昨日のWBS

 WBSとほとんど関係ないが、WBSで取り上げられていて、ああ、そんな時期か、と思ったので。
 で、それはサラリーマン川柳なのだが、今回の1位は、言ってることは分かるが、その行為、プロセス自体を面白いとするところなんかなぁ、という気がしてしまった。
 歴代の1位は、時事的で言いたいことはよく分かることに加えて、往年の川柳らしさということば遊びといった形式美をとりいれたり、字面だけでは表現されていない風俗や時代背景を鑑みると非常に風刺的であったりすることが含まれているように感じていた。
 別に川柳の楽しみ方は人それぞれでいいとは思うのだが、今回の件に関してより高頻度で遭遇するあるある話ではあるが、はたして川柳である必要性がそこにはない気がするので、それでいいんか?とか思う反面、川柳も時の流れに対して流動的であっていいわけで、本流としてそういった方向に進みつつあるのかもしれない。
 得票数からしても千票以上の差をつけているんだから、そうなんだろう、と。
 総評に『新しい世代が出現するたびに、この現象は続くことでしょう。』とあるように現象としてはそれは繰り返され、突き上げていた側もいずれは下から突き上げられ、老害認定され、姨捨山に不法産廃投棄するのが諸行無常というのなら、それはそれで使い捨てサラリーマンの悲哀ということにもなるのだろうが、この川柳の著者は30歳(HP上では歳台となっているが、発表会のパネルを映した映像を見ると30歳とピンポイントで表記されている)ということで、ある意味ゆとり世代の最前列という属性で突き上げる側であることから、そういったものではないと思える。
 著者の属性から内容を紐解くのは受験国語などの領域では当たり前とはいえ、基本的には卑怯な分析の方法ではあるのだが、一応そういうことで。
 それにしても、構造的に世代間の云々的なものを題材にしてきた歴代の受賞作も多いのだが、基本的な構造として、世代α:Aだろ!(ドヤ顔)←世代β:AじゃなくてBだろ?(あきれ顔)といったかぶせものが多かった気がするのだが、少なくとも今回の件は双方が拒絶しているだけで、その対立軸として設定した双方にとってどういったあり方がよいのか、もしくはよいはずなのにそうならない歯がゆさがサラリーマンという組織人として感じられるかという話ではないところが、新しく、また現在に求められている形なのだろうか、という気がした。
 まぁ、何だろ。
 どうせさっさとそれらの世代より先に世から抜けていく予定の者からすれば、そういった時代の流れに取り残されようと、どうでもいいことなのかもしれない。
 という、チラ裏であった。

教訓

 「タカタの巨大リコール 「教訓」置き去り (5/22 日本経済新聞)」という記事を読んでみた。
 で、『置き去り』というぐらいなので、『教訓』は何らかの形でオーソライズ(第三者機関などによって正当性が評価されたお墨付き、権威付け)がなされているんかなぁ、とか半ば冗談半分なのと、私自身が考えていたタカタ自体の問題というものではない一般化した「教訓っぽい何か」として考えていたことが語られていたりするかなぁ、経済紙だけに無理だろうなぁ、と半分思いながら有料部分をよんだのだが、まぁ、特に。
 というわけで、以下書く内容は、有料部分とはほとんど無関係で無料部分の情報だけで十分なので記事にしてみることにした、といえる。

 三菱の記事もまだ書ききってないのにこっちを書くのもなんだが、あまり触れてなかったのとでとりあえず、さらりと終わらせてみる、予定。
 で、触れていなかったのは、組織構造、企業体質に触れたくなかったから、というだけである。
 おわり。
 で、それはそれとして、現在の経済構造、社会構造におけるポテンシャルとして抽象的に捉えるとすると、私自身は、寡占、独占という構造に問題の大きな要因がある、と思っていた。
 とはいえ、これは、実のところリコールが起こらないことに寄与するわけではないように思う。
 さらに、思った以上にリコールの規模が大きいことを回避することにも寄与するわけではないようにも思う。
 唯一寄与するのは、巨大なリコールに発展する事案がある時点で表面的現象だけは散発的に確認できても、何がなにやら訳が分からない状態が長引くことに対して多くの選択肢が提供される可能性がある、その素地となる、ということだろうと思う。

 およそ、寡占、独占については、メリット、デメリットを含め、中学校あたりで普通に習うと思う。
 で、教科書的なデメリットは、主に企業間競争が少なくなることによる
 1) 価格の上昇
 2) 品質の低下
であると覚えさせられるのではないだろうか。
 ただ、当然ながら各国での法規制により実体験として1)、2)の特徴の双方を極端な形で認知できることは現在では非常にまれだと思える。
 また、世界中のどこかで熱狂的な好景気に沸いているなんていう状態はなく、企業があぶく銭をひょいひょい手に入れられる状況でもないため、より多くの利益を求めたい企業としては、企業にとってはそれなりにメリットの多い寡占、独占を希求するというのも当然の流れだと思う。
 規制する側である政府も税収などの面でその流れに抗うのも難しいわけで、先の1)、2)が起こらないような多様な防護策を打ちながらチキンレースを繰り広げている、というような気がしてならない。
 一方、およそ製品やサービスにおいて価格、品質、技術と3つの要素が重要だと掲げられることが多いが、先の1)、2)に技術が含まれないのは、昨今の産業構造として主に寡占、独占による事業規模が技術を内包することにおいてメリットとして働くからといえる。(一応、1)、2)に副次的にデメリット側に影響しているという考え方もなくはないが)
 また、寡占、独占と直接的に関係がなかったとしても、事業規模が洒落にならないほど大きくなると、いわゆる大企業の不祥事において、経済秩序を維持する意味で政府自体がその企業を潰せないと判断せざるを得ないため、自浄作用が働きづらく、また金銭的な融通のしやすさから過剰な弾力的対応によって問題として明るみに出るのが遅れたり、その初動の遅れから当該時点ですでに事態が過度に進行してしまっていて、結果被害を大きくするなんてことも多い。
 これは、技術においても同様で、技術者倫理の問題と一体不可分とはいえ、当該技術を技術的に多方面から再検証するなどといった現行技術へのフィードバックと新たな技術への昇華といったプロセスが金銭的な理由も含め内外からポジティブな圧力として寄与しないということがあろうと思う。
 また、実際に問題が起こる前までは、原則としてステークホルダにとってカネを生まない行為を企業に対して望まないわけで、薄利でギリギリどうにかやっている上場企業などからすれば、現実として完全な抑止力として寄与している気さえする。
 思った以上に遅々として技術革新が進まないといった成熟した状況下において、競合他社からの新しい技術による新しい製品でどんどん上書きされていく製品サイクルではない以上、競合他社が競合製品を製造、販売するために当該技術に対して常に多方面から検証と評価をし続けるという形態が先の抑止力によって自社では設置不可能な保護機能として働くのではないか、と思う。
 とはいえ、それをどうこういってもしょうがないのも事実で、たとえば同様な事件の顛末を参照すると、ファイアストンなどでは自前にこだわらずに何がなんでも原因を究明する姿勢を見せ、その結果をもって徐々に理解を得るとか、トヨタの件ではもはや技術力の優位云々についてどうこういうはなしではないので、組織という抽象的集合体ではなく、ひとと熱意という領域で説得するなどといった単純な経済論や技術論で語れる領域でないところで解決を図っている気もする。
 結局、難度がAからGを突き抜けて際限がなくなっていき、問題がある製品をどうこうする技術より事後対応のための全体的なマネジメント技術の方が重要視されるようになってくるのは本末転倒なのではないかと思う。
 そういう意味では、ある一定の寡占、独占を排除する方向性が本質的な問題に回帰できる一助となるのではないか、と思う。
 が、事業規模云々、という話に戻って堂々巡りなわけだが。

 で、当然ながら経済紙である以上、企業のメリットを一様に押しなべて潰してまでも寡占企業の製品不祥事や品質問題を食い止めるような論調にはなるはずもない、ということで、想定したとおりだった、というオチな話。

今週のお題「おやつ」

 おやつというと菓子類を想像する。
 が、残念ながら成人に至るまでの間、おやつという習慣が形成し得ない家庭環境だったため、定常的に存在するものではなかった。
 また、そういった意味で、菓子類を食事以外で食す行為を「おやつである」という認知として関連付けることができない(基本的にそれ自体がおかしいはずだが)ので、どちらかといえば『自分へのご褒美として食べるお菓子』を摂食したとしても「おやつとして食べた」という認知には至らないというさもしい人間である。(あくまで気持ち的に食事扱い。)
 結局、「おやつ」なんてのは、特殊なイベント、という考え方ということになり、想起できるのは「遠足のおやつ」とか、本来なら限定的に表現されるべきものが「おやつ」そのものという認知なんじゃないか、とか思ったりする。
 まぁ、先述のとおりさもしい生き物なので、遠足のおやつとして買った賞味期限の長いスナック菓子を残して後々こっそり食べるために持ち帰っているのを先生(担任ではなく遠足のサポートしてくれる別の先生)に見咎められ、ちゃんと食って帰れ!とか叱られたが、てめぇの息子みたいに私の体重の倍以上あるような餌の与えられ方してねえんだよクソが!と思っても黙って聞き流したのを思い出す。
 何というか、しみったれてたさね。
 そして露骨にがつがつしてたというか。
 大学でひとり暮らしを始めるまで結局小遣い一切なかったし、それでいて無駄にねじ曲がった欲望だけはあったので、よく万引きにまで至らなかったものだと自分でも奇跡な気がするぐらいなので。
 あのときヤツらとつるんでたら確実にそれどころではなかったとか思う変節点となるべき数多くのイベントを偶然にもどうにか切り抜けてしまっているので、ある意味奇跡かと。
 与えられるものが少ない社会的環境下で与えないこと、およびその嫌悪を認知させ受容させていくことは最終的に社会性を身に付けていくうえで必要なことかもしれないが、どんどん豊かになっていく社会的環境下で与えようとしないことで何かを認知させるだけでは正しい受容が形成されないように思ったりもするが、何というか終わったことなのでどうでもいい。
 昨今、豊か(自身がではなく時間軸方向において相対的にみたものがという意味)であることが常態化してそれを認知すること自体が難しい環境下で、自己基準で既に備わったものを削ぎ落としていくような、もはや基準点が別次元にある事案が注目されるような世の中で有益な考え方であるとは到底思えないからだ。
 って、何の話だったっけ?

 えーと、菓子の関係、ということで最初に思い出した私の幼少期の思い出は、今でいう児童虐待なのでさすがにやめる。(いつか書くかもしれないけど)
 「贈答用の洋菓子(クッキー類)詰め合わせ」「賞味期限切れ」「贈答品の使いまわし」でそれっぽく想像していただければ、と。
 というわけで、ろくなことを書かずいつもどおりぐだぐだなまま終わる。