Hatena::ブログ(Diary)

柚の管理記録

2017-01-16


朝OK 夜OK

しめなわ


 昨日書き忘れたので1日遅れだけど。
 少し遠めのところに買い物に行った帰りにあまり通らない道を選んで自転車をこいでいると、とある家の玄関にしめなわが飾られていた。
 地域や宗派(でいいのかな?)によってはずす日が違ったりするものだが、いずれにせよそろそろだと思いつつ通り過ぎようとしたところ、よくよく見れば、とある白い四角形のものにしめなわはぶら下げられていた。
 とある白い四角形。
 それは、一時効果が問題視されたりと話題になった玄関やベランダ用のプレートタイプの虫除けである。
 商品名でいうと、虫よけバリアとか虫コナーズとかだが、さすがにどれかまではわからない。
 で、多分顛末としては、玄関にしめなわ用の金具がもともと取り付けられていたのだろうが、こりゃいい具合だわい、と虫除けをまずそこにつるした。
 さて、年の暮れになったのだが、虫除けをつるしているのでいつもの場所にしめなわを取り付けられない。
 困った。
 玄関に金具をもう1つ取り付けるか?
 正月の間だけ虫除けを外すのか?
 あれこれ悩んだ挙句、虫除けにしめなわを引っ掛けるという方法で両立させた、というところなのではないかと勝手に想像した。
 でも、強風で微妙に揺れてるんだよね。
 よく飛ばされてないもんだなぁ、とか思いつつ家路についた。

そもそも肩を持ちたい気もない


 何というか、相変わらずネタの提供に余念がないというか、なんと言ったらいいんだろうという気がするが、「トランプ氏、就任式欠席議員を批判 公民権運動の指導者 (1/15 日本経済新聞)」を読んでいて、またなんかい!という気持ちにさせられた。
 で、そもそも他国のことでもあるし、さらには、どちらか一方に肩入れする気もさらさらないのだが、とりあえず、個人的にこの一件で感じたことを書いてみる。

 まず、個人的な知識からいうと、民主党のルイス議員は記事内にもあるようにキング牧師とともに公民権運動に関わった人物で、年齢的にもその功績としても政党の枠を越えた重鎮である。
 ただ、そういった歴史的事実として学習した内容ではなく、具体的で時事的な話題として聞き及んだのは、直近でいえば、オバマ大統領大統領に就任するにあたって、ヒラリーの方がいいのに、と語っていたのを記憶しているぐらいである。
 そういう意味でいえば、氏の過去の功績云々ではなく、心情的に8年も待ったのにまたなんかい!というところなんじゃないのかなぁ、とか下世話なレベルで理解してしまった。
 しかしながら、それは、日本の老害的な政治屋等が自らの思い通りの人選がその経緯はどうあれ実質的に認められなかった際に自らにしかできない手法、外野から見れば論理性などではなく当人におけるその時点の他者とのパワーバランスや目に見える形での他者と違う卓越した属性を用いた最終兵器で逆に考えればもう後がない手法とさえ感じることと同列に他国の政治家を判断してよいものではないのだろうとは思う。
 また、先述のとおり、氏のその後(例えば、キング牧師が亡くなられて以降)の業績を何一つ知らない状況という不勉強さで語っていい話でもないのだと思う。
 ただ、トランプ次期大統領によるTwitterでの『All talk, talk, talk - no action or results. Sad!』という発言は、キング牧師公民権運動に際して暴力ではなく声をあげ、人々に語りかけ、そして実行し結果を出したことと対比して氏のそうではない部分を指摘したということではないかという気がして、単なる「アホバカ連呼」系の煽りではないんじゃないだろうか、とか考えたりした。
 まぁ、実際のところアメリカ議会の一議員が州の全ての事情や政策に目を光らせなければならない責務を負っているのかどうかも政治システムを熟知しているわけでもないので分からないし、氏が議員として公民権などに関連した諸課題について州を越えた連邦政府の課題として扱いそして行動することを旨とする責めを負っているのであれば、トランプ次期大統領アメリカ国内における都市過密地区での犯罪に目を向けてくれと続けてTweetすること自体、俺に言うな状態だとも言えなくもないし、お門違いだといわれてもしかたがないのだが、実態はどうなのだろう、とか思ってしまった。

 で、いろいろと考えてはみたものの、詳しい内容は知識不足のために完全な妄想にすぎないわけだが、少なくとも就任式に欠席することを公言しそれを実行する行為に関して、キング牧師が自らの戦いを高次な尊厳と規律で振る舞い導き実行することを心しなければならないと説いたこととはたして符合しているのだろうか、という気はする。
 また同様に、キング牧師のいう悪しき人の抑圧よりもよき人の沈黙のほうが悲しむべきことであるのは確かではあるのだが、よき人が何かをなさないことを沈黙しないことが悲しさの順番としてどこに位置するのだろう、そんなことを考えてみたりした。

元号


 増田ネタ。
 「新元号なにが良いか? という街頭アンケート」という若干センシティブなネタなのだが、とりあえずあまり関係なさそうなところで部分的に触れてみたいと思ったので少しだけ。

 まず、あくまで個人的な捉え方、としての話だが、経緯はどうあれ別に街頭アンケートをしようとそれで元号に対して意識が高まるならそれはそれでいいかな、と思う。
 実のところ、元号にどのような意味があるのか、ということに入り込めば、それを政治的な事案として槍玉にあげたい者につけいる隙を与えてしまう気がして個人的には常に避けている、距離を置いているということもあったりするが。
 要は詳しい話は置いておいて昔からやってる風習みたいなもんやからそういうことなんやろね、ぐらいでいいのかなぁ、などと思う、いや思い込みたい、というところかと。
 ただ、少なくとも生活の中で目にも触れず、全く使わないわけでもない(使わなくても問題がないという意味ではなくて)ことがこれまでの流れから想定されることからすれば、元号を改めるという事実に関しての意識の醸成はあってよいのではないかと思ったりする。
 まぁ、それこそが増田の言う『馬鹿じゃねーのか』という表現に該当するということなのかも知れないのだが。

 ちなみに、コメでも言及されているとおり、元号元号法に基づき改められる。
 昔話になるが、昭和→平成に際しては、元号法が成立しなければ何に依拠すればええかわがんね(落ち込み)、といったレベルだったりした。
 悪い言い方をすれば、昭和→平成に関していえば「改められるようになった。」とすることも可能かもしれない。
 こういった状況は義務教育レベルの日本史知識として、敗戦に伴い国内法が劇的に改廃、新設されたことで、ある意味慣習的であるがゆえに残されてしまった事項がそれらの法令から抜け落ちているという状況に過ぎず、何も珍しいことではない。
 ただ、多分この件について大きな問題を抱えていただろうと思われるのは、元号を法制化するには先のつけいる隙を与える可能性を払拭することができなかったためにかなりあとになってしまったのだろうと思う。
 加えていうなら、旧皇室典範に規定されていた元号が最もいじるのが面倒くさい新皇室典範から消えちゃったってのがそもそもの要因だったりするわけなんだろうけど。
 そしてこの法律
 知ってのとおり、むちゃくちゃ短いことで有名である。
 まぁ、字数でその法律の価値が決まるわけではないが、この法案を賛成反対に関わらず審議するのに尽力した方たちのことを考えると頭が下がる思いである。
 あと、細かい話ではあるが、むちゃくちゃ短いだけあって具体的な方法などについても当然ながら記載はない。
 よく話題になる漢字2文字というのも、実際のところ現行の元号法のもとにおいて閣議に報告された要領に記載されているという関連性があるだけで、その要領が性格的に法令と同等の成立改廃プロセスや継続的な実効性を持つのかどうかは、現実的な意味ではたしてどうなのかなぁ、という気はする。
 結局、こういったつまびらかに定めることを複数の立場の者がすくんでいるがゆえにある意味ザルな状態が続くところに対して、不用意にそこに突っ込んでいくという状態に関して、それを無謀だ、浅慮だということも可能だろうし、そういうのもあっていいんじゃないの?というのも別にあっていいんじゃないかなぁ、とか思う。

 とはいえ、街頭アンケートというのが番組企画者にとって安あがりで話題の方向性をどのようにも持っていける魅惑的なツールであるがゆえに多用され過ぎて視聴者にとって食傷気味なのも確かだろうとは思う。
 ただ、何というか、何一つとして利するものを抽出できないわけではないだろうし、使えるものがあれば使えばいいんじゃないのかなぁ、とか、、、、ってもったいない精神は古いか。

 アルファベットの話だが、増田が『重複回避理論』を持ち出しているのでそれに付け加えるとすると、他の文字と混同しないという点も重視されるように思う。
 今時の電子化からすればナンセンスかもしれないが、多分、数年後に日本から手書きベースの文書、データ等が全く作成されなくなるとは思えないため、考慮してもいいかとは思う。
 よく挙げられる例として
  O→0、D
  D→O、0
  Z→2
  P→9
  B→8
  I→1
があると思う。
 Jは手書きだと1などと混同する可能性もなくはないかなぁ、とか思うがなかなか判断は難しいところかと。
 とはいえ、Sの時代に当時の技術で9やら6やらと間違われていたことを考えると、今考えればもうどうでもいい気もしなくはないのだが。
 Kは、個人的な考え方として国際的にあまり使わない方がいいかなぁ、とか思う。
 まぁ、それを言い始めるとSもHもダメじゃん、という話ではあるのだが、あくまで国内限定なので今更知ったこっちゃないといえばそれまでともいえなくはないものの、最近の動向からすると、新しく定めるという意味で気を配る必要が出てきている時期にあたるのかなぁ、という気もするので。
 あと、はたして「慶応」を考慮すべきかどうか難しいところではあるかもしれない。
 これは、年寄りの世迷いごととしてもらってもいいかもだが。
 一応、大昔には選択肢としてあったし。

 旧字体の話もでているのだが、厳密な意味では今の「平」も「成」も旧字体が存在することから考えれば、どこまで気にしなければならないか、というところはあるかもしれない。
 同様に厳密な意味では、増田の提示する「文」も旧字体(棘が刺さったみたいなやつ)が存在するわけで。
 まぁ、法的に政令で字形まで含めて規定されてしまう(ただ、電子化の関係上間違いなくほとんどの電算機で処理できる文字コード、文字形状を用いて文字が選択されるとは思うが)ので、「正しくは」とかどうもこうもない気もするが。
 あと、先の要領に今回も基づくとするなら、『書きやすいこと』『読みやすいこと』というこれまた非常にざっくりした基準が設けられているため、それっぽい形になろうとは思うし、馴染みがあるかどうかという観点からすれば、原義、原表記が漢字が持つ表意として全体の意をより適切に表現できるものだとしてもほぼ新字体(もしくは参照する原典から新字体に変換された状態)になろうかと思う。

 あくまで真偽が不明な噂に近いものではあるが、平成に改元した当時、すでに過去からの候補の蓄積なるものがかなりあるらしく、新規に「こんなん考えたんですけど、どっすか?」なんて話にはならないとかいう話を聞かされた。
 もしそうなら、あまり夢のある話でもないのだが、まぁ、それはそれでクローズドの世界だからこそ夢見てもいいってだけな気もする。



 で。
 個人的にどんな元号だったらいいかというと特に何でもいいようには思う。(散々言っておいてあまり興味がない。)
 ただ、、、、うーん、DQNネームみたいなのでなければいいかな、とか。

めがね


 新しいめがねができて数日経った。
 で、すこぶる快調、と「両」手放しで言っていいのかどうか悩ましくはある。(強調表現)
 いや、まぁ、歯切れの悪さは自身にあるのだが。
 まず、前のめがねと比べて傷がない状態になったという意味でストレスから開放され言葉に言い表せられないほどにすばらしい。
 この点に関して、目的どおりといえる。
 というか、もっと早くやっとけ、私、ってヤツである。
 ただ、それ以外の調整やレンズなどのグレードをなくしたり落としたりしたせいで、なるかもしれんなぁ、なるんだろうなぁ、とかうっすらと考えていたことが現実になったといえば、それだけともいえる。
 でもなぁ、数万安くなるし・・・・。
 で、症状としては、まず直線が歪むことが挙げられる。
 左眼の度が極端に悪いためにレンズの曲率(でいいのか?)を右目のレンズのグレードに合わせると左眼側が歪むのだ。
 右目側が歪まないのでめがねをかけてすぐは顔を左右に振ったりするとかなり面白い映像になったりしたが、だんだん慣れてきた。
 あと、同様にレンズ端の映像も思った以上によく歪むし、レンズの切れ目(フレームの端っこ)が結構気になったりする。
 これはフレームの形状の関係上ある意味どうしようもない話で、これまではそれが嫌で一般的な天地幅の狭い細身のフレームではなく大き目のものを選んでいたのだが、今回はそれをやめて別注ではない定番商品の若干小さめのフレーム(それでも定番商品のなかで一番大きいのを選んだのだが)にしたのが原因のようである。
 昔そんな話を知人にしたときに、冗談でスキー用の度付きゴーグルにしたらいいのにと言われたことがあるが、それで通常生活をし、客先と打ち合わせをしていてもだれもいぶかしがらないのならばそれはそれでありがたいと思ったりもしたものだ。(あ、スキースノボで遊んでた当時は使い捨てソフトコンタクトだったけど)
 で、それもだんだん慣れてきた。
 そして、新調した際にかならず心に誓うのは、高い買い物だから傷がつかないように大事にしないと、ということなのだが、まぁ、これもしばらく経てばいつもどおりになりそうだ。
 えーと。
 できれば、めがねをかけたまま寝ないようにはしたい・・・

2017-01-15


朝OK 夜OK

便乗ではなく後出しじゃんけん


 興味がある内容として「論点 「ら抜き」言葉、多数派に (1/13 毎日新聞)」という記事を読んで、見事に感想も何も書かずにスルーしていた(単に時期的には、ネタ元の文化庁側の話に持っていくとそれはそれで古すぎるし、既にネタにしてしまったので)のだが、dlit氏の「2017/1/13日付毎日新聞論点「「ら抜き」言葉、多数派に」の記事に便乗してことばの規範性の話」という記事を読んで後出しじゃんけんのようなことをしてみたくなって、書いてみることにした。
 が、dlit氏の方向性とは真逆でネガディブ方向に振れていたりするのだが。

 まず、なぜ新聞記事側をスルーしていたのかというと、しろうと目というか理解力不足のせいか私にはdlit氏の言う『複数の立場からの見解を丁寧に載せて』いるとは思えなかったから、というのがあり、さらには、どう考えても本論と関連性があるとは思えない記述が存在することで、多様な論点というよりバンドパスフィルタ増幅器が見え隠れするのが苦痛だったりしたのが主な要因だったりする。
 それとは別に、考察の深浅は明らかではあるにせよ、私はdlit氏の「正しい日本語」のあり方(あり方が「ある」ではないというのも「あり」なわけですが。)に賛成なので、本質的に新聞側の記事に対する捉え方や行動としてある程度符合する部分があってよさそうなものなのに全く違っているのは、なぜなんだぜ?(焦)などと思ったために、とりあえず、完全スルーではなくて、私自身が記事を書いてしまえば私のどこに問題がありそうなのか(まぁ、あらかた分かりそうなものだし、ってそれをいったらおs(ry)が分かるかな、分からないかな、とか考えたわけである。
 まぁ、あと、当の新聞記事を書いた記者が「業」として日本語を不特定多数にばら撒く者として「ら抜き」を今後使うのかどうなのか宣言はしないのか?他者にどうなんですかと聞くだけが仕事だと思っているのか?とかが見えない(一介の記者にそんなことができないことは分かった上で書いているのだが)のも萎えてしまった要因の一つではあるのだが。
 どうせなら、記事中に「ら抜き」「ら入り」(逆は「入り」でいいのかな?)を忍ばせて意思表示をするぐらいあってもよさそうなのだが、そういうところはなかったりで、かなりがっかりもしたわけではある。(求めどころが違うといえばそれまでだが。)

 で、何か取っ掛かりになるものがないかと、金田一秀穂氏と梶原しげる氏のことばを何度も読み返してみた。(1名は当人のイデオロギーに繋げているため、たとえ有用論点が含有するとしても個人的にはFラン三流の矜持としてオミットする。)
 金田一氏は講演などで直接話をお聞きしたことすらないのだが、TVや著書などをちょい見したり拾い読みしたりすると、ご本人の研究内容や知見はすっ飛ばしてしゃべったり書いたりしていることも時と場合を選んでかなり大きな振れ幅でやっていると思うし、それゆえ活躍の場が広いのだと思ったりしていた。(くだけたキャラクターによるところも大きいかとは思うが。)
 また、あくまで感覚的ではあるが、意図的な発言の抽出や引用などに対してかなりおおらかなのではないかという印象を受ける。
 というのも、氏が強烈な気分屋であれば別なのだが、ほぼ同じような内容について同じような堅さの掲載誌(紙、Web記事も含む)であっても、無茶苦茶に散漫で説明不足に感じる場合と一言一句無駄がないんじゃないかと思えるようなしっかりした内容でありながら、全体として柔らかさを感じるものであったりと落差が激しいように感じるからだ。
 ちなみに、この新聞記事は、かなり説明不足に感じる部類だと思う。
 ただ、記事生成に関する当該新聞社の内部システムが分からない関係上、そういった記事になった理由は分からないし、私個人の幻覚かもしれないので置いておく。
 梶原氏の記事は、氏自身の感想が全体の文章量に比して少なく、内容的に記者が調査すれば書けるような内容も多いことから、あらかじめこういう方向性でお願いしますという形態で取材しているのではないかと感じた。
 また、アナウンサーという「話しことば」とか「言語の音声表現」を「業」とする者として「ら抜き」を今後どう扱うのか、どうすべきなのかについて主体的に突っ込んで書かれているのかと思って読み進めると1行しか言及していないのにずっこけたところもあるかもしれない。

 金田一氏の説明不足がどのようなものかは、氏を詳しく知らない者である私が書くのも甚だ失礼な話なのだが、少なからず、先の新聞記事においては、専門分野である外語のなかにおける日本語、およびその言語教育という観点、言語の認知や行動学という観点から言語をとらえるという考え方がごっそり抜け落ちているように感じた。
 脳内でこういった氏の専門分野等を補完しながら読めれば非常にすばらしいことを言っているように感じるはずなのだが、字面だけを追うと補完できない者が読めばどう感じるのだろうという気持ち(逆の立場からすれば、私自身が十分に補完できていないために十分に理解できていないという恐ろしさにもなるのだが)が先に立って読んでいて負担になっていた気はする。
 補完という意味で気付いたところとしては、例えば、『そもそも「正しい日本語」など存在しない。日本語は常に変化の過程にあり、基準となるべき指標はないからだ。』で例外なく断定的に、かつ話題としてもぶった切っている。
 しかしながら、文章の論理構成からすれば、その後にくる氏の著作の1つでもある『心地よい日本語』はじゃあ正しくないのか?ということにもなりかねない。
 また、『「正しい日本語」以上に僕が大切にしたいのは』というくだりからすれば、存在すらしないものと比較して以上も以下もないという謎な構造をさらしてしまっているところからして、かなり雑な編集だなぁ、と思えてならない。
 手前勝手な作為的見方ではあるのだが、新聞記事の著者が「正しい日本語」というものにおいて、dlit氏の『「正しいことば」とされるものはあり、それは誰かが決めている。』ことに対して信条的に是認できないという観点から文字を起こしているように感じた。
 これは、限りある紙面のなかで『「正しい日本語」について、学者や文部科学省が指針を示すことなどできるはずがない。』という部分が残っているところにも表れているように感じる。
 先のとおり、氏はフランス語ポルトガル語などの基準や規定に関する内容など熟知しているはずで、その国、言語圏の実情にあわせてできること、できないこと、やらなければならないことも分かっているように思う。
 多分、氏には「ら抜き」のみならずこと日本語において、何が決めることができて何が決められないのか、そしてその決め事が実効性を持つ意味、理由およびその限界などに関して専門家として一家言あるのだと思われるが、そこはしゃべっていないのか、記者が理解不能ですっ飛ばしたか、信条的に記事にできなかったか、または別の理由なのかは分からない。
 まぁ、その後に続く『逆に「消えゆく方言文化を残そう」などといって残せるものでもない。』というのは、EUなどの少数言語保護法制などを真っ向から否定しかねない話ではあるのだが、これも分かった上での自虐的発言だという意味で、何となくTVで拝見するイメージなしゃべり口調で「あぁ、言ってそうだなぁ」などと思いはしたが。
 また、『言葉は往々にして、言葉通りとは異なる意味を伝える。夜遅く帰宅した娘に父親が「今何時だと思っているんだ!」と言った時、「11時です」と答える人はいない。「ごめんなさい」が普通の反応だろう。』というくだりも、字面だけからすれば「11時です」と答えることはあらゆる事項において正しい意味が伝わっていないのか、「ごめんなさい」とは逆に「うるせえジジイ!○ね!」と返すことは、あらゆる事項において正しく意味が伝わっていて、その意味に対する娘の行動における認否というパターンの違いだけなのかを表面的に考えてしまうかもしれない。
 しかしながら、それは、氏の専門分野である行動学等の考察から言語を定義し扱うことによって紐解かれる話であろうし、また、そういった面倒くさく難しい箇所は切り飛ばしてしまったのかもしれない。
 感じとしては、下段の『心地よい日本語』に持っていくのであれば、前段の『「正しい日本語」以上に僕が大切にしたいのは「言葉の本意を受け取る」ことだ。』というところから繋げるために言語の役目や機能、構造などに降りていく必要はあるのだろうが、そういう概念的なのは記事にそぐわないだろうということで別にして、もっと的確な事例が氏から提示されていたのではないかと思ったりしたが、そもそもそのインタビューに立ち会ったわけでもないのでまるっきり想像の域を出ないし、その事例も思いつかなかったりする。



 で。
 結局書いてみて思ったのは、ただの追認バイアスかい、ってところかなぁ、とか。
 あと、私自身、過去に受容がどうのとか書いていながら、その実dlit氏のいう『寛容な人』ではないのだな、とか。
 だって「官窯」、じゃないや、「寛容」ならこれだけぐだぐだとツッコミを入れないだろうし。(あまりにひどい誤変換なので残しました。)

 やっぱり、行き着く先は自己嫌悪後出しじゃんけん)しかなかったか・・・・・




 えと。
 話はほとんど関係なくなるのだが、「ら抜き」がネガティブだという考え方(例えば、記事内で言えば梶原氏の1995年の国語審議会)が法的拘束力がないとしても、何らかの形で提示されることで、使用者の増加がどの程度抑制されたのかを物理モデルで予測、検証とかできれば面白いのに、とか思ったりはする。
 こういった知見を集約して時間を逆にたどれば、言語の進化のミッシングリンクに触れられるかもとか思ったりしたが、多分、誰かやってそうだ。

2017-01-14

今週のお題「朝ごはん」


 お題の説明に『パン派 or ご飯派』とあるが、麺派は少ないのかもしれない。
 ちなみに、私はここ5年弱ぐらいうどんだったりする。
 「何うどん」という形態が特に規定されているわけではなく、有り合わせかその時の気分でつゆとかつゆのようなものとかもはやドレッシングっぽいものに成り果てたものなどと一緒に食べることになる。
 ちなみに今日は味噌ベースに余ってた根野菜のかけらをささがき(煮えやすいのとちょっとの料理でまな板を洗うのが面倒くさいため)にして食べた。
 たまに乾麺パスタをゆでてポン酢で食ったり、オリーブオイルで和えた上に冷やし中華のもとをかけたりといろいろ無茶をしたりもするが、やはり大概うどんだ。
 理由は簡単で、業務スーパーの各種袋麺のうち、麺自体の調理をほとんど必要としないという方針の許容範囲内に収まるもののなかで費用対重量として最も安いのがうどんだからである。
 朝食に限らずやきそばにしようかと思ってでかけても自動的にやきうどんにメニューが脳内で変わってしまうのはそういうことだったりする。
 多分、生涯でもっともリッチな朝食を食べていた時期は、料亭の料理のあまりをいただいた翌朝に食べていたころで、これって1万ウン千円の席のだぞ、と思いながら噛み締めていると何気に感動したものだ。

 社畜時代は出社時に歩きながらコンビニのサンドイッチと紙パック飲料で済ませていた。
 コンビニから数軒先の専門学校生でごったがえす時間帯にぶつかると結構大変だったりするのだが、当然サンドイッチのバリエーションが多くさらに入荷量も多い。
 ただ、レジを昼間に行くと2台運用なのに朝は4台に増やしても結構かかるというレベルの混み方を考えると、あまり気持ち的に落ち着けない。
 かといって、そこから少し離れたコンビニは混まないが、バリエーションはおろか1種類1品とかいう両極端さで、ある意味どちらの店舗で買おうかと選択する行為はバクチだった。

 あと、学生の頃は、小学校時代は何を食っていたのかまるっきり記憶になかったりするが、中高では親が起きてこないので、もっぱら食パンに何かを塗る、のせる程度とあとは牛乳だった。
 和食にならないのは、少なくとも当時炊飯がガスの大釜だったので1人分のごはんを作るのが難しかったこと、さらに適当に料理をして材料を使うと虫の居所が悪かった場合はしかられるのもあって、最低限、ということになる。
 まぁ、自身の畑に生えている葉野菜のあきらかに食わなさそうな端の部分をちぎってサラダにするとか旬、または旬をすぎてとにかくはやく消費してしまえとカゴに入れて放置されているものなら問題はなかったりするのだが。
 あと、ネコの朝飯は私がやらなければだれもやる者がいなかったのでネコに合わせてホットミルクを作って飲んだものである。
 今ではネコに牛乳はよくないと言われているが、当時はそんなことも知らないので普通に意図なくネコにあげてたというだけで、虐待というわけではないので許してほしい。
 で、カリカリとホットミルクを床の餌場に置くと、猫舌の私よりネコがいつも先に口を付けていたものだ。

 朝食で何ともいえない微妙な気持ちになるのは、よく観光地の安物旅館で定番の鮭の切り身の塩焼き(っぽいもののことが多い)だろうか。
 観光客向けホテルの厨房に入っていたことがあるが、翌日500食とかいうようなレベルで前日(もしくは当日の深夜にまでなることも多いが)に仕込んでおくわけで、時間的な制約上なるべくしてなっている形態なのだなぁ、などと当時昔を思い出していたのを覚えている。

 さて、お題には朝食を『1日を気持ちよくスタートするため』と位置付けているが、自分にとってどうなのか、を考えてみると、『気持ちよく』かどうかは疑問かもしれない。
 ただ、ここで日記を書き始めた動機が自堕落というか連鎖的に必要なことまでやらなくなるような状態をどうにかしようということから始めている関係上、最低限の目的を満たすための行為に付帯、連関するもの、前工程になるものの1つが朝食なわけで、それにより総じて目的を果たせたならば、それをもって『気持ちよく』と表現してもいいのかもしれない。
 まぁ、別に朝食、夕食を取らなくても薬は飲めるのだが、うーん、胃の負担が大きいしなぁ、、、、そんな感じかと。


朝OK 夜OK

非表示


 最近、はてなダイアリー人気エントリーの一覧上(http://b.hatena.ne.jp/hotentry/diary)でその2、3割は見えない。
 今の人たちからすれば死語であることすら認知されないところのネットサーフィンなどという行動様式が未だに残っている関係上、ごった煮の中から自身の興味のある記事をふるいにかけて早く見つけ出すにはあきらかに表示することのないキーワードを含む記事を画面上にあらかじめ表示しないようにするのが楽だったりするためにスクリプトで非表示にしてたりする。(最近のブラウザはそういう機能が最初から付いているのかも知れないが。)
 多分、そのスクリプトに登録したキーワードのいずれかに引っかかっているのだとは思うが、ここまでひどいことは今までなかったので少し驚きだったり。
 それが何かを確かめたい気は全くないが、まぁ、世の趨勢が何か分からないけどそういう形なんだってことぐらいの認識でいいかなぁ、とか思ったりする。
 ただ、これが1年ぐらい続くと、多分、私のきったくそコードがバグってるということなのかもだが、またそれはそれでそのとき考えるということで。

2017-01-13


朝OK 夜OK

昨日のWBS


 アメリカの今後の政策についてコメンテータのフェルドマン氏がレーガノミクスの失敗について触れていた。
 多分、こういった大衆向けに近いニュース番組で言及するということは、多分、関連する業界関係者界隈ではもはや語り尽くされているのだと思う。(そもそも去年私が触れたぐらいだし)
 で、思うのは、はたして過去のしろうと目にさえ分かりやすい事例があるにもかかわらず、それをトランプ氏が率先して繰り返そうと思うのかどうか、というところかなぁ、と。
 少なくとも当時現役の経営者であったことから考えればレーガノミクス功罪について体感も含めて理解していそうな気がするのだが。
 まぁ、大統領といえど純粋な独裁者ではないので、執行に関して必ずしも政治的に時宜を得て確実に遂行できるかどうかはわからないわけだし、レーガノミクスの失敗自体、ブレーキをかけようにもすぐにブレーキをかけられない、すぐに止まらないという経済コントロールの難しさという側面もありはしたのだが。
 あと、以前にも書いたが、経営者が「不透明」を連呼するのは、もはやステークホルダに対して将来失敗したときの言い逃れと逃げ道を先に確保しようとするいわゆるセルフハンディキャッピングに近いように感じ始めた。
 すでに投資家のレベルで考えれば、トランプ氏の就任前会見で真新しい内容がなかったからというような理由で株価為替レートが動いていることを考えると、既にそういった「不透明」と表現している部分は織り込んでしまっているように感じる。
 いや、まぁ、単に感情的な意味で、最近、言っておけば許されるという使われ方をしているようであまりにもうっとうしいので。
 「不透明」って連呼が。
 もう、いっそガバナンスコードにセルフハンディキャッピングを入れてくれないかな、とか。

 あと、フェルドマン氏が『貿易は二ヶ国間の収支で勝ち負けがわかる』とトランプ氏が考えているということを指摘していたのだが、確かにそうだとは思うし、フェルドマン氏がその考え方は間違っているのではないか、と指摘するのにも賛成である。
 ただ、それは実体経済を分析的に把握した際の経済構造がそうだというだけであって、アメリカ国民1個人の通常の生活や感覚から導きだされる大枠の経済感は、二ヶ国間の収支なのではないかと思う。
 買いかぶりだったら笑い話にもならないが、トランプ氏はそういった違いが分かった上でしゃべっているように感じた。
 有り体に言えば、国民への人気取りということとして処理できることではあるし、大衆迎合主義だと蔑んでもいいのだろうが、過去の日米貿易摩擦の時のような双方が政治的に解決しようとも国民感情として錯綜が発生すればそれを強制的に排除するのは非常に困難であるということを学習したはずだと私は思うし、営利企業としての正しさを強弁することが必ずしも政治的な正しさではないことを認知しなければならないようには思う。
 また、そういった経緯があるからこそ、会見で名指しされた他の2国の会見への反応が「2国間の利益になるようにやろうよ」というのではなく再び官房長官から「企業市民」ということばが発せられたのだと思う。
 で、私自身は、トランプ氏が分かった上でやっているという仮定のうえで、トヨタなどの大企業に関連する企業群(WBSのニュース内でも事例として挙げられていたが)がトヨタが道をつけたのであとは数珠繋ぎでスルーパスで通っちゃうよ、という考え方を持っていたならば、さすがにそれらの中小企業に個別に云々できるわけもないので、逆にトヨタのような親分に対しての風当たりを強くすることで国民感情を紛らわそうとする選択肢を取られかねないように思う。
 そこまで気にする事項、時期ではないのかもしれないが、大企業は政治的にいろいろ大変だろうけど中小のうちはそんなのは関係ないし、それよりも親分が大変になることだけが商売上重要、といっていては、大企業が傷口を縫い合わせようとしているところに雑菌をなすりつけている行為となるかもしれない。
 官房長官のいう「企業市民」たらなければならないということは、もはや先に批判を浴びたトヨタだけの問題ではないと考えた方がいいのかもしれないと思った。
 とはいえ、トランプ氏がそのギャップを知っていてどちらか寄りの政策を打ち出したとしても、それをもう一方に振ろうとした時には政治的に転換不可能な状態になっているなんて状況もアメリカの場合は多い気がするのだが、まぁ、それは成り行きなのだろうけど。



 あんまり書きたくはない、というか国内の問題としてはこれまで言及するのを避けてきたんだが、もう個としての認知という意味で「NOT YOU!」と公的に発言できるような規制緩和(実質的ではなく法的な意味での双方の自由)があっていいんじゃないのか?という気がしてきた。(意図して主語を抜いてみた)
 これもまぁないんだろうけど。

2017-01-12


朝OK 夜OK


 寒い。
 気温がそんなに変わらないのになんでだろ。

自食、、、?


 増田ネタ。
 「ゆずの食べ方」ということで、私が食べられてしまうらしいため、とりあえず触れてみることに。
 ただ、あまり役に立たないとは思うが。
 増田は商売したいみたいだし。

 とりあえず、前提としてゆずは使い勝手のいい食材ではないと思う。
 それでも人はいかなる食べ物っぽそうなものをなんとかこねくり回してでも食べようとする生き物らしく、過去の蓄積からそれなりに利用用途はあるものだ。
 基本的にそのままで長期保存ができない(風味等の問題があるが冷凍できなくもないが)ため、コメにあるように『甘いもの食べないならゆずポン酢』とか甘いものがOKならジャムやコンポート、酒がOKならゆず酒(市販果実酒とは製法等が異なるが。いや、作っちゃダメだけど。)といったように果実が収穫できる時期が限られている関係上、長期間にわたって地道に消費が可能な形態にして保管する利用法が多いように思われる。
 個人的には、面倒なのでみかんなどと同様にそのまま食ったりするが、あまりおすすめめはできない。
 花柚のように種が少なめだったり、種なしゆずといったものであれば種をどうこうする面倒臭さがあまりないので、昔はそのままビールや安い日本酒のアテにしていたりしたが、モノがあふれる現代にそこまでしてゆずを消費しなければならない理由はみつからないし、そもそもこれもおすすめできるわけではない。

 ゆず胡椒は、、、、
 作るのめんどいからもういいかな・・・(視線そらしーーー)
 唐辛子系が食べられなくなったので、ちょい辛ゆずみたいなのしか今は作らないし。(というか、漬物だが。)

 あ、あと5kgとかじゃなく5tぐらいあったら、そのまま転売した方が廃棄損が減るかとは思う。
 ただ、そのまま横流しすると結構狭い市場なので、ゆずに限らずばれたりするらしいが、それはまた別の話。
 まぁ、利用法はどれか1つだけに絞らずに今回はいろいろ試してみて商売はいけると思ったヤツを来年あたりからってのはどうなんだろうとか。
 柚は1年草ってわけでもなく樹木なので、来年もものほしそうにアピールしていれば送ってくれるんじゃないかという淡い期待を込めて提案してみたりする。

嫌な過去の経験からの導出


 LANの帯域とWAN側との帯域が正しく割り振れないという原因が何となく分かってきた。
 ルータが全く反応しなくなって、電源を入れなおしたのだが、ふと思いついてやってみたらその直後は問題なく通信できるようになっていた。
 ただ、過去の経験上、安物のルータは私の使い方が変なのか、だんだん調子が悪くなって最終的にルータが沈黙するということが多かった。
 といっても、過去2台がそうだっただけで、断定できるほどのサンプル数でもないのだが。
 さすがに個人の趣味レベルでヤマハルータに手を出すほど気合いを入れなければならないとは思えないが、BHR-4GRV2が品切れだからといってBBR-4HGにしたのが間違いだったのか・・・・。
 今や無線ルータの方が選択肢としては多いのだが、そもそも無線機器がない関係上、その機能にカネをかけるより1つグレードを上げた方が良いかとBBR-4MGにしなかったというのに。
 過去の経験から今後のストレスを考えるとルータをとっかえた方がいいんだろうか。
 BHR-4GRV2レベルで問題ないのかどうかも分からないけども。
 現行機種に有線ルータはないんだが、昔使っていたNECのはすこぶる調子がよかったんだがなぁ、、、、
 まぁ、今や思い出せないような聞いたことのないメーカーの安いルータ2台を当時うっちゃったわけだが・・・

 うーん、どうすんだ、これ。

昨日のWBS


 多分、書いた本人が具体的に何をもって書いたのか忘れそうだが、何となくもやもやしたものを吐き出すチラ裏ということで。(最近疲れてるなぁ、、、スルー力低下しすぎだ・・・)
 あと、以下、無能、有能とは個人の総合的な能力、技能等をひとくくりにした侮辱、賞賛としての含意をもつ表現としてのものではなく、とある条件のもとに範囲設定された目的、内容、事項を達成する、満たすための能力、技能、特性の有無を指す。
 また、その有無に感情的な良否等は存在しないことをまず書いておくことにする。
 で、考えたことというのは、無能であることを可能にするといった本来の目的ではない技術や手法などの転用(主に意識、無意識に関わらず悪用といってもいい)が可能な場合、特定の非常に鋭敏に反応が起こるような事象(時代のトレンドにもよるが例えば軍事転用とか人権侵害とか環境破壊とかそういうものをイメージしていいかとは思う)でない限り、思った以上に速いスピードで無能であることを前提としたシステムが策定され定着しそれがはるか昔からあるべき姿だと喧伝され、さらにそれを下回る、下押しするように先の無能の周辺領域を浸蝕し無能な属性を持つことを実現するシステムへと働きかけていくものなのだな、ということである。
 昨今の多様性云々と言いつつも目先の効率性を極限まで追いこみ、その効率性によって受容どころか低評価のレッテルをありったけ貼り付けていくことからすれば、その判断手法から高速に低きに流れる(それが「低い」のかどうかは別にして、慣用句としての話だが)のはしょうがないことだとは思う。
 それがいいことなのか悪いことなのかはどうこう言う気もないのだが、ただ、無能が前提であれば、有能が無意味である、さらに突っ込んでいえば規定されたシステム内において有能が個人の性能の対外的な判断としてネガティブになっていく可能性も高くなる気がした。
 というのも、無能が前提のシステムにおける例外処理をそぎ落としたプロセスにおいて、有能な状態、対象を処理する例外処理が発生することはそれなりの負荷なりコストなりがかかるだろうからである。
 こういう部分も同一の目的を果たすために複数存在するシステムを俯瞰的に見た上で流行の「分断」なるもののひとつなのか、とか思ったりしたが、何というか、ぶっちゃけいいのかそれで、、、と思ったりした。
 古い人間がそう思うだけで、別に今の人にはいいんだろうけども。