同じといえば同じ

 増田ネタ。
 ゲリラ豪雨についての話なんだが、なかなか考えさせられた。

 一応、増田の元増田の記事側は、どちらかといえばことばの意味以前に言語に付帯する意思や背景等を排除したいようなので、個人的には尊重はするけども、言語の狭隘化をこちら側が強制されるほどの正当性を持つものでもないと思うので特にどうこういう気もなかったりする。
 まぁ、『語彙の少ない言語』と言われてどうしようという気もしはしたが、それもそれで単語の定義と考え方の違いと言えなくはないので。

 それはそれとして、「ゲリラ豪雨じゃなくて村雨を」という考え方というのは、双方が示す雨を実際にその現場で経験する人からすれば、雨の降り方やその前後などの状況として同じことしか表していない、と考えれば、「下品」ではない方を用いる方が適切ではないか、という話なのだろうと思う。
 ただ、ことばの成立経緯として考えれば別の含意はあるが、雨に降られているという当事者にとってみれば、それは必要な情報ではない、ということでもあるだろう。
 要は言語の受け手側にとって必要とする/される事項の重要性から考えて機能的かどうか、ということかもしれない。

 個人的に、「村雨」と書いたり書かれたりすると別のものを想起する腐った脳みそをしていることもあり、どちらかといえば本来の意味を示す「群雨」とか「叢雨」(ちなみにうちのIMEでは村雨しか変換候補に出ないが)と書きたかったりするのだが、およそ「ぐ、群雨?」とか「ぎょ、叢雨?」とか読まれたりすることも多いので、「強いにわか雨」という表現でお茶を濁すことが多い。(まぁ、実用上「急にすごく降りそう/降った」でいい気もするが)
 個人的には「村」に何でもかんでも他の意味を統合しすぎて、何を意味しているのか分かりづらくなっている気はする。
 「村雨」の場合は、「群雨」というとおり時間軸上において群れて、集中して雨が降ることをいうわけなのだが、当然ながら昔の者が高速で広範囲に移動し離れた地点でほぼ同時に雨の降り方を面的に観測できるわけもなく、また多くの者が山頂などの広範囲に雨の降り方を目視できる状況にもなかったわけで、現在からすれば、定点観測としての表現、という限定されたものにはなる。
 一方、近代の気象観測技術の向上などに伴い、面、もしくは高度も含む立体的情報が認知可能になってきた。
 これに伴い、昨今では「村雨」を予測することが課題の1つとなってきたわけではあるが、「村雨」にもその気象学的構造は多岐にわたり、結果として最も予測が困難な構造のものが残されてきた、という経緯がある。
 実際のところ「ゲリラ豪雨」という表現はそれなりに昔から用いられていて、感覚的に昔は「(一個人が勝手に)想像していた以上の雨」というような、えもいわれぬもやっとした不安といった含意があったように思えたのだが、最近のインフラ被害を伴うレベルにむちゃくちゃ降る局地的な豪雨といった状況に対して、予期せぬ撹乱や奇襲などによって思いもよらない被害を被る遊撃戦の被害をもって「ゲリラ」と呼ぶように変わってきたように思える。
 とはいえ、「予期せぬ撹乱や奇襲」という点から考えると、本質的に適切な気象予報がなされていれば、相手側(ここでいえば天候)を「ゲリラ」だと認知しなくてもよいわけで、考え方によっては、現象に対して予測できなかったことを予測する者が言い訳にするために設定されているかのようなイメージを含意として付加されてきたような感覚が個人的にあったりする。
 そういった意味があるからかどうか分からないが、気象予報の番組などで頻用されるだけで、そもそも気象予報における予報用語ではない。(現状、予報において使用を控える用語扱い)
 結局、予報できていようがいまいが、それが専門家にとって困難かどうかを言い訳されようがされまいが、突如振り出した大雨で雨宿りしたり、電車が止まって立ち往生したりすること、その現実自体に何一つ役に立たない(かえって責任転嫁が可能になるかも知れないが)ことを考えれば同一の意味なわけで、じゃあ、「下品」ではない方がいいでしょ、という話なのだろうなぁ、と思った、という按配である。



 ってなことをいちいち書くのは野暮なんですかね・・・・。