金曜行動・神戸

 金曜行動,大阪は隔週ということで今日はない.来週はこちらは授業でいけない.ということで今日は気分転換,神戸にいってきた.神戸の関電は浜の国道43号線にある. 夏に一回いったことがある.今日行くと場所は正門前.およそ100人が集まっていた.何となく大阪とは雰囲気が違う.神戸なので誰か知り合いはいないかとさがしたがいない.昔この地で教員をしていた人たちはどういているのだろう.それにしても寒かった.  
 IWJ_HYOGO1の録画がここにある.このような集会が,姫路でも毎週行われている.全国各地で少しずつ土地土地の雰囲気も出しながら,電力会社や政府への抗議行動が続いている.日本の歴史のなかで,これは一体何なのだろう.こうして人が集まるのは何なのだろう,などと考えながら声をあげてきた.
 さてこの間,机に向かっているときは,本を読みそして『量と数』の元原稿に手を入れることばかりしている.『新式算術講義』(高木貞治),『量と数の理論』(田村二郎),『量の世界』(銀林浩),『数の概念』(高木貞治),『現代思想特集:<数>の思考』,『数学と自然科学の哲学』(ヘルマン・ワイル).そして足立恒雄先生の『数とは何か そしてまた何であったか』を注文した.
 発言する以上は,責任がある.自分の日常感覚だけでいうべきではない.数学として書き,言わねばならない.それは青空学園でも一貫してもってきた基本態度である.だから先人の本を読む.そして,いまさら何も新しいことは出来ないが,高校生や数学教育に携わる人の役に立つように再構成する.十年それを続けてきた.
 本を読む中で,積の可換性に関して,数学基礎論の田中先生が次のように言っておられるのを見つけた.「浮遊する数学」(「現代思想」vol.36-14)所収.

 まず取っ掛かりとして、かけ算「2×3」の意味について考えよう。日本では、「2が3個」と解釈するのが普通であるが、欧米では「two times three(3が2回)」である。つまり、日本流のかけ算の定義は、
 a×(n+1)=a×n+a,但しa×0=0
であり、欧米流の定義は、
 (n+1)×a=n×a+a,但し0×a=0
である。結局のところ両者の値は一致するが、そのことは自明では済まされないと思う。実際,自然数を無限順序数に拡張すれば、たちまち差異が生じるのである。

 これはab=baをbについての数学的帰納法で証明する過程の式なのだろう.最後のところの「無限順序数」の意味はどこかで書くので,解説は今しばし猶予を.田中先生の言葉を逆に言えば,積の可換性は何を根拠に導かれるのかを,やはりはっきりさせることが必要だ.そして本を読み続けて,量の定義についてもいろいろ示唆を受けた.最後の本でワイルがこの問題に見解を述べていたことは,田村先生の本に注で書かれているの見るまで思い出せなかった.
 それにしてもワイルの本である.1966年4月27日に買ったことを最後の奥付のところに書き入れている.大学生になってすぐ買った本だ.半世紀近く本棚に黙然と立っていた.それを今回,読みかえしてみる.昔次のところに下線をひいていた.「連辞と存在および相等との奇怪な混同は哲学的思索が偶然的な言語の形式に依存することのもっとも悲しむべき症状の一つである」(同書,53頁).数学の論証も,哲学の論述も,本当はそれぞれの言葉の構造に深く依拠していることを,ヘルマン・ワイルはわかっているのだ.ワイルの言葉に「そうだ,そうだ」と下線を引いたのだ.それを思い出させてくれた.
 なぜ大学1年のとき,ここに下線を引いたのか.それは高校生のときの経験だ.雑誌「現代思想」の特集の表題は「<数>の思考」である.「現代思想」は数学関連の特集として「幾何学の思考」や「ガロアの思考」も出してきた.しかし,「思考」とはどのような意味なのだろう.
 高校時代には結構哲学の入門書を読んだ.波多野精一の『西洋哲学史要』なんかも覚えている.バートランド・ラッセルの『西洋哲学史』が,確か2冊の翻訳本としてみすず書房から堅表紙の本で出ていた.それを図書館で借りて読んだように思うが,いまみすず書房で調べるとラッセルの『西洋哲学史1〜3』は1970年発行となっている.
 これらの日本語の哲学書に「思考」という言葉が出てくる.think の翻訳語なのだろう.このとき高校生の自分には日本語としての「思考」がどのように頭を働かせることなのか分からなかった.「思う」はこうだと分かる.「あなた私のことを思っているの」.「考える」も分かる.「ならもっと考えてよ」.「思う」と「考える」はこのように違うのだ.だが「思−考」と繋ぐと,これはどのように頭を働かせることなのか,分からなかった.哲学か言語学もやりたかったのだが,こんな言葉はつきあいきれないと,数学にした.だから数学者ワイルにうなずいたのだ.
 そこでまたワイルの言葉から考えるのだが,そしてこれは田中先生も同上のなかで言っておられるが,日本語では2/3は「3分の2」で1/3が二つ分.英語では上から下に読む.だから「2:3」である.(1あたり量)×(いくら量)は日本語の読み方,つまり日本語での考え方に合致しているのかも知れない.だから,導入時にはこの方がしっくりわかり実践的なのかも知れない.そして比としての分数は西洋語に親和性があるのかも知れない.戦後,数教協が「数え主義を批判する」とやったのは,少なくとも教育の場では日本語の構造になじむ定義をしようという面があったのではないか.いくつかの本をあわせるとそういうことも言えそうである.これは今回の勉強で気づいたこと.
 ところで,あらためて省みて,「思考」がどのように頭を働かすことなのかわかるだろうか.私は「どのように」と考えるとわからなくなる.やはり日本語としては曖昧な言葉だ.「頭を動かす」という以上の意味はないのではないか.本来日本語には「どのように頭を動かす」かで「思う」と「考える」を区別してきた.「思考」は「どのように」を切り捨てている.「思考」のような翻訳語から来た,日本語の構造と無関係な言葉を,無批判に使うから,高校生の論述力は低下し続ける.その一方で,「東大話法」のような,流れに浮かぶうたかたの言葉が語られ,それが原子力村の言葉を作ってきた.
 「思考」の再定義も試みた.しかしその方向でいくべきなのかもふくめて,まだ自分で納得できていない.自分で自分の若い頃の問題意識にケリをつける.それが私の脱原発だ,結局そういうことだと思う.今各地で行われている運動が,現代日本語の見直しにまで進めば,運動は地についたものになるだろう.等々考えながら戻ってきた.ここには深い大きな問題が横たわっている.