凍ってる

 スペースワールドの氷の水族館の件でキタキュウマンのTweetが興味深かったので少し触れてみる。

 とりあえず、削除したわけではなさそうなのだが念のためコピペ。(権利上ダメかも知れないが一応参照ということで)

キタキュウマン ‏11月27日
この企画の何が問題だったかを的確に理論的に説明できる人はいるだろうか。残酷だからダメ?じゃあ昆虫採集→標本はいいの?

キタキュウマン ‏11月28日
私たちは普段から、・動物をペットと称し監禁し・オシャレと称し毛皮をまとい(革靴もレザーバッグも生き物の皮膚です) ・毎年600万t以上の食品を無駄にしているということを忘れてはいけない。その上でスペースワールドに対し「魚がかわいそうだ」と胸を張って言える人がいるだろうか。

キタキュウマン ‏11月28日
単純に「死骸の上を滑るのは気持ちが悪い」「申し訳ない気分になる」人がそういう感情を持つのは勝手。そう感じるのは当たり前。ただ私は、生き物の命うんぬんを、ここぞとばかりにスペースワールドに偉そうにぶつけられるような、そんなできた人間が今の日本にいるとは思えないと言いたいだけだ。

 で、この流れによる論法というのは、ディベートでいう別の論拠を用いた反駁と似た手法ではあるものの、持論の正当性のために別の論拠を積み上げるというパターンであるため、行儀のよいものではないと思う。
 とはいえ、別段それが競技ディベートの世界でのレギュレーションでもない領域なわけで、相手が納得すれば問題はないわけだが、残念ながらそうはならなかったというだけともいえる。
 多分、扱う内容が『理論的に説明』することを必要としていないと判断する者が多い場合は、持論を別の論拠で固めたところで無意味で陳腐な行為だと大勢として判断されることになってしまう。
 同様な構造の極端な例を挙げると、ある犯罪を犯した者が自分だけを罰して同様の犯罪を犯している者を罰しないのはおかしい。よって私を罰するのはおかしい、と主張するといったものである。
 また逆方向の例としては、とある偉業を成し遂げた者が自分だけを称えるのはやめてほしい。成し遂げた案件は私だけの手によってもたらされたのではなく多くの関係者がおり、その者も同様に称えられるべきだ、と主張する場合もある。
 こういったものは、当事者側の心情に基づく論理の積み上げであるため、同じ論拠が用いられても別々の結論が導かれるものともいえるものだが、どちらの論理展開もツッコミを入れやすい構造であるため、双方が否定的であれば平行線をたどるパターンともいえる。
 後者のような例の場合よりポジティブな方向を求めるものであるため思った以上に双方が衝突することはあまりないと思われるが、ネガティブな場合は双方をヒートアップさせる(よく言う燃料投下)として有効であると思われる。
 そういった心理的誘導という意味でよく練られている気がするのだが、どうなんだろう。
 さらに興味深いのは『そんなできた人間が今の日本にいるとは思えない』ということからすれば、逆に悪が自らと同じ悪を糾弾するのも理にかなっているとは言えないのではないか?という矛盾にたどり着いてしまう。
 これは、特撮ヒーローモノで悪者を悪だとして糾弾し滅ぼすのも見方によっては悪ではないのか?という哲学的発想にも近いもので、特撮ヒーローの流れをくむいでたちのキタキュウマン自身の存在の矛盾を自らが突いている気がした。

 で、個人的には実物を見たわけではないので出回っている写真から推測するしかなく、不確かな情報であまり書きたくはなかったのだが、誤解があるかもしれないことを先に断った上で、せっかくなので書いてみる。
 まず、感覚的な点においては、個人的には、別に標本などとあまり変わるわけでもなく心理的に云々ということはない。
 逆に氷の透明度が高く観察が真近で可能であるならまたとない好機だとさえ感じる。
 そもそも普段食っている魚類自体ほとんどが冷凍(氷づけとは限らないが)なので食品の上をまたぐといった料理や食事の作法に反すると習慣的に感じるだけで例外的に推奨されている場であるのならば特に抵抗はない。
 それこそ展示期間が終わったあかつきにはみんなで煮て焼いて食うイベントをやるとかなら個人的には大歓迎かもしれない。(場所が九州で遠いので行けないわけだが。あと、それこそが食品衛生上問題がある、とか指摘される可能性はあるがここでは考えないことにする。)
 ただ、滑走可能な場所で生体が露出するのは衛生上および転倒時などのけがにつながるといった事故、さらにはそれらの施設管理、安全管理に関する組織(母体企業)の基本理念などを問われかねない由々しき問題であろうと私は思った。
 ただの展示物ならまだしもスケートリンクで魚が観察できる深さでありながら露出もしないなどという無駄に高度な技術(一応食品などの冷凍技術の転用ということになるのだろうが)が必要である上に、スケートリンク自体のメンテナンスも考慮すれば、一般的なスケートリンクの維持管理と比べてまた別のノウハウの蓄積が商用に耐え得る品質を維持する上で必要なのではないかと感じていた。
 しかしながら、写真を見た感じでは、生体が露出してしまった箇所は応急的にタオルを被せるなどといったお世辞にも組織として周到に準備されて管理・運用されているとは思えない現場対応(現場レベルの判断としては最善を尽くした結果だとは思うが)であるところから考えれば、商用サービスとして提供するには域に達していないということだったのかもしれないと感じた。
 あと、余談だが、数十年も昔に、ガキだった私はスケートリンクでフナの氷づけを見たことはある。(どことは言わない、問題になるかもしれんし。もう施設はすでにないはずだが。)
 ちなみにこのときは露出しないようにだとは思うが最深部に氷づけにしてあったために氷表面をきれいに磨いてなんとなく分かるという程度だったわけだが、エッジで削っても魚が分かるレベルで生体を配置するさじ加減など狂気の沙汰な気はする。
 もし私がメンテナンスする側だったら正直ご免被りたいというか裸足で逃げ出すかもしれない面倒臭さがあるように思う。
 多分、的確かどうかは分からないが『理論的』なネタとしてはこんなところかと思う。

 まぁ、冒頭でも書いたようにそもそも企画自体が何をメインにして具体的にどういったことをやったのか断片的にしか分からない(中止したので当然オフィシャルHPにも掲載はない。)わけで、企画の各々がすべてが悪いのかいいのかどこが悪いのかは分かりにくい状況ではあると思う。
 ただ、個人的にはオフィシャルHPに「いきものをイベントとして使うのはおかしい。」という意見まで寄せられているところまで行くと、スーパーの実演販売(どうでもいいが、カニの実演販売とかで生きたカニをゆでるのって結構むごいんだが。氷水につけてぶっこんでも。あとマグロの解体とか魚を目の前で三枚におろしてくれるとかもってのほかだろう)や果ては目の前で寿司を握ってくれたりすることさえも心理的負荷が高いということになってきている可能性も感じたりする。
 その昔、教育現場で都市伝説として語られる魚の絵を書くと切り身やエビフライが海で泳いでいるという話に代表されるいわゆる実際口にする食品の原材料が認知できない問題に対応するために官民挙げて様々な施策を打った関係上、食材に対する認知度はあがったわけだが、今度は、食材が加工され口に入るまでの過程やその作業内容などが不可触領域化されてきている(もしくは知ること自体が禁忌であるといった方向)気がするのにつながる事例なのかなぁ、とか思ったりいろいろ考えさせられた。

 ところで撤去した生体はどうするの?
 キタキュウマンが言うようにかわいそうとかどうとかいう感覚からではなく、単なる興味としてなのだが。