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2014-03-23

伊藤計劃以後とは何か?

 「伊藤計劃以後」に大変腹を立てているブログを見つけたので、いくらかの反論を書きたいと思います。

 ■伊藤計劃キリストを超えた。わけあるか。くたばれ。

 http://anond.hatelabo.jp/20140308193257

 以下、引用。

彼の死後、同社より、関連書籍の刊行が相次いだ。 『伊藤計劃記録』をはじめとして、ブログ及び個人ページに書きためていた映画評、

同人雑誌への寄稿が次々と出版され、多くの読者たちの手に渡った。

『記録』の主な素材は短編小説のほか、彼のブログに重ねられた書き捨ての文章である。その時既に彼の文章は死者の書物として上書きされていた。

だが、それらの文はインターネット上といえ、確かに人に見せるために彼自身の手により発信されたものだ。公開できるものとして。自らの分身として。

豚はその皮を食い破り、腸を捕まえる。裂け目から沸きだした臓物の汁の一滴まで啜り続ける。 その餌を与えたのもやはり同じ、早川書房である。

文庫化を機にベストセラーとなった『虐殺器官』には、解説という名の追悼文が録されている。

近しい知人のみに公開されたmixi日記に連ねられた彼のことばが、共有される感動の実話として金を集めていく。

豚たちにとってそれは飲み込まれるのを待つだけのコンテンツ、喪失という名の欲望を満たすために在るただの肉でしかない。

彼の最大の不幸もまた同社との出会いであった。


伊藤計劃はこれからもコンテンツとして生き続ける。言及は絶えず続き、没後の節目を迎えるたびこのような商業作戦は行われ続けるだろう。

「彼の本が」ではない。「彼が」でもない。そこに掲げられるのはもはや彼ですらない、幻想としての"伊藤計劃"だ。

"それ"は新刊をさばくための道具だ。士気を煽るための墓標だ。いつでも痛みを味わえる、簡単で都合のいい薄っぺらい擦り傷だ。

またはただの便利な、ブログツイートの空白を「かんがえさせられましたにっき」で埋めるための装置だ。


彼らの漬かった沼を満たす泥は金だ。あるいは承認の欲望だ。

社会的であらねばならないこと。そのポージングが直結する意識下、無意識下のスタンドプレイ同調圧力の強要。

彼が稚拙ともいえる比喩で、『ハーモニー』の作中、あからさまに批難したのはこのやさしさの窒息ではなかったか。

取り合う手と手に首を締められるその苦しさではなかったか。

虐殺器官』に描かれた偽りの平和主義の破壊に、お前は何も思うところは無いのか。

自分が何を読んだのか、何に心を動かされたのか、少しでも彼の書いたもののことを思うなら、WiFi電波をオフにしてもう一度考えてほしい。

 趣旨の大半は理解できますし、一定の共感すら覚えます。しかし、そこまで分かっているなら、この、SNSや、商業を舞台に行われているこの「project」の本質(とぼくの思うもの)の理解まであと一歩なのではないのか、その「一歩」で、怒りは笑いに変わるのではないかと、お節介にもぼくは思ってしまいました。。

 伊藤計劃が皮肉を込めて描き、死後にまで作動する「悪ふざけ」のプログラムを残し、そして「悪ふざけ/本気」としてそれを実行する/せざるをえない、この社会そのものを相対化するプロジェクトであるのだと、ぼくは考えています。そこで必要なのは、きっと怒りではなく、(冷めた)笑いの共有なのではないかと思います。


 現代SF論集である『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』と題した論集を編んだ責任が、評論家としてのぼくにはあるかと思います。なので、ぼく自身が「伊藤計劃以後」ということについてどう考えているのか、ここにまとめて書き残しておきます。

(とはいえ、オタク大賞マンスリー「伊藤計劃以後を斬る」の会で口頭で喋った原稿なので、粗っぽい(単純化している)のはご容赦ください)


伊藤計劃の紹介

 1974年生まれ、

2006年、小松左京賞の最終選考に『虐殺器官』が残るが、小松左京が受賞に反対し、落選。そのとき同時に落選したのが、芥川賞作家の円城塔の『SELF-reference engine』。この後、二人の盟友関係が続く。

 2007年にこの二作が、ハヤカワSFシリーズ、Jコレクションから刊行された。

 で、これが、

SFが読みたい! 』1位、月刊プレイボーイミステリー大賞1位、日本SF大賞候補になった。

 新人では快挙。特に、プレイボーイで一位になったのが驚きだった。

・『虐殺器官』の内容

 世界各地で虐殺テロが起きているけれども、その陰謀の首謀者を追うという冒険小説。「虐殺の言語」という、言葉を使って虐殺や紛争を引き起こすという言語SF的な側面が、冒険小説として斬新だった。

 人間に主体があるのかどうか、何かに操られていないかどうかというのが、伊藤の一貫したテーマだった。「痛覚マスキング」という、痛覚を遮断するガジェットが出てくる。現実を一歩遠くから見ているようなリアリティの感覚も、伊藤に特有。(ゲームや映画を継ぎ接ぎして作品を作るのだから、当然そういうリアリティの小説になる。しかし、その感覚が現実化しているのでは、とひっくり返したのが、巧みなところ)


 2008年には、『メタルギアソリッド4 ガンズオブザパトリオット』のノベライズを刊行。

小島監督との関係

 伊藤計劃は、元々、メタルギアソリッドシリーズで世界的に有名なゲームクリエイター小島秀夫のファンで、メタルギア二次創作なども書いていた。内容的にも影響が強い。『虐殺器官』も元々は、小島の作品『スナッチャー』の二次創作だった。『虐殺器官』の冒頭の降下のシーンは、明らかに『メタルギアソリッド3』。デビュー前から交流があって、小島のところに伊藤は作品を送っていた。けれども、評価は低かった。小島秀夫が本作の文庫版の解説に書いているのだけれど、小島監督としては、伊藤の作品は、自分の影響圏から脱していないと思ったらしい。しかし、それが小説界、SF界で評価されたというのは不思議なところ。単純に、ゲームをする人と、本を読む人の分断というのがあるのかもしれない。

 その後、小島秀夫はハヤカワSFコンテストの審査員をしたり、SF小説にコミットしていく。

メタルギアソリッド』の内容は、ナノマシンで感情や行動を統制された未来社会を描く話。銃もID登録されていて、認可された人しか使えない。戦場はPMCと呼ばれる民間傭兵たちが「戦争経済」のために戦っていて、ロボット兵器が跋扈する。

 「愛国者」と呼ばれる集団の、情報統制と人間の管理から人は自由になれるのか? という、解放を目指す物語。これは『ハーモニー』のテーマにもつながっていく。


 そして長編『ハーモニー』を発表。

 日本SF対象と、フィリップ・K・ディック記念賞の特別賞を受賞。ディック賞はアメリカの賞で、英訳版が受賞した。

・『ハーモニー』の内容

 全世界規模の大騒乱のあとに、生きる政府と書いて、《生府》と呼ばれる統治機構が人間を支配している。WatchMeと呼ばれる健康を監視する装置を埋め込んで、調和を志向する健康志向の社会になっている。

 そしてそれが行き過ぎて、ついには「意識」がない状態こそが、調和の世界になるという結論になる。意識がなくても生きている人間というのが、想定されている。この文章自体もetmlという感情を示す記号を用いて書かれていて、「意識」消失後の人類が読んでいる設定になっている。

 意識が不用かもしれないという発想は、脳科学から来ている。人類が理想としていた「調和」の社会のために、意識がなくなるというアイロニーを描いている。この世界がディストピアなのか、ユートピアなのかは、解釈が分かれる。



 そして、2009年に肺癌で亡くなられた。


 残した長編は、この三作のみ。遺稿である「屍者の帝国」を円城塔が書き継いで、2012年に発表し、これも話題になる。

 

 ワトスンカラマーゾフら、小説の登場人物たちが二次創作的に登場するスチームパンクゾンビが、労働力として使われている。これもまた、意識の問題がテーマ。相互作用やコンフリクトが意識を発生させるという説を採用している(だから、ウイルスコンピュータネットワークにも意識はできるかもしれない)。意識は主体の座ではなく、脳が自動的に判断したことの結果起こる余剰のようなものでしかないという脳科学の説。

 そして、死人を利用する資本主義の話である。これが、自身の「死」の物語をどう利用されるか理解し、それを用いてプロジェクトを用いた、伊藤計劃という作家の壮絶なところ。感情や感動、物語に冷淡な目を向けていた。二次創作的な模倣が「感動」を生み出すことを理解して冷めていた。でも、自身の死という、物語ではない、絶対性の高いものを、そういう物語として利用した。そしてその「死」の物語を消費する人をあざ笑うかのようないたずらを仕組んだ。

 その結果、伊藤計劃を用いたビジネスもまた、伊藤計劃の仕掛けたいたずらの延長のようになった。この皮肉な仕掛けこそが、伊藤計劃という作家の最大のプロジェクト。


 伊藤計劃作品のすごいところは、売れたところ。文庫で数十万部売れたはず。日本SFとしては異例。SFプロパーだけではなく、それ以外の人にも読まれた。それが日本SFの新しい展開にとっては重要だった。



ゼロ年代SFの動向

・90年代に、「SF冬の時代」と言われていた時期があった。SFと銘打たれて刊行される小説が少なかった。実際、SFを書きたい作家はノベルスやライトノベルなどでデビューしていた。「クズSF論争」というものがあり、SFは「浸透と拡散」したのであって、SFと銘打たれている小説が少なくなっても、アニメやマンガ、ゲームなどで隆盛していると、巽孝之さんや小谷真理さんらが論陣を張った。

・その後、冲方丁さんのデビューで、ひとつ時代が変わった。『マルドゥック・スクランブル』で日本SF大賞受賞。ライトノベルを書いたり、ゲームの現場にいた作家。そういう作家が、メディアを横断しながら優れたSFを書き、それが多くの読者にアピールするということが証明された。

 ゼロ年代前半に、SFの中核を担う「ハヤカワSFシリーズ Jコレクション」が創刊され、一方で、アニメやマンガ、ゲームの感覚などを取り入れた新しいシリーズ〈リアル・フィクション〉が展開された。〈リアル・フィクション〉は、若い読者を獲得し、成功した。

 代表的な作家に、

 海猫沢めろん小川一水長谷敏司桜坂洋桜庭一樹新城カズマさんら。元長柾木さんら、美少女ゲーム書き手も多かった。

 今ではみなさん、SFと言わず、様々なジャンル・メディアで活躍されている。

 伊藤計劃円城塔は〈リアル・フィクションのその後〉とデビュー当時呼ばれた。「伊藤計劃以後」現象は、このリアル・フィクションの成果があってこそ。

 

(「リアル・フィクション」を名付けたのも、「その後」と呼んだのも、SFマガジン編集長の塩澤さん。彼によると、サイバーパンクが、ハードウェアが変えていく世界を描いたものだとすると、リアル・フィクションというのは、ソフトウェアが変えていく世界を描いたものだということ。『ゼロ年代SF傑作選』の解説でも書いたけれども、ぼくはその定義が一番すっきりする)


■変わったこと

 所詮は商業的レッテルでしょ、とか、故人を商売に利用しているんでしょ、という批判があるのはよくわかる。実際そういう側面はあるが、ぼくは、伊藤計劃というのはそれを理解して、わざと仕組んだと解釈する立場。ある意味で、死を贈与した。それがSF界や出版社に利益をもたらしたことは否定できない。その代わり、ぼくらは贈与だけではなく、このプロジェクトという呪いを受けるようになってしまった。「伊藤計劃の言語」みたいなものが、解釈や、資本の中に残って蔓延している状況を作られてしまった。その中に巻き込まれながら、その全体を冷めた目で理解し、笑うことこそが、伊藤計劃の残したこの状況を生きる、ということだと思っている。

 そう思って、『ポストヒューマニティーズ 伊藤計劃以後のSF』という本を作った。解釈し、理解することで、ある意味で解毒剤のように機能しようとした。その本で主張したことの繰り返しになるのですが、伊藤計劃以後に、何かそれ以前と違いがあるのか、ということを説明させていただければと思います。

1、読者の質(プロパーSFファン以外にも読まれるようになった)

2、内容が変わった

ネットワークで接続された存在であるというポストヒューマンのテーマ

脳科学の応用

・管理社会などのテーマの前景化。

・意識と社会の関係

3、ソーシャルネットワーク(含む:資本、ミームメディアミックス、ネット)におけるノードとしての作品(作品を巡る環境、環境への自覚性)

 →割と、現実の延長、現実のメタファーのようにSFが読まれるようになった。難解な文学を志向するSFというよりは、同時代を理解するための同伴者として、SFが機能し始めた。大江健三郎が言う意味での、「同時代の文学」になってきている。


■影響を受けた作家

 伊藤計劃以後と世の中で紹介されがちな作家さんを紹介。

野崎まど『know』

 超情報化社会京都が舞台。情報アクセスと、プライバシー防衛が、階級制のようになっている。脳を改造した量子脳の天才が出てきて、常時接続の世界で戦う。

長谷敏司BEATLESS

 超知性のAIが、美少女の〈かたち〉をとって現われる。人間の知性を超えた存在によって運営される社会の中で、人間はどうあればよいのかを考察する骨太のSF。ライトノベル的な装いをしているけど、問いかけは本質的。

 美少女のみかけで、超高度AIが人を〈アナログハック〉するために、ファッションモデルをするシーンが印象的。

 AIに物語を書かせる『あなたのための物語』も評価が高い。死とAIのテーマ。『メタルギアソリッド3 スネークイーター』のノベライズも手掛けた。

宮内悠介ヨハネスブルグの天使たち

 ボーカロイドロボット版みたいなのが世界中で使われている。楽器なのに安いから兵隊にされたり、商店街でケロヨンみたいに使われている。世界の紛争や内戦についての皮膚感覚の側面が伊藤に似ていると言えば似ている。

吉上亮『パンツァークラウンフェイセズ

 行動履歴によって、最良の行動を指示される都市におけるヒーローもの。ヒーローなのに、指示される。現実のgooglefacebookやスチームなどが情報収集して、レコメンドをしてくる感じが社会に実装されたらどうなるかという話。『ハーモニー』の手前。ユートピアなのかどうか。

 今度『サイコパス』のノベライズをSFマガジンで連載する。

 ついでに、週刊読書人に寄稿した『屍者の帝国』評を。

屍者の帝国書評

                                 藤田直哉

 『屍者の帝国』を「評する」ということは、恐るべき難題である。それは、この作品の成り立ちに、伊藤計劃の悪質な冗談が刻み込まれているからであり、それを受けて書く円城塔の企みも一筋縄ではいかないからである。

 なにしろ、見る人によって解釈が違う言語なるものを作中に描き、読む人が様々に自分自身の「物語」を投影して作品を読んでしまうことを想定した上で書かれているのだから、その挑発的な悪ふざけに応答するためには、相当に粋なセンスが要る。そのセンスの持ち合わせがこちらにないとなると、この文のように、愚直に突撃するしかない、ということになる。

さて、舞台設定は19世紀。屍者を労働力として用いるようになった世界を舞台に、実在の人物や既存のフィクションの登場人物たちが縦横無尽に入り乱れて物語を展開する。主人公はホームズの相棒であるワトソン。彼が秘密任務によって潜入するロシアの奥地で出会う相手はアレクセイ・カラマーゾフ。その他、過去のフィクションの人物や設定、アニメを含む引用を撒き散らした小説が本作である。古典あるいは小説というものが、死んだ言葉の集積であるならば、この「書き方」自体が「屍者」に労働をさせているという意味を持つ。さらに、本作が採用している「スチーム・パンク」というジャンル自体も、19世紀という、科学技術が発達し、未来に向けて夢やフロンティアへの希望があった時代を「まるまる作中に再現して」改変してしまおうという、「屍者=過去」を再利用し、改造し、新たに生命を吹き込んでやらんとするジャンルなのである。それがSFというフランケンシュタインの怪物を起源に持つジャンルが今新たに生み出した、ある意味では悪趣味なサブジャンルなのである。

 悪質な冗談はこれだけではない。伊藤計劃はそのような屍者を労働させるプロローグを、死病に苛まれながら、書いた。まるで、自身の「死」がどう利用され、「物語化=伝説化」されるか理解したうえで、チェシャ猫のような微笑を死後に残そうとしたような「冗談」を伊藤は遺した。それを受ける円城も、あくまで本作が死後に駆動し続けることを見越した悪ふざけのようなプロジェクトとして理解し、そう書かれているからこそ執筆を引き受けた旨をインタビューで答えている。悪ふざけを受けつぐ粋な心こそが、プロジェクトを先に進めるエンジンとなった。

 この作品は、伊藤計劃が遺したプロローグに円城塔が書き継いだという構成を反映させたかのように、文章全体が、屍者であるフライデー速記(とその再構成)であるということになっている。だが、ここに、伊藤と円城の関係を「読み取ってしまう」ような仕掛けもある。人はそのように物語化して読む。

 だが、この作品は、人がどのように「物語化」を行うかという仕組みと、人間の意識の仕組みを巡った「物語」であるから、もちろんそう「読まれる」ことも計算のうちであろう。

円城塔の書く文章は、「どうとでも読める」性質を持っており、その「言葉」がプログラムのように作用し、脳から自動的に物語なり意味なり解釈をアウトプットさせるという仕組みを操るトリックアートのようなものである。それはほとんど自動生成に等しい。彼は自身が物語を自動生成しているというよりは、読者の脳を自動物語生成装置と見立てて動かしているエンジニアに近しい。

 この「物語」は、本作で中心的な問題になっている意識・魂の問題に深く関わっている。デイヴィッド・イーグルマンによると、意識は自身の意図や意志を「錯覚」している。脳とは独立したゾンビモジュールの集合であり、個々のパーツは自動的に判断を下している。そしてその判断が「葛藤」する際に意識が生じる。「意識」の機能は、そのゾンビモジュールの決定に、あとから勝手な「筋道」をつけ物語化することである。だが、実験の結果、この意識が作り出す自身の意志や意図は、後付であり、本当の理由ではない場合が多いとイーグルマンは言う。

 その「意識」は、ゾンビモジュールの葛藤によって生じる。よって、葛藤がなくなれば、意識は消滅する。「調和」が訪れれば意識が消滅するという皮肉を描いた『ハーモニー』のワーキング・タイトルは「生命の帝国」であったが、本作は『ハーモニー』の問いと対になっている。意識は、それが存在するためには葛藤や衝突なども必要なのかもしれず、社会における争いや派閥抗争などもそのために必要なのかもしれないという認識にすら本作は誘う。この認識が呼び起こす思索は暗いものだが、そこには深入りはしない。

 「物語」は意識に関わるだけでなく、「死」にも関係している。円城は「あとがきに代えて」で、伊藤の死について、「語ることはいかに小説であってもできないからです。死者をそのように用いることはできません」と述べている。「死」という事実は語ることができない。だが、「語ることができない」と語ることもまた言葉が行うしかないのだ。

 「死」という事実に全く意味がなく、その空白に耐えられないが故に、人は物語を作り出さざるを得ない。その脳のほぼ自動的な機能に直面しているが故に、本作は「死」と「言語」「物語」それ自体の関係性を対象化し、作中に描く結果となった。そして、その結果、ある普遍性に到達している。

 本作に、伊藤の死に対する円城の思いを読みとるのは、素朴、かつ誘導されてそう思われているのではという「狐につままれた」感は否めない。だが、それは間違いとは言えない。「語ることはできない」という言葉は、まさしく一個人の死の尊厳のために、語られているのだから。


 私が伊藤計劃の残した短編「屍者の帝国」にある意志を読み込み、それを「実行」せよというプログラムを、出来の悪い解釈系で解釈し、戸惑いながら、揺らぎの多い実行系で作動させてもいいのだと覚悟を決めたのは、『屍者の帝国』長編版の共同執筆者である円城塔の、以下の言葉を読んだからです。


「『屍者の帝国』は、諧謔にも似た、悪い冗談のような装いを持つわけですが、その本質には強い意思があります。諦めることなく、悲観にも楽観にも陥ることなく、できることを可能な限り続けること」「この小説が、悪辣な冗談にしか見えない世界に対する笑い声として受け取られることが叶うなら、それ以上の幸せはありません」http://www.kawade.co.jp/empire/

 「怒る」ことも「代弁」することも、多分「計劃」の一部なのでしょう。それも死に対する反応であり、「伊藤計劃以後」なるetmlがSNSに流通するしていき、憎悪を駆り立てる「虐殺の言語」のように機能しているのでしょう。その全てが、伊藤計劃の描いた世界が、実現している/させているかのようであり、そのような小説/仕掛けを書いた人間への共感交じりのくすっとした笑いを、ぼくはどうしても抱いてしまうのです。怒るよりも、そのことも含めて、世界そのもの、人間そのものを、引いて、見て、くすっと笑う、人間や世界そのものの理不尽さを笑いの中に解消するしかない地点に立って、見通すことの方が、ぼくは、伊藤さんが描こうとしたことに沿うものだと考えています。とはいえ、代弁はできない。これはあくまでぼくの、解釈です。

bbbb 2014/03/24 10:12 寒いんですよ

aaaa 2014/03/24 16:07 冷静になって、想像してみよう
平日の朝からパソコンの前に座り、自分を不愉快にさせたブログに復讐することを誓い、普段使わない頭をフル活用して書き込んでいる男の姿を……

cccc 2015/01/12 18:03 本当に文を読んだのかって思うくらいあんまりなコメントしかないので。
一言あげるとすると、円城塔氏の言葉に共感しました、みたいな宣言に意味はないよってことだ。

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