違っているという感覚の間違い

 ホットエントリに掲載された「「ふらいんぐうぃっち」の挑戦と生活実感」の記事をよんで、「なるほど!」と思うとともに、「よつばと!」と「ふらいんぐうぃっち」にまるっきり共通点を見出していなかった自分について少し分析してみた。

 下世話な話ではあるが、昨今のコンテンツビジネスの一環としてのアニメ化という行為自体、純粋に著者の意向が正しく反映しコントロールされ得ない事象であるという事実はあるにせよ、ステークホルダ(原作ファンやアニメ化された視聴者のみならず、あらゆる製作者、原作出版社、流通関係者などに至る関係者全体)のかなりの部分にマイナスイメージなり作品自体のポテンシャルを毀損してもプロジェクトにGOサインが出される場合も存在する。
 それを不健全か健全かは議論が分かれるところではあろうが、商業性(一部の者による商業的私物化も含む)と作品性の過度なアンバランスがとりあえず生じていないことが、まずは前提としなければならないかもしれない。
 というのは、事例を抽象化したときに想定し得る例外的作品としてそういった背景が存在するものが多く見られることに対する予防線に過ぎないともいえる。
 と、前置きをした上で、少しずつ抽象化する形で双方の作品を考えていくことにする。

 作品の人気度や原作ストックの多さから「よつばと!」がなぜアニメ化されないのか?という疑問を持つ者が多いのも事実で、著者が指摘するとおり、原作者のあずま氏に『何故アニメ化されないのかという問い合わせに答え』るなどという事態を生んでいるともいえる。
 また、その答えは『「よつばがよいしょよいしょっと階段をおりてきて、てけてけと廊下を歩き、でんっと玄関に座ってヘタクソに靴を履き、よっこらしょっと重い玄関のドアを開けて、元気よく家を出て行く。そういう、普通アニメでカットされそうな描写もやらないと、アニメにする意味が無いと思うんです。で、こういう日常の演技描写はアニメの最も苦手とする分野です」』(引用が長くて申し訳ない)であり、『よつばの動きをアニメーションで描くのは、アニメーターへの負担がとんでもなく重い。』と著者が指摘するように、クオリティを維持するためには、そもそも割らせられない(カット割の話ではない)がゆえの原画枚数の肥大化につながるわけで、予算との兼ね合いが非常に難しくなるということであろう。
 また、『それを活かす演出』として、実直に描きそれを正しく見せる(演出というプロセスを経ているので「魅せる」とあえて区別して表現する人もいるが)行為と同じくして、逆のアプローチとして正しく見せる基準を満たす状況を作るためにいかに描くか、有り体に言えばいかに演出レベルで安く上げるかという手法も一応市場主義の世界で活動している関係上、避けては通れないテクニックといえる。
 しかしながら、業界内の技術革新などによって若干の変動はあるものの、一般的にそういったテクニックの手数(てかず)は他のジャンルに比して日常系と呼ばれる領域では少ないのが現実的なところであろうと思う。
 こういう部分も含めて『アニメの最も苦手とする分野』という位置付けであるのかもしれないと感じている。
 ただ、個人的に、「よつばと!」には「よつばと!」固有の非常に困難な事象が存在するように常々考えていた。
 これは、「よつばと!」がアニメ化されないことに加え、メディアミックスがほとんど行われていないことから導出した。
 少し脱線して、メディアミックスという表現を用いたが、昨今の多媒体にドミナント展開するといった販売戦略ではなく、どちらかといえば原義(というか古くに使われていた意味?)に近い他媒体との連携を通じた価値の相互補完や全体的な高付加価値化を目指すもので、今風に言うと媒体同士のコラボという表現が正しいのかどうか分からないが、イメージ的にそんなものだと思ってもらえればいいかなとは思う。
 で、たとえば、「よつばと!」のドラマCDが出ているのかといえばそんなこともなく、作品イメージを楽曲化したCDが出ているだけである。
 また、小説化もされていない。(絵本は出ているが。)
 これとは別に、フィギュア化やダンボーの商品展開、まだ放送されてはいないが、ダンボー自体のスピンアウトともいうべき「にゃんぼー!」がアニメ化される。
 このような、キャラクター商品やスピンアウトは展開されても本編自体のタイムラインを別メディアのタイムラインに載せかえる展開は一切行われていないことに対して、いわゆる七並べのごとく誰かがことごとく止めているという考え方をしがちではあるが、別のところにも原因は潜んでいるのではなかろうか?と考えたところから始まる。
 そもそも作品名が何を意図しているのかは何らかのオフィシャルでの説明があったのかどうか知らないのだが、個人的に主人公である「よつば」に「と」という助詞が引っ付いたもので、その後の「!」でもって「と」以降をワイルドカード化した上で、何らかの感動が呼び覚まされることを示唆しているように感じる。
 ここで、「と」をどう定義するかであるが、「と買い物に行った。」というような、主人公と誰か(もしくは、感情移入する側にもよるが、どちらかが読者)がともに何かを行う動詞が来ることは容易に想像はつく。
 しかしながら、「と」には並列の意味をもって名詞を持つこともできる。
 また、この名詞には、「よつばの父」のような人物をあてることも可能であるが、行為にかかる動詞を項目化することで名詞として扱い、その一連の行為自体や結果、全体としての影響について対比することも可能である。
 大きく捉えれば、世界観そのものや世界観の一部との対比という考え方も可能になる。
 ただ、このことを主人公目線であると捉えてしまうと「と」である意味はなくなってしまう。
 主人公目線であるとするなら、「よつば」+「と」ではなく「よつば」+「が」で代替できてしまうからである。
 「よつば」+「と」であり続けるためには、多分著者でしか理解し得ない部分ではあろうが、条件付け(いわゆるキャラ設定)での通常空間とはかけ離れた存在である「よつば」と対比する部分と、各登場人物のキャラ付けに伴う行動特性によってもたらされる各種行動およびストーリー展開の部分と、各登場人物の劇的かつ急激な変容を伴わない心理的相互作用の部分について「と」で結び付けられているように思う。
 いわゆる日常系の作品としてこの3点のON、OFFで区分することも可能ではあるが、例示することは危険な行為であるのでここでは避けておく。
 脱線するが、たとえば「がっこうぐらし!」なんかは、原作者が1つめの条件付けでキャラの特異性から入らずに通常空間が特異性を持っているとしたらどうなるかという仮定から出発したというような発言をしていたと思う。
 で、「よつばと!」が他の作品に比べて重要視されているところは3つめであろうと思う。
 事実、ストーリー作成において成長を描くとするならば、何らかの変節点を設けてそこに至る心理的変化を構成する形になるわけで、結果的に変化をするなら急激な変容が行わなければより効果的にそれを伝えることができないとするのは定石と言える。
 また、いわゆる日常系においては、系が閉じている安定感を出すため、またその安定感をはみ出す起伏に対して「鬱展開イラネ!」と批判的意見が多いこともあり、基本的な設定に変更が生じるような事象は存在しないか、もしくは全く変化しない、させないことも多い。
 「よつばと!」でも、日常系であるがゆえに一見変化していないようには映る。
 だからといって「よつば」が全く成長しないのかというと当然そんなわけではなく、また作品が完結していないため何ともいえないが、基本的な設定に変更が生じるような事象の一つとして遡って参照されるエピソードになる可能性も残してはいる。
 昔、「よつばと!」における「よつば」の立ち位置と各エピソードにおける「よつば」の変化について現実の幼児教育にからめて記事にしていたのを読んだことがある(あらためて探したが見つからなかったが)が、現実においていくら子供の成長が早いからといって、とある単一のエピソードで子供の行動規範や思考構造が劇的に再構築されることなどほとんどなく、だからといって何一つ影響も変化もないことはないという点で共感できるというものであったと思う。
 結局、あずま氏の『よつばがよいしょよいしょっと階段をおりてきて、てけてけと廊下を歩き、でんっと玄関に座ってヘタクソに靴を履き、よっこらしょっと重い玄関のドアを開けて、元気よく家を出て行く。』ことに対し、たとえ同様の行為だとしても今と直前の行為とその前の、その前の前のという何度も繰り返される各々で違っていて、その意味合いも少しずつ変化していることにその子の保護者が「成長」として気づくのと同じように、『よつばが出掛けるまでの様子』が出かける意味以外の意味を「よつば」+「と」の後ろにくる人かモノか環境のような事象が受け取ることを表現する必要があるとするならば、ちゃんと動いているという機能を満たす以上にこれまでにないような演出などが求められるように感じる。
 また、「よつば」の行為自体に神(創造主=作者)による全体的な目的やミッションが明確に与えられていないことも重要な点であると思われる。
 およそストーリーモノの作品作りの基礎として主人公などがストーリーを通して何らかの指向性をもった変化(=成長)を設定するのが定石とされる。
 とはいえ、いわゆる「サザエさん様式」という指向性を廃したタイプ、「アンパンマン」や古いものだと「ポパイ」などのような指向性は存在するものの結果的に変化はないタイプも存在するが、あえてそういった点を意識して読むと一般的に日常モノと呼ばれる作品においても神が緩やかではあるものの指向性を設定していることに気づかされるが多いと思う。
 翻って現実における保護者の子育てを想定すると神(この場合、宗教的なものではなくあくまで誰でもない「何か」という存在)から目的やミッションが与えられるわけでも生物的変化はあるにせよ想定される変化が規定されるわけでもない。(宗教的立場と言う観点はこの際考えないことにする。)
 また、保護者の子育ての思想や方針などは、先のストーリーモノの作品と対比するとすれば1キャラクターの考えや指向性に過ぎない。
 だからといって何も変化しないわけでもなく着実に変化しいわゆる子供の場合などは如実な成長という形で実感できる。
 このような事象を抽象化して構築した枠組み(フレームワーク)としてエミュレートしているとも捉えることが可能なことも現実の幼児教育と対比することができる理由ではないかと思われる。

 で、一方、「ふらいんぐうぃっち」なのだが。
 ファンからたこ殴りに遭いそうだが、あくまで個人的な理由として、監督が桜美氏であることでアニメ版は毎回ひやひやしながら観ている口である。
 できればそんな先入観なしに観たいものだが、毎回オープニングのラストで監督名がこれでもかと大写しになると、「あ、あ、あぁー↓↓」と萎えざるを得ない。
 個人的に氏を全否定するつもりもなく(まぁ、一部やられちゃったファンの人は全否定する傾向にあるが)動きの見せ方やレイアウトはだれがやったのかがすぐにわかるような本人の色が出過ぎるわけではないものの、すばらしいと感じる。
 ただ、製作全体のなかで決められた方向性を表現する能力には長けているように思うが、自らがその方向性を決め表現する立場の場合、どうやら独自で咀嚼し、独善的に再解釈する傾向があるようで、時に原作ファンの一般的な解釈と大きく乖離することが見られるように思う。
 そういった意味で、いつ「独自解釈キターーーー!」などと言わなければならない事態に遭遇するのかとひやひやしていることになる。
 第6話まで観た限り原作と付き合わせたわけではないが、ほぼ同じじゃないかと思うのだが、個人的に常に最悪の事態を想定して視聴するのが信条なので油断ならないということにしておく。
 今回の話とは関係のない脱線になるが、そもそも「ふらいんぐうぃっち」原作の表紙などで描かれるカラーイメージをどうアニメで表現するのか興味があった。
 昔のセルアニメの場合は、原作のカラーイメージを落とし込むのはその工程上難しいところがあったわけだが、デジタル彩色が主流になった昨今、アプローチは違えども全体として受ける色のイメージが原作のそれに近づくように調整されていることも多くなったように感じる。
 で、「ふらいんぐうぃっち」原作の個人的なイメージとしては、パステルっぽい配色でありながら主張するところは主張するという形で、さらに空気感が全体に載っている感じだと考えていた。
 ここから勝手に想像して、例えば輪郭線を細くするような方法は原作の絵(白黒のマンガの方。Gペンでガリガリ書いた線の太さはないがトーンを多用しないため輪郭がはっきりしている印象をうけるため)から難しいとして、キャラの輪郭線を完全な黒から薄い色に変えるとかのアプローチだったりするのだろうかと思っていたら、OPがもっと露骨な表現で来ていたり、でも監督が桜美氏だから原作とは関係なく彼の得意な光の空気を通した投影を描写するような手法をとってくるかもと思っていたらEDがそんな感じ(まぁ、桜美氏のコンテ演出なので当たり前といえば当たり前だが)だったりしたわりに、本編は思った以上にスタッフ内で誰のアクの強さも出ていないような造りになっているのはほっとすべきか残念とすべきかよく分からない気持ちではある。
 さて本題に戻る。
 原作も3巻までしか読んでない上に作品が完結していない(してないよね?雑誌を追ってるわけでもないので分からないが。いやググれよ。)ため何ともいえないが、今のところ、作品世界に神から与えられているミッションは『「千夏」が魔女になりたい』という方向性であるように個人的には思う。
 日常モノを考える際に、この日常の描写と神からの指向性の二者においてどちらを主体にするかによって印象なり考え方なり何かの結論なりが相反することも多く、さらには一方を主体にして考えること自体間違っているという者もいるため、1つの意見に対して反対意見を持つものも多いとは思う。
 それを甘受するとしたうえで、神からの指向性から日常の描写を見た場合、「千夏」の所作は『「千夏」が魔女になりたい』というミッションに対する直接的な行為か、間接的なものか、行為そのものにほとんど意味はないが神が定めた箱庭(いわゆる世界観)を直接的に補強する意味を持つのかインターミッションのような間接的意味を持つのか、少ないとは思うがそれ以外かに分類することが可能になる。
 このとき、先の『よいしょよいしょっと階段をおりてきて、てけてけと廊下を歩き、でんっと玄関に座ってヘタクソに靴を履き、よっこらしょっと重い玄関のドアを開けて、元気よく家を出て行く。』ようなシーンが存在した場合、どこに該当するのか分類することができ、その行為の意味が規定されることになると考える。

 と、以上のような観点から、同じ行動を追うシーンであったとしてもカメラワークとしてカットを割らずに描くテクニカルな部分だけではない意味の違いがあると考えていたことと、そういった違いを正しく演出で表現でき得るものかどうか自分でもよく分からないし解決する手段も持ち合わせていないことでとりあえず完全に分けて考えることにしていたことがあったと思う。
 ただ、コメ欄をみる限り、「よつばと!」も「ふらいんぐうぃっち」もほぼ同じ傾向な作品であるという認識に立つ書き込みがほとんどであることを考えると、こういった考え方は正しくない(もしくは正しく想定された読者、視聴者でない)のかもという気もした。