the deconstruKction of right このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2016-01-21

お知らせ

平成27年3月から現在に至るまで、インターネット上の匿名掲示板2ちゃんねる上において、私を誹謗中傷する悪意のある記事が繰り返し投稿されています。まずは、私の家族、友人の皆様等たくさんの方々からあたたかいご支援及び励ましのお言葉を頂戴いたしましたことを、心から御礼申し上げると共に、各方面の皆様にご心配をお掛けしましたことをお詫び申し上げます。

私を誹謗中傷する記事があまりに悪質で、数が多く、かつ長期にわたりなされたため、私個人の判断において弁護士を通じて発信者情報開示請求訴訟を提起した結果、開示対象のすべての記事について認容判決を得、3名の発信者情報が明らかとなりました。なお、判決において、これらの記事が私の名誉権を侵害するものであることに加え、記事に記載された内容が真実ではないことが認定されております。

したがいまして、私に対する誹謗中傷の記事は、全くの真実ではなく、少数の者による害意に満ちた一方的かつ執拗的な投稿であることを、ここにお知らせいたします。

今後これらの者に対する刑事告訴損害賠償請求を視野に入れて厳正な対処を求めていく所存です。

2015-08-22

このブログについて(2015年度版)

 このブログは、2006年に開設された。もう9年も経っている。はてなダイヤリーブログ論壇華やかなりしころ。このブログも、今や古びて見えてしまう。ほとんど書く機会もなくなっている。

 こんな真っ黒の地に、白の文字のサイトなんて、最近は見かけない。アングラっぽい雰囲気でおっかない感じもする。しかしデザインを変える気はない。紙媒体だと、白地に黒の文字だけれど、ここでは逆転させて文字を読まなければいけないし、別にインクのコストがかかるわけでもないんだから、と、ひねくれた感じでネットの性質を生かしているつもりなので。

 そして、一応、King crimsonのアルバム『the construKction of light』へのオマージュのつもりでもある。

 

D

こういうヤケクソな陽気さが非常に気にいっています。

 表題作は、こんな曲。

D

 ボーカルのエイドリアン・ブリュー曰く「規範無き(ナンセンスの)時代の哲学者の歌」。

 

And if God is dead what am I,

a fleck of dirt on the wing of a fly

hurtling to earth

through a hole in the sky

And if Warhol's a genius, what am I,

a speck of lint on the penis of an alien

buried in gelatin

beneath the sands of Venus


 これは、このブログの主題歌であり、ぼくの意志表明でもあったりします。ので、タイトルとデザインは、時代遅れでも、変えるわけには、いかんのです。

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 このアルバムへの解釈は、ぼくが書き連ねるよりは、「クリムゾン和訳ホーム」さんの考察を参照していただく方が良いでしょう。

 http://homepage3.nifty.com/~crmkt/13constc.htm

 http://homepage3.nifty.com/~crmkt/tcol2.htm

 ぼくがこのアルバムを好きな理由は、いくつかあります。かつて、キング・クリムゾンが「プログレッシブ・ロック」と呼ばれた進歩的なロックの代表格として、60年代、70年代というロックにとって奇跡のような時代に活躍し、1974年に最高傑作と呼ばれることもある『RED』を発表し、解散しました。Starless and bible blackと、「暗黒」を歌って終わったそのアルバムは、直後にパンクが流行したこともあり「進歩」という理念の終わりのようにも受け取られました。

 『RED』以降、クリムゾンには、創作的な意味で、「神が降りなくなる」。「進歩」という理念や時代の流れも味方につけられない。再結成した80年代には、『ディシプリン』をテーマに、ひたすら訓練と努力で、「神」の不在を補ったニューウェーブもどきを発表。再び解散する際のアルバム『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペア』の最終曲『太陽と戦慄 パート3』は、70年代のように唸る怪獣のようなギターが、悲鳴のように鳴るのが、徐々にフェードアウトして消えていくという、哀しくなるような曲でした。

 そして、『RED』の27年後に本作は発表されました。プログレッシブロック全盛期でもなく、キング・クリムゾンは華やかな脚光を浴びているわけでもありません。「進歩」や「ロックの時代の波」や「神」にも見放された中で耐えながら、それでも音楽活動をしていた彼ら自身の、「奇跡的瞬間」を待ち望むような活動の自己言及として、「価値喪失」「神の不在」の「闇」の中で「光の構築」という歌詞を読み取ることが可能です(作詞のエイドリアン・ブリューは、そのような自己言及を多く行います)。

 ひたすら、全盛期も黄金期も終わって、「神」が降りなくなってからも、様々な試行錯誤や訓練をひたすら続け、大量の失敗もした。

 それでも続けた。そして、半分、あきらめて、ヤケクソになった。

 その結果、アルバムに「神」が降りた。

 ぼくは、そのようにこのアルバムを聴きます。

(2011年にA King crimson ProjeKct名義で発表されたアルバムのタイトルは『A Scarcity of Miracles』で、意味は「奇跡が起こることの稀さ」。確かに、このアルバムには、一切、神が降りていない(音楽的に)。その見放された憂愁感が良いと言えば良い、というアルバムでした)。

 ぼく自身は、このアルバムに、何度も励まされました。今聴いても、やはり、励まされます。


  

自己紹介と実績一覧

 必要があって、これまでの仕事をまとめたので、参照しやすいところにアップすることにしました。

藤田直哉

SF・文芸評論家

二松学舎大学和光大学非常勤講師

1983年、北海道札幌市生まれ

早稲田大学第一文学部文芸専修卒業

博士(学術)(東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻・2014年) テーマは筒井康隆の超虚構理論について。

2003年早稲田映画まつり入選

日本SF作家クラブ会員

限界小説研究会メンバー

日本オタク大賞選考委員

■著作

単著『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』(作品社)2013年1月

笠井潔さんとの対談『文化亡国論』(響文社)2015年4月

共編著『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)2011年9月

共著『21世紀探偵小説』『社会は存在しない』『サブカルチャー戦争』『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』(南雲堂)

ゼロ年代プラスの映画』(河出書房新社

『floating view 郊外から生まれるアート』(トポフィル)

『Fate/Plus 虚淵玄 Lives 〜解析読本』(河出書房新社)2014

サイバーミステリ宣言!』(角川書店)2015年

■受賞・候補など

第三回日本SF評論賞・選考委員特別賞

創立15周年記念論考 | 東京工業大学 価値システム専攻 金賞

日本学生支援機構・特に優れた業績による返還免除 第一種(大学院・博士課程)

『3・11の未来 日本・SF・創造力』にて、第43回星雲賞ノンフィクション部門参考候補

『21世紀探偵小説』にて、第13回本格ミステリ大賞評論・研究部門候補

『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』にて、第67回日本推理作家協会賞・評論その他部門候補 ベストSF2013国内篇12位

『ポストヒューマニティーズ――伊藤計劃以後のSF』にて、第45回星雲賞ノンフィクション部門参考候補


■論文リスト

「消失点、暗黒の塔――『暗黒の塔』5部、6部、7部を検討する」(『SFマガジン』2008年6月号、早川書房

『Xamoschi(ザモスキ)』(編著、井上ざもすきとの共同編集、『東浩紀ゼロアカ道場 伝説の「文学フリマ」決戦 』所収、2009年3月、講談社、初出は2008年11月の第7回文学フリマで頒布された同人誌

「『ひぐらしのなく頃に』は何を浄化したのか――人格障害的なメディアの世界で」(『パンドラ』3号、2009年4月、講談社、ISBN 978-4062153706)

セカイ系の終わりなき終わらなさ――佐藤友哉『世界の終わりの終わり』前後について」(『社会は存在しない――セカイ系文化論』所収、南雲堂、2009年7月6日、ISBN 978-4523264842)

格差社会ミステリーの二つの潮流」(『本格ミステリー・ワールド2010』、南雲堂、2009年12月19日、ISBN 978-4523264910)

ゼロ年代におけるリアル・フィクション」(『ゼロ年代SF傑作選』ガイド・解説、ハヤカワ文庫JA 2010年2月10日)

「妄想殺しの社会的密室――西尾維新『難民探偵』論」(『ジャーロ』39号 2010 SUMMER 光文社 2010年6月15日

ゼロ年代筒井康隆作品」(ビジスタニュース 06月24日http://bisista.blogto.jp/archives/1315101.html

二十一世紀小松左京を読むということ――『未来の思想』再読」(『小松左京マガジン』39巻 2010年10月28日)

「9・11系ハリウッド映画群の謀略――テロリズム以降の映画表現」(南雲堂『サブカルチャー戦争』所収 2010年12月2日)

「『孵化器化』と『失見当識』――『虚擬街頭漂流記』小論」(『本格ミステリー・ワールド2011』 2010年12月11日)

「ゲームは映画を模倣し、映画はゲームを模倣する」(『ゼロ年代プラスの映画』2011年1月22日、作品ガイドも担当)

「過剰なる隠喩と解釈可能性の悪夢 『ダークゾーン』 の恐怖について」(『ユリイカ2011年3月号 著作解題も執筆) 

「日本SF新人賞小松左京賞作家の現在、そして今後」(『SFマガジン』特集伊藤計劃以後 2011年7月号)

「郊外の美学の構築にむけてのメモランダム」(『floating view "郊外"からうまれるアート』トポフィル 2011年7月)

「時間錯誤の前衛――筒井康隆と〈前衛〉のパラドックス」(『国文学 解釈と鑑賞』2011年9月号)

「無意味という事」(『3・11の未来 日本・SF・創造力』所収 2011年9月)

東日本大震災と「文学」の役割」(東京工業大学社会理工学研究科価値システム専攻15周年記念論集「0311-1130」金賞受賞)

「ビンボー・ミステリの現在形 「21世紀的な貧困」のミステリ的な表現をめぐって」(限界研『21世紀探偵小説 ポスト新本格と論理の崩壊』所収 2012年7月)

「「謎解きゲーム空間」と〈マン=マシン的推理〉――デジタルゲームにおける本格ミステリの試み」(限界研『21世紀探偵小説 ポスト新本格と論理の崩壊』所収、2012年7月)

「違和感の勝利 『仮面ライダーアギト』はなぜ傑作か」(『ユリイカ/総特集/平成仮面ライダー』2012年8月8日)

「『生きていた信長』と『四月物語』」(『ユリイカ岩井俊二特集 2012年8月)

「祈りとしての空想――『宝石泥棒』『最後の敵』論」(『SFマガジン』2012年11月号)

探偵小説ポリティクス 〈関係性のダイナミズム〉と「日本的ポストモダニズム」」(笠井潔『青銅の悲劇 瀕死の王』講談社文庫、解説。下巻。2012年10月16日)

「『東のエデン』のその先に」(『文藝別冊 神山健治』2012年10月25日)

ゾンビ表象と死生観の変容」(2012年11月 cakes)

「荒地の歌 『花の詩女 ゴティックメード』論」(『ユリイカ』2012年12月臨時増刊号「総特集=永野護」2012年11月15日)

ミステリとキャラノベ」(『ジャーロ』45号 2012年11月15日)

メディア内存在、ソンビ」(『ユリイカゾンビ特集 2013年2月号)

「第十一芸術における美と経済と倫理」(『DARA DA MONDE』2号 2013年2月)

「REUNION――アートとSFは再び出会えるのか?」(『全感覚』3号 2013年4月)

「意味ありげで、意味のないものの、意味」(『村上春樹『多崎つくると彼の巡礼の年』をどう読むか』河出書房新社2013年6月)

「『攻殻機動隊』と冲方丁の邂逅」(『攻殻機動隊ARISE』劇場版パンフレット 2013年6月)

筒井康隆に学ぶ小説の掟」(『野生時代』2013年8月号)

ゼロ年代批評の政治旋回――東浩紀論」(『別冊情況 思想理論篇』第二号)

「日本的ポストヒューマンの時代」(2013年7月 『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』所収)

「新世紀ゾンビ論、あるいはhalf-life半減期)」(同)

「現代ミステリ=架空政府文学論」(『ジャーロ』)

「ソフト・パワー時代のスペースオペラ 『ミニスカ宇宙海賊』における見かけ」(『小説トリッパ―』)

「書き換えられる現実と、確固たるものへの希求」(『オニキス』解説)

「叛逆の、物語論」(『Fate/Plus 虚淵玄 Lives 〜解析読本』)

「前衛のゾンビたち――地域アートの諸問題」(『すばる』)

「超虚構の果てに──筒井康隆論」(『文學界』2014年10月号)

「1968年と2011年 『猿の惑星』小史」(『キネマ旬報』2014年)

「流通のメタフィクション――『ビブリア古書堂の事件手帖』小論」(『本格ミステリーワールド』)

ミステリと読者」(「謎のリアリティ」『ジャーロ』2015年3月)

ミステリと匿名性」(『ジャーロ』2015年6月)

「ニューロ・フィクション論」(『すばる』2015年8月号)

■書評・ガイド等

スティーヴン・キング原作『ミスト』映画評(『図書新聞』2009年5月17日号)

佐々木俊尚ブログ論壇の誕生』書評(『図書新聞』)

SFが読みたい! 2009年度版』アンケート回答(早川書房

SFマガジン増刊 STRANGE FICTION』作家ガイド 朝倉祐弥いしいしんじ大谷能生高野史緒田中慎弥横田創の紹介文を担当(2009年3月、早川書房

浅見克彦『SF映画とヒューマニティ』書評(『図書新聞』2009年7月4日号(2942号))

佐藤友哉デンデラ』書評(『図書新聞』2009年9月12日号)

クエンティン・タランティーノの/による映画史」(渡邉大輔と共作 『ユリイカ』2009年12月号 作品ガイド)

フィクションの哲学』書評(『図書新聞』)

「【前島 賢氏インタビュー】「セカイ系」を通して見えてくる世界とは何か?」http://www.sbbit.jp/article/cont1/21509

ポン・ジュノの/による映画史」(渡邉大輔と共作 『ユリイカ』2010年5月号 作品ガイド)

クォンタム・ファミリーズ』書評(『図書新聞』2010年5月22日号)

作品ガイド『メタルギアソリッド1、2、4』(『SFマガジン』2010年7月号)

筒井康隆の「仕事」大研究』実験小説、ジュブナイルフロイトメタフィクションの項目を担当 (2010年5月31日 洋泉社

「東京SF大全」とりまとめ、執筆(『SFマガジン』2010年9月号 2010年7月25日 TOKON10準備ブログTOKON10スーヴェニアブック)

冲方丁公式読本』(2010年10月25日 洋泉社)〈マルドゥック〉シリーズの解説文を担当

物語論情報学序説』書評「『物語生成システム』という思想/文学」(『図書新聞2011年2月)

藤田直哉×ゆりいか「Twitter読書会×Ustream『時代を貫くハーモニー』」(『界遊』005 2011年)

『SF文学』書評(『図書新聞』2011年)

大森望氏へのインタビュー「日本短編SF黄金期とアンソロジーの役割」(『SFマガジン』特集伊藤計劃以後 2011年7月号)

山下敦弘フィルモグラフィー」(『ユリイカ』2011年6月号 特集山下敦弘 海老原豊、渡邉大輔と共作)

『千年紀の民』書評(『図書新聞』)

涼宮ハルヒシリーズについての記事(『ダ・ヴィンチ』2011年8月号)

小松左京追悼――小松左京の”愛”について」(ビジスタニュース)

『ダールグレン』書評(『週間読書人』2011年9月)

役割語研究の展開』書評(『図書新聞』2011年9月)

「惨禍の後を生きるための文庫」(『ダ・ヴィンチ』2011年11月号)

「AR技術による「喪」の空間の創造――ni_kaの「AR詩」について」(『DOMMUNE オフィシャルガイドブック2』河出書房新社 2011年12月21日)

「SUPPLEMENT FICTION」(新井素子さんとの対談 『ダ・ヴィンチ』2010年9月号から2011年9月までの連載)

「7人のブックウォッチャー」(『ダ・ヴィンチ』2012年5月号より)

「Jコレクション全作ガイド」(『SFマガジン』2012年6月号)

「ドランゴンズ・レビュー」(『ドラゴンマガジン』2012年7、9、11月号。ラノベ文芸、一般文芸、インタビューを担当)

『ドッグマザー』評(共同通信、2012年7月)

『コミックふるさと 北海道』書評(『図書新聞』2012年7月)

岩井俊二フィルモグラフィー」(『ユリイカ岩井俊二特集 2012年8月)

「日本SF、さらなる未踏の時代へ」(『SFマガジン』2012年11月号)

ライトノベルは”書物”を超えるか? 新城カズマインタビュー」(『小説トリッパー』2012年秋号)

伊藤計劃×円城塔屍者の帝国』書評(『週間読書人』2012年 10月5日号)

押井守ゾンビ日記』評(『図書新聞』2012年10月 3082号)

『機龍警察』評(『図書新聞』)

『未来の考古学』評

『SFマガジン』作家ガイド

『SFが読みたい! 2013』作家ガイド

「自己更新するライトノベル 2013年注目のライトノベル作家

新城カズマインタビュー」(『小説トリッパー』2013年3月)

深見真インタビュー「”痛み”を感じる小説のために」(『ランティエ』2013年5月)

コラム「疑似記憶」(『攻殻機動隊ARISEBlu-ray解説)

銀河鉄道の彼方に』書評(『文藝』2013年秋号)

『神、さもなくば残念』書評(『図書新聞』)

『聖痕』評(共同通信

『11/22/63』評(図書新聞

『教授と少女と錬金術師』評(週刊読書人

「日本SF展」を巡って 東野司×新井素子×藤田直哉(『週刊読書人』)

神林長平インタビュー」(『虚淵玄読本』)

「「スターウォーズ フォースの覚醒」への期待と不安」『キネマ旬報』2015 3月

『太陽・惑星』評(『すばる』)

ソローキン『氷』書評(『週刊読書人』) 2015年3月

テリー・ギリアム監督『ゼロの未来』評(『図書新聞』)2015年6月

冲方丁インタビュー(『ダヴィンチ』)2015年6月

塚本晋也インタビュー「映画『野火』を撮って」(『すばる』2015年9月号)

■非商業媒体に書いたりしたもの

「(ポスト)2ちゃんねる文学論」(Web同人誌「クリスタルの加工の仕方大辞典」2号[1])

円城塔「Your Head’s Only」論(「Speculative Japan」[2])

「SFと幼少期と父と母」(巽孝之らによる同人誌「科学魔界」50号、2008年8月)

「非現実の祝祭」(ゼロアカ道場第三関門課題論文[3])

「SF者と非モテ問題」(革命的非モテ同盟による同人誌「KAMPANIA」1号、2008年12月)

ハムレットスリップストリーム――樺山三英インタビュー」(speculative japan 2009年10月)

テッド・チャンインタビュー 「地獄とは神の不在なり」を巡って」(speculative japan 2009年11月)

「新たなる神の顕現?――2ちゃんねるにおける<神>概念について」(『筑波批評』2009年冬号、2009年12月)

アニメ対談 世直し・世界改革・システム改変的作品群」(限界小説研究会ブログ 小森健太朗との対談[6])

塚本晋也新井素子の(一瞬の)交錯」(TOKON10準備ブログ 東京SF論[7])

エッセイ「無意味な世界で、孤独で空虚な幽霊として彷徨うこと」(『夢ばかり、眠りはない』公式サイト http://yumenemuri.web.fc2.com/html/menu_04.html

鼎談「Twitterとプシスファイラ?DJ・小説・オタク、繋がることの可能性を巡って?」天野邊、藤田直哉、中川康雄(『未来回路1.0』)

座談会「映像・虚構・身体――現代映画の言語ゲーム再考」渡邉大輔/海老原豊/佐々木友輔/藤田直哉 (限界小説研究会ブログ http://ameblo.jp/genkaiken/entry-10535042211.html

「『鉄男 THE BULLET MAN』におけるアナログ特撮とCG」(flowerwild http://www.flowerwild.net/2010/07/2010-07-05_225405.php 2010年7月7日)

SFセミナー2009 若手SF評論家パネル?ぼくたちはなぜSF評論を書きはじめたのか?」(『科学魔界52号)

「性と権力の無限迷宮――『大奥』に見る最高権力者の問題」(『科学魔界』52号)

「無限メタ構造と宙吊り美学の限界 ――C・ノーラン『インセプション』」(flowerwild http://www.flowerwild.net/2010/08/2010-08-10_150239.php 8月10日)

座談会「2ちゃん的思考形式の倫理と暴力」「身体のテロルと情報のテロル」(『新文学03』 2010年12月5日)

「武器から楽器への浄化の路の途中 ――岡本喜八ジャズ大名』試論」(静岡SF大全ブログ http://blog.sf50.jp/?p=319

「無限に拡散する自己「像」を肯定できるのか? D・アロノフスキー『ブラックスワン』」(http://www.flowerwild.net/2011/05/2011-05-19_102707.php

座談会「文学フリマの使い方」(『これからの「文学フリマ」の話をしよう』文学フリマ運営委員会 2011年11月5日)

鼎談「限界研メンバーが振り返るゼロアカ波状言論」(『Genkai』vol.1 限界小説研究会発行 2011年11月5日)

「類似性による『批評=笑い』領域の発見」(『殆ど無い』 2011年11月5日)


■イベント、出演など

阿佐ヶ谷ロフトゼロ年代ナイト」2009年2月25日

GEISAIステージ「スーパー☆ラルク」2009年3月8日

SFセミナー2009「若手SF評論家パネル」2009年5月2日

SFセミナー2010合宿企画「帰ってきた新鋭SF評論家パネル」2010年5月1日

佐々木友輔監督『夢ばかり、眠りはない』トークショー 2010年6月14日 uplink factory

第四十九回日本SF大会TOKON10企画「東京SF大全を踏まえてSF評論の意義を問い直す」「SFファンのための実験映画」 2010年8月7日 8日

第十二回日本感性工学会大会「作家が書き,機械が読む」金原ひとみ (芥川賞作家)+東工大「文学機械」グループ 2010年9月13日

青山ブックセンター「世界内戦とロストジェネレーション」 2010年12月18日

池袋コミュニティカレッジ「ポスト9・11のハリウッド映画と日本映画」2011年1月22日

UTCP「『ユリイカ』2010年12月号「『鋼の錬金術師』完結記念特集」合評会 ーハガレンとマンガ評論の可能性ー」(2011年1月30日)

第10回Sense of Gender賞選考委員(2011年)

「アーティストの目に映る郊外」トーク(小谷元彦、藤原えりみ、藤田直哉、佐々木友輔 10月2日(日) UPLINK FACTORY

NHKクローズアップ現代 「未来は想像して拓け ?SF作家小松左京からのメッセージ」 放送 11月24日(木曜日)19:30?19:56 NHK総合(全国放送) リサーチャー

「3.11とセカイ系」(笠井潔蔓葉信博、飯田一史、藤田直哉 中央大学文学会主催 2011年11月5日)

「3・11×ゴーストの未来」(村上裕一、藤田直哉海老原豊 紀伊国屋書店本店 2011年11月24日)

日本オタク大賞2011」(1月15日)

新春フレッシュトーク 猪瀬直樹×東工大学生(1月18日)

神山睦美×笠井潔 司会(1月20日 ジュンク堂新宿店)

『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』刊行記念 飯田一史×藤田直哉 (紀伊国屋書店新宿南店ふらっとスポット)

「高橋けんじ×藤田直哉トークショー」(Nakedloft)

日本オタク大賞2012」

長谷敏司×藤田直哉 ジュンク堂書店

白井聡×藤田直哉 紀伊國屋書店

twitter読書会「今このSFがすごい!」

オタク大賞マンスリー2013年7月号、8月号

東京都現代美術館20周年記念シンポジウム「生活者としてのアーティスト」 2015

日本比較文学会 東京支部 司会(2014年 二松学舎大学

笠井潔藤田直哉東浩紀右傾エンタメは日本を亡ぼすか? 『文化亡国論』を巡って」ゲンロンカフェ、2015年5月31日

昭和文学会 春季大会「「特集 〈知〉の共有のあり方を問う――著作物の権利をめぐって――」「著作権を超える創造のケース ――ネット以降の事例を参考に――」2015年6月13日

竹本竜都とのトーク@ふらっとすぽっと 2015年6月11日

日経プラス10 「芸術祭で地域活性化…成功・失敗の境は?」2015年7月30日 ゲスト、北川フラム コメンテーター

きゃらペロふくろとじ(仮) 2015年6月ごろからレギュラー。毎週金曜22時。

2015-07-04

ニューロ・フィクション論

すばる2015年8月号

すばる2015年8月号

 『すばる』8月号に、「ニューロ・フィクション論」掲載いただきました。「フィクション脳科学の関係」を導きの糸にした、実質的な伊藤計劃円城塔論です。2007年を一つの断層とし、「フィクション」のパラダイムが変化したと見做しています。

 ぼく自身の感慨としては、自分が2008年にSFという場でデビューした(したいと思った)ことに対する、ひとつの責務をようやく果たし終えたというか、長年の宿題に対する答え(の一部)をようやく出せたかな、と思っています。三章構成で、第二章は、佐々木敦氏の「パラフィクション論」に応答し、日本メタフィクション小史を記述する試みをしています。

 扱っている作家を固有名詞を敬称略で列記しますと、神林長平、内村薫風、羽田圭介伊藤計劃茂木健一郎円城塔長谷敏司、野粼まど、吉上亮、柴田勝家瀬名秀明鈴木光司貴志祐介小島秀夫

 何かピンと来た方は、お読みいただけると、うれしいです。

2015-04-15

笠井潔×藤田直哉『文化亡国論』(響文社)刊行のお知らせ

 笠井潔さんとぼくの対談本『文化亡国論』が、4月20日に発売になります。お読みいただければ、幸いです。

文化亡国論

文化亡国論


■内容紹介

現代日本文化の現象を論究する徹底対談、過去にない刺激的なサブカルチャー論を展開!!

SF推理作家の第一人者と新進気鋭の文芸評論家が3日間にわたる連続討論。

SF界のカリスマ×新鋭の情報環境論者、両者は同意と衝突、現代日本を鋭く分析。

大衆文化情報環境を分析、自我リアリティの在り方を論じ、斬新な認識を創出。

●”社会変革”を思考する知的興奮の対談集。

■出版社からのコメント

 この本は、「現代」に対し、ある一撃を加えるために作られました。

 本書は、現代日本の政治状況や社会問題を、「文化」の観点から捉え、総合的な視座を提供しようと試みるものです。「ネット右翼」や「クールジャパン」など、様々な事柄が現在、言説空間では飛び交っていますが、私たちは、そこに「文化」の視点が抜けていることは、現代の言説の硬直を生むある危機なのではないかと考えました。

 「政治」や「社会」とは、それを構成しているメンバーの、感性・認識・リアリティなどの「前-政治的」なものを抜きにして語ることはできません。本書は、そのような「前-政治的」なものの深源を分析するべく、多くの大衆文化情報環境を分析し、自我の在り方やリアリティの在り方の変容などを分析し、そこから逆照射する形で、現在の政治や社会の状況への理解を作りだそうとするものです。 1948年生まれの笠井潔と、1983年生まれの藤田直哉という、親子ほども年の離れた立場の人間が対話を繰り返してきたのは、リーマンショック格差社会などによって「大衆蜂起」の時代に入ったのではないかという予感からでした。2008年ごろから、サブカルチャーではなく、「現代」を理解するために政治思想を学ぶ研究会が組織されました。思想書、政治学の書物、68年世代の証言、同時代の証言などなど、様々な意見が、世代や立場を超え、共に「現代」を理解しようという意志のもとに、交わされました。

 言い換えるなら、ここでは、1968年の思想と、2011年の思想が、相互に比較検討されているのです。日本においてこれだけ大規模に大衆蜂起が起きた経験は、久方ぶりのことです。私藤田は、率直に、この状況を理解する枠組みを欲していました。そこで、ライフスタイルや思考そのものの「革新」をめざし、ハイカルチャーサブカルチャー哲学や思想、芸術などが混沌していた68年を一つの参照点とし、笠井潔氏と対話しながら、改めて現代の特異性を浮かび上がらせようとしました。

 本書は、その成果です。現代日本の言説空間に欠けていると思われる視点や論点を、乱暴でも良いから盛り込み、新しい議論のステージに進んでほしいし、それが必要であるという切迫した意識によって、この対談は行われました。もちろん、議論は、乱暴と言える部分も多々あり、前のめりに、仮説とも放談とも言える部分があります。しかし、緻密さや精密さや厳密さよりも、「現代」を今すぐ掴むなんらかの枠組みを組み立てる必要があり、また、問題提起する必要があるというのが、私たちの考えです。

 不必要な世代間ギャップや認識のギャップこそ、無用な混乱の原因であり、本書がその整理の一助を果たすことができれば、幸いです。

藤田直哉

2015-04-14

チラシの裏に書くべきもの2

 twitterでの議論延長戦です。長くなるので、ブログを使うだけで、別にみんなに周知させる必要のある件ではありません。

 こちらとのやりとり。 http://kinky12x08.hatenablog.com/entry/2015/03/17/194823

 余計な、感情的な煽りや、罵倒の語彙と、ちゃんとした文章が混じっているのですが、煽りのところを抜きにして、いくつか反論や質問を。


全ての論理はその根拠は?その根拠は?と問いを掘り下げていくと無限後退か無根拠ドグマか循環定義に陥るように原理的になっています。

実際のところ僕が要請する「知の営みに参画するものであるならば、客観的根拠のある論理的な言明を心がけるべきである」というのは「知の営みに参画するもの」が共通して了解しているだけのドグマに過ぎないので根拠を求めることはできません。

 これは、もちろん、その通りですね。疑って、疑って、最終的に、根拠がない地点に着く。それは「慣習」とか「信念」とかぼくは呼びますが。

先述の通り「知的営みに参画するものは客観的根拠のある論理的な言明をしなければならない」はただの「知的営みに参画するもの」の共同体において了解されている暗黙のルールに過ぎず、そこに根拠を求めることはできません。「客観的根拠のある論理的な言明をする人」が一般に知的であると了承されているというだけのことです。

 で、問題はここですね。果たして「知的営みに参画するもの」の共同体において了解されている暗黙のルールなのか。こう断言することに、根拠を求めることは、できないそうなので、そうだと受け取るしかないのでしょう。

 一般論としては、ぼくはこの通りだと思います。しかし、人文科学にもそれが適用できるのか。自然科学ではない。しかも、芸術や文学について(評論は、文学の一ジャンルです)。「評論」というジャンルの共同体において了解されている暗黙のルールは、これと等しいのだろうか。そして、その「暗黙のルール」を、本物川さんは何を根拠に主張しているのだろうか。どうやって、その「暗黙のルール」にアクセスしたのだろうか。それは、「評論というジャンルの共同体」の構成員から知るか、実際に書かれている評論を読むことから推測するかしかないのではないだろうか。(評論に対する、社会的な期待というファクターはここでは無視します)

 そして、「評論」は、ぼくの言い方では「動的なジャンル」です。「自己更新する」と言い換えてもいいです。美術や文学などと同じ、自らの定義を、行為遂行的に更新していくことが可能なジャンルであると考えています。


 結論:世界が政治ゲーム的であることは知的フェアネスの有効性を棄却しない。知的フェアネスを貫くことは政治ゲームの世界でもかなりの程度有効な手段。特に現状持たざる者である人にとっては自身のブランド力(影響力)を高めるためのほとんど唯一の手段と言っても良い。

「<現に影響力を持たない者が>言語によって他者の内面に影響を与えることを通じて社会を変えようとするならば、根拠客観性と論理的整合性のある言明をしなければならない」これを最終的な僕の主張とします。以下「なぜ現に影響力を持たない者が社会を変えようとするならば根拠と論理に依るしかないのか」を説明します。

「影響力さえあればふわふわしたポエムでも社会を変えることはできる」ということは、今まさにこの社会において「影響力があるというただそれだけの理由でふわふわポエムで社会に働きかけている」対象が存在するということです。影響力が現にある、つまり既存の権威です。「既存の権威の発するふわふわポエムには力がある」ということであり、それらはもはや根拠客観性と論理的整合性に支持されていない過去の権威の残骸で、つまり不合理な言説です。そしてそれが不合理な制度やルールや生活様式が社会に蔓延していることの原因でもあるわけです。現に世界には権威が、強者が既に存在していて、そしてあなたは持たざるものである。その関係性において、そこに論理がなければ、持たざる者の言明は「既存の権威の意向に沿っているか否か」だけで権威によって評価されるということになってしまいます。権威の庇護下にある不合理な言説を権威の外から突き崩すには、それらがもはや根拠客観性と論理的整合性によって支持されていない惰性に過ぎないということを、根拠客観性と論理的整合性でもって暴くしかないのです。

 これも、間違っている。「既にある権威」の指摘は鋭いのだけれど、「根拠客観性と論理的整合性のない言明」が既存の権威を打ち破って、主流となった時期は、歴史上にちゃんとある。戦前の日本浪漫派とか。ナチスだって、根拠客観性と論理的整合性のある言説をしていたわけでもなく、最初から多数派でもなかった。ナチスが影響力を持っていくプロセスを研究した社会心理学の説で、彼らは最初は少数派で、相手にもされていなかったらしい。だけれど、「長期間同じことを言い続けた」ことによって、ある時期から賛同者が爆発的に増えたらしい。だから、「権威の庇護下にある不合理な言説を権威の外から突き崩すには、それらがもはや根拠客観性と論理的整合性によって支持されていない惰性に過ぎないということを、根拠客観性と論理的整合性でもって暴くしかない」とは、言えない。それ以外の場合もありうる。社会的変動なども大きく影響する(既存の権威が自滅したり、外的要因で力を失っている場合もある)。


 ヘーゲルはこの阿保の画廊てき哲学史観に対して否定的な態度で阿保の画廊という言葉に言及しているわけですが、それでも時系列に沿ってその時々の思想哲学を雑多に陳列してくだけでは(つまり通常の歴史編纂の手法による哲学史では)歴代の浮世離れした哲学馬鹿たちが犯した数々の誤謬を陳列するだけの阿保の画廊にしかならないという部分には同意しています(であるからこそ哲学多様性の中でただひとつの真理に向けて前進しているのだ、という独創的な哲学史観で哲学史の再編纂を試みたわけです)。批評史だってまぁ似たようなものでしょう。どれだけ歴代のビッグネームを挙げてところで、どれだけ彼ら彼女らが当時影響力を持っていたか、またそれらがどれだけ今日にまで影響し続けているのかを語ってみたところで、雑多に並べるだけならそれは阿保の画廊です。それが阿保の画廊と知りてなお、失敗作だと分かっていてなおその手法を「影響力が持てるかもしれないから」と正当化するのであれば、歴史から学ぶという根本的な知的姿勢に欠けるものと判断するしかありません。失敗を繰り返さないためではなく失敗を繰り返すために繰り返させるために歴史を参照するのですか?というか、読者の立場からしてみれば失敗作に影響を受けてしまったことこそが繰り返すべきでない失敗なわけですし人は失敗を繰り返さないために歴史を参照するものなのですよ?

 そこでヘーゲルの権威を持ち出す論法を使うのもなぁ。「哲学多様性の中でただひとつの真理に向けて前進しているのだ、という独創的な哲学史観で哲学史の再編纂を試みたわけです」というが、ヘーゲルが『歴史哲学講義』で、その認識のもと、ヨーロッパ以外の国をどれだけ蔑んでいたことか(アジアは、やがてヨーロッパになる前の原始的な段階だとしていた)。その思想が影響したのやら同時代の思潮だったのやらわからんが、「ヨーロッパ的」に進歩させ、唯一の真理を押し付ける目的で植民地とか作りまくったわけでしょう。後のヘーゲル批判では、この思想などが、それらの蛮行の正当化に使われたとされてるよ。ぼくも、そう思う。ヘーゲルのこの「真理」や「目的」に依存した、妄想的な歴史認識のお蔭でどれだけ悲劇が起きたか。マルクス主義だって、このヘーゲルの思想の影響がでかかったはずだ(マルクスが、ヘーゲルの構図を援用した)。唯一の正しい真理を所有可能であるという思い込みが、どれだけの悲惨な悲劇を生んだのか、歴史を知らないわけではあるまい。ポストモダンを毛嫌いする前に、ポストモダン思想というのは、ヘーゲルマルクスの失敗に対する反省から生まれた側面があるところもみてほしい。


 大切なのは、大雑把に社会全体に対して大鉈を振るうのではなく、ひとつひとつの個別具体的な問題点を注視し、不合理な制度、風習、言明などを個別に言語によって批判し、新しい合理的なものを言語によって提案し、それを古い制度と取り換えていくというところまでの気の遠くなるような長い行程を、根気強くひとつずつ堅実に積み重ねていくということです。

 それは正しいと思う。ただ、ぼくは「合理的なもの」を追求しすぎる危険も、重視する、という違いがあるんじゃないかな。


 追記1

それが阿保の画廊と知りてなお、失敗作だと分かっていてなおその手法を「影響力が持てるかもしれないから」と正当化するのであれば、歴史から学ぶという根本的な知的姿勢に欠けるものと判断するしかありません。失敗を繰り返さないためではなく失敗を繰り返すために繰り返させるために歴史を参照するのですか?というか、読者の立場からしてみれば失敗作に影響を受けてしまったことこそが繰り返すべきでない失敗なわけですし人は失敗を繰り返さないために歴史を参照するものなのですよ?自分は頭がいいからそれらが失敗作だと知っているけれどもそのことを世間の人は馬鹿だから知らないはずなのでもう一度同じ失敗をしてくれるはずだしその中で頭のいい自分だけは勝ち抜けておいしい目をみれるはずだとでも思ってるんですか?

 自然科学文学は違う、という言葉で伝わっていなかったようなので、ちゃんと説明します。「失敗作」というのは、現代日本のぼくが見て判断するだけの話であり、それが売れたり影響を与えたりしたという事実性は否定されません。そして「失敗作」であることと、文学的価値は、イコールではありません。ある文学作品や評論に影響を受けたことが失敗という立場は、ぼくは採らない。ある作品が受け入れられ、世の中を変えたかもしれない。ある思想が、広まって、人々の行動に影響を与えたり、文化に影響を与えたかもしれない。その事実は、厳然たる事実として、まず承服した上で、「失敗作」とか、ぼくは言っているんですよ。「失敗作」と口では言いつつも(それは、その当時の思想や科学の限界ギリギリまで肉薄していたりするから、生じること)、その作品を尊敬しているし、影響を与えたという事実性において、驚異的なものだと考えている。だから、「失敗」を繰り返すとか繰り返さないとか、そういう自然科学とも違うし、歴史とも違うんですよ。ここに根本的な誤解があるんじゃないでしょうか。(ぼくが過去の批評家を例に出したのは、議論の流れで「言語ゲーム」的に、批評という営みがどのような歴史と慣習を持ったゲームであり、どういうルールなのかの一端を、指し示そうとしただけですよ)


 追記2

 時間が出来たので。ここからは、ガチでネチネチやっていくので、興味ある方以外は読まないほうがいいです。

ヘンテコなHNの概念アカウントとの論争における勝利になんの意味があるのかはさっぱり分かりませんがきっと馬鹿には馬鹿なりの価値観があるのでしょう

 この手の、人格批判が散見されるが、これは基本的に論理的ではない。「客観的根拠のある合理的な」言明ではない、とぼくは怒るとブーメランになることを見越して書いているのか、オリジナルの文体で身バレするのを防いでいるのかなんなのか。ただ、そう批判すると、うかうかと相手の言うことを立証してしまうので、それはやらない。(好意的に見るならば、ぼくが別のときに「権威」の必要性を訴えたので、それを批判するために、対人論証という詭弁をわざと使って、それを批判するのを誘って「ブーメラン」と指摘する作戦かもしれない)

であるからこそ「知の営みに参画するものであるならば」という前提条件が付帯するわけです。サッカーをやりたいならサッカーのルールに従うべきだというだけの話で別にラグビーをやるなという話ではありません。しかし、サッカーのプレイ中に突然ボールを抱えて走り出したらまあだいたいは反則を取られるでしょう。

 ここで間違いが二つ。「知の営み」というものが単数で考えられていること。「無数の知の営みたち」と考えるのが正しい。以下、「知のコミュニティ」も同様。そんな実態は、ない。学会だけでいくつあると思ってるんだ。「サッカー」のルールというが、「批評」のルールをなぜ彼が知っているのかが問題。「批評」をサッカー(比喩)だと言い張っているが、ぼくは、「それはサッカーではないし、ましてやルールが決まっているスポーツでもなく、自分たちで定義や中身をその都度変えていく営みなのだ」と主張している。

畳に寝転がったまま「なんで?なんで?」ってブーたれてないでまずは起き上がって自分の身体を動かして自分で畳をひっくり返すべきでしょう。要するに疑うなと言っているのではなく疑いたいならズボラをせずに自分で疑えと言いたいだけだと言いたい。

 これも間違い。どういう間違いかというと、ぼくが「なんでだろう?」と書くことと、ぼく自身の思考を、同一化している。ぼくは、「なんでだろう?」という言葉を用いるときに、思考をそのまま垂れ流ししているわけではなく、その言葉が、どういう機能を果たすのかも考えて、文字を並べる。「なぜ?」と問うことで、それを読んだ読者に「そういえばどうしてだろう?」とちょっと考えることを行ってもらえればそれで良い。ぼく自身は、その「なぜ」の先について色々とまとまった考えを持っているのだけれど、いきなりその結論だけ並べても仕方がないので、時事問題などをきっかけに、「考えること」そのものに誘導する「機能」を用いている。

客観的根拠のある論理的な言明をする人」が一般に知的であると了承されているというだけのことです。

 これも、別にそうではないよ。芸術家とか文学者とか宗教者とかの発言は、このようなものではないけれど、一般に知的と見做されていると思う。

そして、知のコミュニティという枠組みに乗りながらその蝶番を疑うことはできませんが、別の枠組みに移動すれば蝶番を破壊することもできます。つまり、このケースでは知という枠組みから政治力という枠組みに移動することで知の基本ルールに疑問を投げかけようというわけですね。めっちゃひらたくに言いかえますと「世の中理屈じゃねぇんだよオォン!?!?」ということで、はい非常にありきたりなライジングサンなエグザイル節でなかなか気持ちが出ています。

 そうかねぇ? ヴィトゲンシュタインが遺稿で言ったことと、「知のコミュニティという枠組みに乗りながらその蝶番を疑うことはできません」はちょっと違うんじゃない? 後にフーコーが出てくるけれども、フーコーというのは、考古学という「知のコミュニティ」の内側から、学問という制度が政治的・時代的に成立する過程を暴き出して、反省を促したんじゃなかっただろうか。しかも、彼自身がノーマルではないセクシャリティを持っていたから、「普通」「正常」などがいかにして作られたかを暴くことで、そのような規範や制度を変えることすら志していた部分があるはず。(『狂気の歴史』『知の考古学』など参照)で、「知」のルールに疑問を投げかけること自体で、急にエグザイルになるわけでもない。学問や知とは、常に自分自身を疑うことで、点検して、発展してきた部分があるんじゃない? デカルトだってそうでしょ。知の内部から、それはできる。「知」の内部も、多様だし。

ともあれここで枠組みは知のルールから権力闘争、利害闘争、政治ゲーム、あるいは藤田さんが繰り返しエクスキューズしておられるツィイタァーバリトゥードルールに移行したわけで、

 移行したわけではない。最初から、どんな言葉も、発せられた瞬間に、政治的効果を持つ。この場合の政治は、国会とかの政治ではなくて、もっとミクロなもの。いわゆる、ミクロポリティクス。「政治」概念が、間違って理解されている。(だから、定義をはっきりさせたいんだけれど、そうすると屁理屈で逃げていると批判される。こういう無駄なすれ違いを減らすために定義をはっきりさせるのが、ロジカルな議論の基本だと思うんだけれど)。

 「言説」について。

「言説」とは文字通り「言葉で説くこと、説くその言葉」の意であるが、言語・文化・社会を論じる用語としての語義はそれとは大きく異なる。批評用語としての「言説」は、仏語discours(ディスクール〈英語のdiscourseに相当〉)の訳語として成立した。元来、「演説、スピーチ、発言、論」を意味したdiscoursには、1960年代以降、ミシェル・フーコーの言う「特定の社会的・文化的な集団・諸関係に強く結びつき、それによって規定される、言語表現、ものの言い方」の含意が加えられた。それを受けて、今日「言説」(discours)は、ある「もの言い」の文化的、社会的文脈の意で使われることが多い。一方、「文字、筆跡、字体」を原義とする仏語の(e)criture(エクリチュール〈英語のwritingに相当〉)は、批評用語として、(1)文体、(2)書くという行為、(3)書かれたもの、(4)書き言葉、の4つの意味を併せ持つため、英語文献においてもwritingに置き換えずにそのまま仏語で、日本語文献でもカタカナ語エクリチュール」として使用される。

(井上健 東京大学大学院総合文化研究科教授 / 2007年)

https://kotobank.jp/word/%E8%A8%80%E8%AA%AC-186217

ツイターバリトゥードというのは要するに自分のブランドを構築するゲーム、固定IDにより継続的に同一性が確認できる自分のアカウントブランド力を高めていくことで周囲の人間に自分の発言をより尊重させ、耳を傾けさせるように仕向けるというゲームです。

 これも間違い。というか、勝手に定義されている。ぼくはそういうゲームをしている覚えはないし、定義権を与えた覚えがない。全く根拠のない合理的な決めつけ、レッテル貼りである。レッテル貼りは、論理的でも誠実でもない。

「影響力があれば全ては許される!!!!!」

 これも言っていないんですよね。部分否定と、全否定の区別がついていない。

当時の筆者は自らの知覚に忠実に、見えているものそのものを正しく描き記そうとと試みたはずのものなので、別に筆者自身が特段に科学的知見を持たない詩的で非論理的でイマジネーション豊かでロマンチックな人物だったというわけではきっとないのです。おそらく彼は、当時の彼が属する知のルールにしっかりと軸足を置き、知のモラルに従ってこれを描き記したに違いないでしょう。それを現在の時間軸から「詩的でロマンチックだ」と評することはいささか不誠実ではないかと思います。ましてや「現代的な価値観で見れば詩的でロマンチックなものが古典として認知されているのだから現代に生きる俺も詩的でロマンチックでも構わないはずだ」というのは、まあ別に構いはしないんですけれども、それで将来古典の仲間入りできるとはちょっと思えないですね。

 この例を出す前に、ぼくが北村透谷を例に出したのを引用しているのだけれど、透谷は、そもそも、詩人だよ。

肝要なのは「人は大昔から大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張してきたがそれらは時代のエピステーメーに規定されていた」のうち「大真面目にマジで自身が真理と信じるものを真理であると主張してきた」のほうであって、それこそが時代のエピステーメーを超えて過去から現在にまで通底する知のモラルであるわけです。現代においては真理の真理性というのは根拠客観と論理的整合性によって支持されます。

 そうかなぁ? ニーチェは、真理は解釈だと言って、結果としては「真理」を批判したよ(真理がないという真理を主張した、ともいえる。あるいは、真理が相対的だ、という真理を言った、とも言える)。で、真理の真理性は、根拠客観と論理的整合性によって支持されるというのは、自然科学的な実証が通用する世界(それも、結構古典的な部類の?)ではそうかもしれないけれど、それ以外の領域、たとえば今回問題になっている、言語ゲームとか、倫理においては、どうなんでしょ。「批評とはどうあるべきか」の(唯一の)真理はあるんだろうか。それぞれが、どう信じて、どう実践するかの問題であると、ぼくは思うのだけれど。(ヴィトゲンシュタインは、学問だって、「真理」という言葉を使ったゲームだと見做して、そういう「真理」観を否定したんじゃなかったか。『哲学探究』は抄訳版しか読んでいないので、違ったらすまぬ)

主張というのは理解されてこそ社会に働きかける意味を持ち得る

 多分、これも、「言語」をすごく単純に理解しているのだと思う。意志があり、言語が媒介し、伝達され、理解され、人を変える、というモデルだと思うんだけれど、「言語」はもっとめちゃくちゃに振る舞う。誤解されたり反発されたり、理解できないことなどでも人に影響を与える。しかも、効果が予測困難な動き方をするもの。(古くはフロイトがこの辺りを明らかにした)

どれだけ歴代のビッグネームを挙げてところで、どれだけ彼ら彼女らが当時影響力を持っていたか、またそれらがどれだけ今日にまで影響し続けているのかを語ってみたところで、雑多に並べるだけならそれは阿保の画廊です。それが阿保の画廊と知りてなお、失敗作だと分かっていてなおその手法を「影響力が持てるかもしれないから」と正当化するのであれば、歴史から学ぶという根本的な知的姿勢に欠けるものと判断するしかありません。

 これは「正当化」ではなく、「批評」という言葉を「言語ゲーム」的に定義するならば、過去に営まれてきた批評という名の営みを総チェックするしかない(が、物理的に時間は有限なので、読める限り読んで、類推するしかない)という話。「批評」はどうあるべきか、というそもそもの話でしょう。批評は英語でCriticで、Crisisと同源、危機とか臨界点を意味する言葉。だから、基本的に、既存のルールが通用しない矛盾だとか、何かが変わった時のような「新しいとき」とかに登場してくるのは、そもそもの本性だと思う。論理や実証などでは「間に合わない」かもしれないとき、あるいは「それが通用しないかもしれない」ものに対して有効性を持ちうる(かもしれない)のが、批評の生命線なのでは?(これは、ぼくの私見)

 

「既存の権威の発するふわふわポエムには力がある」ということであり、それらはもはや根拠客観性と論理的整合性に支持されていない過去の権威の残骸で、つまり不合理な言説です。そしてそれが不合理な制度やルールや生活様式が社会に蔓延していることの原因でもあるわけです。

 過去の権威の残骸や不合理な言説によって、この世界や社会や生活に不合理が蔓延していることは賛成しない。人間は、不合理なところを、本性として持っている。社会や生活も、生命そのものも。その集団である人間は、そもそも合理的ではない。合理性そのものが、脳の一部の機能で生み出されたもの、あるいは自然や社会を統御する技術として有用であるから重宝されてきたものにすぎず、それに人間や生命が合わせろと言うのは――そっちのほうが、色々な不条理や不幸が減るというのは、もちろん賛成するのだけれど――無理な話だと思う。

一般に言えることというのは平凡で凡庸でありきたりなものと相場は決まっているのですが、社会批評というのは兎にも角にも「広く一般的に適用可能で」しかし「新奇性のある斬新なもの」を求める傾向があります。しかし、当然のように「新奇性のある斬新なもの」が「広く一般的に適用可能」となるのは一般そのものが変容するタイミング、つまり時代の節目にしか成立しません。こういった新奇的な一般則を打ち立てるタイプの社会批評というのがそもそもムリゲーなのですが、その要請をなんとか満たそうとしてことあるごとに時代の節目をねつ造しようとするわけです。

 この指摘は、ある程度正しい。そんなにいつもいつも時代は変わっていない、というのは正しい。が、それは解像度の問題で、細かく観れば、変わっている。やはり、新奇性のあるものにこそ、人は説明や解説を求める。だからこそ、批評が必要になる。それは、認識や理解に「危機」を齎すから。その「解説」や「説明」を人がどう影響を受け、どう理解するかによって、色々なことが変わる(オタクは犯罪者だという説明が蔓延すれば、迷惑を受ける人がいるように)。だから、言説には常に政治性があるし、倫理も必要なわけだ。そしてムリゲーとは言うが、こういう言説は、需要があるから発せられるわけで(批評や思想もまた商品であることから逃れられない by柄谷行人『探究』藤田訳)、それをどうにかしたければ、需要の方をなんとかしなくてはならない。そういうのを求める欲望自体をなくさなければいけない。――その欲望が善いのか悪いのか。ぼくは、判断を保留している。というのも、仮にぼくが、そういう「通俗的」な評論を批判し、もっと「誠実な」(売れない)評論を読むように啓蒙したところで(そう努力はするけれども)、結局、大衆批判になってしまう。大衆の欲望を、批判し、ねじまげ、変えることになる。そんなことが、可能なのか、しても良いのか。(する力があるのかどうかは、さておき)

 ……ぼくは、どっちつかず。ラリィ・マキャフリィの『アヴァン・ポップ』の戦略。アヴァンギャルドと、ポップ。その両方の境目でやっていくことが、ぼく自身の「倫理」であり、「誠実さ」であり、「方法」。批評「家」と名乗っているのだから、ぼくはぼくの看板で、自分のやり方で、モノを書く。違うラーメン屋の方がうまいと思うなら、そっちに行けばいい。




 追記3

 本当は、もっと純粋にロジックだけで緻密に組み立てて、反論の可能性を徹底的に潰して論証するようなものすごい論が来るのかと期待していた。「客観的根拠のある論理的な」内容を徹底したものが来るのかと楽しみにしていた。けれども、罵倒語を使い「誠実さ」を疑わせるよう内容で、「論点ずらし」や「対人論証」や「権威に訴えかける論法」などが用いられている「ふわふわポエム」だった。これ自体が、あまり客観的でも根拠のある文章でも論理的でもなく、知的フェアネスも誠実さもなく、主観的である断言の多い文章である。だけれども、ぼくの主張を仮に徹底化すると、こういうことになるのだと、ぼくに体験させて、理解させるために、わざと悪い例を見せてくれたのだと、理解している。これでは、確かに、ダメですね。徹底したロジックによる反論を、本当に楽しみにしていたので、残念なのですが。