学級崩壊 その3

 今回は、昨日に続き、こちら(唯一無二の王)の記事の感想を書きたいと思います。

 まず、記事参照先の過去の記事から。

 初、うちの子に限って体験より
 『「責めてはいないです。確認をしただけで、娘さんがやったか、やっていないかは、正直、真相はわからないんです」とのこと。』。
 さすがに、この発言が出た段階でおかしいと思うのは、酷な話なのですが、その後の状況から判断すれば、小学1年生に大人の論理で仲裁しようとしているあまりよろしくない対応であることが分かります。低学年の場合は、過去の経緯を把握して善悪を判断し咎めるのではなく、教師がつかみ合いのけんかを確認した時点の情況自体(要するに、理由はどうあれけんかをしている状態そのもの)について双方にけんかはいけないことを指導すること。双方の興奮が収まったら、双方の話を聞いて受け止めてあげること。犯人はあなただからあなたの行動が悪いという方向ではなく、あくまでけんかをすることが悪いことを知ってもらうこと。状況説明を双方の保護者に連絡した場合も、「見てなかったからよくわかんない」「あなたのお子さんが(or相手のお子さんが)悪かったです」などは言わない。これは、保護者間で代理戦争が起こることを防ぐ目的もあります。また、保護者と担任との信頼関係がある程度醸成されているならば、担任から「一方的に責めるとか、悪者を探し出して糾弾しようとか積極的に行わず、子供の発言に耳をかたむけて受け止めてあけて欲しい」と伝えられれば、よりよいのではないか。と話すことが多いです。ただし、外傷が認められる場合は、その限りではありませんが。
 当然この方法は、万能ではありません。一方が酷薄な悪意を持っていたならばいくら他の教育論者が少年の可塑性を叫んだところで、私は無理だとは思います。ただ、この方法は、今後つかみ合いのけんかに至る前に双方が落としどころを見つけることを学習する機会を与える重要な役割を果たしていると考えます。
 『被害者と娘は、先週末にこの事件があったのに、今週も仲良しで遊んでいる。』という状況から推察すると、上の「双方が落としどころを見つける」能力が備わったわけで、著者の対応はすばらしかったと思います。
 『まあ、トラブルが起きると、いい情報も、悪い情報も、飛び交う』。
 まぁ、本来、トラブルが起きないために、通常状態においていい情報も、悪い情報も保護者間で情報提供しあうのが担任の責めだと思うのですが、現実は悲しいところにあると言わざるを得ません。連絡帳なんかも、もともとそういう意味を持っているはずなんですが、ただの義務になっている教師も多いです。

問題児ならぬ、問題親より
 基本的に学校内で怪我をした場合のマニュアル(保護者に確認(=許諾)を得る項目まで)が完備されています。地域によって違うとは思いますが、怪我の内容や程度によって校長は書面で教育委員会に報告する義務が生じますし、その場合は、校長の査定に響きます。
 また、以前はモンペ対応も担当が責任持て、みたいな風潮がありましたが、もはや責任云々言ってる場合じゃないと現場を理解した組織では、校長、副校長、教務主任(場合によっては+生徒指導やスクールカウンセラーなど)がよってたかって封じ込める学校も増えています。学級経営という言葉が使われ始めて久しいですが、「経営」がお山の大将でクラスを私物化することではなく、学校という組織がクラスを一つのディビジョンとして捉え、最適かつ効果的な運営を行う方向に進化しつつあると思います。
 ただ、マスコミを賑わす学校の不祥事は、上記内容にはほど遠いことが多いようにも思いますが。
 ここでの著者の対応ですが、ご本人は『対応まずい』と思われていますが、その後の問題を含めて考えると先手が打てたかもしれないということかもしれないのですが、この件だけに関してだけを取り上げるならば、問題はないように思います。逆にゴネた場合、前出のとおり校長の査定に響きますからブラックリストに載ってしまいかねません。とはいえ、個人的な感情ですが、私が娘の前歯が折られたなんてことがあったら、後先考えずに学校に乗り込んでしまって、みごとにモンペ扱いされそうです。

コレも人権、アレも人権より
 きたか、やっぱり。想像していたとおりだったか。もはや運が悪かったとしか・・・。絶対に学級崩壊の事例集に載らないパターンです。
 これだと、さすがに校長を悪くは言えない。ある意味校長も被害者ですね。私の周りには、身の危険を顧みず市に圧力をかけてまで予算を勝ち取った校長もいたにはいましたが、この人は明らかに常軌を逸脱しているので例外扱いですが。(私が小学校時代に「伝説の前校長」と言われてた人)

そして、本編。
 『もっと怒れば良かったのかなぁ。』。
 お子様の心情を察すれば、後悔なされることがあるかもしれませんが、家族の安全を考えれば、正しい選択であったと思います。

 『公立小学校というのは、引継ぎが本当にできていないことが多い。』。
 管轄ごとに引継ぎに対する温度差が違いすぎる気がします。傾向として悪いところは管轄内全体が悪く、良いところはおおむね良いように感じます。
 先行している学校では、詳細な引継ぎもさることながら、学年が上がって担任が変わった場合は前担任がケアに入ったり(転任した場合は無理ですが)、養護教諭とクラス担当教員との連携を強くする方法を模索したり、監督自治体が違う小学校と中学校とも情報連携し合う取り組みがなされている状況から考えると、かなりお粗末な状態かもしれません。ただ、これもそれを阻止する勢力もありますから、必ずしも生徒のためを思った行動を中心に最適化されるわけではないのも事実です。
 また、上記の悪い場合においては、著者のいう『親たちもそういう状態だとは、あまり知らないだろう』という状況は、裏返せば、「担任が知らないので保護者に教えようがない」ということではないかと思います。多分、普通の感性であれば、「私、全く生徒のこと分からないんで教えてくれよ」なんて言えないと思いますし。ただ、こういった空白状態が続けば、根拠のない噂話さえも貴重な情報として伝聞しまうために話が大きくなりやすい土壌であると言えるのではないでしょうか。著者のように先生方と情報共有を図る方向に意識が向いていれば、噂が誠になるような状況は起こりえないと思いますが、その意識が逆方向に向いている方が大勢を占める状態なら、危険性は高まるのではと考えます。

議事録なかった

 某長谷川なんたらさんの発言が、各所で話題になっているのですが、その発言のソースが掲載されていると思しきアドレス(総合教育会議【平成27年度第3回】)には、議事録がありませんでした。
 なんか、出遅れたみたいです。削除されてしまったのかなぁ。
 各報道を見た限りでは、どう考えてみても「真っ黒」なんですが、ここに『言葉足らずの部分がありました』とある(ただし、なにが足りないのかには触れていない)ので、こんな偉い公的な役職に任命されるほどの稀有な人物だから、実は何かあるのか?とも思ったりして見てみたかったのですが。
 言及した内容については、「優生学信奉者の再来」とか「正論だろ」とかいろいろ言われていますが、個人的にはもはや面倒くさいのでその内容自体の善悪について感想を述べる気がしないのですが、一つ言えるのは、個人の思想と公的立場としての思想的発言は別であるということでしょうか。芸術関係の方らしいですが、これまで積み重ねられた上に成り立っている社会倫理学とか社会哲学についての常識レベルな知識は、公的な立場である以上、必要ではないかと思います。