意識なんたら「系」

 いつからか使われ始めて、思った以上にそのときの感情と対象物のイメージを表現しやすいものだからついつい使ってしまいがちな「意識高い系」。
 ただ、意識高い系という言葉が辞書などでオーソライズ(その道の権威によって正統であると認められ、その拠り所がある状態)されたわけではなく、未だにその単語の練成期にあたるのかもしれないし、単に流行り言葉として分類されてしまい、オーソライズするに値しないという扱いなのかは分からないが、いずれにせよ他の単語に比べてある程度その表現内容に幅ができてしまいがちな単語であるといっていいと思う。
 ただ、意識高い系という言葉の意図するところにおいてゆれの少ない領域は、「意識が高い」と表現できる人と比較して、その特徴を真似てはいるが実が伴っていないことを外部から判断し、ネガティブな感情を合わせて表現するもののように思われる。
 もともと「意識が高い」ことは、当人を有能たらしめる一要素であるはずで、その実が伴っていないということは「意識が高い」人に比べて能力が低いということになるといえる。
 ここで、能力の低さに関して相対的なものか絶対的なものか(先の文章では相対的なものとしてみた。)は、単語の使用者によって変わる気がするし、表現する対象者の無能さ度合いがどのレベルでなければならないという規定があるわけでもないし、すでにこのあたりの条件においてでさえ、それなりの齟齬が生じているようには思う。
 さらに、能力などという数多くの複合要因で構成されるものにおいて、一次元的な高低で表現することは情報伝達の誤りを産む原因にもなりかねない。
 例えば、表出した意識高い系の特徴が異なる者同士のののしりあいにおいて、双方相手の能力が低いことを主張してはいるが、別次元軸での評価であるため、話に折り合いがつかない、などである。(自己肯定力と他者否定が強ければ、例え同一次元軸でも折り合いはつかないかもしれないが。)
 また、「意識高い系」に相対する表現として「意識低い系」という言葉も見かけるようになったと思う。
 ただ、この表現について、私自身、発言者の前後内容からその背景や意図を総合的に分析して一般化できるまでに至っていない。
 まず、先述の意識高い系に対する意図から意味を逆にしてみると、「意識が低い」と表現できる人と比較して、その特徴を真似てはいるが実が伴っていないことを外部から判断し、ネガティブな感情を合わせて表現するもの、であり、「意識が低い」ことは、当人を無能たらしめる一要素といえる、ということになる。
 ここで問題になるのは、「実が伴っていない」ということは、対象者が有能であることを指すため、それをネガティブとして表現することが表現者として有益な手段として利用できるのかどうかということがある。
 また、意識が高いことと意識が低いことにおいて、当人の意識の持ち方を考えると、前者は当人が様々な努力を自主的に行うことで高められ、その結果として高度な各種能力がもたらされた状態であるのに対し、後者は努力して意識が低い方法を意図的、意識的に選択したわけでもなく、なんらかの能力が劣ることがそれなりの努力をしたにもかかわらずダメなのか、努力の方向が間違っているのか、何もしなかったのか、やりたくなかったのかという要因も考慮すべき(前者においてもとある努力がある能力に1対1で必ずしも対応しているとはいえないが、およそ結果がよければ論理的に問題があっても許容される向きがある)ところだと思う。
 これとは別に、人の性向に対して使うのではなく、能力が低かったり、低所得であったり、不摂生、こだわりのないことなどに甘んじる層をターゲットにする衣服や食品などを揶揄するために「(店やブランド)の(商品名)は意識低い系だからいや」的な表現をするために使われることも多いように思う。

 という前置きをもとに、増田の「自分を「意識が低い系」と思い込んでる人達の大半は間違ってる」とその参照元である「意識高い系の人間は意識低い人間がいることを知らないみたいだ(※なぜかうまくリンクが貼れないorz)」を考えてみたい。
 まず、前者は後者のレスにあたるが、要約するとすれば、自称意識低い系は意識が低いのではなく無能であるということである。そして後者は、著者の定義する意識高い系の性癖の持ち主と著者が定義し自認する意識低い系とは相容れないという内容である。
 で、考える以前に、先ほどの前置きとこの前者、後者の発言内容における意識が高い/低い、意識高い/低い系のそれぞれの意味合いが微妙に違っていて、考察を進めると相反したり一致してしまったりしかねない、というオチをつけたかったという話である。

 というわけで、言葉の定義の話としてはここまでにしておいて、少しだけ感想を。
 後者は、能力が不足している者のベンチマークとしての特徴を外面的に振舞うことで意識低い系であることを真に嘱望しているとして、その状態で一私企業からはじき出されない状態が続けられるということは、能力が不足している者にはない能力を具備しているのだろうし、また、ありがたいことにその能力を評価し、雇用契約を結ぶ会社に対価を払うだけの価値があると具申する者が何らかの形で存在するということだと思う。
 社長さえ一目置くほどのぐうの音も出ない能力を持ち合わせていない限り、実績よりも表面的な特徴やそれに対する感情や仕事への表面的な姿勢など数値化しにくい領域で評価してしまう企業が多い中、自らの人生観と合致しそれを受け入れてくれるよりよい就職先を選択したものと思う。
 ただ、人材の流動性が激しい場合や自らを会社にとって価値があるとしてくれている者がいなくなるなどの状況に遭遇した場合、意識低い系のようなとがった者をどのように判断されていくのか未知数であり、当人自身のリスク要因である。
 著者は投資を嗜んでいるようなので分かりやすいことだとは思うが、このような中長期的なリスク要因をどう判断し、どこに節目があるのか予測する必要があるかもしれない。
 前者の立場の場合、意識が低い者も意識低い系の者も自称意識低い系をアピールする者も、当人の能力を客観的かつ正確に測定することは容易ではなく、いずれにせよその表面的な特徴から無能者として扱わざるをえないことに変わりはないわけで、その判断にさして問題があるようにも思えない。
 また、対象者の行動と結果の知見の蓄積に伴い、その行動領域において無能であると明らかに認定せざるをえない状況も場合によっては出てくることも難くない。
 しかしながら、なんらかのミッションを達成するために無能であることを知らない人が無能であることをを知ったところで、残念なことにその人が無能であることに変わりはない。
 個人的な経験での話であるが、ミッションを遂行するための組織において、ある程度固定された人員で組織運営する場合、その組織のリーダー、マネージャーなどにおいては、無能者を収監するよりはなんらかの形で利用する方が組織の遂行能力は上がったように思う。(ただし、その方針に対する組織全体でのコンセンサスは必要。)
 ただ、これはリーダー、マネージャーレベルの話で、下っ端同士がこのような状況ならば、手の打ちようはほぼないとも言えるが。
 とある企業人が「無能と嘲笑う者を有能に働かせて初めて有能な管理者となる」ということも言っていたりするので、一歩下がって深呼吸して、もったいない精神を働かせてもいいかもしれない。
 とは言え、そのコストに見合わないなら当然切っていいとは思うが。


 さて、数年後に「意識低い系」がどういう理解になっているのだろう。