【本棚の隅にあった古い本から】

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【本棚の隅にあった古い本から】
 

 本棚を久しぶりにいじっていたら、こんな本が出てきた。『近代詩人集』、新潮社刊の世界文学全集の中の一巻で、奥付を見ると、なんと昭和五年五月発行となっている。西欧著名詩人のアンソロジーで、目次を見ると、知らない詩人をも含めて、百名近くのものが集められている。

 当時の代表的な訳詞者をそろえていて、さすがに文語訳は少ないが、旧漢字旧仮名遣いで、戦後教育で育ったものには読みづらい。「ギョエテとは俺のことかとゲーテ言い」という川柳があるが、さすがに「ゲェテ」となっていたので、有名な「野ばら」の詩をスキャンしてOCR(光学式文字読み取りソフト)にかけてみた。次にそのままコピペしてみるが、ほとんど完ぺきに変換していた。10年ほど前にはよくOCRを利用していたが、当時は誤変換だらけで手入力の方が速かったぐらいだった。
 


「あれ野の薔薇」(生田春月訳)
男の子供が薔薇を見た
あれ野の薔薇を、
そ力朝のやうな若さ美しさを
なほよく見ようと駈け寄って
子供は見ました喜んで。
薔薇よ、薔薇よ、紅薔薇よ、
あれ野の薔薇よ。

 三行目の"そ力朝のやうな”は、"その朝のやうな”で、一文字だけ誤変換があったが、これは原本の「の」がかすれて印刷されているせいだった。シューベルトの歌曲として、「わらべは見たり、野なかの薔薇・・・」と耳になじみのある訳詞者は近藤朔風で、これより以前に訳詞されたものである。

 

 私より一歳年上の義兄が、30歳代前半で鉄道事故で亡くなった。その整理で義兄の部屋に行ったときに見つけて、何となく残しておいた数冊の古本の一つだった。義兄は高校を中退してペンキ職人をしていたが、過激派学生として大学を除籍され、住まい近くにあった寮を追い出された京大の貧乏学生などを住まわせていた。

 思想的な関係は不明だが、ジャズ喫茶などを通じて知り合った学生たちらしい。自宅はボロボロの借家で、雨漏り受けの洗面器を幾つも置いて生活していたが、そんな家に入れ替わり、何人もの放校された学生を住まわせていた痕跡があった。前に居た学生がそのまま残していった書物などが残されており、どの学生のものとも知れない書物の中から、たまたま整理に行った私が拾っておいたものである。

 

 たまたまその時に、大学を放校されて、かつてこの家に住まっていた元学生が、供養に来てくれていた。まともな就職口もなく、臨時の作業員などで糊口をしのいでいるようだったが、部屋に何十枚もあったジャズのLPレコードを見つけて、これをかつての仲間たちに頒布して、お供養にしたいと言ってくれた。

 義兄はきわめて気の良い男で、私も気にいっていたが、唯一、酒癖が悪く、酔うとみさかいがなくなった。ある時には、自宅のガラス窓を一枚一枚割っていたところ、警察に通報され、やって来た駐在の胸ぐらをつかんだとかで、公務執行妨害で留置されたことがある。留置場では、自分の便器を手で洗わせられるんやで、とか状況を話してくれたりした。
 

 我々の結婚式にも、慣れないスーツに革靴姿で来てくれた。二次会では馴染みのない参加者らで気詰まりだったのか、革靴を脱いで椅子の上にあぐらをかいていたが、唐突にトイレに行く様子で出て行ったあと、そのまま帰って来なかった。ぽつんと残された革靴を眺めながら飲み続けたが、あとで聞くと、外へ出て帰る店が分からなくなったとか。

 鉄道での人身事故の現場跡は悲惨なものである。本人の姉と妹ら肉親を連れて現場に供養に行ったが、事故跡は関係者に綺麗に整理されて、新らしい砂利がまかれていた。ただ、ふと見た枕木の上に、小春日和の日差しで干からびた小指大の肉片を見つけてしまった。肉親の女性には見せられないと、とっさに足で砂利に紛れさせたのが記憶に残っている。
 

 義兄はクリスマスイブの夜、職人仲間との忘年会のあと、皆と分かれて一人で鉄道の線路内に入ったようであった。酒の上での事故死なのか、自殺なのかは、本人以外には伺い知りようがない。彼が亡くなってから、もうすでに30年以上が経過した。