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2010-07-02

宇野千代論14 暴かれる矛盾‐「色ざんげ」小論

| 15:51 |

 生涯彼女が創作した作品の中で最も有名なものの一つが昭和8年9月から翌年3月まで「中央公論」に掲載された「色ざんげ」である。この作品は現在「当時同棲していた新進画家・東郷青児が他の女と起こした心中未遂事件を男の口から一人称で語らせるというスキャンダルな内容」 とされたり、批評家の中では巧妙で「完璧」と批評されたりもする。この「色ざんげ」が他の東郷以降の作品と決定的に違うところは「よく売れた」ということである。
 千代は自分でも「色ざんげ」をよく売れる小説 だと言っている。なぜ「色ざんげ」は良く売れる小説だったのだろうか。今までの彼女の作品も聞き書きを採用した私小説的な作品(特に私小説というジャンルの本は売れなかった)であるというのになぜ「色ざんげ」はよく売れたのか。今日における状況でも芸能人の麻薬疑惑や有名人の死などが出版業界にもたらしたものは出版物の売り上げ増であった。日本における週刊誌の類、特に電車の吊皮広告にあふれるのはいつでもゴシップと色恋沙汰である。amazonのレヴューにもある通り、この「色ざんげ」は現在で言うところの暴露本である。今までの超短編集がどんなに秀作で波乱万丈な私小説だったとしてもそれがゴシップ性を持つことは無かった。しかし東郷青児と離婚したばかりの千代が男の色を懺悔する小説を書いた、となれば話は別だ。ゴシップは売れるのである。「文藝は元来ゴシップ的なもの」「原始的な物語はゴシップにほかならない」と小谷野敦氏も論じているが 千代の持つ前近代性がここでも具体化した格好である。

もちろん「色ざんげ」はただのゴシップ私小説ではない。先ほども述べたように完璧と批評する者もいるほど価値ある通俗小説として認められている。しかし荒井真理亜氏は「宇野千代 色ざんげ論―語りスタイルの意味―」 という論文において「色ざんげ」のつじつまの合わない点を指摘しその完璧と謳われる作品世界に存在する矛盾を明らかにした。具体的には第1回目の掲載時に「(完)」と記され、もともと読み切り作品のつもりで書かれたのに第2回目から明らかに長編小説として連載している点。そして当時の資料に基づいた調査によると「色ざんげ」における時系列では東郷はまだ帰国していない点。最後に描写の中で明らかにリアリティが欠如している個所がいくつか存在する点である。これによって「色ざんげ」が単なる東郷青児から聞いた情死未遂事件をつらつらと並べただけの作品ではなく歴然とした宇野千代による文学虚構、つまり本論で言うところの「女の記憶」により東郷の話が操作された痕跡が存在し、なお且つ終始一貫した「完璧」な作品ではないことに言及して「色ざんげ」における従来の評価を覆している。そして注目すべきは以下である。


では、なぜ、今まで「色ざんげ」は「完璧な世界」「完璧ともいうべき小説」と見なされてきたのか。どうして、読者は「色ざんげ」の文学虚構、すなわち「色ざんげ」に存在する矛盾や不合理を見落としてしまったのであろうか。
それは、読者が主人公の「僕」のモデルが東郷青児であることを知っていて、「僕」と東郷青児と重ねて「色ざんげ」を読んだからである。つまり、「色ざんげ」で「僕」が語る話を、事実のように思ってしまったのだ。「色ざんげ」において、東郷青児本人が語っているように思わせる、「僕」の話のリアリティを決定的なものにしているのが、冒頭の一文「どこから話したら好いかな、と暫く考えてからゆつくりと語り始めた」である。(中略)
色ざんげ」における語りのスタイルは、事件の当事者が語っていると読者に暗示をかけることで、随所に存在する矛盾や不合理をごまかしている。リアリティに乏しい文学虚構も、読者に事実であるような錯覚を与えたのだ。



このように新井氏は千代が先ほどの矛盾を「東郷と思われる男の語り」という文体で隠した、という見解をここで提出している。千代は東郷から伝聞した話を女の記憶によって練り上げ、湯浅譲二という男をでっちあげた。さらに内包されたゴシップ性は作品をより売れる、ポップなものにした。そして語り、民話性、ゴシップなどの原始的手法が詰め込まれたこの作品をリアルであると錯覚させたのは彼女の文体によってである。作品の原始的な実態を文体=スタイルで隠して読者を欺いたのだ。この作品が宇野千代文学の一応の集大成であるという見方はあながち間違ってはいないだろう。

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