上がれば上がるほど、自分より上手い人がいることが分かる。上手な集団に入れば「褒められる」という報酬は与えられにくくなる。嫉妬し、懊悩し、ますます「上手に描く」「褒められる」ことに執着していく。
 CGのサイトはそれほどよく知らないので、こういう人が多いのかどうか分からないが、小説創作のサイトなどではこうした病理を見かけることがよくある。


「ではなぜ人に見せるのか? 褒められたいからこそ絵を人に見せるのだろう」という人もいるかもしれない。
 しかし、それでは上手な(少なくとも本人はそのつもりの)人以外、絵を人に見せることはなくなってしまう。
 おそらく、絵を見せたくなるのは、それが一種の自己表現だからだ。
 人は何かしらの形で自分を表現する。言葉や文字で、表情や身振りで、そして絵で。
 言葉を人に聞かせ、返事をもらえば会話になる。
 絵を見せて誰かが共感してくれれば、それもやはり一種のコミュニケーションなのだ。


 私は絵のことはくわしくないが、美術館へ行って、絵の前に立った時、絵が語りかけてくるように感じることがある。
 突然その絵の持つ空間が広がりを持って自分に迫ってきて、絵の世界に飲み込まれてしまう。あるいは、その絵の持つ色彩や形に心躍るような気分になる。
 そうした時、私は絵の作者と握手を交わした気分になるのだ。
「ああ、あなたはこれが描きたかったんですね。この光が。ああ、なんて素晴らしいんでしょう」
「この絵のよさが分かってくれたかね?」
「分かります、分かります。他人が描いたものなんて信じられません。もう一人の私が描いたみたいです。私の心の中に眠っていたものを、あなたが呼び覚ましてくれたみたいです」
 時を越え、空間を越えて心が通じ合う、感覚を共有できるというのは、涙ぐみたくなるほどの感動を与えてくれる。
 芸術やアートは難しいなどという声も聞くが、たいした知識もない私にとって、分かるとか分からないとかではなく、作品の前に立って、それが力強く何かを訴えてくれば美術館に行く価値は充分なのだ。
 いや、「分からない」と感じるのは、要するにその絵の感性に共感するところがないということなのかもしれない。


 表現でいうと、今絵やイラスト以上に手軽なのは日記だろう。
 多くの人が日記を書くのは、記録のため、思い出を残すため、自分自身の再確認のため、書くことの喜びのためだろう。
 それをネットで公開するのは、褒められたいからではなく、自分を知ってほしい、それにたいして反応が欲しい、という無意識の気持ちからではないか。もちろんアフィリエイトのためにやっている人もいるだろうが、労力に見合った金額を稼げるほどの人気サイトはそう多くはないはずだ。
 カウンタの回転に戦々恐々としたり、反応欲しさに記事を捏造したりして、書くこと本来の喜びを見失ってしまうのは、本人にとってとても不幸なことである。


 話が脱線したが、絵を描くのは自己の発見でありコミュニケーションであるというのが私なりの結論になるだろうか。
 イラストやCGの場合、絵画とは少し違うかもしれないが、自分の心の中の景色や、好きなキャラクター、かっこいいと思う構図など、自分の考え・感情・意識・無意識を絵に表現し人に伝えたいという願望は同じなのではないかと思う。


 さて、ひるがえって自分を見てみると、表現や創作はどんなものでもたいがい好きなのだが、一番執着しているのは小説である。
 私はなぜ小説を書くのか?
 これにとっては、また別の、ややこしい考察が必要になりそうだ。
 またいつかじっくり考えることにしよう。