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なにさま日記

2018-08-12 【18th Century Chronicle 1751-55年】

【18th Century Chronicle 1751-55年】

 

主君押込(おしこめ)

*1751.11.11/江戸 三河岡崎藩主水野忠辰が重臣らにより座敷牢に押し込められる。

 

 主君押込は、鎌倉時代から武家社会に見られた慣行だが、特に江戸時代幕藩体制において、行跡が悪いとされる藩主を、家老らの合議による決定により、強制的監禁押込)することが行われた。

日本におけるクーデター類型である歴史家笠谷和比古によってその成立と構造が明らかにされた。単に押込とも呼ばれる。





(この時期の出来事

*1751.6.20/ 前将軍徳川吉宗(68)没。

*1751.12.11/大坂 並木宗輔の代表作「一谷嫰軍記」が豊竹座で初演され、熊谷直実悲劇が評判になる。

*1752.2.15/長崎 勘定奉行松浦信正が長崎奉行兼職を解かれる。

*1752.夏/大坂 大坂の諸社祭礼で即興芸「にわか」が流行上方喜劇ルーツとされる。

*1752.11.24/京都 朝廷は、幕府への情報漏洩により参議水谷季家を処罰非公式ルートでの情報伝達に関して、朝廷幕府間に緊張が高まる

*1753.1.25/陸奥 会津藩は36万両もの借財の整理に、江戸商人海保半兵衛に返済対策を依頼する。

*1753.3.-/江戸 「京鹿子娘道成寺」が初演され、中村富十郎が華麗に舞う。

*1754.閏2.7/京都 山脇東洋らが、初めて刑死体の解剖を指導する。この所見記は、5年後「蔵志」として刊行された。

*1754.11.12/ 幕府は貞享暦を廃し、宝暦甲戌暦を採用する。これにより、吉宗の強い遺志が実現された。

*1755.2.-/出羽 安藤昌益の稿本「自然真営道」大序が完成する。

*1755.5.22/美濃 薩摩藩に命じられた木曽川治水の難工事が、多大な犠牲を出して完成する。

*1755.12.-/京都 京都西本願寺は、異端信仰として秘事法門信者処罰する。

2018-08-09 【18th Century Chronicle 1746-50年】

【18th Century Chronicle 1746-50年】

 

加賀騒動

*1746.7.2/加賀 加賀藩財政改革に手腕を発揮した大槻伝蔵が、保守派の反撃で失脚し蟄居閉門となる。(加賀騒動

 

 「加賀騒動」は、延享3(1746)年に加賀藩で起こったお家騒動で、「黒田騒動(1632)」や「伊達騒動(1671)」とともに江戸時代の三大お家騒動と呼ばれる。

 

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 講談などで巷間に広まった物語では、足軽出の御居間坊主に過ぎなかった「大槻伝蔵(朝元)」が、藩主前田吉徳の側近として取り立てられて破格の出世を果し、やがて吉徳の側室真如院(お貞)との密通で生まれた子を跡継にしようと、藩主や世子を毒殺してお家乗っ取りを図った大悪人として描かれる。

 しか事実はかなり異なっており、不明な部分の方が多く、異例の出世をした大槻伝蔵を恨んで、門閥派の重臣前田直躬など守旧派が仕掛けた冤罪だとする説もある。

 

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 外様の雄の加賀藩であったが、その100万石の家格を維持するための出費の増大で、元禄期以降、藩の財政破綻に瀕していた。享保8(1723)年、前田吉徳が第六代藩主となると、より強固な藩主独裁を目指した。足軽の三男で御居間坊主にすぎなかった大槻伝蔵を側近として抜擢し、藩の財政改革に着手させた。

 大槻伝蔵は、藩財政悪化を食い止めた功績で吉徳に厚遇され、最後には3800石に加増され家老格にまで上り詰めた。一方で藩内の門閥層や保守派は、伝蔵を成り上り者として、その出世を妬まれ憎まれていた。重臣の代表前田土佐守直躬ら保守派家臣たちは、吉徳の世子前田宗辰を恃みとし、伝蔵を非難する弾劾状を差出すなどした。

 

 延享2(1745)年6月藩主吉徳が病死前田宗辰が第七代藩主となると、前田直躬ら門閥派の反撃が始まる。その翌年、大槻伝蔵は「吉徳に対する看病不充分」という曖昧理由で、宗辰から蟄居を命ぜられ、さらに延享5(1748)年には禄を没収越中五箇山に配流とされた。

 だが事はこれで終わらなかった。宗辰は藩主の座になって1年余りで病死し、次男で異母弟の前田重煕が第八代藩主を継いだ。そんな中で延享5(1748)年、加賀藩江戸藩邸において、藩主重煕と、前藩主宗辰の生母である浄珠院を狙った毒殺未遂事件が起こる。その主犯は吉徳の側室だった真如院(お貞)であり、さらに真如院は伝蔵と不義密通していたとされた。真如院は身柄を拘束され、このことを五箇山で聞いた伝蔵は自害する。

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 真如院は、奥女中浅尾に毒殺を実行させた疑いで拘束され、家来に自らを殺させて事実上自害浅尾殺害された。前田直躬らによる大槻伝蔵一派や真如院の産んだ子女に対する苛酷な追求は、宝暦4(1754)年まで続き、この一連の騒動は「加賀騒動」と呼ばれるようになる。

 しかし実際には、真如院が主犯であったことを裏付け証拠はなく、大槻伝蔵とつるんでお家簒奪を図ったなどという根拠は見られない。浅尾自白なども、当時の拷問が当然であった世界では信憑性担保されているわけではない。黒田騒動伊達騒動では幕府が介入したが、加賀騒動幕府が感知した痕跡はなく、事実だとして文献等で残されているものは、大槻一派を一掃した門閥派側から一方的ものだけであった。

 

 人口膾炙した「加賀騒動」では、大槻伝蔵をお家乗っ取りを狙う大悪人として描き、当時の倫理観に沿った「勧善懲悪」の物語として受け入れられた。さらには、また浅尾に対する刑では、穴蔵に浅尾を裸にして押込め数百匹の毒蛇に襲わせるというグロテスクな話に仕立て上げられるなど、庶民受けする大仰な話として展開された。

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 近年の研究では、大槻伝蔵や真如院が陰謀を企てたという事件性は薄く、守旧派前田直躬らが大槻派を一掃するためにでっち上げものだという説が主流である。近年の村上元三による小説加賀騒動」では、足軽出自の有能な大槻伝蔵が、藩主一生懸命仕えて身を立てたにも拘らず、悲しい運命を迎えてしまった物語として描かれた。また、それをもとに制作された1953年東映映画加賀騒動」では、御家乗っ取り犯として切腹を命じられた伝蔵が、逆臣の汚名を拒み無念の斬り死をするという最後を、大友太郎が演じた。

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村上元三作「加賀騒動」  https://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334772031

東映映画加賀騒動」   http://www2u.biglobe.ne.jp/~kazu60/orm5/orm53.htm

 

 

(この時期の出来事

*1746.8.21/大坂 武田出雲合作による人形浄瑠璃菅原伝授手習鑑」が竹本座で初演され、大ヒット。さらに「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」と時代物大作が続き、菅原ブームとなる。

*1746.9.15/江戸 幕府田安宗武一橋宗伊に10万石を付与、「田安家」・「一橋家」に「清水家」を加え「御三卿」と呼ばれ、秀次由来の「御三家」に代わって、吉宗系譜血筋徳川家主流となる。

*1746.10.25/江戸 幕府は、本田正珍を老中に、大岡忠光を御側御用取次に任命し、将軍家重のもとでの側近政治が復活する。

*1747.1.-/京都 盗賊浜島庄兵衛(日本左衛門)が、京都奉行所自首する。神出鬼没の怪盗として幕府の手を焼かせた。のちに歌舞伎「白浪五人男」の日本駄右衛門のモデルとなる。

*1747.11.16/大坂 武田出雲らによる人形浄瑠璃義経千本桜」が竹本座で初演され、大当たり。

*1748.2.12/越前 福井藩で45ヵ村の農民が、御用金の重課に反対し、打ち毀しを行う。

*1748.6.1/江戸 将軍家重が、江戸城朝鮮通信使と引見する。

*1748.閏10.1/江戸 寺社奉行大岡忠相奏者番兼任となり、4080石を加増され1万石の大名となる。

*1749.1.15/播磨 姫路藩領内加古郡農民が、凶作のため減免延納を求め大庄屋宅を打ち毀す。

*1749.12.24/陸奥 会津藩で、種米貸し付けの返済をめぐり農民郡代罷免要求若松城を包囲する。

*1749.-.-/江戸 歌舞伎仮名手本忠臣蔵」が江戸三座で競演、人気を博する。

*1750.1.20/ 幕府は、農民年貢減免などを要求して強訴・徒党・逃散することを厳禁する。

*1750.7.19/甲斐 山梨八代郡農民2万人が、新たな運上金に反対して名主宅を打ち毀す。(米倉騒動

2018-08-07 メルロ・ポンティ『知覚の現象学』断章

メルロ・ポンティ『知覚の現象学断章

《「語る」という現象において、話し手は語るに先立って考えるのではない。話す間に考えるのですら無い。語るということが考えることなである。》

 

 現象学思考の分かりやすい例である。先に「考えたこと」が有るのではなく「語ること」で、その内容が「存在」する。

 目の前にリンゴ客観的存在するのではなく、「見る」という知覚が発生した瞬間に、リンゴ存在する。これが「志向意識」の作用であり、「間主観性」という先見的能力仕業である

 

 文章を書き慣れていない人は、書く前に考えをまとめようとする。しかしそれは、夢の世界を描こうとするようなもので、いくら考えても形を結ばない。「書くこと」により「考え」が成立するのであり、「描く」ことで「夢の内容」が実在する。その逆の順序と思えるのは、知覚作用における倒錯である

 

 これらのことは現象学だけでなく、ポストモダンとか現代思想と呼ばれる世界では常識であり、「歴史的倒錯」ってやつだ。たとえば、我々は遠近図法で描かれるような「客観的視点」で事物を眺めてると思われているが、これは「遠近透視図法」が発明されてから、そのように「見る」ようになったに過ぎない。

 北斎春画など、絶対に遠近図法で表現できない(笑) 遠近法客観だと思い込んでいた西欧人が、浮世絵驚愕したのは、遠近図法なき描画法だったのだ。

2018-08-06 【18th Century Chronicle 1741-45年】

【18th Century Chronicle 1741-45年】

 

◎「公事方御定書」と「御触書寛保集成」

*1742.4.6/江戸 「公事方御定書」が仮完成し、その編纂に尽力した三奉行らを褒賞する。

*1744.-.-/江戸 法体系整備の一環として、幕府初期から法令集「御触書寛保集成」成る

 

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 「公事方御定書」江戸幕府基本法典であり、将軍吉宗の命により始められ、老中松平乗邑を編集主任として、勘定奉行寺社奉行江戸町奉行の三奉行が係わった。元文2(1737)年より始められ、寛保2(1742)年3月に仮完成するが、それ以降も追加作業が行われ、寺社奉行時代大岡忠相らが関わった。延享2(1745)年、将軍吉宗隠居に伴い、追補編纂は打ち切られた。

 

 公事方御定書は上下2巻からなり、上巻は司法警察関係基本法令81通、下巻は旧来の判例に基づいた刑事法令などが収録されている。それまで、諸大名の統制のためには「武家諸法度」、朝廷公家に向けては「禁中並公家諸法度」が定められいたが、一般庶民に対する裁判刑罰適用は、そのつど告知された御触書や過去判例などの慣習によって、奉行所などで恣意的運用されていた。

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 また法体系整備の一環で、公事方御定書を補完するものとして、老中松平乗邑の指示で、江戸幕府創設以来の御触書をまとめた法令集も編纂され、寛保4(1744)年に編纂されたものが「御触書寛保集成」である。御触書集成には、さらに幕末にいたるまで「宝暦集成」「天明集成」「天保集成」と都合4度にわたって編纂された。

 

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 法典の編纂は地味ではあるが大へんな事業であり、公事方御定書も、元文(1737)2年に取り掛かってから、寛保(1742)2年の仮完成にこぎつけるまで、足かけ6年を要している。吉宗が行った公事方御定書を中心とする法体系の整備は、明治維新後に西洋法典を基準近代民法刑法などが施行されるまで、江戸期の封建体制下ではもっと網羅的なものであった。

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 吉宗若いころから和歌漢詩といった君主の嗜みには興味を示さず、もっぱら実利的で世の中の役に立つ実学に関心を示したという。なかでも、父親和歌山藩主徳川光貞が命じて編纂させた「大明律例諺解」など、難解な明国の「明律」親しんだらしく、明律の体系が、後の公事方御定書の編纂に役立ったという。

 

 

(この時期の出来事

*1742.7.22/京都 京都近郊の村々が、屎尿他国流失の禁止京都町奉行所に訴える。

*1742.8.3/関東 大風雨により、利根川荒川が大洪水関八州に大被害を及ぼし、80万石余に及ぶ田畑が水没する。

*1742.11.-/肥前 幕府は銅の産出減少のため、長崎貿易に半減令を出す。銅の輸出は3分の1に制限。(貿易半減令)

*1743.10.26/ 幕府治安強化のため、覆面の着用を禁止する。

*1743.11.26/山城 宇治世襲代官上林政武が手代失策免職・閉門となる。行政改革の一環として、世襲から幕府任命による官僚型への転換を進める。。

*1744.4.-/東海畿内 勘定奉行神尾春央は、年貢増収のため東海畿内幕府領を巡視する。「百姓は絞れば絞るほど…」と放言する神尾への農民らの怨嗟の声が渦巻いた。

*1745.4.-/畿内 摂津河内和泉播磨などの農民約2万人が、年貢増徴に反対して京都・大坂町奉行朝廷に訴え出る。

*1745.9.1/江戸 徳川吉宗隠居し、徳川家重家督を譲る。11月には家重が9代将軍となるも、吉宗大御所として実権を握り続ける。

*1745.10.9/江戸 首席老中松平乗邑が罷免され、1万石減封のうえ隠居処分となる。吉宗による苛酷な改革年貢増徴策への不満が高まり、その責任を取らされたとされる。

2018-08-04 【18th Century Chronicle 1736-40年】

【18th Century Chronicle 1736-40年】

 

大岡越前守忠相

*1736.8.12/江戸 幕府は、江戸町奉行大岡忠相寺社奉行とする。

 

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 大岡忠相は、8代将軍徳川吉宗享保の改革町奉行として支え、江戸の市中行政に携わり、関東一円行政改革に尽力した。忠相は、旗本大岡忠高の四男として江戸に生まれ、同族大岡忠真の養子となって家督を継ぎ、大岡世家当主となる。

 5代将軍綱吉時代に、書院番を手始めに幕府官僚として順調に出世し、宝永5(1708)年には目付に就任する。やがて、遠国奉行ひとつ山田奉行伊勢奉行)に就任すると、公正な行政を展開し、隣国の紀州藩主であった徳川吉宗にもその評判が伝わったという。

 

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 徳川吉宗が第8第将軍に就き、享保の改革と呼ばれる幕政改革に着手すると、享保2(1717)年、大岡忠相江戸町奉行南町奉行)として取り立てられ、江戸都市行政司法に携わった。

 忠相が取り組んだ政策を具体的に挙げてみると、

1.町火消や火除地の設置など、江戸防火体制確立

2.小石川養生所の設置による救貧対策医療福祉の充実

3.米価の引き上げと諸物価の引き下げ、大坂堂島の米市場の開設など経済統制と物価対策

4.金銀相場への介入と貨幣改鋳などの通貨政策

5.地方御用掛として新田開発と地方巧者の登用をはじめとする関東農政の充実

など、多岐にわたる。

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 元文元(1736)年、忠相は寺社奉行となり、仮完成していた「公事方御定書」の追加改定や御触書の編纂に関わり、公文書収集整理や旧徳川家領の古文書収集整理する。寺社奉行は、町奉行勘定奉行よりも上位職であり、本来大名役職とされていた。そのため旗本身分であった忠相は、江戸城内における処遇などで苦労があったようで、やっと数年後、気付いた吉宗により足高制や加増を受け、1万石の領地を所有する大名となった。町奉行から大名となったのは、江戸時代を通じて忠相のみであった。

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 後世には、講談歌舞伎などの「大岡政談」として、大岡越前守の「大岡裁き」が庶民に親しまれた。大岡裁きには「三方一両損」「縛られ地蔵」「天一坊」「白子屋お熊」など有名なものが多いが、それらの多くは後年の創作とされる。ただし、江戸市政に取り組んだ大岡忠相の公正な姿勢が、庶民の期待に反映されて、多くの名裁きの物語となったのであろうと思われる。

 有能な行政官僚として、徳川吉宗享保の改革の一端を担った大岡忠相は、寛延4(1751)年6月大御所となっていた吉宗が死去すると、吉宗葬儀の諸事を手配しているが、そのころから体調をくずし、同年12月吉宗に殉じるかのように死去、享年75。

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「しばられ地蔵尊」 http://shibararejizo.or.jp/shibararejizo.htm 

 

 

(この時期の出来事

*1736.5.12/ 幕府金銀貨を改鋳し、質を下げて米価上昇を図る。(元文金銀)

*1736.11.1/陸奥 仙台藩が明倫館の前身となる学問所を創設する。

*1737.5.8/江戸 家主・五人組に相談なしの訴訟禁止紛争当事者間で解決を促す。

*1737.6.1/江戸 勘定奉行吟味神尾春央を勘定奉行老中松平乗邑を勝手老中に任じ、綱紀の享保の改革を推進する体制を整える。年貢の税収をはかり、幕府財政再建を目指す。

*1738.4.-/山城 宇治の永谷宗円が、煎茶製法を改良し、江戸煎茶を売り出す。

*1738.10.19/京都 将軍吉宗は、公卿文学奨励和歌勅撰要請する。公家は文の道に専念し、幕政に口をはさむなと言うことか。

*1738.11.19/京都 桜町天皇は、51年間途絶えていた大嘗祭を復活させ、将軍吉宗も後援する。朝廷幕府職務分掌の徹底に寄与

*1739.1.12/江戸 幕府は尾張藩主徳川宗春に蟄居を命じる。

*1739.2.3/上野 京都西陣の高機技術桐生に伝えられ、絹糸の産地桐生でも高級絹織物生産可能となる。

*1739.7.-/京都 石田梅岩は、石門心学を説く「都鄙問答」を刊行する。

*1740.3.19/大坂 大坂町奉行稲垣種信が収賄により罷免・閉門となり、豪商辰巳屋の乗っ取りをはかった贈賄側の木津屋吉兵衛が遠島となる。これは「辰巳騒動」として、のちに芝居などでも取り上げられる。

*1740.9.-/江戸 復古神道を唱導した荷田春満養子荷田在満が著した「大嘗会便蒙」が絶版・回収とされ、在満は閉門に処せられる。

*1740.11.24/京都 桜町天皇が、280年ぶりに新嘗祭を挙行する。