改善は必要か

 増田ネタ。
 「とある会社の上司です。部下に怒られました。」ということで、その内容は業務改善を提案させようとしたらてめーでやれや、それとも何か?カネだすんちゅうんかい、あぁ?だまっとらんで何かいわんかどらぁ、とか言われた(誇張)という話らしい。
 で、コメにもいくつか釣りだろうという理由が挙げられていたが、個人的には、上司がその組織体系とは無関係(人員減がきっかけなのでその顛末を書いてないだけとはさすがに思えない)に業務改善の提案をさせようと考え、それを組織の一員として組織に行使することが可能な立場にいながらも、『家で考えたらかとかで在宅での残業として、払うのは適切なのか?』といった部分に『?』がつくレベルの初歩的な労務的知識を有していないことのアンバランスさが、キャラ設定だとするなら「うそ臭い」と言わざるをえない、という気はする。
 で、多分書くことはコメに書かれていることと多くが重複するとは思うが、一応、その改善が必要なのか?という観点を中心として扱ってみる。

 その昔(数十年ほど前)、QC活動などという自主改善活動というのがあったことは、知識として知っている者もそれなりにいるんじゃないかと思う。
 自主改善活動などというと今の勤務体系や業務遂行のプロセスなどに適用すればかなり異質な行動なのだが、それはそれ、高度成長期という流れの中であったからこそ有効に機能したのではないかと思う。(詳しい説明は省略)
 それがいつしかTが付きCがMになったりと悪意をもった言い方をするとだんだん袋小路に入っていくとともに、様々な構造変化と停滞、高度化、複雑化に伴い考え方自体も多様になっているのが今の現状といえると思う。
 とはいえ、何かを解決するとか動機付けるなどに対してどのような手法を適用するにしても、企業活動という観点からすれば、全くリソースを消費しないなんて行為はほぼ存在しないわけで、さらに言えばその消費に対して対価があてがわれるかどうかも怪しい領域さえ含むことを考えれば、様々な主語を持つ「必要か?」という問いが、する/しないの判断を行う選択肢として成立せしめるかどうかで実質的な必要性をリソース単位で考えることは可能かと思う。
 こういう考え方は、例えばにわか仕込みでスパイラルアップがどうのとかいってちびちびと目標数値を上げて、そのたびに改善改善とオウムのように叫びたてたりする者のようなスパイラルアップの一部しか理解できていないことを明確化する働きを持つ。
 ちなみにそういった行為の産物であるオーバースペックで競争力がそがれるなどという問題も某大企業にさえ過去には存在したわけで、それ自体恥ずべきことではないとはいえるとは思うが。
 いずれにせよ、可能性と実現性とそれに対する必要性といった点、さらにはそれらの事象に特異な性質を総合的に加味しないと、改善自体が頓挫したり、たとえ完遂しても別の場所にしわ寄せがいっていたり、全体として見た場合に改善になっていなかったりするということを認識する必要もあるように思う。

 さて、増田にとって果たして改善は必要なのだろうか。
 『改善したい理由は/最近人がやめてしまい、みんなの業務負荷があがってしまったためである』という理由からみるに、増田が経営層ではなく雇われ人の管理職であったならば、例えば事務分掌から定まる職責でもって職員の労務管理がその関連事項だったとしてみる。
 その中のさらに細分化した領域として、例えば職員の健康維持を考えるとした場合、職員の業務負荷をパラメータとしていかなる基準でもって判断するか、そして各段階においてどのような行動をとるのか、またとある段階に到達することをリスクだと規定するならそうならないための手立てが何なのかを考える必要がある。
 で、そういった部分をすっ飛ばして負荷が上がったのはよくないこと(リスク)であって取り除かねばならない、というのもありといえばありだが、だとしても、その必要性に対しての手段として業務改善提案は1つの選択肢に過ぎず、別の選択肢ではなくこと業務改善提案でなければダメだった必要性については考察する必要はあったと思われる。
 厳しい書き方ではあるが、当然考えていたし書いてなかっただけ、ということだとしても、なぜ書かなかったか、それが重要ではないから書かなかったのか、と推定された場合、その重要性が業務改善の提案をしてもらいたい職員にその必要性が正しく伝わらなかった原因として推察された結果、コメにあるように言い方が悪かったのでは?という考え方が生まれる可能性もあろうかと思う。

 また、職員の返答手法から職員の資質をどうこういう気はさらさらないし、良否を判断できる立場でもないが、増田が感じるのとは真逆で、実態はあからさまに暇を持て余しているというのでない限り、多かれ少なかれ自らの業務負荷が上がっている状況に対して職員自身が辟易しているレベルであれば、各自その自らの負荷の要因に考えをめぐらせているわけで、基本的に当事者意識、当該事項に関する問題意識は、『みんな』だといっても増田自体の負荷が誰からみてもずば抜けて高いことが認知されている場合を除き、増田よりも高いという前提に立つことが必要だと思われる。(これは、そもそも増田が増田以外の職員を主語として「必要か?」を推察するプロセスの前段にあたるため、安全側に振っているだけで、いかなる場合にも適用されるわけではない。)
 で、その観点から単純に原因を探ると仮定すると、業務負荷が上がった←人が辞めたという図式からすれば、立場的に経営者でもないところから根本的な解決を要求するとすれば、例えば「人いれろ」ということになる。
 で、この「人いれろ」というものは、増田以外の増田より下っ端ではない、まごうことなき増田の仕事ということになる。
 個人的な経験からすれば、同様な状況下で、上司に対して「あぁ?じゃあ人増やせよ!」とつばを吐きかけるような現場もみてきたりしたので、直接的な感情の発露がいいのかどうかは何ともいえないが、そういうこともあらぁね、というように想定できるかどうか、という部分もあろうかと思う。
 まぁ、そうならないために「管理職のための何たら」みたいな本とか研修とかでいろいろ勉強したりするという前段が必要なのだとは思うが、ここでは必要性だけ考えているので、対象に付帯する領域は他に譲る。
 また、言質の表層だけをみれば、業務改善の提案を求めることに対して「給料を多く貰っていないので拒否する」「在宅勤務時間の金を出せ」とするとしても、実のところ業務負荷が上がっているのをどうにかしたいのかどうか、どうにかしたい場合、その解決のために数多く存在するはずの手法に対して各職員がどういった捉え方をしているのかはよく分からない。
 例えば、一部のコメにあるように現場に提案を求めること自体がいかなる状況下においても禁忌であるというのであれば、少なくとも業務改善の提案を命令しようがお願いしようが泣きつこうが各職員にとっての必要性が伴っていないために有効に機能するとは思えない。
 基本的には、増田自らが何らかの形で働きかけて業務改善を完遂したいならば、必要だと認識していない職員に対して必要だと認識することが可能となるコミュニケーションなり説得なりが必要とされると考える。
 いずれにせよ、業務負荷が上がったことを解決する必要性とその手段の選択肢として改善が有力な候補として存在し、認知され、必要とされているか、ということになろうかと思う。

 ちなみに、単純に増田が上流から業務命令で行っているとするなら『被常識ですかね??』云々は増田の伝達手法等の優劣はあったとしても職員が非常識ということにはなる。(「被」かどうかは知らない。常に認識されるってこと?)
 ただ、それもたとえ雇用契約、労働契約上規定された責めだとしてもコメにあるように要員の認識はそれなりにぶれるし、そのぶれもそれなりに容認されるもので、そういった者も含め当事者であるとするなら、それが強制的な手段を講じざるをえないシビアな業務命令という形態をもつケースであっても、増田は管理職としてのそれ相応の緩和措置なり弾力的な運用なりコミュニケーションなりがなければ、少なくとも現場は回らないように思われる。
 とはいえ、こういった一定の強制力を伴ったパターンの方が先述の「必要性」云々を考える必要がなく楽ではあるともいえるといえばいえるのだが。
 一方、もしそうでないならば、一概に常識かどうかという範疇で推し量る領域にはないように感じる。
 ただ、結果第一主義の「常識」論者からすれば、適切な結果を生まなかったとして常識ではない、と断じるかもしれない(コメにも同様な結論はちらほら見かける)が、私はそこまでは言い切れない。
 どちらかといえば、先の必要性を遡って考察してみて、業務改善の提案を求めることがあまりよい選択肢ではなかったとしても、やり方やアプローチの仕方に問題があったのかもしれない、といった方向に深掘りした方がいいように思う。(言い出しちゃったから過去に戻って修正できないだけともいうが)



 あと、なんだろう。
 Twitterとかで過労自殺の精神構造を表現した的な漫画が出回ったことがあったが、結局お互いに軽口を叩けるうちが手法として改善を適用可能な、ある意味やり時なわけで、それを逃がすとその漫画のなかにある表現で『道や扉を閉ざす』というとおり、良くない方向に進めば進むほど職員のみならず労使ともども選択肢を使用不能な状態になぎ倒しながら進んでいくために、いつの間にか、改善がどうのと言うどころか他の打つ手さえ全く残っていないなんてことも多く(多分、そんな領域にいる/経験したはてな民はごく少数な気はするが)、必要性そのものに対して時宜を得ないとしょうがないとしか表現しようがない部分もあったりはする。
 それをどう捉えてどう行動するかは当人と周囲の環境によるとしかいいようがない。
 さらにはその差異いかんにかかわらず、何らかの結果が刻々と勝手に出てしまうし、さらにさらに、その結果は大抵一様でもないので、下っ端としては、もはや達観してもいい気がする、と、歳を食うと考えてしまう。
 が、それではダメなんだろうけど。
 それと、特に否定するわけでもないが、コメにあるようなマネジメントの視点だけで論じることにはうんざりする、というのは、感覚的、経験的には大手や新興企業などに多いんではないかと思ったりする。
 ただ、捉え方として大切なのは、現実を分析し考察して解法を見出すために、いくつかある手法のなかからマネジメントからの視点という手法を選択し用いるだけであって、それが現実(もしくは考察対象とした幾ばくかの未来)を適切に表現しないものであれば意味がないことを理解して用いているかどうか、またはそれに気付くことができるかどうかということではなかろうかと思う。(ただし、先の例では、行為者にとって飽きが出るのは薬剤耐性にも近い効果が期待できない状態であると判断できなくもないので、その理解以前に、単に手法の適用限界を超えていると考えることでも結果の判断は同様となるといえなくはない)
 使い古されたことばで言うとすれば、手段の目的化とその認知いったところだろうか。
 自己弁護をするとして、ぶっちゃけ私自身がなんちゃってマネジメントといった領域で生きてきてしまったので、年寄りが使い慣れた道具を用いているというだけで、目的を満たすものであればどんな手段を用いてもいいと思うし、守銭奴チックな言い方をしてしまえば、マネジメント視点の手法を解説した玉石混淆な指南書で溢れかえる今の世の中において、別の手段、手法を何らかの形で一般化、体系化し公表できれば、それだけで商売の種にもなるんじゃないかと思ったりする。

 取り留めなくなってきたので終わる。