Hatena::ブログ(Diary)

柚の管理記録

2018-04-24


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 雨が降ったらつらいんだと何度いったら・・・

2018-04-23


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喜ぶ者


 つい先日、売り切れを喜ぶオーナーは無能なんだぜ?といかにも聞きかじりっぽいことをいわれたので、へぇ、そうなんですかぁ、とだけ返してしまっていた。
 というか、かなり体力的につらかったり、ある意味この手のはもういいかなぁ、という気がしていたのもあったりで。
 機会損失の話ならそこで終わってしまうわけだし。
 とかいいつつも、無意識ながら無駄に過剰に意識してしまっているのか、その後、妙にググってみたりしたのだけども、最近の話からすると、現代ビジネスの本多氏の記事っぽい気がしてきた。
 というか、先の聞きかじりを言った本人に出所を確かめる気など当然ながらなく、単にそれっぽいのが見つかった時点でもうそれでいいやという心の平穏が得られるあたり、かなり腐った性根をしているわけだけども、もう直ることもなかろうと思うので置いておく。
 本多氏の記事なんだと知った段階で、記事を読む前から機会損失がどうのというレベルの話では全くなかろうなぁ、という気もしたというのもあるのだけれども。
 で、一応先にまとめのような感情論に近いっぽい書き方をしてしまうと、個人的に、氏の考え方は、少なくともampmを再建するとかどうとかの時代から、評価される成果としては正しいのだろうけども、正しいとは思えない、というのが先行していて、今回の記事を読んでしまった後も、変わってないんだなぁ、という気がした。
 とはいえ、評価される成果として正しくないだろうし、一部の刹那的な快楽が正しいといえるのかなぁ、という者とは本質的にレベルが違うので、当時なんかは氏の記事をよく読んだものだけれども。
 ということで、今回の記事の構造を個人的に斟酌してみると、完売を喜ぶフランチャイズオーナーの周りには喜んでいないフランチャイザーだったり本部だったりが存在するわけで、氏の提案する理想的なモデルでは、みんな喜ぶ、という話となる。
 『「完売」は成功ではなく、失敗である』という場合分けをすると、

       完売   売残
  発注多      ∪功
  発注少  失敗  ぁ

となっていて、△亡悗靴董記事にも『「必要な廃棄」と「異常な廃棄」の二種類がある』としながらも、から△貌海海Δ箸靴討い襦
 で、仕入と売上に関する非常に単純なリスクを考えると、リスクを低減するために△らに推移するわけだが、立場の違いによって考えるリスク(想定するリスクのうち当人に直接的、直感的なもの)とその具体的なリスク(結果的に当人に降りかかる危機インシデントや同様な境遇に対して見聞きするもの)は変わってくると考えていいように思う。
 ということで、まず、△妨かうことで、リスク保有し、結果としてみなが喜ぶことに変わりはないが、保有したリスクは単純な大小にとどまらず、種類、影響度、心理的な負荷などといった領域で違っているのではないか、という点。
 また、△亡悗靴董◆愼鷦鑪燹戮箸靴討い襪發里痢△澆覆喜んでいることになっているのは、喜んでいない者が、その二種類どころか既にこの枠組みから脱落し、枠内には存在していないという点。
 この2点が少なくとも触れられていないのが、評価されるべき成果は正しいが正しくないと思えるところかと。
 まぁ、こんなのは、おいそれと簡単に実行できて、さらに△砲箸匹泙襪海箸できるわけでもない(そもそも氏が成功しているのは記事で触れられていることだけではなくて本部として△砲箸匹瓩詛塾呂あるからで、表面的なことを鵜呑みにして誰もが成功するならば幸せなことだろうとは思う)ので、いちゃもんに近いものなんだろうなぁ、とは思うけど、この手の記事に関しては、たとえビジネス誌であっても「この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものと類似または一致していても、全くの偶然です。」とか「個人の感想です。」とかテロップが流れるレベルでガイドラインが設定されてもいい気がしてきたり、とか。
 というか、氏に原因があるわけではなく、氏の文言から煽情的な箇所だけを抜き出して記事に仕立て上げると、結果的にテロップで埋め尽くさなければならないような情報群に集約されていってしまう、なってのはどの世界でも同じことなんだろうけども。

 ちなみに、記事の後半だけを読むと、売り手側としては、自らが自信を持って売ることが可能なものだけ確実に消費者に届けるという考え方でも間違いではなくなってしまうので、記事前半の△飽き上げるという考え方とはズレてしまうのだけども。
 一応、その考え方でいスパイラルに陥った者は、先と同様に当該図式から脱落するので、結果的に△靴存在しないことにもなるんだが、まぁ、それはそれとして。
 で、これはさすがに、名前が出てないけど氏が上梓した著書からコピペした提灯記事なんじゃないのか?とか思えたりもしたけど、結果的に煽られて釣られた者がここにいてしまったわけだがら、もしそうなら、それはそれで正しいあり方だったのかもしれない。
 氏が意図しているものかどうかは知らないけども。

 もうね。
 無能でもいいから少しだけ喜べれたらいいじゃん、ってのはダメなんかね・・・
 多分、ダメなんだろうけど。

2018-04-22


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また、戻ってみる


 今週のお題を遡ってみるということで、最近のものあたりから逆に。

 「かばんの中身」
 最近、かばんの類を持たない。
 というか、ここ数年ぐらい、とかいうレベルで。
 いわゆる自宅のクローゼットとかにぶっこんである(あった)バッグを取り出して持ち出し、また戻ってくる行動様式がなくなってしまった。
 すでに荷役のほとんどが一方通行だったり、基点終点が自宅じゃないとか。
 その行動様式に該当しそうなのは、最近だと病院ぐらいだったり。
 薬という荷物があるので、手提げ袋レベルだけども。
 あとは墓参りとか。
 コンサートは、昔はチケットと帰りの電車賃ぐらいで行ったものだけど、最近はさすがに違うだろうなぁ。(スマホ?当時は携帯さえなかったさ、、、)
 社畜だった若い頃のバッグの中身で『開けてびっくり』なものを、、、うーん、思い出せない。
 というか、何持って移動してたんだっけ・・・・
 震災当時はバッグにDパックを折りたたんで入れてたり、逆だったりとか、さらに紙袋を入れてたりしたけど今更な昔話だなぁ。(当時は交通事情が全く読めなかったし)
 そういえば、今はバッグの中にはいつも数珠が入ってるけど。
 そういう使い方しかしてない証拠だなぁ。

 「わたしの春うた」
 全然関係ないけど、『うた』を『歌』にしていないところがすごいなぁ、とか。
 よくある不謹慎ななまえとして「はるか」に漢字を充てたものが例示されることがあるけども、なんだろう、とりあえずは1人あたり1回しか出せないんだから、ググってみとけってことかなぁ。
 当然それ自体いい悪いではないし、ひとそれぞれなんで、どうでもいいといえばいいんだけど。
 とはいえ、某音ゲー音ゲーってわけでもないか・・・)の主人公がまんまそれなんだけど、皮肉がきついなぁ、分かってやってんだろうなぁ、とか思ったし。
 で、元に戻って。
 何か昔よく似たことを書いたことがある気がするけども、かぶってもいいやってことで、今更(書いているのがもう4末だし)思いつくのは「さくらさくら」かと。
 まぁ、今年はあまり桜見れなかったし。
 あと、思い浮かんだのが「大和撫子“春”咲きます」とかだったりで、もうかなり脳内回路がおかしい。
 そういえば、これも季節の「春」だけじゃなかったりするわけだし・・・

 「自己紹介」
 そういえば、去年植えた実生の花柚は、、、ほとんど冬が越せてないんだよね。
 マルチングしとけばよかった・・・
 今年は蒔いてない。
 じゃあ、今年はいないのか、新人。
 そういえば、最近になってようやく分かってきたことがある。
 なぜ、自己紹介したくないのか。
 それは、自分に向き合いたくないだけなんやろうね、私の場合は。
 正直、忘れたいんだわ、そんなもん、、、ってげふんげふん

 「お花見
 無理でした。
 というか、花を目にすればいいだけならしたけど。
 アレルギー性鼻炎まっただ中に下っ端専業の場所取りとかしたのなんていったいいつだったんだろ・・・(遠い目)
 ただのサクラつながりだけど、うちにあるナポレオン、花つけないんだわ。
 いや、それだけなんだけど。
 いやいや、ちと悔しくはあるのだけれども。


 ということで、終わる。

2018-04-21


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くぎ


 何となく賃借時から放置し続けていた床から5mmほど頭が露出しているくぎを抜いた。
 というか、くぎが出ている状態で貸す方も貸す方だが、借りる方も借りる方で大概なのでお互いさまだとは思うけど。
 何で今なのかというと、、、何でだろ。
 何となく今気になったから、ぐらいで。
 とはいえ、今まで気になってなかったわけでは当然なく。
 上にクッションを敷いて隠してるから特にそれで怪我をするわけでもないんだけども。
 個人的に、心理的な意味で減災という形でリスクを扱うより原因除去という形でリスクを消滅させる方が気持ちいいというレベルなのかもしれない。
 ちなみに、入居時にこのくぎをハンマーで殴ってみたのだが、全く入っていこうとしなかった。
 どうせタッカーでぶっこんでいるにもかかわらず入りきらなくて、さらに床模様のフローリングシートをくぎの頭が出たままで貼っているわけで、くぎの上のシートに穴が開いた状態だというところからして手殴りで入るわけはなかったわけで。
 まぁ、グラインダーをかけてもう1本打たないところが安さの秘訣なのかもしれないけど。

2018-04-20


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昨日のWBS(「りんな」と「Tay」その5)


 一応、先に少し禁忌に触れるようなところだけをさらっと終わらせておく。
 Tayの扱いが『停止』という扱いだったんだが、ヒトという生命体、もしくはその機能、もしくはその一部も『停止』がありなのか?と、別の領域で当該概念を拡張しているヒトに聞いてみたくはあるけども、今までぶっちゃけ主観だって答えしかもらったことがないので、これも同じなのかどうか気になるところかと。
 仕事を奪われる、というのは、当該概念により当時既得権益者に取って代わったように今度は自らが既得権益者であって取って代わられようとする逆の立場として正しく(?)逆の対応をするのをよしとするのかどうなのかという話なだけな気もするんだけども。
 と、よくある話に落ち着いたところで本題外縁に。
 まず、「Tay」がどういった構造であったために問題があって、「りんな」はそうではないので問題がないという番組の構成になっていないので何ともいえない。
 加えて、日本マイクロソフトCTOの榊原氏がいう「AIリテラシー」が、テロップに表示されていた『人工知能にも倫理!?』というフレーズを表現したものかどうかもよく分からない。
 個人的に、人工知能関係のネタに関して取材していた素材を無理やりくっつけた感が否めないのは、嘘をつくという活動が知能(多分、ある程度狭義)のなかでより高度なものであること(もしくは行動心理学などでそうされていることが多いこと、ただ、一部の行動学において、それにより行動主体の知能が『高い』と表現するには個人的には同意しかねるので知能の1つとして『高度』と表現した)としての説明があまりなされないままに、その技術的進歩よりもそれらを認知する側(人工知能にとっての相手側、要はヒト)が、「いやいや、だましたりするのはあかんでしょ」といったヒトに置き換えた場合での認知とそれに伴う感情、感覚、判断を優先させると、その実態や原因などとは無関係におおくくりの人工知能に属する対象という意味で延長線上の不祥事として「Tay」があり、先のそれらを認知する側が相手(ここでは人工知能だが、当人の経験則によるならばほとんどの場合ヒトと同一視、もしくは混同している)に求める都合によい「倫理なるもの」があった方がいいでしょ?という作り出した筋書きが見えなくはない。
 ただ、多分、勝手な想像だけども、榊原氏は人工知能自体が直接的に倫理を持つという認識で開発等を行っているわけではなく、主にソフトウェアなどのライフサイクルにおいて考えられる、例えば開発などに携わる技術者倫理であるとか、提供する上での倫理、維持する者の倫理、ユーザの倫理セキュリティ、教育、廃棄などに関する倫理などに細分化して考察、検証するものだと認識しているのではないかと思う。
 技術という領域として、将来的に人工知能の「知能」(広義)が狭義の「知能」に影響すると考えられている様々な制約条件や能力(主に機能)や性格、倫理観などと不可分であるとなったとしても、提供する側として、中長期的には、それらを何らかの形でパッケージ化するなりモジュール化することがより多くのニーズをすくうことができるという観点から考察される可能性はあるとは思うけども。
 結局、榊原氏が『どこまでがきちんとしたAIか(編集点)社会全体でAIリテラシーを上げる必要がある』というのは、編集点前後がどうなのかは分からないとしても、人工知能を活用するユーザ、もしくは人工知能の機能、出力などに係わる者に存する人工知能に対する適切な理解や、その者自身に送られてくる情報やその者自身への行動、働きかけに対して適切に認知、分析(判断)、応対(行動)することに対して言及しているように思える。
 あと、ちゃんと調べてなくてあやふやな記憶に頼っていることもあるけども(というかちょっと調べただけではわからなかったとか言い訳してみる)、番組内で紹介された『倫理委員会』なるものが「AIEThER」を指すのであれば、「Tay」の問題だけからそれにつなげるのはちょっと乱暴すぎる気もしなくはない。
 で、要約すると、もうヒトが「Tay」の悪口言うのはよそうよ、ということかと。
 ということで、やっと本題。
 先述のとおり、「りんな」と「Tay」の去就の違いに関して比較できる情報ではないものの、「りんな」側の貴重な情報が公開されていたように思う。
 以前の繰り返しとなるが、およそ、知能は運動能力などといった物理的に機能を分解し解析すればある程度擬似的に再現できるものではなく、狭義(の1つ)においては、知の集積とそれに基づいた判断系のセットであるとか、広義(の1つ)においては、それらの前に認知や入力に関する系、後に行動・活動を行う出力に関する系、およびそれらが連続、並列し、内的環境や外部環境などに対してそれらの系を適切に機能を維持する統合的な系をも含む。
 ぶっちゃければ、知能なんてのは、入力と出力の事実と結果を数値化することでしか測定できないのは他の能力と変わらないとしても、その内部構造は実質的に解明されていないようなものであるために、求められた結果が出力されていれば、その内部構造は自由でいいはずともいえる。
 といいつつ、結局は「りんな」も「Tay」もインタフェースにヒトが自身の有する知能を細分化した形で概念化した機能をヒトの知能の概念化と同様にサツマイモのようにぶら下げているような構造が提示されていた。(学習手法なんかは当然違うわけだけれども)
 これは、いい悪いとかの話ではなくて、そもそもヒトを厳格にエミュレートした知能として機能する人工知能を開発するものではなく、ある程度特定の機能に特化したものであるがゆえになるべくしてなったと思える。
 また、ここのあたりは勉強不足でよく分かってないのだが、知能というのは何だか定量的でなければならないっぽいところがあるみたいで、ヒトの場合、当人の性格や環境要因は知能に含まないっぽい。
 で、これらのことを踏まえて、Excel顔文字が、怒り、軽蔑、嫌悪、恐れ、幸せ、悲しみ、驚きという感情のどれに近いものかという判断材料が開発者の判断系を通して入力されて「りんな」に適用されていくのを考えてみると、入力に対する「知能」としての反応(ここでいえば言語理解)に対しては意味があるのだが、「りんな」のコンセプトでもあり開発者の口からも出ている『女子高生らしさ』という属性が出力に寄与するのであれば、狭義の「知能」から外れた領域の内容であって、勝手な想像を加えれば、人工知能は、多くの場合、表面的に狭義の知能を満たすには広義の知能、もしくはそれら知能以外の領域も含めて知(情報)なり判断系なりを保持するか考慮しなければならないのか?もしくはそうすることによって破綻しにくいのか?とも思えてくる。
 また、開発者による『私たちがこういったデータを見ながら、それがきちっと学習されているのかどうかチェックしたりしながら、また学習にかける』という発言。
 これは、ことば、フレーズの感情を判断する膨大な数値群が、開発者による手打ちパラメータではないと思われるため、それらのデータは学習したものの出力がベースであると想定するならば、ユーザ側のインタフェースとは別に、開発者用の、ある意味「りんな」の教育者用、保護者用となるべきインタフェースが存在し、学習した内容を出力し、人間系で判断し、学習データとして再入力されているのではないか、という気がした。
 卑近な例として、WIREDの記事のような読み込ませているデータセットの誤りとか偏りとかに起因する求める「知能」が十分ではない人工「知能」が作成されてしまうのは、ヒトの教育の世界と同じように「知能」が望まれたとおりに形成されない(なぜそうなのかは別として)リスク要因のよくある事例として考えていいのかも知れず、そういったリスクに事前に対応すべく、ユーザ側のインタフェースから得られたユーザからのフィードバックによって既に発生した危機インシデントに対応するだけではない予防や事前対応が可能なシステムによって適正化が図られるようになっていると考えていいような気がしてきた。(番組中で紹介されているのは感情だけだったが、そういった事項だけではないはずなので)
 ただ、番組中に出てきた、ことばやフレーズの再学習を、例えばすべて「怒り」を1に近づけたデータセットを投入するような改竄が繰り返し行われれば、結果として「Tay」と同様な行動を取る可能性もないわけではないし、それはヒトに置き換えると、単純な洗脳と同じ手法ということになる。

 と、とりあえず書いてみたけど、結局「知能」ってなんだろね、という。
 文中で、途中から段々「知能」の定義がばらけすぎて面倒になって大雑把になってしまったし、本来はちゃんとすべきところなんだろうけど。
 ちなみに、耳たこな話だけれども、人工知能の「知能」というのは、intelligenceなので、語義からいえば、とある範囲の中から選ぶ能力を有する、みたいなものなので、これも先の判断系のみに焦点を当てたシステム、系といえる気はする。
 ひどい言い方をすれば、性格なんてのは、選んだ結果から導いて他者により名付けられるカテゴリに過ぎないということかもしれないし、環境なんかも含めて、外部から判断するとしてどちらが先か、という観点から判断系だけに絞り込むという考え方なのかもしれない。
 また、同様に知能指数などにおいては、創造性やひらめきなどとは区別、除外するようにしているのも、「範囲」という設定されたものの中から「選ぶ」といった行動、活動にはそぐわないということがあるのかもしれない。
 とはいえ、人工知能を語っている場において、「知能」と「知性」について取り違えているのか、最近世間的に意味が変わってきているのか謎だったりするけれども、辞書的には、どちらも創造性やひらめきといった事項を明示的に含んでいるわけではない気がするのだが、どうでもいいか。
 辞書的には「知能」は、主に判断系、「知性」の扱う範囲は、判断系の前後を含む先述の広義の「知能」ではあるものの、哲学神学などで用いられることも多い関係上、どことなく中二病っぽいと感じるか、知を扱う内的外的活動のなかでもよりポジティブに祭り上げる事項や手法、内容を指すのかは人それぞれなので、個人的に適切に定義しないと使いづらい。



 それにしても、解説の山川氏が最後に「AIが見破ってはいけない嘘もある」と言い出して噴いたけど、何というか色々と台無しだなぁ、とか。
 リハどおりなのかどうかは分からないけども、これはちゃんとオチつけなきゃ!とか思ったのかもしれないなぁ、とか考えてみたり。
 いや、まぁ、うん、、、4月から特にだけど、構成が甘いというか何と言うか。
 人のことは言えないんだけども。