Hatena::ブログ(Diary)

なにさま日記

2018-04-14 【19th Century Chronicle 1831-35年】

【19th Century Chronicle 1831-35年】

 

江戸の怪盗、鼠小僧次郎吉小塚原さらし首に。

*1832.8.19/江戸 盗賊鼠小僧次郎吉が、小塚原処刑される。

 

f:id:naniuji:20180418153447j:image:w120:right

 鼠小僧次郎吉は鳶人足生業だったらしいが、博打で身を持ち崩し、父親から25歳の時に勘当される。その後、1823(文政6)年)ごろから10年にわたって泥棒稼業に励み、武家屋敷中心に忍び込むこと95箇所、839回、盗んだ金三千両余りとされる。

 

 泥棒稼業に身を染めて以降、武家屋敷に忍び込むこと数十回に及んだが、1825年に土浦藩上屋敷に忍び込んだ所を、現行犯で捕縛された。この時は、初犯だと言い逃れて、入れ墨の上で江戸払いの刑を受ける。

f:id:naniuji:20180418153600j:image:w200:left

 一時は上方などへ姿を消していたもようだが、ほとぼりが冷めるとひそかに江戸に舞い戻り、賭博資金欲しさか、再び盗人稼業に戻る。その後7年にもわたって、武家屋敷へ忍び込みを続け、ついに1832(天保3)年6月、日本橋浜町小幡藩屋敷逮捕された。

 

f:id:naniuji:20180418153741j:image:w120:right

 この時は観念したのか、北町奉行尋問過去の行状をすべて白状したという。鼠小僧供述では、上記のような犯行歴が明らかになったが、本人が記憶していない部分も含め、正確な金額などは未だに不明。3ヵ月後には、「市中引き回しの上獄門」の判決が下される。

 本来なら凶悪犯に適用される刑であるが、盗みに入られた武家面子への忖度もあったかと思われる。引き回しの際には、伝馬町から日本橋まで、鼠小僧を一目見ようという野次馬であふれた。市中引き回しは、当時の娯楽の少ない庶民への一種の見世物となっており、すでに有名となっていた鼠小僧には、まともな着物を着せ、顔には薄化粧まで施されたという記述が残されている。

f:id:naniuji:20180418153859j:image:w200:left

 

 鼠小僧次郎吉と言えば、大名屋敷にのみ忍び込み、いっさい刃傷沙汰は起こさず、盗んだ金子庶民に分け与えたという義賊伝説世間に流布している。しかし、庶民に金をばら撒いたという事実は、まったく確認されない。大名屋敷を中心に狙ったというのも、むしろ敷地の広い武家屋敷は内部の警備は手薄で、とくに当主が国元に帰っている間などは狙い目だったようだ。しかも盗みに入られたというのは武家面子にも関わるので、公表しないことも多かったという。

f:id:naniuji:20180418154027j:image:w120:right

 庶民感情としては、威張っている大名武家を狙って、その金を貧しい庶民に与えるという美談願望が働いたと考えられ、それが鼠小僧という義賊伝説誕生させたのであろう。武士階級絶対時代、たった一人で武家屋敷に盗みに入るなど、反権力の具現者として歌舞伎などで演じられると、圧倒的な人気者となった。

 

 実際の次郎吉は、鳶職見習いであっただけに、動作は敏捷で盗みに適していたが、五尺に満たぬ小男で、捕まったときにはろくな家財道具も金もなかったという。貧者に施したというのはあくまであと付けであり、実際には博打などで散財したとされる。

f:id:naniuji:20180418154132j:image:w120:left

 処刑小塚原刑場にて行われ、その首は3日間獄門台に晒された。墓は、両国回向院及び蒲郡の委空寺にある。長年捕まらなかった幸運あやかろうと、参拝客が墓の一部を削って持ち帰りお守りにしているという。

 

 

東北中心に「天保の大飢饉」始まる。

自然災害

*1833.8.1/ 関東・大羽地方が大風雨に見舞われる。

*1833.10.26/ 出羽越後佐渡大地震と、それに伴う大津波があり、庄内地方に甚大な被害を出す。

一揆・打ちこわし)

*1833.8.23/陸奥 南部藩岡町で、米屋も打ちこわしが発生、領内各地および秋田青森でも打ち毀しが続発する。

*1833.9.12/播磨丹波 加古川筋一帯で、農民が富商などを打ち毀す。(加古川一揆

*1833.9.-/ 9月から12月にかけて、米の買い占めによる米価高騰に対して、全国各地に騒動・打ち毀しが起る。

f:id:naniuji:20180420165004j:image:w200:right

 

 1833(天保4)年、東北地方を中心に夏の長雨と低温が続き、さらに大洪水大地震による大津波と、天変地異大凶作をまねいた。冷夏による凶作は、東北だけでなく全国に及び、その結果、米価が騰貴し、各地で一揆や打ち毀しが頻発した。冷夏による凶作は翌年以降も続き、1836(天保7)年前後には最も深刻な被害をもたらし、1839(天保10)年まで続いた。

f:id:naniuji:20180420165128j:image:w220:left

 「天保の大飢饉」は、寛永の大飢饉享保の大飢饉天明の大飢饉と合せて「江戸四大飢饉」と呼ばれる。最も餓死者を多く出したのは天明飢饉だが、その50年後に起きた天保飢饉は、6年も連続して凶作となったため、その及んだ被害も大きく、人口減少幅でみると天明飢饉匹敵するという。

 

 幕府は米価高騰を抑えるため、米の買い占めを禁じ、米商人には囲米(備蓄米)を放出させ、全国諸藩には江戸大坂の大消費地に廻米を命じた。さら幕府や藩では、蔵米備蓄米)を放出し、窮民には施米を実施した。しか全国的な凶作は、融通しあう余地も少なく、しかも連年の凶作は、累積的にダメージを深めた。

f:id:naniuji:20180420165246j:image:w180:right

 仙台藩では、盛んに新田開発を行い、米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大であった。水戸紀州尾張など、幕府に近い親藩大名領地でも、大きな被害を出した。一方、犠牲者を一人も出さなかったと伝えられる藩もあった。田原藩愛知)では、家老の「渡辺崋山」が、師の経世家佐藤信淵」の思想をもとに、役人の綱紀粛正と倹約民衆の救済を最優先すべきと説き、義倉の整備をして成果をあげた。また米沢藩山形)でも、天明の大飢饉の教訓から、義倉を整備し「かてもの」という代用食を推奨するなど、周到な対策が取られた。

 

f:id:naniuji:20180420165331j:image:w120:left

 この時期すでに経世家農政家として名声が確立していた「二宮尊徳(金治郎)」は、藩命で下野国栃木県桜町領の再建を任されていたが、口にした茄子が初夏なのに秋茄子の味がするので、その年の冷夏と凶作を直感し、百姓達に冷害に強い稗(ひえ)などの作物を植えさせた。金治郎の予想通り大凶作となったが、彼の指導していた村では、冷害に強い稗や食糧備蓄で、飢饉を乗り越えたという。

 戦前戦中を通じて、教育勅語で「忠に孝に」と唱和させられ、忠孝のシンボルとして、二宮金治郎の銅像が各地小学校に建てられた。軍国主義時代称揚されて利用されたが、二宮尊徳は軍国思想とは無縁の人物で、百姓長男として生まれ、貧しい中で独学し、自身の家の経済を建て直すのを始めとして、傾いた武家家計復興したりしてその能力を認められた。

f:id:naniuji:20180420165431j:image:w100:right

 

 尊徳は「報徳思想」という独自の教えで、再建を命じられた村落の農民たちを指導した。これは決して宗教ではなく、抽象的な儒教道徳でもなく、尊徳が独学で学んだ神道仏教儒教などを下敷きに、ひたすら農業実践の中から編み出した考え方であった。天の理にそって私欲を捨て、質素倹約生活の中で、生業に励みむことを強調し、いわばプロテスタンティズムのように、自助努力実践活動が重視された。

 結果的に、尊徳に託された農村などは、見事に豊かになり、各地から尊徳の指導を仰ぐ声が寄せられた。経世家農政家としての実績を積み上げたが、その本質は、豊かに生きるための総合的な知恵を植え付ける実践家であった。

 

 

(この時期の出来事

*1831.3.8/大坂 町奉行安治川浚渫し、その土砂で天保山の築造を始める。

*1831.7.26/周防長門 長州藩領の農民らが各地で打ちこわしを起こし、長州全藩を巻き込む一揆となる。(防長一揆

*1831.-.-/江戸 葛飾北斎代表作「富嶽三十六景」が出版される。

*1832.1.-/江戸 為永春水人情本春色梅児誉美」が刊行される。

*1832.12.-/大坂 安治川河口に天保山が完成し、難波新名所となる。

*1834.7.11/大阪 堂島新地の大火で、7560戸以上が消失する。

*1834.11.3/常陸 水戸藩主徳川斉昭が、北方警備のための蝦夷地開拓船舶建造などを幕府に建言する。

*1834.-.-/ 浮世絵師歌川(安藤広重連作風景画「東海道五十三次」が完成する。

*1835.1.6/近江 発明家国友藤兵衛が、自作望遠鏡太陽黒点観測を始める。

*1835.12.9/但馬 幕府が、出石藩御家騒動に介入して処断する。

*1835.12.-/薩摩 薩摩藩家老調所広郷が、三都の商人に250年賦・無利子での藩債償還法を申し付け商人たちの反発をくらう。

2018-04-13 【京都駅舎など、もろもろ】

京都駅舎など、もろもろ】

f:id:naniuji:20180414171922j:image:w200:left

 

 日本最初官営鉄道新橋-横浜間に次いで、2番目の鉄道として 京都-神戸間が、1877(明治10)年に開通した。この時の京都停車場京都駅)の初代駅舎は赤煉瓦モダン建物で、現在よりやや北側に設置され、京都市民には「七条(ひっちょ)ステンショ」と呼ばれ親しまれた。

f:id:naniuji:20180414172012j:image:w200:right

 

 1914(大正3)年、大正天皇即位式典は京都御所において行われ、それに合わせて2代目駅舎が、ほぼ現在場所移転建設された。渡辺設計によるルネサンス建築様式で、総ヒノキ造り2階建ての2代目駅舎であったが、戦後の1950(昭和25)年11月失火により全焼した。

f:id:naniuji:20180414172051j:image:w200:leftf:id:naniuji:20180414172144j:image:w180:left

 その年の7月には金閣寺炎上しており、戦時中に爆撃を受けなかった京都住民にとって、あい次いだ火災はショッキングな出来事であった。当方は生まれたばかりで直接の記憶はないが、事あるごとに両親から駅舎火災の話を聞かされた。戦後まもなくの時期なので、予算も限られ、急造の仮駅舎として3代目駅舎が建造された。薄っぺらモルタル鉄骨駅舎は、京都の正面玄関なのに恥ずかしいという声も多かったのが、貧乏国鉄は長年、建て直す甲斐性もなかったようである

f:id:naniuji:20180414172333j:image:w200:right

 

 40年後にやっと新築されることになった4代目の現駅ビルは、国内外の7人の建築家による指名コンペで競われた。黒川紀章安藤忠雄という一般にも著名な建築家も参加していて、黒川などは羅城門をイメージした、120mの巨大な黒い門を建てる案を出してあっけなく落選した。

f:id:naniuji:20180414172543j:image:w200:left

 結局、60m以下の高さにおさえるという条件で、それをクリアした最も低層の設計デザイン案を提出した原広司の、ポストモダン建築案が選ばれた。しかしこの建築には、審査員の一人で哲学者(らしいw)梅原猛らが批判している。それらの批判的な意見は、おおむね「古都京都らしくない」というところに行きつく。

 

 さて、京都らしいとは何ぞや? そんなものは、世界遺産神社仏閣がひしめく京の洛中洛外に腐るほど「本物」があるのであって、えざわざコンクリ−トのレプリカで、観光客を出迎える必要があるのであるか。

f:id:naniuji:20180414174217j:image:w200:right

 半世紀前に京都タワーができたときも、駅前玄関口に巨大なペニスをおったててどーする(実際は蝋燭を模した)、などと意見もあった(笑) 文句はいくらでもあるだろうし言うのは勝手だが、出来たものは出来たもの、それをめでる方が現実的というものだ。

 

 youtubeなどで見ると、外人観光客たちが、駅ビルの大階段や50mの大屋根や吹き抜け空間を、興味深そうにに撮影したものがたくさんアップさられている。それらからは、好意的に楽しんでいるのがうかがえる。


f:id:naniuji:20180414174350j:image:w200:left

 完成して20年にもなるのに、当方は数度しか駅ビルに行ったことがないが、外観はあまり具体的なイメージがない。むしろ、内部の大空間の開放性と、階段上下して移動する立体迷路のような空間は、グリット構成ガラス天井と合わせて、子供の頃のパイプジャングルジムで遊んでいるような楽しさがある。

 

 「エッフェル塔を見たくなければエッフェル塔に上れ、京都駅ビルを見たくなければ、駅ビル内を徘徊せよ」(笑)

2018-03-26 【19th Century Chronicle 1826-30年】

【19th Century Chronicle 1826-30年】

 

◎お美代の方(専行院)と溶姫、そして赤門

*1827.11.27/江戸 加賀藩前田斉泰が、将軍徳川家斉の娘溶姫を正室に迎えるため、御守殿門として加賀藩邸に赤門(現東京大学赤門)を設置する。 

 

f:id:naniuji:20180408154547j:image:w160:right

 第11代将軍徳川家斉は、その生涯で53人の子をを儲けた。将軍継嗣となる男子以外の子息達は、おおむね他家の養子とされた。また女子は、各藩の大名家などにとつがされた。養子や正室として将軍の子女をあてがわれた大名家では、多くの出費を要し、藩政がひっ迫しているところもあったが、将軍の子となれば断るわけにいかなかった。

 

f:id:naniuji:20180408154449j:image:w200:left

 加賀100万石と言われた前田家では、側室お美代の方(専行院)の産んだ21女溶姫を、藩主前田斉泰の正室に向えることになった。将軍の娘の敬称御守殿は、また嫁ぎ先に設けられる専用御殿呼び名でもあった。そして、その入り口となる御守殿門は丹塗りにされる習わしであった。

 江戸加賀藩邸には溶姫御殿と呼ばれる御守殿が設けられ、そこには御守殿門である丹塗りの赤門が立てられた。明治になってから加賀藩邸跡敷地東京大学本郷キャンパスとなり、そこに残された御守殿門が、現東大赤門というわけである

f:id:naniuji:20180408155048j:image:w140:right

 溶姫を迎え入れた加賀前田家では、家斉の権勢が続いた期間を通して、溶姫およびその母親お美代の方専行院によって、かなりの迷惑をこうむることになる。

 

 お美代の方は、陰でおねだり側室などと呼ばれ、旗本中野清茂の養女として大奥奉公、やがて将軍家斉の側室になったが、実父は祈祷僧で智泉院住職の日啓とされている。日啓は悪評が多く破戒僧に近かったが、お美代の方は家斉にねだって将軍家の御祈祷所として感応寺を建てさせた上で、日啓をその住職にさせることに成功した。

 また、前田斉泰に嫁いだ溶姫には前田慶寧誕生したが、お美代の方は、家斉に慶寧をいずれ将軍継嗣にして欲しいとねだったとも言われる。

 

 将軍家の祈祷所とされた智泉院や感応寺には、奥女中が江戸城から参詣に通うようになった。お女中たちには寺に通ううちに坊主ねんごろになるものも出てきて、なかには寺に運び込まれる長持ちに身を潜めて、密通を企てる奥女中もあったという。

 1841(天保12)年、徳川家斉が死去すると、水野忠邦天保の改革に着手した。寺社奉行に取り立てられた阿部正弘は、さっそく智泉院などの手人れを行い、奥女中と坊主たちの淫行が表沙汰となった。日啓は女犯の罪で召し取られ、遠島を申し渡されたまま牢死、感応寺は取り潰された。落飾(剃髪仏門入りすること)し「専行院」となっていたお美代の方も「押込(幽閉謹慎)」とされた。

 

f:id:naniuji:20180408155225j:image:w200:left

 この1827(文政10)年、14歳の溶姫は、お付きの役人や奥女中数百人を引き連れて、本郷加賀屋敷に嫁いで来た。前田家では、溶姫のために御守殿を設け、多数の付き人たちを受け入れることになった。そのための費用尋常ではない出費となったが、さらに、将軍大奥からつけられた役人や奥女中たちは、将軍家の威を借りて尊大に振る舞い、加賀藩の女中や藩士の反感をかったという。

 智泉院事件の後、江戸城に居づらくなった専行院(お美代)を、溶姫が引き取って溶姫御殿に住まわせたとされ、その費用も藩財政を圧迫したであろうと想像される。溶姫はますます加賀藩士らの恨みを一身に受けることになった。時が経ち、文久の改革で参勤交代制が緩和され、大名妻子の国許居住が許可されたが、溶姫は将軍家や母専行院との義理からすぐには帰国しなかった。

 

 しかし、1863(文久3)年溶姫は、帰国費用として幕府より3万5千両を借用、盛大な行列を組んで、金沢城に溶姫のために造営された二の丸御殿に入った。しかし、翌1864(元治元)年、禁門の変後の不安定な情勢のもとで、溶姫は江戸に戻りたいと申し出て、夫斉泰の反対にもかかわらず、無理を押して江戸への帰還を強行する。

 1868(慶応4)年、戊辰戦争が始まると、江戸危険が迫り、溶姫は金沢に移されることになった。溶姫は母お美代の方と別れ帰国の途につくが、夫斉泰には溶姫付きの徳川家の家臣侍女らの入国は許されず、溶姫は単身金沢城御殿に入った。しかし、それからわずか2ヵ月ほどで溶姫は死去する、享年56。

 一方、溶姫の母親・お美代の方専行院は、日啓事件の後も江戸城に留められたともされ、幕末の動乱期にも生き続け、明治初頭まで存命し76歳で死去したといわれている。

f:id:naniuji:20180408155440j:image:w200:right

 

 映画武士の家計簿』(2010年)は、歴史学者磯田道史著『武士の家計簿加賀藩御算用者」の幕末維新』(2003/新潮新書)をもとに製作され、加賀藩の御算用者(会計処理役人)を務めた猪山家に残された入払帳などをもとに、溶姫の輿入れ前後からの、加賀藩財政逼迫の様子なども描かれている。

 

 

シーボルト事件

*1826.3.25/江戸 ドイツ人医師シーボルトが、オランダ商館長の将軍謁見に随行する。

*1826.4.9/江戸 天文方高橋景保が、日本地図を持参してシーボルト訪問し、外国書との交換を約束する。

*1828.8.10/肥前 長崎奉行所が、ドイツ人医師シーボルトの帰国時の所持品の中に、日本地図などの禁制品を発見する。 

*1828.12.18/江戸肥前 幕府が、シーボルト出島に幽閉し、関係者を投獄する。 

*1830.3.26/江戸肥前 幕府シーボルト事件の関係者処罰する。

f:id:naniuji:20180411182913j:image:w120:right

 

 1828(文政11)年8月、オランダ商館付医師ドイツ人フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが、帰国する直前、その所持品の中に国外持出し禁制の日本地図などが見つかった。その地図は、伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図であり、幕府天文方書物奉行高橋景保シーボルトに贈ったものであった。景保ほか十数名は処分され、景保は獄死シーボルト国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。

 

f:id:naniuji:20180411183102j:image:w200:left

 1826年3月にシーボルトは、オランダ商館長の江戸参府に随行、将軍徳川家斉に謁見した。江戸においては学者らと交友し、天文方高橋景保とも知己を得る。樺太の資料を求めていた景保は、シーボルトから最新の世界地図を受取り、見返りとして、最新の日本地図を贈った。

 シーボルト長崎出島に帰還し、江戸との道中では1000点以上の植物標本を蒐集したが、さら北方植物にも興味をもち、資料を持つ間宮林蔵手紙を書いた。この間宮がシーボルトから受け取った手紙が発端となり、高橋景保らが捕らえられ取調べを受けた。

 

f:id:naniuji:20180411183238j:image:w200:right

 江戸高橋景保逮捕され、これを受けて長崎奉行所が、出島シーボルトの居所を捜索した結果、いくつかの禁制品が見つかり、シーボルト出島に幽閉された。シーボルト訊問で、科学的な目的のためだけの蒐集であったと主張し、捕まった日本人の友人を守るような証言をした。シーボルトの陳述は、多くの日本の友人や協力者を救ったとされるが、高橋景保らが処罰され、自身にも国外追放の上、再渡航禁止という処分が下った。

 なお通説では、帰国準備でシーボルトが、本国に送った荷物を積んだ船が暴風雨座礁し、船中から地図等の御禁制の品々が発見されたというのが、シーボルト事件の発覚契機であったとされているが、これは近年になって、後日の創作であることが判明している。

 

 シーボルトは、母国プロイセンドイツ医師になるための医学をはじめ、動物植物地理など幅広く学び、なかでも植物学には強い関心を示していた。東洋学研究を志したシーボルトは、オランダに行き、オランダ領東インド陸軍付の軍医となる。さらに、オランダ領東インドインドネシア)で、総督から日本研究希望を認められ、長崎出島オランダ商館付医師として赴任した。

f:id:naniuji:20180411183352j:image:w200:left

 出島内において開業の後、出島外で「鳴滝塾」をも開設し、西洋医学蘭学教育を通じて、日本各地からの多くの医者学者と知己を得る。そのような多くの日本知識人たちとの交友を通じて、シーボルトは、日本の文化を深く探索研究した。その後の江戸随行でも、道中を利用して日本自然や地誌を研究するとともに、江戸においても医師学者らと交友した。この交友が、結果的に禁制品持出しの起因となった。

 

 シーボルトの多くの蒐集・研究は、科学的関心に基づいたものではあったが、医師という本業以外に、プロイセン政府オランダ政府から日本の内情探索の任務を帯びていたことも確かなようである。蘭領東インド病院軍医のときのシーボルトの書簡に「外科少佐及び調査任務付き」の署名があること、江戸学者に問われて「内情探索官」と答えたことなどから、純然たるスパイ活動ではないが、鎖国中の江戸幕府の内情や自然環境の調査目的を持っていたのは確かだと思われる。

f:id:naniuji:20180411183449j:image:w220:right

 なお、1858(安政5)年の日蘭修好通商条約の締結により、シーボルトは追放が解除され、翌1859(安政6)年に長男アレクサンダーを伴って再来日し、幕府外交顧問となっている。また次男のハインリヒも日本に滞在し、オーストリア=ハンガリー帝国大使館通訳外交官業務の傍ら、考古学調査を行い「考古学」という言葉日本で初めて使用大森貝塚発見も、モースより先であったともされる。

 

 

(この時期の出来事

*1827.2.18/琉球 3年連続の大飢饉餓死者多数、王府領民に粥を施す。 

*1827.2.-/関東 幕府は、関東一円支配を強化するため、文政の改革の一環として、関東一円の村々に対して組合村の結成を命じる。

*1827.5.21/ 頼山陽江戸で「日本外史」を完成し、幕府を厳しく批判する。。

*1828.9.14/信濃 鈴木牧之が、山間の秘境秋山郷の探訪から塩沢帰郷し、翌年「秋山紀行」を完成する。

*1829.3.21/江戸 神田より出火し、日本橋京橋中心部消失する。(己丑の大火)

*1830.1.16/常陸 水戸藩主徳川斉昭が文武奨励布告し、藤田東湖らを起用し藩政改革に着手する。 

*1830.4.-/京都 僧尼の綱紀粛正で、京都の多数の寺院破戒僧逮捕され、三条大橋さらされた。

*1830.5.1/肥前 肥前藩主鍋島直正が、質素倹約・文武奨励など藩政改革に着手する。

*1830.8.-/ 3月から5月にかけて、「お蔭参り」と称する伊勢神宮参詣が流行し、東海信濃北陸中国四国に波及する。

*1830.10.1/常陸 水戸藩主徳川斉昭が、老中水野忠成を批判する意見書幕府に提出する。 

2018-03-24 【19th Century Chronicle 1821-25年】

【19th Century Chronicle 1821-25年】

 

◎「無二念打払令」

*1822.4.28/相模 イギリス船が浦賀に入港。幕府は水と薪を与え退去させる。

*1824.5.28/常陸 イギリス捕鯨船員が常陸大津浜に上陸し、水戸藩逮捕さる。(大津事件

*1824.7.8/薩摩 イギリス捕鯨船員が薩摩宝島上陸して牛を略奪し、英人一人が射殺される。(宝島事件

*1825.2.18/ 幕府が諸大名に、「異国船打払令」を出す。「無二念打払令」

 

f:id:naniuji:20180325185013j:image:w200:right

 文化5(1808)年に起きた「フェートン号事件」では、イギリス艦船長崎湾に入り込み、出島オランダ商館を攻撃するなど好き勝手荒らしまわられた。そしてこの文政7(1824)年、常陸大津浜や薩摩宝島に、イギリス捕鯨船の船員があい継いで上陸し、水戸藩薩摩藩トラブルを起こした。

f:id:naniuji:20180325185103j:image:w200:left

 また、水戸では、数年前から漁民たちが、沖合で欧米捕鯨船の乗組員と物々交換を行っていたことが発覚し、300人余りが取り調べを受けた事件が発生している。このような事件危機感を抱いた幕府は、異国船を無条件(無二念)で打ち払うよう、諸大名通達を出した。無理やり上陸した場合には、逮捕して、場合によっては打ち殺してもよいという指示であった。

f:id:naniuji:20180325185138j:image:w180:right

 

 かつてない厳しい内容ではあるが、関係大名に厳重な警備をせよと言うだけで、幕府自体、具体的な対策を取ってはいない。むしろ、近隣住民外国との接触することでの動揺を避けたいという、内側の論理を優先させたきらいもある。第2代将軍秀忠の治世以来の「鎖国」という基本方針を、顕密に踏襲するというだけで、その対応は揺れ動いていた。

f:id:naniuji:20180325185212j:image:w200:left

 その後、日本人漂流漁民を送り届けてきたアメリカ合衆国商船モリソン号を、イギリス軍艦と誤認して砲撃した「モリソン号事件」では、渡辺崋山高野長英らが、幕府対外政策批判して逮捕されるという「蛮社の獄」がひき起こされた。

f:id:naniuji:20180325185246j:image:w200:right

 

 そして、「アヘン戦争」で大国清が惨敗したことを知り、幕府は改めて西洋軍事力の強大さを認識した。アヘン戦争のあと、天保13(1842)年には異国船打払令廃止し、遭難した船に限り補給を認めるという薪水給与令を出して、以前の状態に戻すことになった。

 

【この前後における外国船の来航】

1792年……ロシア使節ラクスマン日本人漂流民大黒屋太夫らを連れて根室に来航し,通商交渉要望する。

1793年……ラクスマン箱館現在函館)に廻航し,光太夫らを引き渡す。ラクスマン幕府使節から長崎の入港許可書を受け取って帰国する。

1804年……ロシア使節レザノフが入港許可書をもって長崎に来航する。出島半年待たされた上,通商を拒絶される。

1808年……イギリス軍艦フェートン号が長崎侵入し,オランダ商館員を人質にして,水や食料を要求する(フェートン号事件)。この事件異国船打払令が発せられる大きな原因となった。

1825年……幕府異国船打払令を発する。

1837年……日本人漂流民をのせて浦賀に来航したアメリカ船モリソン号を幕府砲撃して退去させる(モリソン号事件)。

1839年……モリソン号事件について幕府批判したとして渡辺崋山かざん,高野長英らの蘭学者処罰される(蛮社の獄)。

1840年……アヘン戦争おこる。

1842年……アヘン戦争での清の敗北を知った幕府は。異国船打払令廃止し,薪水給与令を定める。(来航した外国船に水や燃料を与えて,退去を求めることにした。)

1844年……オランダ国王幕府開国をすすめる親書を送る。

1846年……アメリカ軍人ビッドルが軍艦2隻をひきいて浦賀に来航する。幕府開国を求めるが,拒絶されて退去した。

1853年……アメリカ軍人ペリー軍艦4隻をひきいて浦賀に来航,軍事力を背景にして幕府大統領国書をわたす。ロシア軍人プチャーチン艦隊をひきいて長崎に来航し,開国要求する。

1854年……ペリー国書の返答を求めて再び浦賀に来航し,幕府日米和親条約を結ぶ。

 

◎「四谷怪談」初演

*1825.7.26/江戸 4代目鶴屋南北作「東海道四谷怪談」が初演される。

 

f:id:naniuji:20180327180949j:image:w120:right

 「東海道四谷怪談」は、鶴屋南北 (4代目)が歌舞伎狂言台本として書いたもので、江戸雑司ヶ谷四谷町が舞台とされ、怪談噺の定番と言われる。「貞女・岩が夫・伊右衛門に惨殺され、幽霊となって復讐を果たす」というものである享保年間の「四谷雑談集」には、元禄時代に起きた事件として記され、鶴屋南北の「東海道四谷怪談」の原典とされるが、現在知られるような「四谷怪談」の物語は、おおむね南北創作の手になる。

 

f:id:naniuji:20180327181026j:image:w120:left

 「四谷怪談」は怪談代表作として、その後何度も舞台化・映画化などされており、物語にもさまざまなバリエーションがあるが、代表的な場面はすでに初演から登場している。

 

・岩が毒薬のために顔半分が醜く腫れ上がり、髪をすくとぱらぱらと髪の毛が抜け落ちて、自身がその姿を見て悶え死ぬところ。

f:id:naniuji:20180327181253j:image:w180:right

・岩と小平(小盗人)の不義密通と見せかけるため、両人の死体を戸板一枚の表裏に釘付けにして流したところ、それが漂着し、伊右衛門がそれを見て執念に驚くところ。

蛇山の庵室で、伊右衛門がおびただしい数の鼠と怨霊に苦しめられるところ。

などが見せ場として、有名な場面となっている。

f:id:naniuji:20180327181422j:image:w120:left

 

 四代目「鶴屋南北」は、かなり晩年になってから、もとは歌舞伎役者の名跡であった「鶴屋南北」を襲名した。それはたまたま妻が、歌舞伎役者の三代目鶴屋南北の娘だったからであった。彼の長男五代目を継ぐが、一般に「鶴屋南北」と言うときは、この四代目ことを指す。

 南北は下積みが長く、49歳のときはじめて立作者となった。享和4(1804)年には、初代尾上松助のために書き下ろした「天竺徳兵衛韓噺」(天竺徳兵衛)が大当たりし、歌舞伎狂言作者としての地位確立した。南北は、奇想天外状況設定と、現実主義に徹した背景描写を得意とし、頽廃怪奇の中に毒のある笑いを加味したその作風は、文化文政時代の爛熟した町人文化を色濃く反映していた。

f:id:naniuji:20180327181622j:image:w120:right

 

 怪談妖怪の話は、平安末期の今昔物語などにも登場するが、江戸時代舞台にした怪談は、「四谷怪談」や「番町皿屋敷」や「鍋島化け猫騒動」など、史実をもとに歌舞伎の題材として創られたもの代表的で、さらに幕末から明治にかけての落語家三遊亭圓朝」は、「牡丹燈籠」や「真景累ヶ淵」という有名な怪談噺を創作した。

f:id:naniuji:20180327181957j:image:w220:left

 また、日本画浮世絵では「幽霊画」という一つのジャンルがあり、江戸時代から明治時代にかけて多く描かれた。怪異物で知られる葛飾北斎歌川国芳らが多くの作品を残し、この「四谷怪談」をテーマにした絵だけでも、北斎の「百物語」をはじめとして、歌川国貞、豊原国周など、幕末から明治時代にかけて多数のお岩が描かれた。なお、今では一般的想像される「足のない幽霊」を描いたのは、円山応挙最初と言われる。

 

 

(この時期の出来事

*1821.7.10/ 日本初の実測地図大日本沿海輿地全図」および「大日本沿海実測録」が完成し、幕府へ献上される。

*1821.12.7/蝦夷 幕府東西蝦夷地の直轄をやめ、松前藩に変換し、南部津軽両藩の蝦夷地守備を解く。

*1822.2.-/江戸 浅草の高級料亭八百膳主人が「江戸流行料理通」を刊行。八百膳で供する人気の料理解説したもので、上方料理に対して「江戸前」が確立してきた時期を示すものでもあった。

*1822.12.16/ 佐藤信淵が「経済要略」を著し、殖産興業で窮民救済を主張する。

*1823.3.24/ 松平定永・松平忠尭・阿部正権の三方領地替を行い、松平定永の海岸警備を免除する。

*1824.9.-/ 国学者平田篤胤の「古道大意」が刊行される。

2018-03-21 【19th Century Chronicle 1816-20年】

【19th Century Chronicle 1816-20年】

 

◎京の町民自治が大幅に認められる。

*1917.7.3/京都 京都下京の町年寄(町組長)らが、町代(町役人)の専横を訴え、町組と町代の権限について町奉行所に判断を求める。

*1918.10.10/京都 懸案の町代権限問題に、町奉行所は町組側勝利判決を下す。

1919.閏4.23/京都 京都上京に、町自治最高機関としての「大仲[おおなか]」が組織される。

 

f:id:naniuji:20180322134911j:image:w260:right

 応仁の乱をまつまでもなく、京の都には各地の武士団が攻め入り、街中で覇権抗争を繰り返し、都は幾度も焼け野原となる。負ければ帰れる国元がある武士たちに対して、京の町にしか場所のない町民庶民は、いづれが勝つか分からない武士勢力に、旗色を鮮明にして支持するわけにはいかない。

 物事曖昧婉曲に表現する京都人の独特の言い回しは、このような状況から発生したと思われる。どちらとも採れる独自言語表現を獲得したわけで、これが京都人の意地悪さと錯覚されるが、いわば生活必然の知恵として発生したものと考えるべきである

 

 一方で、頼りにできない武士勢力に対して、京の町衆は自衛できる自治能力を持とうとした。その基礎単位となったのが「町組」であった。天文1(1532)年に始まった「天文法華一揆」が、町組の勃興時期と重なる。そして、法華一揆終焉後の荒廃した街の復興処理には、町組が重要役割をはたしたとされる。

f:id:naniuji:20180322134959j:image:w160:left

 江戸期に入ると京都市街は発展し、新たな町[ちょう]が幾つも誕生し、町組の再編が行われた。別個に発展していた下京[しもぎょう]と上京[かみぎょう]は、市街地の発展につれて境界がつながるようになった。二条大路を境にして、下京と上京それぞれが、惣町(拡大町組)として組織されていった。

 

 各町では、町年寄(町組長)が代表して、町民の寄合い(会合)で合議されたが、町奉行との連絡役として「町代」が置かれていた。しかし町代は次第に町奉行配下役人性格を帯び、奉行権威をかさに次第に横柄にふるまうようになった。

f:id:naniuji:20180322135029j:image:w180:right

 そこで上京・下京のそれぞれが、町組の権限と町代の立場確認を求めて町奉行所に訴えていたが、奉行所は町組側の主張を認め、上京・下京には「大仲」という自治組織最高機関設立が認められた。やがて京都全体の統一自治機関に拡大してゆく。

 

f:id:naniuji:20180322135132j:image:w100:left

 京都人自治意識の強さは、このような歴史的経緯裏付けされたものといえる。町衆の祭と言われる祇園祭も、その歴史は平安朝にまで遡るが、今のような山鉾の巡行の形をとるのは、室町期の町組の確立と無縁ではあり得ない。現在まで山鉾巡行を支えているのは、そのような強固な町組組織機能している証左でもあろう。

f:id:naniuji:20180322135202j:image:w180:right

 また、明治の初期、小学校設立予算のない政府に代わって、町組の資金協力によって可能になったものが多い。市中心部小学校区も、町組の単位に沿ったものが多いという。その後、昭和以降の人口増で、小学校区もさらに多くの「町」に分かれているが、その小学校グラウンドでは、町別対抗の運動会ソフトボール大会が行われたものである

 

 当方は、戦後すぐに生まれた世代だが、京都市北区(分区前は上京区)に生まれ育った。その当時でも「町[ちょう]」の結び付きは強く、町会を基本に役員が選ばれ、形骸化したとはいえ、それなりに町単位の催し事も多かった。また、ボランティア的だが青年会や子供会もあり、活動も活発だった。

 いま住んでいる地域では、隣近所の名前も憶えられないぐらいの付き合いしかない。町内会があるのかないのか、回覧板ひとつ回ってこない。それが良いのか悪いのかは、別問題ではあるが。

 

◎「十組問屋」・「三橋会所」・「株仲間」

1919.6.23/江戸 幕府は、三橋会所頭取杉本茂十郎を罷免し、三橋会所・米会所を廃止する。

 

f:id:naniuji:20180323162652j:image:w220:right

 文化4(1807)年の深川富岡八幡宮の祭礼の際、見物客が殺到し、永代橋破壊して多数の死傷者を出す大事故が発生した。当時の隅田川に掛かる主要な橋は民間運営に任されていたが、この事故を契機に、幕府が関与することになった。しかし、それにかかる莫大な費用問題となった。

 そこで「江戸十組問屋頭取代表)の杉本茂十郎は、新大橋永代橋大川吾妻)橋の三橋管理運営する「三橋会所」の設立提案した。この時、十組問屋は株仲間の承認を願い出ており、その見返りに冥加金1万両を上納を予定していた。この冥加金を幕府から貸し下げてもらい、それを三橋会所の元金とし、その運用から橋の架け替え費用などを捻出するという提案だった。

f:id:naniuji:20180323162729j:image:w180:left

 

 十組問屋への新規加入者は、そのつど冥加金を幕府に納めて株鑑札を受ける仕組みで、幕府は潤い、三橋費用も任せられる。「十組問屋」は、業種ごとに十組の江戸の荷受問屋結集した組合で、株仲間として承認されると、上方から輸送される船荷を独占的に取り扱うことができる。

f:id:naniuji:20180323162855j:image:w200:right

 さらに茂十郎は、幕府伊勢町米立会所を願い出て許可される。各地大名年貢として取り立てた米は、大坂堂島米会所でなされるのが基本であったが、大消費地江戸でも、かなりの米が集まり、立会取引必要とした。幕府は当時の米価の低下で財政に窮しており、その価格維持機能必要としていた。かくして杉本茂十郎は、十組問屋三橋会所、米会所の頭取として、江戸経済界の大実力者となった。

f:id:naniuji:20180323162940j:image:w200:left

 

 杉村茂十郎は甲州農民の出で、日本橋飛脚問屋大阪屋茂兵衛の養子となる。家業を継いで流通問屋業に精通した茂十郎は、十組問屋の抱えた紛争をうまく調停し、十組問屋取締り世話役となる。幕府も茂十郎の手腕を重宝し、十組頭取として苗字帯刀許可し町年寄の次に列する待遇を与えた。

 江戸経済界の重鎮に上り詰めた茂十郎だが、米の買い占めでの価格維持に失敗すると、それ以外の不祥事も明らかにされた。三橋会所への幕府貸し下げ金の私的流用や、会所での寄合い(会合)の名目で、料理茶屋で酒食三昧にふけった浪費などが表面化し、文政2(1919)年6月幕府三橋会所・米会所を廃止し、杉本茂十郎を罷免する。やがて天保の改革では、十組問屋解散を命じられ消滅した。

 

 

(この時期の出来事

*1816.9.7/ 戯作者浮世絵師山東京伝(56)、没

*1816.9.-/対馬 対馬藩の宗義質が、朝鮮通交の功労で米1万表を与えられる。

*1916.12.4/江戸 1913年遭難漂流した、尾張国名古屋の督乗丸船頭の重吉らが、江戸へ帰還する。

*1917.8.29/ 老中首座の松平信明(55)、没。寛政の遺老を率いて、松平定信失脚後の改革政策を維持していた。

*1918.4.16/ 幕府が、真文二分判金を発行する。以後、文政期の貨幣悪鋳が始まり、物価が騰貴する。

1919.***/信濃 小林一茶随筆発句集「おらが春」がまとめられる。

*1920.6.28/ 幕府が、草文丁銀・小玉(豆板)を新鋳する。