今日・水曜日のおしゃべり

 今週に入って梅雨特有のはっきりしない天気だったが、今日の夕方は青空も見える天気になった。
 今日の夕方の高田馬場駅前風景
      


◇会の新聞「けんさん」編集もほぼ終了
 明日の夕方から明後日にかけては、埼玉県のヤマギシの村・岡部実顕地のコジマ翁のお別れ偲ぶ会と告別式に出席するために出かける。
 その前に、会の新聞「けんさん」6月号の編集を終わらせたいと思って、今日は朝から紙面づくりに取り組んだ。
 一昨日の深夜に、紙面づくりを担当してくれているイワタさんに編集済みの原稿と写真を送っておいた。
 昨日の夕方から、その原稿と写真が紙面上にレイアウトされたものが送られてきていたので、それを今日は朝からチェックして、修正や組み換えのやり取りをする。
        
 何とか、夕方には4紙面全部が出来上がって、そのデータを印刷屋さんに渡した。
 同時に編集委員のユリカさんとサユリさんにもデータを送ってチェックしてもらうメールをした。
 そんなことで、今日はちょっとお疲れモード。
 しかし、明日の午前中に、最終校正用ゲラが届いて、それを金曜日の夕方までに確認して、今月の編集も終わりだ。


◇夜は季刊誌『フラタニティ』の原稿書き準備をする
 編集長のムラオカさんから、この雑誌の「わが街の記念館」というコーナーに、我が家・多摩実顕地の近くにある「町田市立自由民権資料館」の紹介を書くように言われている。
 原稿は今月半ばまでと締め切りを言われている。
 先週、資料館を訪れて、学芸員にも話を聞いて、館内の写真も撮ってきたのだが、まだ原稿化はしていない。
 新聞「けんさん」の編集もメドが付いたので、そろそろ書き始めようと思って、先ほどから資料と取材メモを見直している。
        



◇なぜ、我が町・町田で自由民権運動が盛んだったのかという疑問
 先日、資料館を訪れて学芸員に、僕はそれを一番先に質問した。
 そこから資料館の紹介文を書こうと思っているので、そのことを、ここにも少々記しておきたい。


Q:ここ町田を含む多摩丘陵の地は、明治維新後、当時は神奈川県に属して、北多摩郡西多摩郡南多摩郡三多摩地域と呼ばれていた。そこが、なぜ、自由民権運動が盛んだったのか?
       

A:自由民権運動というのは、天賦人権論(人には生まれながらにして自由・平等の権利があるという考え)に基づく、明治初期の薩長派閥新政府に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げた全国的規模で展開された政治的社会的運動である。
 その全国的規模で展開していた運動が、なぜ三多摩地域が中心となったのかというと、この地は維新以前の江戸時代には、多くの村が幕府直轄領(天領)や旗本領であり、地方藩の飛び地の村も少なくなかったからである。
 そのために支配関係が錯綜して郡内の一円支配が行われず、直轄領に対する幕府役人の配置も少なかったために、農民は自己防衛的に富豪農家が地域リーダー・村役として治めていた。彼らは、維新後も中央政府の動きや情報に関心を持ち、自治意識の強い農村指導者だった。
 また、この地は養蚕が盛んで、農家の半数以上がその業で産をなしていたといわれ、八王子〜御殿峠〜原町田〜横浜の道は「シルクロード」と呼ばれたほどで、横浜を起点とした海外の情報も入りやすかった。
 つまり、維新後の最新情報が東京と横浜から入りやすい地だったのである。
 そのような条件のもと、時代の動きに敏感で学識豊かな農村指導者が自由民権運動の中心的役割を果たし、全国的にも自由民権運動の最先端の地となったのである。