暑い晩夏に

 むのたけじさんがなくなられた.前の都知事選のときのむのさんの発言は感銘した.そのことを「むのたけじさん」に書いた.そこでも書いたが,1970年前後から東京では彼に共鳴する人らで『月刊たいまつ』という雑誌も出ていた.私は1973〜4年の頃,その大阪での読者会に顔を出していた.それで,1974年1月号の「月刊たいまつ」の『特集・私の統一戦線論』に,教師をはじめたばかりの頃の私の一文「自らを耕しつづけるなかから」が載っている.この一文をHTML化した.働きはじめたばかりの頃の青臭い一文であるが,懐かしい.
 晩夏という時節ではあるが,暑い.ドイツから戻ってから忙しかった.21日は地元自治会の防災訓練と夕涼み会.阪神大震災を経験したものとして,地域の防災は大切である.我が街のように昔からの人と新しい人とが混在しているところでは,日頃から顔見知りになることが大切で,この行事も計画した.市の防災啓発課と消防署の地元分署から十人ほども来て,消火器の使いかたや担架の作り方の訓練と,いくつかの話をしてくれた.そして,市から提供をうけた非常食のアルファ化米に湯を入れる.
 その後,このアルファ化米の試食をかねて,夕涼み会をした.こちらが買ってきたソーセージなどもゆがき,それぞれが持ちこんだビールなどで,懇親のひとときを過ごした.老人ホームの慰問なんかをやっている人が紙芝居も聞かせてくれた.今の時代に,このような地域の結びつきは少しは意味があるかも知れないと考えている.
 そして24日は,町内にただ一つあるお地蔵様の地蔵盆である.去年も「夏の終わりに」に書いたが,半世紀前に皆で作った立派な祠のお地蔵様である.ここでの地蔵盆は今年かぎり.というのはこの土地はそのとき貸してくれた人の土地.そこで世代も変わり売却され戸建ていくつかになる.別のところにお移りいただく.親子づれがたくさんやってきて,線香を上げ鐘を鳴らし手をあわせて,それからお菓子をもらってゆく.今年は去年よりも多くの人がやってきた.世話をしているものは皆70代80代,いちばん元気で花を換えている男の人は92歳とか.60代最後の私が一番若い.この先,お地蔵様の世話をどのように引きついでゆくのか.
 私は京都の宇治の育ちなので,お地蔵様はあちこちにあった.実家の前の道の右手30mに一つ.左手40mに小道を挟んで二つあるという具合で,地蔵盆も23日,24日とあった.小学生の頃,地蔵盆になるともう夏休みも終わり,という季節感があった.このような地蔵盆はこれからも伝えてゆきたい.
 地元の夏祭りを終えてドイツに行き,ドイツの彼らの地元をいろいろ案内してもらい,またライン川を船でローレライの向こうまで行き,そのドイツ土産のソーセージをいろいろもって日本に帰って,地元のみんなに食べてもらって,そして地蔵盆.土地と人間についていろいろ考えさせられる三週間であった.そして今日は,原稿の仕上げとその送信,申し込みのあったDISC制作などに時間を費やした.ということで,私の夏も終わりかけている.数学仕事の方が貯まっている.それと,青空学園のHPの方でいろいろ改訂したいことや付け加えたいことが出てきた.時が過ぎ,季節は移りかわってゆく.