夏目漱石『坊っちゃん』と藤村操の「巌頭之感」

botchan

夏目漱石坊っちゃん』と藤村操の「巌頭之感」
 
 漱石明治39年から、「ホトトギス」に『吾輩は猫である』を連載中で、その好評に意を強くして、『倫敦塔』『坊つちやん』と立て続けに作品を発表する。夏目金之助漱石は東京帝大卒の超エリート英文学者として、ロンドン留学から帰国すると、一高や東大の英語教師の教壇に立った。

 しかし、彼は教師業にはさっぱり向いていない人物だったと思われる。東京帝大では、小泉八雲ラフカディオ・ハーン)の後任に迎えられるも、漱石の硬い講義は不評で、八雲留任運動が起こるなど順調にはいかなかった。また、当時の一高での受け持ちの生徒であった藤村操が、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺するという事件が起こる。こうした中で、漱石はロンドン以来の持病でもあった神経衰弱を再発する。

 妻鏡子とも別居するなど鬱々とした状況で、気晴らしがてらに書き出したのが『猫』だった。その好評で続編を書き、漱石は作家として身を立てることを決意すると、中編の痛快活劇『坊っちゃん』を一週間で書き上げる。「坊っちゃん」は、一種のピカレスク(悪漢小説)に分類されるが、「猫」や「倫敦塔」にはない漱石の表現の幅を広げる作品となった。
 

 漱石が一高や東京帝大で教鞭を執っていたころ、一高生で漱石の担当生徒だった藤村操が、「萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、不可解」などと美文で「巌頭之感」を残して、華厳の滝に投身自殺した。その後には、華厳の滝で200名近くの後追いが発生したという。

 その直前に一高で担当教官だった漱石に、文学への甘い姿勢を叱責され、それが原因とされたりして、漱石も悩むことになる。それが神経衰弱を再発させたとも言われるが、たかが17、8のガキに世界の真理が分かるわけもなく、いま思えば、ただの「自己中お騒がせ君」だったんだろうなとも思われるw

 漱石も作品中では、「打ちゃって置くと巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない(猫)」とか。「余の視るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う(草枕)」と、突き放している。

 いずれにせよ、漱石がその神経衰弱を紛らわすために「猫」や「坊っちゃん」を書いたとすれば、その功や大なりと言えるかも知れぬ。