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 追い込めば 言い訳始める 子供かな
  −−季語なし、何もなし

 祝祭日ともなるといつも行っているスーパー(もちろんいつもの業務スーパー)にも普段見かけない客層の者が買い物にやってくる。
 今日見かけたのは、どちらかと言えば、買い物というとショッピングセンターに出かけていそうな風貌の母娘(娘は多分小学校低学年ぐらい)だった。
 駐車場から私がいる駐輪場まではっきり内容が聞き取れるほどの大声で叱り飛ばしている母親の話を総合すると、もともと買い物をする母親のそばを離れない約束で店に連れてきたが、娘の方がやっぱり飽きてしまって駐車場で待っていたのを咎められたということらしい。
 確かに大人の論理からすると母親の言い分はもっともなことだろうし、その問題点に対してしつけなり何なりのアプローチを行うのは、保護者としての職分としてありうべき事項であろうと思う。
 ただ、興味深いのは、それから先の手法である。
 散々言葉で畳み掛けたあと、何も言えずに体を強張らせている娘を上から睨み付け、
「なんで母さんから離れたの!答えぃや!!」
と一喝した。
 予想どおり娘は半泣きの声で
「お母さんにな、外に出る言うて・・・」
という言葉を強く遮って、
「そんなん関係ない!他には!!」
と続けた。
 後はどうせテンプレな形に収束するため、私はその場を離れた。
 私がとんだデバガメにされた気分で無駄に凹むわけだが、ある意味ここまですがすがしいテンプレを見るのも久しぶりなため、書き残しておこうと考えた次第である。

 映画やラノベなどにおいてもよくあるシチュエーションとして相手にどうやって勝つのか、と考えた場合、数多くの手法が考えられているが、およそ使い古されてあまり面白みはないが現実的な選択肢というものとして、相手を上回る圧倒的な火力で殲滅するとか相手の心を折る(組織なら組織的な活動を麻痺させる)ことで勝つなどという方法が挙げられるだろう。
 ここで、「心を折る」というのは少し語弊があって、某ガンダム乗りのように粉砕骨折したかのような状態を指すのではなく、とある戦闘に勝利するために一時的に戦力を減退させることを機能せしめるための一手法に過ぎない。
 戦闘直前や戦闘中に使う一時的なアイテムのようなものだ。
 ただ、そのアイテムが一時的なものではなく一方の恒常的なアビリティとなった場合、もう一方は戦闘中はずっと心が折れた状態が続くということになり、それが双方にとって当たり前になるだろう。
 そして、心を折った側もそれを忘れ、心を折られた側も折れていることを次第に忘れるなり、何らかの自己防衛機制で心の均衡が低いレベルで瓦解しない程度でぎりぎり保たれている状態と気づかないかもしれない。

 また、心を折る方法などは思った以上に多数転がっている。
 過去(小学生のころ)にクソ田舎でネコを半外飼いしていた関係上、ネコの縄張りに関するケンカや地域のボスがどのような行動をとるのか確認する機会があった。
 実のところ、地域などによって違ってはくるのだが、一般的によく知られている「物理的に高い位置にいるネコが優位な立場になる」とか、「(交尾ではなく)ケンカでマウントされた状態でのかみ傷や逃走時につけられた引っかき傷やかみ傷(主にでん部や太ももの裏など)を多くつけられると急激にその地域のネコのコミュニティの下層に位置付けられてしまう」とか、某闘犬マンガかよと思われそうだが、「ボスネコの力が他を圧倒している状態では、たとえ新入りがいきがっていても、ボスが全く手を下さず一喝しただけで糞尿を周囲に撒き散らして逃げる」などというような場面に出くわすことがあった。
 結局のところ、なわばり争いでいつもいつもタマを取り合うレベルのケンカをしているようでは、人間のように医療が充実しているわけでもなく自らの生存を脅かすようなけがをする可能性をできるかぎり避けながら、生存のための餌場の確保としてなわばりを維持するなり拡大する行為とバランスをとっているようだ。
 そのためのいわゆるスポーツでいうところのテンカウント制とか20秒ルール(昔は30秒とか25秒だったが)などのような、なんとなくその地域のネコのコミュニティにおけるこうなったら勝敗が決定するよ的なものがボス不在の激動期のような止むをえない状況を除き存在している気がする。
 それが、地域によってそれなりに微妙に違うことから後天的なものなのか、それとも種の維持を絶妙なバランスで調整する本能として先天的に備わっているのかは、生物学者でないので断定はできないが、個人的には、ある程度は他の絶滅していった多数の種と比べて生存するための先天的な能力(というよりかは機構のようなもの)とそのバランスが優れていたからではないかなぁと思っていたりする。
 で、一応生存するための本能があるとした上で人類を考えたときに、宗教的な問題は別として考えてもらうとして、それなりの何らかの生存本能に基づく能力が具備されていてもおかしくないようには思う。
 先のネコの事例のとおり、物理的な傷つけあいで他より優位に立つことが生命の危機に直結する危険性ではなく、社会性の喪失、逸脱を招くことから忌避せざるを得ないのならば、こういうシチュエーションになったならば勝負が確定するといったことを相互に認識せざるを得ない状況に持っていくなどの様々な物理的な攻撃を用いない相手の制圧の方法がかなり低層のレイヤでそれなりに規定されているのかもしれない、とも思ったりする。
 ただ、社会性を基盤とした本能的なものは、人間が何ひとつ外界と接触せず何も教えない場合は、言語や現代の社会秩序といったものを体得できないのと同じでそもそも存在していないのではないかとは思うのだが、様々な社会性を具備した状態(過去の歴史上に存在するような各種の社会性)における何らかの情動と当人の認知し得る知識などがかみあわさって様々な行動に結びついている気がしなくはない。(ここな辺りは、ある程度哲学的な範疇なので各論あるとは思うが。)
 人によっては、社会性を身につければ身に付けるほど、その社会的基盤内で他を制圧する手法を編み出し実行する者もいる。
 そういったことでさえ、データとして取り出せる形式知や場合によっては人間関係などでの暗黙知として受け継がれていくことを考えれば先のネコなどと比べれば格段に手法は入手しやすいもしくは知らず知らずに具備している可能性もあるだろう。

 前提ばかりだが、物理的な傷つけあいであった場合、傷つけることが物理的に無理になることで勝敗が決まると言っていいだろう。
 社会的なツールの上で一方が他方を制圧できたかどうかを判断するには、社会的なツールを使うことができなくなった時点で勝敗が決まるのではないかと思う。
 社会的なツールの一つとして言語、いわゆる話すということ、があるが、上に習えば、一方が発話できなくなれば制圧できたことになる。
 さて、至るところで「なぜ」の重要性とそれを行うことによるブレイクスルーについて説く者が多いように思う。
 かく言う私も過去の記事でよく書いていたりする。
 しかしながら、多くの者が説くということは、多くの者がなかなかできない困難な課題であり、それを乗り越えることで他に先んじることができるということである。
 要は「なぜ」という行為は難しい、ということである。
 逆に言えば、相手に対して「なぜ」を繰り返せば、社会的なツールとしての言語を扱う領域としてかなり難しい袋小路に突入させることが可能であるということであり、非常に低次元な手法ではあるが、即効性に優れた手法でもある。
 こういった状況を打破するような真っ当な手法や詐欺的手法は各種あるが、それが一般的に具備されるものではないように思うので除外していいだろう。
 また、親子程度の年齢差があった場合、たとえ親側の論理性や知性が一般的なそれと比べて疾病レベルではないが格段に低かったとしても年少の子供よりは言語を扱う能力に長けていると考えていいように思う。
 また親子関係として子を親の庇護下にあることについて各種の制限なり抑圧なりをかけていた場合には、さらに子供側の社会的なツールとしての機能が削がれていく。
 と、長々と書いてはみたが、「なぜ」を提示するなり繰り返したりする際に、回答をすべて即断で全否定するなり、否定しやすい回答を引き出す質問にすれば、社会的なツールとしての言語というレベルにおいて封殺することが簡単だということである。
 社会的なツールの一つを封殺したならば、親に対して行使できる社会的なツールが非常に少ない子供にとって、それらの選択肢が尽きたとき「心が折れた」状態を呈するわけで、親としてしばらくは子供が扱いやすくなるという按配である。
 ただ、そういった、いわゆる昭和的な手法は社会的にあまりよい方法ではないと言われるためか、公共の場でそれを実行する者を目にすることは近年では少なくなったように思っていた。
 まぁ、何というか。
 絶滅危惧種的な何かなのかなぁ、と帰路につきながら考えたりした。