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なにさま日記

2018-06-09 【19th Century Chronicle 1868年】

【19th Century Chronicle 1868年

 

鳥羽・伏見の戦い

*1868.1.3/京都 京都南部の鳥羽・伏見で、薩摩長州藩兵と旧幕府軍が戦い、一連の「戊辰戦争」が開始される。「鳥羽・伏見の戦い

*1868.1.6/大阪 大坂に陣取っていた幕府軍総大将徳川慶喜将軍が、急遽大阪を出帆して江戸に帰る。

 

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 慶応3(1867)年12月9日の「王政復古の大号令」により、前将軍慶喜に対し辞官納地を命じた。慶喜は恭順の意思を示すために京都の二条城を出て、13日に大坂城へ退去した。ただし、慶喜の領地返上の意志は明確に示されず、新政府議定の松平春嶽らは、徳川家の意向を確認して決定するとして、慶喜が上洛することが合意された。

 江戸市中では、薩摩藩浪人たちの挑発行為エスカレート江戸城二ノ丸炎上事件まで起こすと、旧幕府側は報復に江戸薩摩藩邸焼討をして、薩摩と旧幕側との実質戦闘状態に拡大した。大坂の幕軍側にこの知らせが届くと、薩摩討つべしの声が高まり、慶応4(1868)年元日、慶喜は「討薩表」を発し、朝廷に訴えるために京都へ向けて出発した。

 

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 旧幕府軍主力の幕府歩兵隊・桑名藩兵・見廻組等は鳥羽街道を進み、会津藩桑名藩の藩兵・新選組などは伏見市街へ進んだ。1月3日鳥羽街道を防御していた薩摩藩兵と旧幕府軍先鋒部隊が接触した。旧幕府側が強引に突き切ろうとしたため、薩摩藩兵が発砲し、偶発的な戦闘状態になった。奇襲を受けた旧幕府軍の先鋒は潰走し、後続の部隊が反撃するも、薩摩藩兵の攻勢の前に下鳥羽方面に退却した。

 一方、伏見でも通行を巡って問答が繰り返されていたが、鳥羽方面での銃声が聞こえると戦端が開かれた。旧幕府軍は旧伏見奉行所を本陣にし、対する薩摩長州藩兵は御香宮神社を中心に伏見街道を封鎖した。奉行所内の会津藩兵や土方歳三率いる新選組が斬り込み攻撃を掛けるも、薩摩藩砲兵等の銃砲撃により阻止され、新政府軍が伏見奉行所突入すると、旧幕府軍中書島から淀方面にまで撤退した。

 

 この時点で、京都周辺の兵力は新政府軍の5,000名に対して旧幕府軍は15,000名を擁していたが、鳥羽では大目付滝川具挙がいち早く退却逃亡、伏見では陸軍奉行竹中重固が部隊を放置したまま淀まで逃げるなど、指揮系統が壊滅し混乱に陥った。唯一統率が取れて士気が高かったのは、新撰組や見廻り組といった刀剣に長けた精鋭部隊だったが、彼らが突撃を試みるも、新政府軍の訓練された砲撃部隊の前には為すすべもなかった。

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 1月3日朝廷緊急会議では、この偶発的な戦闘に対して議論が分かれたが、最終的には、議定の岩倉具視裁定により徳川征討と決した。時を同じくして、岩倉が密かに作成させていた「錦の御旗」が、新政府軍の本営東寺に立てられた。御旗が戦闘の場にも登場すると、朝敵とされるのを恐れた旧幕府軍雪崩をうって退却したという。近江方面からの東方旧幕府軍の侵攻も不発に終わり、退却して防御をはった淀や、男山麓の橋本などでも、「官軍」となった新政府軍に打ち破られた。

 

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 1月6日、開戦に消極的だった慶喜は、大坂城旧幕府軍徹底抗戦を説いた。しかしその夜、僅かな側近と共に大急ぎで、幕府軍艦開陽丸で大坂湾から江戸へと退却した。開陽丸艦長の榎本武揚は、別艦船薩摩艦船阿波沖海戦を戦い大坂に帰着したとき、慶喜に置き去りにされたのに気づくほどだった。

 退却したとはいえ、旧幕府軍新政府軍の数倍の戦力を温存しており、体制を建て直し反撃する力を持っていたが、大軍を指揮する人材はなく、総大将敵前逃亡により旧幕府軍は継戦意欲を喪失した。慶喜は、旧幕府軍の戦況の不利を予見し、錦の御旗が翻ったのを聞くと、朝敵となるのを恐れて恭順を示そうとしたともされるが、多くの旧幕府軍を置き去りにして逃亡したことは、軍の総大将としてはあるまじきことであった。

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 1月7日朝廷から慶喜追討令が出され、旧幕府は朝敵となった。9日、新政府軍長州軍が大坂城を接収し、京坂一帯は新政府軍支配下となり、1月中旬までに西日本諸藩および尾張桑名藩新政府に恭順する。25日、列強は局外中立を宣言し、旧幕府国際的にも日本の代表政府としての地位を失った。そして、2月には「東征軍」が進軍を開始する。

 以後、旧幕府の残党が抵抗する一連の戊辰戦争が展開され、江戸市街での上野戦争や、北陸地方東北地方での北越戦争会津戦争箱館戦争として続いてゆく。

 

 

江戸無血開城

*1868.2.3/京都 新政府が、徳川慶喜征討の詔勅を発布する。

*1868.2.12/東京 徳川慶喜が、江戸城を出て上野寛永寺謹慎する。

*1868.3.14/東京 新政府軍大総督参謀西郷隆盛と、旧幕府陸軍総裁勝海舟が会見し、「江戸無血開城」が決定される。

*1868.4.11/東京 江戸城が開城し、徳川慶喜水戸へ移動する。

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 慶応4(1868)年1月11日鳥羽・伏見の戦いから逃れて江戸に帰着した徳川慶喜は、さしあたっての江戸警備の策を施すとともに、親幕府派の松平春嶽山内容堂らに周旋を依頼する書翰を送った。しかし、新政府による徳川征討軍の襲来が想定されるなか、徳川家の取る選択肢は、徹底恭順か、抗戦して形勢を逆転するかの2つだった。

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 畿内からは掃討されたものの、江戸をはじめとする東国には、旧幕府側の勢力がそのまま温存されていた。勘定奉行陸軍奉行小栗忠順や、軍艦頭の榎本武揚らは主戦論を主張、一方、幕臣の勝海舟らは徹底恭順を唱えて意見が分かれる。しかし慶喜は恭順の意志を固めており、小栗が進言する徹底抗戦策を容れずに罷免、徳川家人事を恭順派中心に編成しなおす。

 

 陸軍総裁には勝海舟が就任し、軍事の最高指揮官として恭順策を実行に移していくことになった。徳川家の公式方針は恭順と確定し、慶喜は江戸城を退出し、上野寛永寺謹慎に入る。しかし、それに不満をもつ旧幕臣らは、独自の動きを見せ、江戸で抗戦するかまえを示した。

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 新政府は、慶応4(1868)年2月3日徳川慶喜征討の詔勅が発布されると、熾仁親王が東征大総督に任命し、大総督府には江戸城徳川家の処遇などほぼ全権が与えられた。大総督府参謀には公家のほか西郷隆盛らが任用された。2月15日、熾仁親王以下東征軍は京都を進発して東下を開始し、3月5日に駿府に到着。江戸城進撃の日付が3月15日と決定された。

 

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 駿府にまで迫っている東征軍に対し、寛永寺謹慎中の徳川慶喜は、身辺警護をしていた山岡鉄太郎(鉄舟)を、恭順の真意を示すために大総督府派遣する。西郷と面識がなかった山岡は、まず陸軍総裁勝海舟を訪問し、紹介の労を願い出る。勝と山岡も初対面であったが、その人物を評価すると、書状をしたためるとともに元薩摩藩士を護衛に付けて送り出した。


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 山岡鉄舟は駿府の大総督府急行し、参謀西郷隆盛と面談を求めた。西郷は、旧知の勝からの使者として、山岡との交渉に応じ、徳川家へ開戦回避に向けた7箇条の条件を提示した。山岡にとっては想像された厳しい条件ではあったが、唯一のむことができないのは、慶喜を外様の備前藩預けにすることだった。主君への大義という正論をぶっつける山岡に、西郷も自身の預かり事項となして折れた。

 

 山岡はこの結果を江戸で勝に報告、西郷も江戸薩摩藩邸に入った。3月13日・14日の2日にかけて江戸薩摩藩邸において、徳川家側の責任者大久保一翁および勝海舟と、大総督府参謀西郷隆盛の会談が行われ、当然、山岡鉄舟も同席した。すでに江戸へ入る各方面の包囲網は完成しつつあり、緊迫した状況下における会談となった。

 2回に渡る交渉の結果、翌日に迫った江戸城進撃を中止し、自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検討することを約した。ここに、江戸城無血明け渡しが決定された。この同じ日、京都では明治天皇天神地祇の前で誓う形式で「五箇条の御誓文」が発布され、明治国家基本方針が示された。

 

 

新政府の方針告知

*1868.3.14/京都 天皇が「五箇条の御誓文」を誓う。

*1868.3.15/京都 新政府は、徒党・強訴・逃散・キリスト教などを禁じた「五榜の掲示」を立て、対庶民には旧幕時代の政策を継承する意図を示す。

*1868.3.28/京都 新政府神仏分離令を出し、以後、「廃仏毀釈」の運動が荒れ狂う。

*1868.閏4.27/京都 新政府が「政体書」を出し、政治組織などを具体的に定める。

 

 

戊辰戦争、その後の展開

*1868.2.23/東京 旧幕臣が彰義隊を組織し、上野を占拠する。

*1868.3.3/長野 赤報隊の相良総三らが、偽官軍として捕らえられ、下諏訪で斬罪とされる。

*1868.5.3/東北北陸 奥羽25藩の同盟についで、長岡会津など8藩も加盟、「奥羽越列藩同盟」が成立する。

*1868.5.15/東京 上野彰義隊が、政府軍の攻撃で敗走する。「上野戦争

*1868.8.23/福島 会津若松城新政府軍に包囲され、9月22日会津藩は開城降伏する。「会津戦争

 

<「上野戦争」まで>

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 鳥羽・伏見の戦いに決着がつき、幕府追討の詔勅が発せられると、西日本の多くの諸藩は命に服し、大きな混乱は起きなかった。

新政府は、有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍をつくり、東海道軍・東山道軍・北陸道軍の3軍に別れ江戸へ向けて進軍する。

 進軍する東征軍と旧幕府残党の最初の戦闘は、東山道軍(中山道)の進軍先の、甲州甲府武州熊谷で発生した。近藤勇の率いる旧新撰組甲陽鎮撫隊を組織して戦ったが、甲府盆地板垣退助ら率いる東山道鎮撫先鋒部隊(土佐藩主力)に敗れ、近藤は捕縛され処刑される(甲州勝沼の戦い)。また、東山道軍の本隊は、武州熊谷梁田宿(現足利市)で旧幕府歩兵隊の脱走部隊(後の衝鋒隊)に奇襲攻撃をしかけ、幕府軍の敗北に終わった(梁田戦争)。

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 東海道軍は、御三家筆頭の尾張藩が、いちはやく勤皇に転換したこともあって、小田原以西の全ての藩が恭順を誓い、大きな衝突もなく駿府にまで東進した。そして江戸城開城が決まるとこれに不満な抗戦派の幕臣らは、江戸の治安組織の「彰義隊」のもとに結集し上野にたて籠った(上野戦争)が、慶応4(1868)年5月1日、西郷に代わって司令官に任じられた長州藩士大村益次郎村田蔵六)によって、一日で壊滅させられる。

 

奥羽越列藩同盟

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 京都守護職だった会津藩松平容保京都所司代桑名藩松平定敬は、ともに京都の治安を担当し、京都見廻組及び新撰組を用い尊王攘夷派の弾圧を行った。また鳥羽・伏見の戦いでは、両藩は旧幕府軍の主力として新政府軍と戦ったため、新政府の反感は強く、戦いの敗北とともに朝敵と認定されていた。また江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩は、新政府によって会津藩と同様の処置がなされることを予期し、両藩は以後連携し新政府に対抗することとなった。(会庄同盟)。

 慶応4(1868)年3月22日新政府への敵対姿勢を続ける会津藩及び庄内藩を討伐する目的で、奥羽鎮撫総督及び新政府軍仙台に到着した。そして3月29日仙台藩米沢藩をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩及び庄内藩への追討が命令された。しかし、追討軍を庄内藩が反撃し天童城を攻め落としたり、関東でも旧幕府軍宇都宮城を占拠するなど、新政府への対抗気運が漂い出した。

 

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 閏4月4日仙台藩主導で奥羽14藩は会議を開き、会津藩庄内藩への赦免の嘆願書を提出するが、新政府はこれを却下した。当初は、新政府の会庄追討に従っていた奥羽14藩は征討軍を解散し、新政府軍と戦闘状態に入った。赦免の嘆願書新政府によって拒絶されたため、天皇へ直接建白を行う方針に変更され、奥羽列藩盟約書を調印し、会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書が作成された(5月3日)。

 さらに、北越6藩が加わり、計31藩によって「奥羽越列藩同盟」が成立した。当初は嘆願を求める盟約であったものが、途中から軍事同盟に転嫁されたため、必ずしも加盟諸藩の統一された戦略があったわけではない。なお、会津・庄内両藩は列藩同盟には加盟せず会庄同盟として列藩同盟に協力することになった。

 

新政府軍奥羽越列藩同盟との戦いは、仙台藩が盟主的存在であったが、戦闘は奥州・北越の各地で並行的に行われたので、関ケ原の戦いのように双方が全軍で対峙するような場面はなかった。輪王寺宮公現法親王をかついで仙台奥州政府を樹立する動きもあったとされるが、それは形にならなかった。ただ、京都新政府江戸幕府のいずれでもない第三の勢力として、東北諸藩の利害共同体的な性格の同盟であったと思われる。

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 庄内戦争秋田戦争白河戦線北越戦争・平潟戦線など、各地で激戦が行われたが、新政府軍に敗れた同盟軍や旧幕軍の敗残兵が、未陥落の地に集まるなどして、次々と戦闘地は移っていった。そして最も激戦となったのが、松平容保会津での戦いであった。奥羽越列藩が次々と陥落し奥羽越同盟が崩壊する中、最後まで若松城に籠城して戦った会津藩も、ついに明治1(1868)年9月22日、落城し、その2日後に庄内藩も降伏した。

 

 

函館五稜郭の戦い

*1868.8.19/東京 旧幕府海軍副総裁榎本武揚が、艦船8隻を率いて、品川より奥州に向けて脱走出帆する。

*1868.10.25/北海道 榎本武揚が、函館五稜郭を占領する。

*1868.12.25/北海道 榎本武揚蝦夷地全域を占領し、旧幕府軍の総裁に選出される。 

 

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 慶応4(1868)年4月、江戸城無血開城の条件に、新政府への旧幕府軍艦の引渡しが含まれていたが、海軍副総裁の榎本武揚は、軍艦の引渡しに応じず開陽など主力艦の温存に成功した。8月19日奥羽越列藩同盟からの支援要請に応じて、榎本率いる8隻の旧幕府艦隊は、品川沖を脱走し仙台に向った。この榎本艦隊には、旧幕閣や彰義隊旧幕府軍事顧問団のフランス軍人など、総勢2,000余名が乗船していた。

 榎本艦隊は、悪天候で2隻を失いながらも、9月中頃までに仙台東名浜沖に集結した。しかしその頃には奥羽越列藩同盟は崩壊しており、最後まで戦った会津藩庄内藩も降伏し、東北戦争は終結してしまった。榎本艦隊は、仙台藩に貸与していた運送船を加え、桑名藩松平定敬、備中松山藩主板倉勝静、歩兵奉行大鳥圭介、旧新選組副長土方歳三らと、旧幕臣など東北戦の残党などを収容し、東北沿岸を北上した。

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 新政府が決定した徳川家への処置は、駿河遠江70万石への減封というもので、約8万人の旧幕臣を養うことは不可能であり、榎本武揚は、蝦夷地に旧幕臣を移住させ北方の防備と開拓にあたらせようと画策していた。榎本は、新政府軍に追われながら、新政府軍平潟口総督宛てに旧幕臣の救済のため蝦夷地を開拓するという内容の嘆願書を提出する。

 蝦夷地に到達した榎本艦隊は、10月21日箱館を迂回して、北方の内浦湾鷲ノ木に約3000名が上陸した。箱館には、旧箱館奉行に代わり新政府箱館府が置かれていたが、東北戦争に兵員を割かれ手薄となっていた。旧幕府軍は、大鳥圭介率いる部隊と土方歳三率いる部隊の二手に分かれて箱館へ向けて進軍する。明治1(1868)年10月22日夜、無用な戦闘を避けるべく新政府への嘆願書をたずさえた先行隊が宿営中、箱館府軍の奇襲を受け、戦端が開かれた。

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 明治1(1868)年10月24日、大鳥軍と土方軍は箱館府軍を撃破し、新政府軍箱館府知事は「五稜郭」の放棄を決め青森へ退却、旧幕府軍10月25日五稜郭へ無血入城し、榎本は艦隊箱館へ入港させ、旧幕府軍箱館を占領することに成功した。さらに、松前藩松前城や館城も攻略して、蝦夷地の平定を達成する。ただし、江差方面攻略の支援に来ていた主艦船開陽などが、悪天候のため座礁沈没し、支援新政府軍の上陸阻止が出来なくなるという痛手を負った。

 12月15日蝦夷地を平定した旧幕府軍は、箱館政権を樹立。総裁は入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚が総裁となった。榎本は、蝦夷地開拓を求める嘆願書新政府に送るが、右大臣岩倉具視に却下され、来たる新政府軍の攻勢に備えることになった。

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 旧幕府軍による箱館占拠の通報が東京に届くと、11月19日旧幕府軍追討令が出されたが、冬季作戦は無理として、箱館征討は翌年の雪解けを待って開始するとし、新政府軍青森周辺に冬営した。一方、海軍は、アメリカ局外中立撤廃を受けて、品川に係留されていた最新鋭の装甲軍艦甲鉄をアメリカから購入し、甲鉄を旗艦とした新政府軍艦隊は、翌明治2(1869)年3月9日品川沖を青森に向けて出帆した。

 新政府軍艦隊東北宮古湾に入るとの情報を受けると、旧幕府軍は甲鉄を奪取する作戦を実行するも、暴風雨等で難航し、貴重な3艦船を失い敗退する。宮古湾海戦に勝利した新政府艦隊は、青森に到着すると、4月初には渡海準備が完了した。そして、青森を出発した新政府軍は、明治2(1869)年4月9日早朝、江差北方の乙部に上陸した。

 

 江差を奪還した新政府軍は、4月半ばには陸軍参謀黒田清隆率いる2,800名など増援軍が到着、松前口・木古内口・二股口・安野呂口の四方面から箱館へ向けて進軍を開始する。物量で圧倒する新政府軍に対して、旧幕府軍は各方面とも後退を余儀なくされ、唯一土方歳三の指揮する二股口の戦いでは、激闘の末、新政府軍を退却させるが、背後から挟撃される危険が生じたため、土方軍も五稜郭への撤退を余儀なくされた。

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 明治2(1869)年5月11日新政府軍箱館総攻撃が開始され、海陸両面から箱館に迫まった。箱館海戦では、箱館湾に侵入した新政府軍艦に、榎本軍は残された軍船により抵抗するも、砲弾を打ち尽くすなどして、意図的に座礁させて浮き砲台とするしかなかった。同日、五稜郭北方の急造堡塁の四稜郭方面の戦闘でも、敗退し五稜郭に退却する。

 

 一方、同日未明、陸軍参謀黒田清隆率いる新政府軍箱館山の裏側に上陸し、函館湾拠点の弁天台場の背後を襲った。結果的に、弁天台場の旧幕府部隊は、五稜郭本隊と分断され孤立する。新政府部隊は箱館市街をほぼ制圧し一本木関門付近にまで進出、旧幕府部隊は五稜郭まで退いた。このとき、土方歳三は孤立した弁天台場の救出に向かうが、一本木関門付近で指揮中に狙撃され戦死した。

 翌5月12日、唯一残された五稜郭本隊に対して新政府軍が降伏勧告をするも、榎本総裁は一反拒否する。この時、榎本が所有していた貴重な『海律全書』を、新政府軍参謀黒田清隆に託し、黒田は返礼として酒樽・鮪を五稜郭に送り届ける。榎本はこの厚意を拝受し、幕府軍首脳側が合議の上、降伏・五稜郭開城を決定した。

 

 5月18日五稜郭は開城し、榎本ら幹部とともに郭内将兵も投降、ここに箱館戦争は終結した。降伏した旧幕府軍の将兵は弘前藩ほかに預けられたが、ほとんどが翌年に釈放。榎本武揚はじめ幹部7名は、東京で投獄された(明治5年釈放)。

 新政府軍黒田清隆旧幕府軍榎本武揚が、五稜郭開城にあたって意を通じ合ったことが、この緩和な処置に寄与したと想像される。その後、榎本は、新政府重鎮となった黒田に助命されたうえ明治政府に出仕し、北海道開拓使として北海道の開拓に尽力するなど、新政府の官吏として有能な仕事を為した。

 

 

◎「明治」改元・東京遷都

*1868.8.27/京都 京都御所において、明治天皇即位の礼が行われる。

*1868.9.8/京都 「明治」と改元され、一世一元の制が定められる。

*1868.9.20/京都 明治天皇が、東幸のため京都を出発する。

*1868.7.17/東京 江戸を「東京」と定める。

 

2018-06-06 【19th Century Chronicle 1867年】

【19th Century Chronicle 1867年

 

大政奉還王政復古1867年

*1867.1.9/京都 睦仁親王明治天皇)が、京都即位する。

*1867.4.-/土佐 土佐藩亀山社中を「海援隊」と改称し、藩の傘下に置く。

*1867.5.21/京都 土佐藩板垣退助(乾退助)・中岡慎太郎らが、薩摩藩家老小松帯刀薩摩藩西郷隆盛らと、討幕挙兵密約する。 

*1867.5.4/京都 薩摩藩の主導で、島津久光薩摩藩)・松平慶永(春嶽)(越前藩)・伊達宗城(和島藩)・山内豊信(容堂)(土佐藩)の「四侯会議」が、京都越前藩邸で始まり、将軍徳川慶喜を含めて順次会談が行われる。

*1867.6.22/京都 土佐藩後藤象二郎中岡慎太郎坂本龍馬薩摩藩西郷隆盛大久保利通らが、大政奉還の盟約を結ぶ。

*1867.6.-/ 長崎から上京の船中で、坂本龍馬が8ヶ条の国家構想「船中八策」を、同乗の後藤象二郎に示す。

*1867.7.29/土佐 中岡慎太郎が、陸援隊組織する。

*1867.9.18/ 薩摩藩長州藩が、討幕挙兵の盟約を結ぶ。

*1867.10.13/京都 長州藩薩摩藩に、「討幕の密勅」が下る。 

*1867.10.14/京都 将軍徳川慶喜が、「大政奉還」を上奏し、翌日勅許される。

*1867.11.15/京都 中岡慎太郎(30)・坂本龍馬(33)が幕府見廻組に襲撃され、龍馬即死慎太郎は2日後に絶命する。

 

大政奉還・討幕密勅

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 第二次長征の最中将軍家茂が死去し、半年近く空位の後、やっと徳川一橋慶喜将軍職に就いた。一方、そのすぐ後に、頑強な攘夷主義者長州嫌いの孝明天皇が急死し、慶応3(1867)年1月9日京都で睦仁親王明治天皇)が、元服前の14歳即位する。このあたりから京都朝廷をめぐって、政局は一挙に流動的となる。

 すでに薩長同盟を締結した薩摩藩は、長州藩名誉回復に尽力するとともに、幕府主導の政局牽制するため、列侯会議路線を進め、朝廷を中心とした公武合体政治体制へ変革したいと考えていた。そこで薩摩藩在京首脳の小松清廉西郷隆盛大久保利通らは雄藩諸侯らを上京させて、長州問題兵庫開港問題などの国事を議する「四侯会議」を画策する。

 

 四侯会議の議題は、長州問題兵庫開港問題のどちらを優先するかを巡って展開されたが、実質は慶喜と久光の主導権争いであった。慶喜は、優柔不断摂政二条斉敬に強引に迫り、兵庫開港および長州寛典論を奏請し、明治天皇勅許を得ることが決定した。結果的には慶喜主導が功を奏して、一連の京都政局では慶喜側が勝利し、四侯会議は散会する。

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 将軍慶喜は、京都における一会桑権力慶喜政権)をもとに幕府主導の公武合一を狙い、薩摩藩島津久光は、諸侯による列侯会議路線をめざし「四侯会議」を主導した。一方で、長州藩尊王急進派が藩政を牛耳って討幕に突き進んでおり、薩摩藩西郷大久保も、四侯会議の不首尾を見て、討幕に傾いていった。もはや列侯会議幕府(および慶喜)を牽制するのは不可能であるとして、久光をも説得して武力倒幕路線をとり、秘かに岩倉具視討幕派公家と結び、倒幕の密勅降命に向け工作を進めた。

 

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 一方、四侯会議の途中から薩摩距離を置き始めた土佐藩山内容堂は、この後徳川家擁護姿勢へ傾斜を深めていく。同年6月坂本龍馬から大政奉還を含む「船中八策」を聞いた土佐藩参政後藤象二郎は、容堂にこれを進言する。容堂は、これを徳川家存続の妙策として、慶喜大政奉還を建白した。その結果、薩摩側の倒幕の密勅工作の機先を制し、慶応3(1867)年10月14日大政奉還が実行されることとなる。

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 土佐藩の建白を受け、慶応3(1867)年10月13日徳川慶喜は、上洛中の幕府側重臣を京都二条城招集大政奉還諮問、翌10月14日、「大政奉還上表」を朝廷に提出する。摂政二条斉敬朝廷側は当惑したが、薩摩藩小松清廉土佐藩後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌15日の朝議で大政奉還勅許が決定し、大政奉還が成立した。

 大政奉還討幕派の機先を制し、討幕の名目を奪うことに成功したが、慶喜将軍職辞任には触れず、武家棟梁としての地位は維持した。慶喜は、朝廷政権運営する能力がなく、徳川家天皇の下の新政府に参画することで、実質的政権の中枢を握り続けられるとした。

 

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 討幕派工作も同時進行しており、奇しくも大政奉還上表の同日、岩倉具視から薩摩藩長州藩に討幕の密勅がひそかに渡された。この密勅には天皇による裁可の記入がないなど、討幕派による偽勅の疑いが濃いものであった。この時期、親幕府である摂政二条斉敬徳川慶喜の従兄)が朝廷を仕切り、三条実美ら急進派公家は京から追放されたままであり、岩倉具視ら一部の討幕派公家によって企まれたものとされる。

 機先を制した慶喜大政奉還により、密勅を受けた討幕の実行はいったん延期となり、その目標を失った。すでに討幕の盟約を結んでいた薩摩長州芸州の3藩は、出兵計画を練り直し、土佐藩ら公議政体派をも巻き込んで12月9日王政復古へと向かっていくことになった。

 

王政復古の大号令

*1867.12.9/京都 朝廷から王政復古の大号令」が出され、小御所会議では徳川慶喜の辞官・納地を決め、徳川家勢力一掃を図る。

 

 慶応3(1867)年5月の四侯会議では、雄藩諸侯による公議政体を目論んだが、幕府主導体制意図する将軍徳川慶喜が、かき回すことで崩壊させた。この失敗で、小松清廉帯刀)・西郷隆盛大久保利通・ら薩摩藩首脳は、従来の公議政体路線から武力倒幕へ方針を転換した。しか薩摩国許には島津久光をはじめ、武力討幕に反対する勢力も強く、これらを転換させるために、岩倉具視を通じて討幕の密勅の降下を求めた。

 これらの動きを察知した将軍慶喜は、機先を制し、土佐藩山内容堂の建白を受け入れる形で、慶応3(1867)年10月14日、「大政奉還」を上奏し(翌15日に勅許)、幕府徳川将軍家)に委託された形の政権を、朝廷返上する旨を表明した。慶喜幕府体制の行き詰りを承知し、天皇の下に一元化される新体制のもとで、自らが主導的役割を果たそうと考えた。事実朝廷には政権運営する能力体制も皆無であった。

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 大政奉還上表の同日、薩摩長州藩に「討幕の密勅」が下されていた。しかしこの時点の朝廷は、摂政二条斉敬をはじめ親幕ないし公武合体派が大半を占め、急進討幕派岩倉具視ら少数であった。したがって、この密勅岩倉らが仕組んだものである疑いが濃い。しか大政奉還によって、討幕の名分も無くなり、密勅の効力も失われてしまった。

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 朝廷諸侯会議召集して合議により新体制を定めることとし、徳川慶勝尾張藩)・松平春嶽(慶永、越前藩)・島津久光薩摩藩)・山内容堂(豊信、土佐藩)・伊達宗城宇和島藩)・浅野茂勲(芸州藩)・鍋島直正肥前藩)・池田茂政慶喜実弟備前藩)ら諸藩に上洛を命じた。しかし、招集された諸大名は形勢傍観の構えで、土佐山内容堂などは12月になってようやく入京するありさまだった。

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 朝廷内で大勢を占める親徳川派の摂政二条斉敬などが主宰する会議では、諸侯会議慶喜の思わくに沿ったものになりかねないと危惧した岩倉具視ら急進討幕派は、薩摩藩らと結んで宮中クーデター計画した。慶応3(1867)年12月9日、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた薩摩土佐安芸尾張越前5藩の兵が御所の九門を封鎖した。御所への立ち入りを厳しく制限二条摂政など親幕府的な朝廷首脳も参内を禁止し、首謀した岩倉具視らが参内して「王政復古の大号令」を発した。

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 「王政復古の大号令」は、徳川慶喜将軍職辞職受諾、京都守護職京都所司代廃止幕府廃止摂政関白廃止、新たに総裁議定参与三職をおく、というものであった。新体制樹立を決定されると、新たに置かれる三職の人事が定められた。

 この宣言の狙いは、徳川慶喜と一会桑体制を支えてきた会津藩桑名藩京都から追うことで、慶喜新体制への参入を排すること、および、旧来の摂政関白以下の朝廷機構や、五摂家を頂点とした公家社会の門流支配解体することであり、天皇親政・公議政治名分の下、一部の公家と5藩に長州藩を加えた有力者が主導する新政府樹立するものであった。

 

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 翌12月9日御所内の小御所にて「小御所会議」が開かれた。明治天皇臨席のもと、最初三職会議であったが、会議徳川慶喜の扱いを巡って、山内容堂ら公議政体派と、岩倉具視など旧弊排除したい新政体派との間で紛糾した。容堂らは、慶喜議長とする諸侯会議政体を主張し、慶喜の出席を許されていないことを批判した。

 両者とも譲らず休息に入ったが、その間に、西郷らがいざとなれば武断も辞さない姿勢を見せたとされ、会議再開後は容堂も沈黙し、再開後は岩倉らのペースで会議は進み、徳川慶喜の辞官納地が決定された。しかし翌日から土佐藩ら公議政体派が巻き返しを図り、徳川慶喜大阪城外国公使会談内政不干渉外交権幕府の保持を承認させるなど、朝廷に対して王政復古の大号令撤回公然要求するまでになった。

 

 これに焦った薩摩藩では、江戸で騒乱を起こす作戦に出た。12月23日には江戸城西ノ丸が焼失し、薩摩に通じた奥女中放火と噂された。その他いくつもの薩摩藩が関与したとされる騒擾が起こると、幕府江戸薩摩藩邸を襲撃させる(江戸薩摩藩邸の焼討事件)反撃に出て、江戸において幕府側と薩摩藩事実上交戦状態に入ったとみなされた。

 一連の事件大坂の旧幕府勢力を激高させ、会津藩らの諸藩兵慶喜は制止することができなかった。止むを得ず慶喜は、朝廷薩摩藩罪状を訴える上表(討薩の上表)を提出、奸臣たる薩摩藩の掃討を掲げて、配下幕府歩兵隊・会津藩桑名藩を主力とした軍勢京都へ向け行軍させた。

 両軍勢鳥羽伏見対峙するが、必ずしも戦闘の指令は出ていなかった。しかし、慶応4(1868)年1月3日幕府側は薩摩兵の挑発に乗って、偶発的な状況で「鳥羽・伏見の戦い」が始まる。以後、一連の「戊辰戦争」が各地で展開されることになる。

 

 

(この時期の出来事

*1867.1.11/武蔵 遣欧特使徳川昭武らが、パリ万国博参加のため横浜を出港する。

*1867.2.27/パリ フランスパリ万国博覧会が開催され、日本浮世絵などを出品し、茶店では芸者接待させる。

*1867.5.24/京都 将軍慶喜が、兵庫開港勅許を受ける。

*1867.7.-/三河 民衆狂喜乱舞する「ええじゃないか」が始まり、やがて全国に広まる。

2018-06-03 【19th Century Chronicle 1866年】

【19th Century Chronicle 1866年

 

薩長同盟幕府権威失墜(1866年

*1866.1.21/京都 薩摩藩邸(小松帯刀邸)において、坂本龍馬らの斡旋で、木戸孝允西郷隆盛が「薩長同盟」を密約する。

*1866.4.14/大坂 薩摩藩大久保利通が、長州征伐における薩摩藩出兵拒否する旨の書を、幕府老中に提出する。

*1866.6.7/周防 幕府軍艦が、長州藩領の周防大島砲撃し、「第二次長州征伐」が開始される。

*1866.7.20/大坂 将軍家茂(21)が、長州征伐の指揮のため滞在した大阪城中で病死する。

*1866.8.1/豊前 長州勢が、小倉城占領する。

*1866.8.20/ 家茂の喪を発し、一橋慶喜徳川宗家相続を発表、慶喜朝廷に働きかけ休戦の勅を求める。

*1866.8.21/長門周防 征長の休戦勅命が下る。

*1866.12.5/ 徳川慶喜が、第15代征夷大将軍就任する。

*1866.12.25/京都 孝明天皇(36)が急死する。

 

薩長同盟

 禁門の変以来の仇敵関係だった長州藩薩摩藩は、慶応1(1865)年6月坂本龍馬中岡慎太郎などの仲介で、長州藩必要としている(幕府から禁止されている)武器の購入を、薩摩藩の名義で購入するという話が実現し、和解第一歩となった。そして慶応2(1866)年1月には、京都薩摩藩邸において、薩摩藩家老小松清廉帯刀)・藩士西郷隆盛長州藩代表木戸孝允の直接会談が実現する。

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 しかし両藩代表は、背景に藩民の強い自負心や敵愾心を背負っており、むやみに酒宴を重ねるばかりで、いずれからも本題を切り出せないまま数日が過ぎる。そこで、立ち会っていた坂本龍馬が、薩摩藩から近い小松帯刀邸に場所を移す提案をしたという。そしてやっと、慶応2(1866)年1月21日、6ヶ条の薩長同盟密約が成立する。

 

 同盟の内容は、直接の討幕にはまったく触れられていない。幕府による長州藩処分問題に関して、薩摩藩長州藩支援するという内容であり、直接対抗する相手は、当時京都政局制圧していたいわゆる「一会桑政権」、すなわち一橋慶喜松平容保会津藩)・松平定敬桑名藩)の3者であった。一橋慶喜禁裏御守衛総督という立場であったが、固有の軍事力殆ど保有しておらず、軍事的には会津桑名両藩が担当していた。

 

(第二次長州征伐

 第一長州征伐で恭順の意を示した長州藩だが、最終処分案はなかなかまとまらず、強硬姿勢を取る幕閣は、長州藩主父子の江戸拘引を命じ、一方で、朝廷から国是を評議するための上洛要請無視を続けたが、らちがあかないため、幕府将軍の西上を布告し、慶応1(1865)年閏5月22日将軍家茂は上洛し参内した。以後、家茂は大阪城滞在し、死去するまで江戸に戻ることはなかった。

 

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 長州では、高杉晋作尊王急進派が実権を握り、農民なども含む諸隊を編成し、近代的な武装を整備し、討幕も辞さない藩論が形成されつつあった。そんな長州を、幕府は大きな脅威と感じ、第二次長州征伐企図したが、なかなか実現しなかった。長州側が交渉の引き延ばしを図るなか、英米仏蘭4国艦隊兵庫に集結する兵庫開港問題などもあり、やっと慶応1(1865)年9月将軍家茂が参内し、長州征討の勅許を得ると、同年11月には、幕府は諸藩に向けて長州出兵を命じた。

 京都禁裏御守衛総督一橋慶喜や、京都守護職会津藩松平容保は、朝廷幕府・諸藩の美妙なパワーバランスの上に成り立っているとの現状認識の下、保守派大名や幕閣の影響力が大きい江戸城勢力から将軍徳川家茂を引き離して、継続して将軍畿内長期滞在態勢で公武一和を推進しようとしていた。

 

 慶応2(1866)年1月幕府長州処分の最終案を奏上し、勅許が下された。しか長州側は支藩藩主交渉に当たらせ、言を左右させて従う気配を見せず、その間にも、着々と長州は挙藩一致体制を構築していった。幕府5月29日の期限をきり、長州が従わない場合攻撃をするとした。結局、慶応(1866)2年6月7日幕府艦隊周防大島への砲撃で戦端が開かれた。

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 長州側のわずが3000人に対して、幕府軍は総勢15万の大軍を擁し、石州芸州大島小倉の四方面から攻め込む作戦をとったため、この戦いは「四境戦争」とも呼ばれる。しかし、幕府軍は諸藩の寄せ集め部隊で編成され、しか幕府側に長州征討の大義曖昧士気が上がらなかった。その上、最強の薩摩軍が、薩長同盟密約に従って、参加を拒否していた。他方、長州勢は、志願の農民なども交えた士気の高い諸隊などが、近代銃火器を装備し西洋戦術で訓練された屈強な部隊が迎えうった。

 

 周防大島あくまでも緒戦であり、両軍が主力を投入した芸州口の戦いでは、5万の幕府軍に対し長州勢1000名で防御戦を戦い、長州側が圧勝した。各方面ともに、長州勢の奮闘が目立ち、幕府側として動員された諸藩兵には厭戦気分が蔓延していった。そんな戦況不利の最中7月20日大坂城に陣取っていた家茂が死去する。徳川宗家を継いだ徳川慶喜は、小倉陥落の報を受けると、朝廷に働きかけ、休戦の勅命を得る。

 

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 家茂の後継として、次期将軍推挙された徳川慶喜徳川宗家は継いだ)は、これを固辞して将軍就任を拒み続け、12月5日朝廷から将軍宣下を受けようやく将軍就任した。この辺りの慶喜意図は不可解だが、この頃の慶喜開国の不可避を認識しており、将軍職受諾は、幕府主体にした開国体制への移行と本格的な近代化視野に入れたものであった。

 慶喜政権とでも呼ぶべき徳川慶喜将軍方針は、会津藩桑名藩軍事力のもと、朝廷との密接な連携を通じて幕政を維持しようというものであり、慶喜将軍在職中一度も畿内を離れず、この後の幕末維新にかけて、政争江戸ではなく京都大坂を中心に展開された。

 

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 その直後に、孝明天皇急逝する。幕府・一会桑・薩摩藩長州藩等の諸藩・公家・志士達の権力を巡る抗争の中で、朝廷権威をもとに、独自政治力を発揮した天皇であったが、その極端な外国嫌い長州嫌いの思いは、時代流れに棹さす方向になりつつあった。端的にいえば、どの勢力からも「じゃま者」となってきたわけで、それ故に、その急死には暗殺説もささやかれる。

 徳川慶喜将軍就任すると時を同じくして、弱冠14歳明治天皇皇位に即く。かくして、幕府慶喜政権薩長討幕勢力朝廷をめぐって、激しい争奪を繰り返し、幕末の急展開に突入してゆく。

 

 

(この時期の出来事

*1866.5.28/江戸 米価暴騰に怒った江戸の窮民たちが暴動を起こし、米屋などを打ち毀す。

*1866.5.-/江戸 石川島造船所で、初めて日本人設計した蒸気軍艦千代田型が建造される。

*1866.6.-/武蔵 秩父多摩幕府領で、農民1万人が米価暴騰などで一揆を起こす。(武州一揆

*1866.10.20/武蔵 横浜火事が起き、町屋および外人居留地の多くが焼失する。(豚屋火事

*1866.10.26/武蔵 幕府洋学教育機関開成所学生14名が、イギリス留学横浜を発つ。

2018-06-01 【19th Century Chronicle 1865年】

【19th Century Chronicle 1865年

 

◎第二次長州征伐薩長連合1865年

*1865.1.2/長門 高杉晋作ら急進派が挙兵し、下関を占拠する。

*1865.1.15/ 幕府が、長州藩毛利敬親父子の服罪により、長州征伐の中止を布告する。

*1865.3.15/長門 長州藩奇兵隊など民兵諸隊を再編成し、軍制改革を行う。

*1865.3.17/長門 長州藩毛利敬親保守派を退け、討幕を藩論とする。

*1865.6.24/京都 薩摩藩西郷隆盛土佐藩浪士坂本龍馬中岡慎太郎が会見し、長州藩要請武器購入を約束する。(薩長同盟への第一歩)

*1865.7.21/長門 長州藩井上馨伊藤博文が、薩摩藩斡旋により、イギリス商人ラバーから鉄砲を購入する。

*1865.9.16/摂津 英米仏蘭4国が軍艦兵庫沖に集結し、兵庫ほかの開港をせまる。

*1865.9.21/ 将軍家茂が参内し、長州征伐を奏上し、勅許を得る。

*1865.10.-/京都 西郷隆盛が、長州征伐阻止のため、兵を率いて上洛する。

*1865.11.7/ 幕府が、長州出兵を命じる。

 

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 長州藩では、元治内乱で実権を奪取した高杉晋作ら急進尊皇派は、奇兵隊など民兵諸隊を再編成し、軍制改革を行うなど、藩の軍事力を高めた。下関戦争などの敗戦から、もはや攘夷は無理だ見極めた長州藩では、桂小五郎木戸孝允)らが藩政を主導し、藩主毛利敬親をも促して、尊王討幕を藩論とするようになった。

 

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 禁門の変長州藩兵を打ち払った薩摩藩は、第一長州征伐西郷隆盛が征長軍参謀に任命されると、恭順を示す長州に対して強硬処置を望む江戸の幕閣に対して、より緩和な処置に動いた。公武合体が藩論の薩摩藩であったが、西郷大久保らは、薩英戦争経験から攘夷不可能認識、また幕府無能ぶりに討幕もしかたないと考えつつあった。

 

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 この間、土佐藩浪士中岡慎太郎坂本龍馬が、薩長調停に乗り出した。西郷隆盛薩長の協力と和親の必要を説き、下関桂小五郎木戸孝允)と会う場を設定したが、これは西郷の都合でかなわなかった。しかし、慶応1(1865)年6月24日西郷京都坂本龍馬と会い、長州が欲している武器艦船の購入を薩摩名義で行うことを約束した。そしてさらに翌慶応2(1866)年1月京都小松帯刀邸にて、坂本龍馬立ち合いの下、西郷隆盛木戸孝允会談し、両者の間で薩長同盟が成立する。

 

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 一方、慶応1(1865)年9月英米仏蘭4国の軍艦兵庫沖に集結し、安政五カ国条約勅許兵庫開港をせまるという事態が起こっていた。禁裏御守衛総督として在京独自の動きを目指す一橋慶喜は、何一つ対応できない江戸幕府に代わって、勅許を得るのに奔走した。京都に近い兵庫開港は、孝明天皇が頑強に反対したためかなわなかったが、五カ国条約勅許を得るのに成功し、慶喜の信望は高まり畿内に長期滞留して、京都江戸から距離を置いた独自権力基盤を持ちつつあった。

 

 条約勅許騒動が一段落すると、幕府は第二次長州征伐に取り掛かる。11月7日幕府は三十一藩に長州征伐出兵の令を発した。その間にも幕府側と長州側の代表広島会談をするが、長州側はのらりくらりと返答を遅らし、結局幕長の談判は決裂する。翌慶応2(1866)年1月22日幕府長州処分の最終案を奏上し、勅許が下された。

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 しかしながら、幕府意向に反して諸藩の足並みは揃わず、密かに薩長同盟を結んでいた薩摩藩出兵拒否を申し出ている。やっとのことで、慶応2(1866)年6月7日幕府側の周防大島への砲撃が始まり順次、各方面でも戦端が開かれる。一致団結して防衛に当たる数千の長州勢に対して、幕府からは15万もの大軍が集められたが、寄せ集めの諸藩軍には戦意乏しく、各方面長州勢に打ち負かされる。

 その最中7月20日将軍家茂が大坂城薨去する。一橋慶喜朝廷から休戦の詔勅を引き出し、一部の反対を押し切って休戦協定を締結した。かくして第二次長州征伐は無残な失敗に終わり、幕府権威は完全に失墜した。

 

 

(この時期の出来事

*1865.3.22/肥前 薩摩藩五代友厚寺島宗徳・森有礼ら19人が、イギリス留学のために長崎を出発する。

*1865.5.-/肥前 土佐藩浪士坂本龍馬亀山社中(のちの海援隊)を長崎で結成する。

*1865.閏5.11/土佐 土佐藩が、尊攘派武市瑞山らを処刑する。

*1865.8.24/武蔵 幕府直営横浜製鉄所が完成する。(初の近代工場

*1865.9.27/相模 横須賀製鉄所の起工式が行われる。

*1865.10.1/京都 将軍家茂が、4国との条約締結と兵庫開港を願い出る。2日には、将軍職の辞表を提出する。

*1865.10.5/京都 孝明天皇は、条約勅許し、兵庫開港は不許可の決定を下す。

2018-05-27 【19th Century Chronicle 1863-64年】

【19th Century Chronicle 1863-64年】

 

幕末政変(1863/文久3)

*1863.3.4/京都 将軍家茂が上洛し、二条城に入る。

*1863.4.20/京都 上洛中の将軍家茂は、朝廷約束した攘夷の実行期日を5月10日と伝える。

*1863.5.10/長門 長州藩は、約束期日を待ち受けて攘夷を実行、馬関海峡関門海峡)を通過するアメリカ商船を砲撃、さらにフランス船やオランダ船も砲撃した。藩の制止にもかかわらず、久坂玄瑞ら急進攘夷派が強行したが、その後アメリカフランス艦隊から報復攻撃を受ける。「下関事件

*1863.7.2/薩摩 薩摩藩イギリス艦隊7隻と戦う。「薩英戦争

*1863.8.18/京都 薩摩会津両藩が宮中の尊攘派排撃を企て、宮中クーデター尊攘派公家を京都から排除する。「八月八日の政変

*1863.8.19/京都 宮中政変で追放された三条実美ら7公卿が長州に下る。「七卿落ち

*1863.12.30/京都 公武合体を推進するため、朝廷幕臣と有力大名を朝議参与に任じて「参与会議」を実現させようとする。将軍後見職一橋慶喜・福井藩主松平慶永(春獄)・土佐藩主山内豊重(容堂)・宇和島藩主伊達宗城に加えて薩摩藩国父島津久光が参与となる。

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 攘夷履行の確認として将軍家茂が上洛し、朝廷攘夷の実行期日を5月10日と伝えた。将軍後見職一橋慶喜は、期日が来てもこちらからは仕掛けないように通達していたが、急進攘夷派が支配する長州では、当日を待ち受けたように下関外国船に無差別砲撃を加える。しかし、アメリカフランス艦隊報復攻撃で、長州藩は敗北を蒙る。「下関事件

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 一方同年7月、薩摩では、生麦事件補償をめぐって艦隊の力で迫るイギリス軍と、攘夷実行の名目のもとに実力でこれを阻止しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突する。戦闘で鹿児島城下は大きな被害を受けたが、英艦船も大きな損傷を受け、相互に実力を確認することになり、一転して両者が接近する契機となった。「薩英戦争

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 京都では各地から尊攘派志士が集結し、天誅と称してテロを繰り返した。朝廷内においても三条実美姉小路公知ら急進攘夷派が実権を握った。また、尊皇攘夷の急進派が集う場となっていた京都学習院でも、そこにに出仕していた尊攘派真木和泉(久留米藩士)や久坂玄瑞長州藩士)らが朝廷に影響力を持つようになっていた。このような情勢のもと、孝明天皇攘夷祈願のための賀茂・石清水への行幸などが相次ぎ、ついには5月10日攘夷決行の日とすることを将軍徳川家茂約束させるに至った。

 

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 5月10日長州藩下関海峡攘夷を実行に移すが、他藩はこれに傍観を決め込み、攘夷実行を約束した将軍家茂も江戸に帰ってしまった。この長州藩の窮状を打開し、国論を攘夷に向けて一致させるため、朝廷の尊攘急進派は、天皇大和国の神武天皇陵・春日大社に詣で、親征の軍議を主宰するという行幸を企図した。

 当の孝明天皇は熱心な攘夷主義者ではあったが、急進派の横暴には不興であり、攘夷の実施は幕府や諸藩が行うものと考えていた。大和行幸の詔は8月13日が発せられるが、これと前後して会津藩薩摩藩公武合体派は、朝廷における尊攘派を一掃する計画を画策し、8月15日松平容保京都守護職会津藩主)の了解のもと、中川宮が参内して天皇から密命を得た。

 

 文久3(1963)年8月18日早朝、会津藩兵に加えて薩摩藩兵らが御所九門を封鎖、三条ら尊攘急進派公家に禁足を命じ、国事参政の職を解いた。諸侯の参内をまって開かれた朝議で、大和行幸の延期・尊攘派公家長州藩毛利敬親らの処罰等を決議した。長州藩御所警備の任を解かれ京都を追われた。翌19日、長州藩兵千余人とともに、失脚した三条実美らの7公卿は長州へと下った。「八月八日の政変七卿落ち」。

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 政変によって急進的な尊皇攘夷運動は退潮した。10月には島津久光が大兵を率いて入京、松平慶永・山内豊信ら公武合体大名もこれに続き、翌文久4(1964)年1月にかけて島津久光松平慶永・山内豊信・松平容保一橋慶喜伊達宗城による参預会議が成立した。朝廷内においては鷹司輔煕関白罷免され、親幕的な二条斉敬がこれに代わった。

 しかし、将軍家茂が再上洛し開かれた参与会議は、元治1(1864)年3月、幕府を代表する将軍後見職一橋慶喜の意向と諸大名の思惑が対立し、もろくも瓦解する。一方で、政変に敗れた長州藩などの尊攘派は、京都で失地回復を狙って暗躍し、京都における政情は混迷を極める。そして、同年6月の池田屋事件きっかけに、長州の急進派は京都へ攻め上がり、禁門の変(7月)で会津薩摩らと戦火を交えることとなる。

 

 

幕末政変(1864/元治1年)

*1864.1.15/京都 将軍家茂が再度上洛する。

*1864.3.9/京都 参与会議一橋慶喜横浜鎖港と攘夷を主張し、他の参与大名と対立し、参与会議は崩壊する。

*1863.3.13/京都 将軍上洛の警護の命を受けて京に入っていた浪士組だが、率いる清河八郎の方針急変更により、幕府江戸に呼び戻す。分裂し残留した芹沢鴨近藤勇らは、京都守護職支配下に入り「新撰組」を結成、京都の治安維持にあたることになった。

*1864.6.5/京都 新撰組が、京都三条池田屋尊攘派を襲う。「池田屋騒動」

*1864.7.19/京都 久坂玄瑞らが率いる長州藩兵が、京都御所の蛤御門をはじめ諸門に迫り、幕府軍と交戦する。「禁門(蛤御門)の変」

*1864.7.24/ 幕府は、長州追討の勅命を受けて、西国21藩に出兵を命じる。「第一次長州征伐」

*1864.8.5/長門 英米仏蘭4国連合艦隊17隻が、下関攻撃を開始する。「四国艦隊下関砲撃事件

*1864.11.11/長門 長州藩幕府に恭順の意を示し、禁門の変責任者として3家老切腹を命じる。

*1864.12.16/長門 高杉晋作遊撃隊を率いて下関を襲撃し、藩保守派から攘夷派が主導権を奪回する。

 

 前年の「八月十八日の政変」で長州藩攘夷派公卿が失脚したあと、朝廷では公武合体派が主流となっていた。幕府諸侯による参与会議破綻すると、一橋慶喜将軍後見職を辞し、禁裏御守衛総督という朝廷と密接な立場の職に就く。配下に京都守護職松平容保京都所司代松平定敬らを従え、慶喜は京都にあって、水戸藩執行部や鳥取藩主池田慶徳、岡山藩主池田茂政(いずれも慶喜の兄弟)らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。

 

池田屋騒動>

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 一方、京の市中では、尊攘派が巻き返しを図り、長州藩をはじめとする各藩脱藩志士などが暗躍して、不穏な空気が流れていた。そんな折、京都守護職配下について市中警備を担った新撰組近藤勇らは、長州藩ほかの尊王派が、御所を襲撃するなどの陰謀を察知した。

 元治1(1864)年6月5日河原町木屋町を虱潰しに探索していた近藤らは、木屋町三条池田屋で謀議中の志士集団を発見凄惨な斬り合いの末、9名討ち取り4名捕縛の戦果を上げた。翌朝の市中掃討でも20余名が捕縛され、京都の尊攘派宮部鼎蔵ほかの志士を失い大打撃を受けた。この「池田屋騒動」で、新撰組は一躍勇名を馳せた。

 

<禁門(蛤御門)の変>

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 一方長州藩では、参与会議崩壊を見て、事態打開のため京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴えようとする進発論が強まっていた。そして6月5日池田屋事件の一報がもたらされると、藩論は一気に進発論に傾いた。慎重派の周布政之助高杉晋作久坂玄瑞らは藩論の沈静化に努めるが、進発派三家老らが「藩主冤罪を帝に訴える」という名分をかかげ、挙兵を決意する。

 元治1(1864)年6月4日長州にて進発令が発せられると、久坂玄瑞来島又兵衛真木和泉らと諸隊を率いて東上、長州勢は山崎天王山・嵯峨天竜寺伏見長州屋敷に分かれて陣容を構えた。6月24日、玄瑞は長州藩の罪の回復を願う嘆願書朝廷に奏上するが拒絶され、長州兵に退去命令が出される。7月17日、男山八幡宮の本営で長州勢により最後の大会議が開かれ、久坂は退去命令に従うべきと主張したが、来島、真木らの強硬論に押されやむなく挙兵する。

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 元治1(1864)年7月19日御所の西辺の蛤御門付近で、長州藩兵と御所警護の会津・桑名藩兵とが衝突、来島隊は中立売門を突破して京都御所内に侵入するも、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると敗退し、来島又兵衛は敗死。真木・久坂隊は開戦に遅れ、到着時点で来島の戦死および戦線の壊滅の報を知るが、それでも御所南方堺町御門を攻めた。しかし御門を破れず、止むを得ず久坂玄瑞らは、朝廷への嘆願を要請するため鷹司邸に侵入するも、願いはかなえられず自害して果てた。

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 帰趨が決した後、長州藩邸付近や堺町御門付近から出火した大火は、「どんどん焼け」と呼ばれ、京都市街を焼き尽くした。生き残った長州勢はめいめいに落ち延び、大阪播磨方面に撤退した。主戦派であった真木和泉天王山に立て籠もったが、会津藩新撰組に攻め立てられ、自爆して果てた。

 

<第一次長州征伐>

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 御所に向かって発砲した長州藩は朝敵とされ、朝廷幕府へ対して長州追討の勅命を発した。元治1(1864)年7月24日、それを受けて幕府は、西国21藩に出兵を命じて、「第一次長州征伐」が開始される。征長総督に尾張藩藩主徳川慶勝が任命され、最終的に西国諸藩など35藩、総勢15万人の征長軍が動員された。

 10月22日大坂城にて征長軍は軍議を開き、11月11日までに各自は攻め口に着陣し、1週間後の18日に攻撃を開始すると決定した。征長軍で重要な戦力を占める薩摩藩からは、西郷隆盛参謀格で長州側との交渉役を担当することになった。元治1(1864)年11月11日長州藩は、禁門の変を主導した三家老切腹と四参謀斬首によって恭順の意を示し、長州落ちしていた尊攘派の五卿は九州の諸藩の預かりで決着を見た。

 福岡藩の預かりとなった五卿の一人、三条実美は、勅命であれば受け入れるとしたが、正規藩士ではない諸隊及び脱藩浪士らからは騒擾が起きる可能性があると語った。諸隊とは奇兵隊遊撃隊八幡隊、御楯隊、南園隊など藩の正規兵と異なる軍隊であり、藩論に関わらず独自の指揮系統を持つ部隊であった。

 

長州藩・元治の内乱>

 長州藩内では禁門の変の前から、正義派改革派)と俗論党(保守派)の主導権争いが展開されていた。正義派が主導した禁門の変に敗北すると、第一次征長に面して、俗論党の椋梨藤太らが幕府への完全恭順を訴え、正義派周布政之助を失脚させ、三家老切腹させて幕府への恭順を示した。奇兵隊はじめ諸隊には解散令が出され、政敵であった周布を自害へと追い込み、正義派を大量に処刑していった。

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 萩藩庁は椋梨らの俗論党恭順派が支配したが、正義派に近かった諸隊は、長州征討軍の九州小倉総督府と萩藩庁の間の防衛として、長府下関)に陣取っており、武備恭順を主張していた。福岡に退避していた高杉晋作は、急遽下関へ帰還し、即時挙兵を説いたが諸隊は決起しなかった。元治1(1864)年12月16日長府に集まった高杉と力士隊(総督伊藤博文)、遊撃隊(総督河瀬真孝[石川小五郎])らは功山寺で挙兵する。「元治の内乱」

 

 藩内クーデターの勃発に、萩政庁は諸隊を敵として協力を禁じる布告を出したため、12月18日、静観していた山縣有朋率いる奇兵隊など諸隊も決起する。萩からの討伐軍に対し、山縣の奇兵隊などは秋吉台周辺で激しい戦闘を繰り返す。諸隊は山口へ入り、萩からは討伐軍に対して撤退命令が出されて、元治2(1865)年1月28日までの休戦協定が結ばれた。

 ところが、その後に俗論党(選鋒隊)による暗殺事件などにより、俗論党への排斥運動が高まり、2月14日、諸隊は萩に入り、俗論派の首魁椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握る。圧倒的に不利とされた高杉晋作らの正義派は、あらためて藩政の主導権を握った。

 

 

(この時期の出来事

*1863.5.12/武蔵 伊藤博文井上馨長州藩士5人が、イギリス留学のために横浜から密出国する。

*1863.5.20/京都 尊攘派の公卿姉小路公知暗殺される。

*1863.6.7/長門 長州藩は、高杉晋作に「奇兵隊」を創設させる。

*1863.8.17/大和 中山忠光天誅組が、大和五条代官所を襲う。(天誅組の乱) 

*1863.9.21/土佐 土佐藩では、武市瑞山ら尊皇派を投獄して「土佐勤皇党」を崩壊させる。

*1864.3.22/江戸 フランス日本駐在公使として、レオンロッシュが着任、幕府側の支援にまわりイギリスと対立する。

*1864.3.27/常陸 水戸藩武田耕雲斎らが、攘夷を唱えて筑波山で挙兵する。(天狗党の乱)

*1864.5.21/摂津 幕府勝海舟頭取として、神戸海軍操練所を設置する。

*1864.7.11/京都 佐久間象山攘夷派に暗殺される。

*1864.11.10/相模 幕府が、フランス公使ロッシュに横須賀製鉄所やドック建設の援助を求める。

*1864.12.16/越前 水戸天狗党加賀藩投降し、以後、水戸藩攘夷論は発言力を失う。