残り物

 書きかけで放置していたのを放出する。
 「はなてん」じゃない。
 散漫なのはいつものことだが、よりひどいと思われる。
 いろいろ合体してるし。
 言い訳おわり。
 以下も言い訳。



 個人的な印象として相変わらずスルー力が試されることが多いBizGateなわけだが、タウンワークのCFと同様な語呂のよさとして「ネタにするならBizGate」的な感覚が維持されている。
 できる限り読むこと自体を避けているのだが、読んでしまうと何となく何かを書き残しておくというかある意味チラ裏を消費しなければ湧き上がるマイナス感情を払拭できないという衝動に押しつぶされそうになるわけで、もうめんどいのでそれに流されてみる。

 で、ネタは「「外堀会話」と「慢性言い訳」という病」というものなのだが、まず、BizGateであると分かっていながらリンクを踏み抜いたのは、簡単にいえば、かっこ書きの用語の中身が容易に想像できなかったからで、ある意味先方のセールストークにまんまと引っかかったということになる。
 で、本記事の著者である藤本篤志氏は若い人はその当時の状況を直接体験したことはないとは思うが、その昔USENにおけるたぐいまれなる敏腕営業マンとして世間的に取り上げられたことがあるような人物である。
 よって、著書も営業畑に関連するものが多いし、またそのタイトルが結構センセーショナルにあおってくるものが多く、個人的には営業外縁(営業事務とか管理畑)でいたことがある関係上、失礼ながらタイトルだけでおなかがいっぱいになったものである。
 それとは別に、過去に氏が「才に秀でた営業マンのノウハウをハウツー本や講演会で取得しても無意味であって、それに意味があるのなら才に秀でた営業マンが才に秀でた状態たりえない」というようなことをインタビューかなにかで言っているのを聞いて、氏自身が優秀なだけにそれだと自己矛盾しているよなぁ、と思って以降、ある程度警戒心を保ちながら氏の文章等に触れるようになったように思う。
 こういった前提があるところからして、原則としてはBizGateであることを差し引いてもネガティブ寄りな捉え方にならざるを得ないというのが正直なところではあった。

 さて、自分向けの備忘録として書き記しておくとすれば、とりあえず、かっこ書きの用語の説明だけでよいことになる。
 というわけで、それを書くと、「外堀会話」とは、相手のことばに対して『「何となく言い訳を言いながら直接の答えを回避する」喋り方』で言語的やり取りを行うことである。(「言い訳を言う」というのもそのくどさを表現するにはなかなか面白い手法ではある)
 ここで、『何となく』という限定的表現がされているが、この明確な解説はないように思われる。
 ただし、『外堀会話と同じぐらい拡散してしまっている病は、言い訳だ。』としていらため、単純な「言い訳」ではないとは考えるべきではあろうが。
 また、この対義語として「返球会話」という用語定義がなされている。
 次にタイトルにある「慢性言い訳」だが、文中には「慢性言い訳」という形では用いられていない。
 もともと書籍を再編集したか抜粋したかという形態であるっぽく、多分、コピペかなにかの関係ですっ飛んだ可能性は高い。
 全体的にみてよく言い訳をするよ、という意味はくみ取れるので、一応字句どおりだと認識していいようには思われる。



 では、これ以降は正真正銘のチラ裏というわけで、中身について触れていく。




 あるクライアントで、外堀会話防止策のレクチャーをしたとき、面白い意見が出たことがある。
 「弊社の社長に直接答えを返したら、倍返しになって怒られるので、わざと関係のない話から切り出すようにしているのです。そして社長の反応をうかがいながら答えを言うタイミングを見計らっているのです」
 この考え方は正しそうで、正しくない。答えるタイミングで怒られることが回避できるという考え方は幻想に過ぎない。どれだけ外堀から話を切り出したとしても、質問の答えをどこかで出さなければならない。単に先延ばしをして逃げ回っているだけだ。返球会話をすれば、社長に怒られたとしても次のアドバイスや指示が速やかに出されるかもしれない。しかし、長々と逃げ回った揚げ句に答えを出したら、怒りが倍増するだけだ。日頃からそのように逃げ回って、怒り倍増の社長の姿しか見ないから、悪い答えをすぐに言ったら怒られると錯覚しているだけだ。

 ただの算数の話なのだが、『倍返しになって怒られる』という言い訳の有無に関する社長の怒りの総量が
 しない:a1=x
 する :a2=2x
と定義しているのにもかかわらず、突然
 a1=x1
 a2=x2
 x1≠x2
とか否定して論理展開を始めるのはどうかとは思う。
 サンプリングバイアスが効いている可能性を疑ってもいいのでは?レベルならまだマシだろうが。
 で、個人的には、こういったサンプリングバイアスが組織システム内に固着してしまっている状況というのは、単純に個人の言動で端的、局所的に改善するものではなく、すでにシステムに織り込まれているとすれば、システム自体を何らかの形で活性化させて想定するあるべき姿に持っていく努力を行う必要があると思われる。
 その手法は非常に多岐に渡っていると思われるため割愛するが、その選択が『外堀会話防止策のレクチャー』であったのなら、それはそれでいいかとは思うが。
 要員がいっせいにスタートするのであればそれなりの効果はあろうかと思う。
 ただし、もともと固着していたシステムである以上、レクチャーの効果が薄れ始めれば元に戻ってしまうため、それ単体だけでは根本的な解決にはならなかったりするわけだが。(まぁ、それが定常的なメシのタネだとも)
 あと、そもそも社内、商談上で『返球会話』がふんだんに用いられない状況である会社の場合、その多くは社員にとって『返球会話』が行いやすいよい情報、質問があった際のよい答え、よい結果という手札が極端に少ないように経験上思う。
 事業は順調なのだが、保守的になりつつあるので、社員にもっとアグレッシブに活動してもらうためにこのような手法を用いるのであればいいが、そうでない場合は、悪い手札というマイナスな領域から極端に逆に振れる行動を強要することにもなりかねないため、社員に対しての負担だけが大きくなることにもなりかねない。
 とはいえ、当然のことながら、そういった企業の中でも自分だけがよい手札を持っているのなら『返球会話』は可能になる。
 あまり行儀のいい話ではないが、過去、そういった手法を導入したことで、暴力沙汰レベルの業績の奪い合いになった会社もあったりした。
 これも基盤となっているシステムのひずみを修正しないことに起因する手法の適用限界を超えた適用ということにもなろうかとは思う。
 あと、あくまで個人的な防衛機制の手前勝手な論理化ではあるが、『答えるタイミングで怒られることが回避できるという考え方は幻想に過ぎない。』というのは正しい。
 それでも遅らせる理由は、有限の時間を生き、時間的区切り(ピリオド)で様々な行為を行い、処理している立場からすれば、終点から逆算して現時点までの長短に評価(ここで言えば怒られること)が載っかったとしてどっちが楽だろう、という考え方である。
 実際のところ、『長々と逃げ回った揚げ句に答えを出したら、怒りが倍増する』とはいえ、それにはある程度の限界がある。
 先の載っかっている怒りの総量が単位時間あたりに按分されるとして、単純により短くなれば生命を脅かすレベルにまで凝縮される可能性はあるが、法治のレベルにおいてそれなりに限界が存在する。
 逆に、怒りを持つ者(先の例では社長)がねちっこい性格をしている場合は、思った以上に長期間減衰しないことによって怒りの総量を増やしてしまいかねないという考え方もできなくはない。
 で、この考え方が「個人的」であるのは、答えるタイミングを遅らせるという現象、結果だけを見た場合、同様であっても、その論理や当人の感情、感覚的な部分によって複数ある、ということでもある。
 例えば、もうダメだと分かっていながらも、まだいける、もっとやればうまくいくかもしれない、と思ってプロジェクトを継続してしまうとか(ギャンブルにのめりこんでしまう精神構造に近いのかもしれない)、『次のアドバイスや指示が速やかに出される』可能性は間違いなくないと断言できるような人事構造の会社にいたときは、社長の数値目標には到達していないが、社長以外には根回しを済ませている弱い手札(とりあえず、マイナスではない、程度)ばかりのために放置(一部では熟成と揶揄していた)しているなど、それはそれで、様々である。
 受けたことがないのでよく分からないが、当該『レクチャー』では、そういった点にまでフォローしてもらえるのだとは思う、思いたい。




それよりも、もっとわかったことは、悪い答えの場合は、ほとんどが外堀会話になるという事実だ。逆に、良い答えの場合は、ほとんどが返球会話になる。
(中略)
 結局は、それだけのことだ。怒りを先送りしたいという気持ちが、外堀会話を生んでいるだけで、引き延ばした分だけ怒りも増幅するという感情の流れを冷静につかみ取らなければならない。

 まぁ、そもそも『良い答え』をシニカルかつ婉曲的に発言することは、ビジネスの場面において適度な謙遜とはもはやいえないだろうし、ましてや昨今の承認欲求が強い者においては格段に『返球会話』への動機は大きいと思われる。
 裏を返せば、『悪い答え』に対して承認欲求なりモチベーションなりが働きにくいということになる。
 これを『もっとわかったこと』とあたかもすごい発見をしたかのように書かれるとカチンとくるというか、半ばあきれるとしかいいようもなくなるのだが、これは氏の持ち合わせるそのほとんどが『良い答え』であるがゆえの気付きということであろうと思えなくもない。
 個人的には、一応そんな気付きは学生のうちに知っておけ、と言いたくはなるが、それがなくても成功しているんだから、失敗者のたわごとなど捨て置いていいとは思うが。
 昔、京大新卒の知人が採用面接で中小企業の面接官に「○○さんは失敗して苦労したことないでしょう?」と皮肉まじりに言われたことを気にしていたが、どうすればよかったのかと私に問われても、私のような底辺の者からすれば、一流大学にいかなければひがみったらしくいわれなかったんじゃないかな?ぐらいしか思いつかなかった。(もちろん、そんな返しはしなかったが。)
 要は下っ端から見てどのような見られ方をするかという条件が付加されているという話で、有り体にいえば、上級な者が下々の者どもに何かを教授しようとしたときに、君の論理は君だから成り立つ論理だよ?と下から壁を作られてしまっては、説得がマイナスからの出発になるということを認識し、巧妙に自らの論理に組み込んだ上で開示しなければならないということだろうか。
 単純に有無を言わさず押し付ければよいという次元の話であるなら、どうでもよくはあるのだが。
 あと、個人的な経験の中で『良い答え』というカードを常に複数持っていたことがないので、あくまで仮の話ではあるのだが、『悪い答え』を『引き延ばした分だけ怒りも増幅する』のであれば、『良い答え』で引き延ばした場合は、どうなるのだろうか。
 喜びが増幅/減少するのだろうか。
 怒りが増幅/減少するのだろうか。
 それとも何も変化がないのだろうか。
 何か変化があるのだとすれば、『良い答え』を多く持つ者としてボスに対してより多くの喜びがもたらされるように振舞うこと、そしてそれを理論化することが『悪い答え』に対する対応に厳しく言及することとセットとしてあってもよさそうな気はする。
 ただ、『良い答え』を多く持たない者がほとんどである現実を踏まえれば、そもそも条件にそぐわないのだろうし、ましてやそれをなぜ下々の者に開示しなければならない?と返されればぐうの音も出ないが。




私たちは日本語を話しているのだが、この発想だけは適用すべきだ。お客様であろうが、社内であろうが、相手は何を知りたがっている質問なのか。「原因だ」「場所だ」「金額だ」「方法だ」「肯定か否定かの返事だ」等、ほとんどの質問が5W3H1YNの視点で行われていることを念頭におき応答する練習を繰り返すことが、言い訳をしなくなることにつながる。

 実のところ、相手からの質問という形態(そう推察できるかな?レベルの曖昧なものも含む)をしたもの(いわゆるっぽいもの)というのは、『相手が何かを知りたがっている』かどうかは定かではない。
 ある意味、定義の問題といえばそうなのだが、原則的に双方の意思が一方において完全に掌握できるわけではないため、言語による論理的把握に基づく意思疎通が必ずしも完全であるとは限らないことによる例外がありうるし、こういった言語による手続き上の問題よりも格段に厄介なのは、作為をもって本意は他にありながらも質問という形態をとった発話を行っていた場合、その言質の捉え方いかんによっては本来本質ではないところにまで問題が波及する可能性も出てくるだろう。(立場を入れ替えても同様であるが、面倒なのでここでは考えない)
 この場合、現象と言語的手続きの真理を把握してしまっていて客観視できるとすれば、実質的に「質問」ではない、とすることも可能ではあるが、およそそういった状況を常に作り出すことは現実的に不可能ではある。
 ただ、『念頭におき応答する』のではなく「念頭において現状認知を確実に行う不断の努力をし準備する」ことで、相手が「質問」しているのか、相手に利になり自身が不利になる言質を得ようと企んでいるのか、他者に対して自身が不利になる発言を自らさせようとしている(例えば何らかの審判を受けている場合に自身側の不利な供述を引き出すような場合など)のか、相手が自身を追い詰めなぶるための多重な包囲網としての役割を果たす行為の一環なのかは、理解しやすくなると思われるし、また、そういった質問という形態っぽいものに対しての返答およびそれ以降のやり取りを組み立てる一助にはなろうかとは思う。
 と、言ってはみたものの、氏の理論というものは、取り扱う対象が前段にある『良い答え』(=良好な結果)であることが双方の意思疎通における基準(=返球会話)となっているため、議論の対象のほとんどがよい質問に対する『良い答え』であり『悪い答え』であることは非常にまれである条件で『悪い答え』もよりリスクの少ないやりとりにする場合にのみ成り立つことになる。
 一方、作為の質問という形態をした何かの場合には、その良い悪いは逆転する可能性もなくはないが、自身の手によることが明白な良好な結果があるとすれば、一般的に資本主義からなる社会システムからすれば評価せざるをえないわけで、それをもっても成り立たないのであれば、その会社に限らず受け皿も多いし、それ以前にそんな小説やドラマのような卓越した人物であれば、このような啓蒙書など読んでさえいないだろう。
 また、純粋な質問、もしくは追い詰めるための質問であって、その対象に対する『悪い答え』が確定している状況のやり取りでほとんどが費やされる場合には、いずれにせよ叱られるだけであり、ストイックに『返球会話』を行う必要性も自身のコスト見合いで選択肢を実行しようとも特に責められるわけでもなかろうとは思う。
 ただし、立場的にマネジメントする側の心理的負担は保身や無関心、無責任と行った方向に走られた方が大きいだろうし、組織、企業としての最適解からは外れてしまう可能性も高いだろうと思われるが、だからといって個に全てをしょいこませることが部分最適ではあっても全体最適であるとは思えない。
 個人的には、そもそも対外的な競争を伴う場面を除けば、そういった社内でのボスと下っ端のやり取りが発生すること自体に組織としてのシステムに欠陥があると思っている(誤ったもしくは方法を悪用した体育会系的発想なるものもその端的例だと思う)ので、逆にそこに手をつけることが適わない下っ端からすれば、氏の論理というのは下っ端の処世術のみを否定し、組織側のやるべきことをおざなりにしているように感じる。
 さらに言えば、システムが人を作るし、人がシステムを形成するという考え方もなくはないわけで、今で言う「ブラック」に染まりきった組織においては、これまで積み上げてきた双方を隔てる壁を取り除くのは一方のみの単層的な歩み寄りで簡単に解決できるとは限らず、双方の複層的なやりとりがあってやっと解決するかどうかというように思われるし、そもそも簡単に解決するのであれば解決しているようには思われる。
 あと、言い訳の高度な使い手は『5W3H1YNの視点で行われていることを念頭におき応答する』ことで意識的なミスディレクションを行っていたりして、傍から見ていて「すげえな!」と感嘆することも結構ある。
 まぁ、それが認知できたところで自身にそんな真似は無能すぎて不可能なわけで意味がないわけだが。



 で、ここから別の記事。
 ちなみにこの記事以降BizGateの記事は今のところ一切読んでない。



 いつもの BizGateネタ。
 とりあえず、開いてみはしたが1節目を読んだだけで力尽きた。
 ある意味この記事に対していっても詮無いことだが、氏の経理系の著書で以下のような論理的破綻、というかすでに論理ではない領域に至る文章を見かけなかったので、どういうことなのか、という気もしなくはないのだが。(できれば、編集がこんな感じで、とよこしてきたとかであって欲しかったりはするが)
 で、その冒頭だけをコピペしてみると、

 会社の経営方針では、一般的に通常時には「攻めの経営」が求められ、時によっては「守りの経営」も求められます。しかし、「逃げの経営」という言葉は聞いたことがありません。不正についてはどうでしょうか。「攻めの不正」という言葉はないでしょう。あるとしたら「守りの不正」か「逃げの不正」です。そして、多くの不正をする人が、自分の不正は会社を守るため、従業員を守るため、取引先を守るためと、「守りの不正」だと主張します。
 ならば、胸を張って堂々と「これから不正をします」と宣言すればいいではないですか、という話なのです。確かに社内では堂々と不正をしているのかもしれませんが、社外に出たらこそこそと不正を隠しているのではないでしょうか。決算発表の場で「会社を守るために不正処理をしまして、売上高には翌年度の売上も取り込んで850億円、営業利益が......」と、経営者が会見するというのでしょうか。そこまでやるなら、本気で「守りの不正」をしたかったのだなと思います。

となる。
 まず、『「逃げの経営」という言葉は聞いたことがありません。』というのは、確かに私もそう表記されていることを見かけたことがあるかといわれれば思いあたらない。
 ただ、「攻め」と「守り」というものは、双方独立した指標というよりは、同一軸の両端、もしくは何らかの基準点に対してどちら側にあるかという属性を指すように思っているので、その同一軸上に「逃げ」なる属性を強引にプロットすると本質を見失うと私は思う。
 こういった場合の解決手法は複数あると思われるが、個人的には、「逃げ」なる属性を示す事象を細分化してその細目に関して「攻め」と「守り」が数値として抽出できるかどうかを考えるように思う。
 しかし、ここで『不正についてはどうでしょうか。』と続けているため、正しい解答を得られない可能性を内在した状態を論理的帰結を導く真理であるとし、何か別の事象に適用させようとしていて、他人ごとながら、もし他者からこれを論拠として自身に話を始めるとするなら、かなり胃が痛いと感じてしまう。
 で、持って行き方としては、A「攻め」、B「守り」、C「逃げ」が独立した事象で、AとB、BとCはあるよ、という話なのだが、そもそも前提自体に不信感を持っている時点で結論もへったくれもないというのがぶっちゃけたところかもしれない。
 それはそれとしても、不正を事前公表することが「守り」と定義しているため、反義として単語を充てるなら「攻め」は不正を事後公表することか、もしくはばれるまで公表しないという位置付けになるとは思うが、特に説明もなく『「攻めの不正」という言葉はないでしょう。』となっていて何がやりたいのか全く分からない。
 個人的に、不正というものを現象と行為を分離し、現象がもたらす意味、影響などの前側と行為、行為者、行為を引き起こした背景という後ろ側を分析することで、前側を予測するとか後ろ側を推測するとか、それに応じた不正というリスクを減ずる方策を検討するのに生かすことができるという考え方なので、別の不正の考え方や捉え方があれば見てみたいという欲求はあるのだが、過去のBizGateの記事のような適応範囲やその背景を知らなければ使いこなせない手法が提示されているというよりは、いまから手品やるで〜、と言われて不正というコインが手から消えたりガラスを貫通してビンの中に入ったりしてもうれしくない、と思った。



 釣られるの、疲れる・・・



 ということで、残滓処理1つおわり。
 いや、まだあるけどね。
 メモ代わりに使っているWord文書の容量がまだ、657kBもあるのは、さすがに自分に腹が立つので。
 消せばいいけど貧乏性。。。