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なにさま日記

2017-03-28 03【20世紀の記憶 1901(M34)年】

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03【20世紀記憶 1901(M34)年】(ref.20世紀の全記録)

 

 この年、大英帝国に63年にわたって君臨したビクトリア女王が死去し、7つの海を制した大英帝国繁栄歴史に一区切りがついた。女王の治世末期には、さしもの大英帝国の国力にも陰りが見られ、ドイツアメリカ日本などの後発が、その地位を揺るがすようになると、まもなく栄光孤立を捨て日英同盟を結ぶなど、列強間の力のバランスを保つ努力にむかう。

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 米では、第25代大統領ウィリアム・マッキンリーアナーキストの男に暗殺された。彼の在任中には、米西戦争勝利フィリピンキューバ支配下に置き、さらにはハワイ併合するなど、米国帝国主義進出の端を開くことになった。暗殺後、あとを引き継いだセオドア・ルーズベルトも、同様の政策を推進してゆく。

 清朝中国では、李鴻章宰相として「洋務運動近代化運動)」を推進し、太平天国の乱、日清戦争義和団事件なと、清朝末期の難問題を処理して来た。その李鴻章がこの年の末に死去し、清国列強浸食さらされながら滅亡へと向かう。

 これらは、19世紀帝国主義成熟時代に、新たな変化をもたらす兆しでもあった。やがてヨーロッパ列強関係は、複雑な同盟対立関係錯綜し、第一次大戦へと向かっていった。

 

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 この年の初め、米テキサスで大油田発見され、ガルフテキサコといった国際石油メジャー誕生させることになった。日本でも官営八幡製鉄所誕生するなどしたが、金融王J.P.モルガンは、世界最大だったカーネギー製鋼を買収し、自己所有の鉄鋼9社と合わせて、全米鉄鋼の7割を占める超巨大な「USスチール」を誕生させた。また、大西洋太平洋を結ぶパナマ運河の独占建設権を、アメリカフランスから獲得した。これらの産業事業の巨大化は、巨大な資本必要とし、モルガンロックフェラーなどの大財閥誕生した。

 

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 「モルガン財閥」は、ジョン・ピアポント・モルガンが、父がロンドンで起こした会社を受けつぎ、19世紀末には世界最大の銀行家となった。J.P.モルガンは他の有力銀行家らと組み、鉄道建設への投資に注力、1890年代までに多くの主要鉄道会社支配するに至った。さら鉄道関連産業として、エジソン電灯会社ベル電話会社などと資本関係を結び、後の巨大独占企業ゼネラル・エレクトリックGE)、AT&Tへと育て上げた。

 1901年カーネギー製鋼を買収統合USスチールを生み出すと、鉄鋼業を基幹として、死の商人デュポン鉄道王バンダビルト、金鉱王ダッヂなどの巨頭と組んで、兵器産業自動車産業ゼネラルモータースGE)、さらには保険放送映画といったサービス産業も傘下に収めてゆき、端緒に就いたばかりの航空機産業や、やがては原爆製造マンハッタン計画にまで参画することになる。

 

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 一方の「ロックフェラー財閥」は、ジョン・ロックフェラー精油業「スタンダード・オイル」を創業し、全米の石油の90%をコントロールしたとも言われる。弟のウィリアムロックフェラーは、ナショナル・シティー銀行ニューヨーク現在シティグループ創業者の一人となり、ロックフェラー一族として、モルガン財閥メロン財閥とならぶ財閥形成した。

 金融業から産業支配を展開したモルガン財閥に対して、ロックフェラー財閥石油業を支配した資金から展開した。弟ウィリアムナショナル・シティー銀行創業することで、金融業も手中に収めると、モルガンと同じく、石油業や金融業を拡大するとともに、鉄道業(ユニオンパシフィック鉄道)、電機産業(ウェスチングハウス)、さらUSスチールへの株式投資など、様々な企業を傘下に収める。またモルガンと組んで軍事産業にも参入、マンハッタン計画にもウェスチングハウスなどを通じて参加している。

 

 かくして「モルガンロックフェラー帝国」とも呼ばれる巨大財閥たちは、その政府への影響力も強大となり、彼らの最大のビジネスとも言える二つの世界大戦なだれ込んで行く。

 一方で、シャーマン法に始まる独占禁止法も整備され、スタンダード石油企業分割など、その勢力をそぐ財閥対策順次実行された。今やかつてほどの支配力はなくなったとはいえ、法に触れない形での隠然たる支配体制は温存されていると言えよう。

2017-03-26 02【20世紀の記憶 1900(M33)年-02】

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02【20世紀記憶 1900(M33)年-02】

(このシリーズは『20世紀の全記録/講談社1987』を参考図書として記述する。以降「ref.20世紀の全記録」と略記)

 

 中学生の頃、『北京の55日 "55 Days at Peking" 1963』という大作映画が公開されたのを憶えている。当時は「義和団事件」など全く知らなかったが、何となく大変な事件だったのだと感じた。映画自体は見ていないが、予告編ではチャールトン・ヘストンデヴィッド・ニーヴンなどが登場する。それぞれ、出て来るだけでアメリカイギリスを想定させる役者であった。

*TRAILER https://www.youtube.com/watch?v=mja-v2VSUo0

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 それなら、日本代表としては早川雪舟だろうと思ったが、なんと柴五郎中佐役で伊丹十三が出演している。映画では、チャールトン・ヘストン扮する米のマット・ルイス少佐が主役として描かれているが、実質的に寄集め軍の籠城作戦を指揮して、最も功績があったのは柴五郎中佐だったとされる。ただし映画では、ほぼ無視されている。

 

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 史実に戻ると、当時、列強によるアジアアフリカの分割は、ほぼ大枠は決まりつつあった。さらに、「眠れる獅子」と呼ばれた巨大な清朝中国も末期を迎えていて、英仏独などの列強がまさに「蚕食」する状態であった。そこへ遅ればせながらアメリカが加わり、日清戦争に勝った新興日本も顔を突っ込んで来ていた状況であった。

 「義和団の乱」は、その歴史的評価が未だ定まっているとは言えない。当事国中国では、欧米及び日本帝国主義侵略に対抗する民衆愛国闘争という捉え方がされるが、欧米では、単に外国排斥する民衆暴動排外運動だとされることが多い。

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 さらに「義和団」というものが分かりにくい。中国拳法の一派「義和拳」が基であるとされるが、その中国の「拳」というものが、日本のように武術の一つというだけではなく、ある種の宗教的結社性格もつことがあり、さらにその結社政治的な主張と行動を伴なうことがある。

 欧米列強の力を背景として、キリスト教宣教師布教活動を強めるという形で、清朝に浸透していったという状況に、義和拳が宗教的義憤から対抗していったという側面もある。西欧列強から見れば狂信的団体から見えたが、このような義憤的行動は、失業者難民匪賊を吸収しながら急速に拡大し、北京乱入すると、東交民巷という外国公使館区域を包囲するに至った。

 それまで取り締まりの手をゆるめて様子を伺っていた清朝政府は、最高権力者であった西太后列強に「宣戦布告」するに至って、清国軍とともに排外戦争を戦う「義和団」となった。北京入場の義和団20万に対し、東交民巷の籠城した外国公使館側の護衛兵などは500名足らずとされ、そのとき実質的リーダーとして活躍したのが柴五郎中佐であったという。

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 義和団鎮圧のために列強八ヶ国は軍を派遣し、中でも最も多数の兵を投入したのは日本ロシアであった。二ヶ月を経て、北京開城された結果、「北京議定書」によって清国は莫大な賠償金を背負うことになり、日露は中国における発言力を増すことになった。

 何とか北京脱出した西太后も、1908年72歳で死去し、国力を大きく消耗した清王朝は、その死後3年あまり辛亥革命によって滅亡する。

2017-03-25 01【20世紀の記憶 1900(M33)年-01】

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01【20世紀記憶 1900(M33)年-01】

 

 19世紀産業革命帝国主義時代とすると、20世紀は、さらなる科学技術の発展と人口爆発時代だった。飛行機潜水艦宇宙ロケットなどの開発により、人類深海から、空、宇宙にまで行動範囲を拡大し、一方で、人口20世紀初頭の15億から20世紀末には4倍の60億にも達した。

 地球上に人口が爆発し、帝国主義列強による後発地域の分割も、20世紀初頭にほぼ完結すると、錯綜した利害関係は調整が付かなくなり、やがて第一次世界大戦が勃発する。さらにその四半世紀後には第二次大戦と、20世紀前半は世界大戦時代でもあった。これ以降、20世紀の各年を象徴的な事物事件を通じて深掘りしてみようと思う。

 

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 19世紀に幕を下ろし20世紀の始まりを告げる1900年20世紀は正確には1901年より)は、絶頂期に達したアール・ヌーボー様式に取り囲まれ、4月パリ万国博により華麗に幕が切って落とされた。7月には全長128mの巨大な世界最初の硬式飛行船ツェッペリン号」が空に浮かび、やがては世界一周もやってのける。また、ドイツ客船ドイチュラント号」は大西洋横断スピード記録を達成した。

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 文化方面では、芸術至上主義世紀末芸術を率いたオスカー・ワイルドが、パリの片隅でひっそりと息をひきとり、世紀末のみならず21世紀まで射貫く矢を放ったフリードリッヒニーチェは、狂気10年間を経て没した。一方で、ジークムント・フロイトが「夢判断」を出版し、「無意識界」を探索し精神分析への道を拓いた年でもあった。

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 かつて詩人鮎川信夫は、「マルクスニーチェフロイトを齧っておけば、適当現代思想など展開できる」と言ってのけた。19世紀の人マルクス社会的無意識、別名「資本主義欲望」を解明する端緒となったし、ニーチェは「権力への意志」などで、宗教的民族的無意識をえぐり出し、そしてフロイトは、個人史の背景にある「個人的無意識」を発見した。

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 そもそも「芸術」とは、これらの目に見えない「無意識」を実在化する試みではなかったのか、とも言える。ともあれ、これらの「無意識発見」は、二つの大戦後の世界を貫き通したテーマでもあった。鮎川信夫詩人感性が、このことをまさしく感知していたと言える。

 

 さて、この年を象徴する歴史的事件として「義和団の乱」を取り上げる予定だったが、長くなったので次回にまわすことにする。

2017-03-21 【06 昭和60年 小京都】by「THE日本/1985」

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【06 昭和60年 小京都by「THE日本/1985」

 

 全国各地に「小京都」と呼ばれる街がたくさんある。「小京都」のWikipediaでの解説引用する。

小京都(しょうきょうと)とは、古い町並みや風情が京都に似ていることから、各地に名づけられた街の愛称である室町時代以降、各地の大名京都を真似た町づくりをし、それが小京都起源となった。

 小京都と呼ばれる地域が集まる団体として「全国京都会議」が存在する。全国京都会議京都市を含む26市町により、1985年昭和60年)に結成された。1988年昭和63年)の第4回総会で加盟基準が次のように定められた。

京都に似た自然景観

京都との歴史的なつながり

伝統的な産業芸能があること

 以上3つの要件の1つ以上に合致しておれば常任幹事会で加盟を承認される。全国京都会議には小京都のほか、「本家である京都市も参加し、事務局を同市観光協会内においている。

 なお、全国京都会議に加盟していなくても、観光宣伝などを目的とした自称、他称の「小京都」は多い。≫

 

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 ここでは本家京都」については触れない。Google画像検索したもの貼り付けておくが、やはり寺社仏閣などが大半を占めた。

 

 はたして小京都と呼ばれることに、その土地に住む人が好ましく思っているかどうかは分からない。ただ、そう呼ばれることで観光などでメリットがあるだろうことは、当地積極的PRしようとしていることから推定できる。いずれにせよ「小」という語は、本家があってのことで、いささか低く見た呼称であることには違いない。

 他の例では、「大デュマ、小デュマ」などの親子の著名作家に付けられることがあるが、これは仏語「ペール=父、フィス=息子」で区別したものを、日本語では「大、小」と表記したものである最近では「大ブッシュ小ブッシュ」などと歴代米大統領の父子を区別するためのものがある。ともに「ジョージ・ブッシュ」なので「シニアジュニア」で区別したものを、日本語では「大、小」に置き換えたものであろう。

 ついでだが、作家谷崎潤一郎が「大谷崎」と呼ばれることがある。絢爛華麗な作風や毫者贅沢な生活ぶりなどからそう呼んだのであろうが、「小谷崎」と呼ばれる作家が居るわけでもない。あえて「大、小」として区別する対象としては、弟の谷崎清二が早大教授で英文学者であったが、あえて区別しなければならないほど、名声が拮抗しているとか活躍分野が大きく重なっているわけでもない。たぶんに、文壇とかの狭い業界用語に近い。

 地名として「小京都」のように呼ばれる例としては、かつて全国に散在した「〇〇銀座」などがある。これは繁華街商業街の代表として「銀座」を持ってきて、自分たち商店街を盛り上げようとしたのであるが、いま時にはセンスが悪いと思われるだろう。あと、自然山河には「〇〇富士」などもあるが、これらにもその威光の恩恵に与りたい気持ちが強く反映されていると思える。

 

 大小談義はおくとして、全国の「小京都」を挙げる。当方はいずれの街をも訪れたことがないので、感想とかはご承知の方がコメントしていただければありがたい。

 

写真は「THE日本」より)

秋田県 角館

島根県 松江

石川県 金沢

山口県 岩国

岐阜県 高山

島根県 津和野

岡山県 倉敷

山口県

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2017-03-19 【05 昭和60年 ライバル都市対決 横浜vs神戸】by「THE日本/1985」

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【05 昭和60年 ライバル都市対決 横浜vs神戸by「THE日本/1985」

 

 現在横浜市都市形成するきっかけは、源頼朝鎌倉幕府にまでさかのぼるが、近代港町として発展する契機となったのは、幕末開港以来となる。日米修好通商条約が結ばれたのは神奈川港だったが、幕府意向で、対岸の100人ほどが住まう漁村であった横浜村であった。

 その横浜村に、運上所(税関)や外国人居留地横浜居留地)が設置され、各国の外国商館が立ち並び、海外交易拠点港として姿を整えると、首都東京の発展とともに、港町横浜は拡大していく。現在では、人口370万、18区の行政区を持ち、大阪市を追抜いて東京特別区に次ぐ日本第二の大都市となっている。

 

 一方、現在神戸市は、平清盛日宋貿易のために大輪田泊(おおわだのとまり)をつくり、福原京計画するなど、古くから発展の端緒をもった。幕末開港することになり、こちらも幕府は、大輪田泊のなごりで既存兵庫港を避け、少し東の寒村であった神戸村を指定した。

 戦前神戸は、兵庫港神戸港が一体となって拡大し、東洋最大の港として発展した。東のアメリカに向けた貿易港としての性格もつ横浜に対して、神戸は従来から西の窓口として、中国などアジアインドヨーロッパとの結びつきが強かった。しか戦後アメリカ重要性が拡大し、首都圏経済力も強大になるにつれて、阪神間地盤沈下とも連動して神戸地位は低下していった。

 その流れを決定的にしたのは、1995年阪神大震災であった。震災神戸は甚大な被害を受け、港湾機能麻痺している間に、アジア諸港の追い上げをうけ、国際貿易港としての相対的地位はかつてと比べると低下した。私自身、学生時代神戸下宿した経験があり、震災時には既に京都に住まっていたが、それなりの思いがあり、そのことはかつて下記で記した。

*「阪神淡路大震災記憶http://d.hatena.ne.jp/naniuji/20150117

 神戸の街は、六甲山から、急激に大阪湾に落ち込む崖のへりにできた東西に細長い街で、市街地として開ける土地が少ない。したがって、六甲山系を切り崩し、その土砂で神戸港を埋め立てる、という形で市街地を拡大するしかない。ポートアイランドなどの埋め立て時には、六甲山から神戸港にまで巨大なベルトコンベアを築き、そのまま土砂を流し込んでいた。このダイナミズム震災で一時損なわれたが、震災復興と併行して、六甲山摩耶山の後背部には北区西区などが形成され、都市機能はさらに拡大されつつある。

 

写真は「THE日本」より)

1.スポーツ事始め 「日本最初競馬場 横浜根岸競馬場」(上)vs 「日本最初ゴルフ場 神戸ゴルフ倶楽部」(下)

2.エキゾシズム 横浜山手外人墓地」(右)vs 神戸北野町異人館街」(左)

3.横浜マリンタワー」(上)vs 神戸ポートタワー」(下)

4.ファッションタウン「横浜元町」(上)vs 同「神戸元町」(下)

5.「横浜メリケン波止場」(上)vs 「神戸メリケン波止場

6.ミッションスクールフェリス女学院」vs 同「神戸女学院

7.横浜中華街」vs 神戸南京町

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