すごい映画配信プロジェクト

「UPKINL Cloud」というwebサイトでとても興味深い、そして素晴らしい映画配信プロジェクトが行われています。
その名も、

コロナの時代を乗り越える、Help! The 映画配給会社プロジェクト

そもそも「UPKINL Cloud」とは何ぞや、ということですが、こんな内容のものです。


国内外の多様な価値観を持った映画を紹介してきたアップリンクが奥渋谷にある3スクリーンのマイクロミニシアター『アップリンク渋谷』に次いで、全国の映画ファンの皆さまに、観たい映画をいち早くお届けするために立ち上げる“オンライン・セレクトシネマ”が『アップリンククラウド』です。
配信、決済のプラットフォームはvimeoを利用し、視聴は日本国内に制限しています。
東京での公開日に観たいと思っても近くに映画館がない方、忙しくてついつい見逃してしまう方、『アップリンククラウド』で、自宅を、デバイスをあなた専用の映画館にしてください。

www.uplink.co.jp


渋谷にあるミニシアター「アップリンク渋谷」の映画配信サイトということですね。

そして、「コロナの時代を乗り越える、Help! The 映画配給会社プロジェクト」ですが、タイトル通り、新型コロナウイルスの影響で大打撃を受けた映画配給会社を助けよう!というものになっています。
以下はホームページのプロジェクト説明です。

 

新型コロナウィルスの影響で、映画館、映画製作者、そして映画配給会社は困難な時代を迎えています。この難局を乗り越えるため、これまで世界の多様な作品を日本中の映画館に送り出してきた独立系配給会社が「Help! The 映画配給会社プロジェクト」を立ち上げ、その緊急アクションとして「配給会社別見放題配信パック」を配信いたします。

日本初配信作品や不朽の名作など、各社渾身のラインナップをお得なパックにしてご提供頂きました。配給会社なしには映画館は成り立ちません。
視聴期間が延長される特典が付いた、寄付込み見放題プランもあります。それぞれ独自の個性で世界の映画を紹介してきた独立系配給会社へのよりいっそうの応援となります。ご支援よろしくお願いいたします。

http:// https://www.uplink.co.jp/cloud/features/2408/

 

これを読むと、「配給会社が大変だからみんなで助けよう!」という、お助けプロジェクトのような感じですが、それもとても重要なことですが、また別の側面もあります。

 

お得に、ここでしか観られないかもな映画をたくさん観られる!!

 

という、単純に映画好きにはたまらないプロジェクトでもあるのです。

以下が配信映画を提供している配給会社です。


<第一弾>
クラシックの名作やヌーヴェルヴァーグの傑作群、アジアやヨーロッパの作家たち、近年大ヒットした作品、カンヌなど国際映画祭での受賞作、これまで未配信だった貴重な作品など見逃せない全90作。

クレストインターナショナル (12作品/2,480円/3か月)
ザジフィルムズ (30作品/2,980円/3か月)
セテラ・インターナショナル (15作品/2,480円/3か月)
ミモザフィルムズ (12作品/2,480円/3か月)
ヴィオラ (21作品/2,480円/3か月)

<第二弾>
社会派ドキュメンタリー、新鋭映画作家の作品、世界の巨匠の作品など、バラエティに富んだ全137作。

彩プロ (30作品/1,950円/3か月)
アンプラグド (5作品/1,800円/3か月)
エスパース・サロウ (16作品/2,500円/3か月)
オンリー・ハーツ (30作品/1,490円/3か月)
サンリス (6作品/700円/3か月)
シンカ (25作品/2,480円/3か月)
ハーク (15作品/2,480円/3か月)
マジックアワー (10作品/1,000円/3か月)

www.uplink.co.jp


正直、僕レベルでは配給会社の名をみてもピンとこないのですが、単純に30作品1,950円、とか観るとすごいなあ、と感じます。
さらに、各配給会社の紹介や作品紹介を読むと、「面白そう!」「こんな映画あがったんだ」「DVDでは出ていなく、ここでしか観られる機会はもうなさそう」など、バシバシ魅力ポイントが襲ってきます。
「配給会社を助けよう!」という慈善精神はちょっと脇に置いておいても、単純に面白い映画、珍しい映画、希少性のある映画を観られることに極めて高い価値を感じます。

 

僕はとりあえず
オンリー・ハーツ (30作品/1,490円/3か月)
を購入しました。
配給会社はもちろん、映画タイトルを観ても知っている映画が一つもない!という感じでしたが、何かがピンときたらしく、「そういう出会いも面白いな」と選択しました。

『ファイティング・ダディ 怒りの除雪車
『ジグザグキッドの不思議な旅』
『コブリック大佐の決断』
『マフィアは夏にしか殺らない』

の4本を観ましたが、ここで観なかったらこの先かなりの確率で観ないだろうな(出会わないだろうな)というもので、大変興味深かったです。
最近は毎日夜に1本ずつ観ることにしていて、それがとても楽しみになっています。
それでも全部見終わるのに30日かかるのですが笑

難点が、このプロジェクトが8/31までなので、全部を観るのが極めて難しいということです。今年いっぱいくらいやってくれると、全部観ることができそうですが。。
映画漬けの夏を送りたいと思います。

「自分の新型コロナウイルス状況」について

「僕は今、忘れたくない物事のリストを一つ作っている。リストは毎日、少しずつ伸びていく。誰もがそれぞれのリストを作るべきだと思う。そして平穏な時が帰ってきたら、互いのリストを取り出して見比べ、そこに共通の項目があるかどうか、そのために何かできることはないか考えてみるのがいい」

『コロナの時代の僕ら』P110  パオロ・ジョルダーノ/早川書房

 

「いま起きていることを頭で考えるのではなく、体で感じてほしい。芸術や文化が、どれほど生活する上で大切なものか。心から欲することで理解できるはずだ。」

『首都圏新型コロナ情報 変化は成熟目指す方向へ』 養老孟司東京新聞2020年5月23日(土)

 

 

これらの文章を読んで「自分の新型コロナウイルス状況」を記しておこうと思いました。

ほんの備忘録的な記録です。

新型コロナウイルスの状況(日本国内、群馬県新型コロナウイルス感染者がいる状況、緊急事態宣言が出ている状況)において、

・渇望したもの

・不足を感じたもの

・事足りたもの

・考えたこと

・変化したこと

・変化しなかったこと

など

 

<「消費」について>

「消費」について考え始めたのは、10年ちょっと前でしょうか、100円ショップで買い物をしようとしたときです。「この商品は100円で売っているけど、どんな利益構造をしてるのだろう?」と思い、「このお店はどれくらい儲かるのか」「これを作っている会社はどれくらい儲かるのか」「そこで働く人たちはしっかり給料をもらえているのだろうか」などを考え、「なんか色々おかしいことがありそうだな」という、勝手な結論に達しました。「こんなおかしいところにいたくない」と、それから自分の買い物について考えるようになりました。「どこで買うべきか?」

という素朴な、日常的な疑問で、大それたものではありません。その答えも至極素朴なもので、

「自分の好きな人、この人の生活の足しになってほしいなという人がやっているお店で買おう」

「このお店がなくなったら困る、というお店で買おう」

というものでした。

以来それを基準に物を買うお店を選ぶようにしています。

 

今回の新型コロナウイルスの影響が社会全体に及ぶ状況の中、自分の中でそのことが改めてのメイントピックの一つになりました。仕事柄、街のお店の方と話をする機会が多いのですが、総じて「悲惨」な状況に陥っていました。(現在ももちろん影響あり)状況はどのお店も五十歩百歩の違いで、ただただひどいものでした。ひどい、という状況は変わらないのですが、話を聞く中で、「このお店には終息後も引き続きお店をやってほしいな」「このお店には頑張ってほしいな」と思うお店と、特にそうは思わないお店に分かれました。

その分岐点はやはり、

「この人好きだから助けになりたい」「この人の家族もよい人達だから生活の足しにしてもらいたい」

といった極めて個人的な感情があるか、ないかでした。

仕事の上では顔にだすわけにはいきませんが(笑)

そういうお店には実際に新型コロナウイルスの状況においてたびたび買い物に行きました。

会社の帰りに唐揚げや焼き鳥を買いにいったり、お昼はお弁当を買いに行ったり。

本を買いに行ったり、日用品を買いに行ったり。

日々、「どうせ買うならあの人のお店で買おう」ということを考えた期間でした。現在も継続しています。

日常の中に染み込んでいた「自分の消費」について改めてじっくり向き合っている期間とも言えます。

 

先日10万円給付の申請書が送られてきました。それも今回はすべて「消費」に回そうと思っています。

「自分の好きな人、この人の生活の足しになってほしいなという人がやっているお店で買おう」

「このお店がなくなったら困る、というお店で買おう」

それらを基準にお店・施設を選び、振り分けます。

どういう人に魅力を感じているのか、どういう状況の人を助けたいと思うのか、何を重視しているのか、何を大事に思っているのか。

「自分」に向き合う時間になることでしょう。「消費」は極めて「自分的」なもの、なのではないかと思います。

 

 

 

<「映画館」について>

仕事の帰りなどによく映画館に行っていました。新型コロナウイルスの状況において、映画館はすべて閉まっていました。群馬県では、先週末よりいくつか開いてきています。

報道によると、この間Netflixなどの動画サイトの会員数が大きく増えたそうです。僕もいくつか映画やドキュメンタリーを観ました。動画配信サイトではないのですが、パソコン、スマホタブレットで映画を観る、という意味では同じフォーマットの【仮設の映画館】というサイトでも映画を観ました。

 

【仮設の映画館】

https://www.temporary-cinema.jp/

・「インターネット上の映画館」という体

・観たい映画を選ぶとき、それを見る映画館も選ぶ。(【仮設の映画館】に賛同するミニシアター系映画館の中から)

・選んだ映画館に鑑賞料金(1,800円)から鑑賞料が支払われる。

 

この映画館で、想田和弘監督の『精神0』と、大宮浩一 · 田中圭監督の『島にて』を観ました。映画館は地元のシネマテークたかさきを選択。

ただの動画配信サイトと違って、【仮設の映画館】はあくまで「映画館」という体です。

 

新型コロナウイルスの脅威によって停滞している「映画の経済」を回復させるための試みの一つです。そして、この認識と方法とを全国の劇場、配給会社、製作者、そして映画ファンのみなさんと広く共有することによってはじめて「仮設の映画館」は有効かつ持続可能な施策となり、ともにこの状況を乗り切ることができるのではないか。そのように考えています。

 さてまずは最寄りの劇場へ。そして、たまには懐かしい街の劇場を訪ねてみてください。もちろん状況が改善したら、ぜひ「本物の映画館」に足をお運びください。ここはあくまで「仮設の映画館」です。」

 

www.temporary-cine 

この考えに賛同したからこそ、上記二本を鑑賞したわけです。一般的な動画配信サイトで映画を観るときとは心構えも違ったものになるわけですが、その帰結としてある疑問にいきあたらざるをえません。

「自分にとって映画館とはどのようなものなのか?」

という疑問。

 

映画館にはよく仕事帰りにいっていた、ということは先に書きましたが、毎週金曜日の例とショーにいっていました。観たい映画があればそれを目当てにいくのですが、毎週となるといつもそんな映画があるとは限りません。それでも毎週行っていました。映画館が好き、なのでしょう。

100人も入るような劇場で、10人ほどの人とガラガラの状況で、ゆったりと座りながら観る2時間のレイトショー。映画館に行けていないこの期間、そのことを考えると、自分は映画以上に、映画館を求めていっていたのだろう、ということに気づきました。

一週間を振り返り、忘れるために、自分の気分を切り替えるために、ただぼーっとするために、同じ趣味の数人の存在を確かめるために、見ず知らずの人たちと真っ暗を共有するおかしさを体験するために、すべての俗事と一時おさらばするために。

そんな場所、ほかにはありません。

 

【仮設の映画館】体験はさらなる面白い体験をうむのではないかとワクワクしています。

通常は、大きなスクリーンの映画館で上映 → テレビ、パソコン、スマホなどの小さな画面といった視聴の流れです。しかし、【仮設の映画館】だとその逆が起こります。つまり、パソコン、スマホなどの小さな画面 → 大きなスクリーンの映画館で上映、といった流れです。

パソコンの小さな画面を見つめながら、「映画館」のことを考えていました。

 

そんなことを考えていると、自分がいかに映画館を渇望しているのか、ということを知ることができます。そんな機会になりました。

 

 

外出自粛要請が出ていましたが、もともと休みの日は一歩も外に出なくてもまったく窮屈に感じない性質なもので、特に不便、気持ち悪さなどを感じることはありませんでした。それは「変化がなかったこと」の一つにカウントしておきたいと思います。

 

何かもっとありそうですが、取り急ぎこんなことを記録しておきます。

状況によってまた変化していくのでしょうから、追記したり、新しく記録したりしていきたいと思います。5年後の自分への比較材料として。

“過剰”は良いものを生み出しません。

先日、ちょっと驚いたことがありました。

普段温厚な会社の同僚(女性、小学生の子供二人、40代)が、「休校中のこどもたちだけで家に置いておくのは心配。こういうときはアホな輩がでてきてとんでもないことをやるんですよ!」と、ほかの同僚(女性、小学生の子供二人、40代)を交えて3人で話している時に急に言い出しました。興奮したのか、ちょっと顔を赤くして。明らかに「感情が荒ぶって」いました。

その言っている内容は理解できるのですが、普段と明らかに違う様子に驚きました。そして同時に、「こういう“過剰”が、“アホな輩”を生み出し、引き寄せるのではないか?」ということを思いました。

 

感情、そしてそれを乗っける言葉は驚くほど早く伝染します。さきほどのケースでいえば、「こういうときはアホな輩がでてきてとんでもないことをやるんですよ!」という言葉を聞いたもう一人の同僚は、「あ、今はそういう言葉を使う状況なんだ」、もしくは、「そういう言葉を使って良い状況なんだ」、さらには「そういう言葉を使わなければいけない状況なんだ」とさえ思うかもしれません。その人の意識状況でどうに思うかはかわるでしょうが、いずれにせよ自分の意識にある、自分が使用している言葉との対比を感じ、考えるでしょう。自分の言葉より聞いた言葉の方が強いとき、そちらに引っ張られるものです。強いものへの憧れ、とかそういうことではなく(それもあるのかもしれませんが)、「自分の意識の低さ」への恥ずかしさの裏返しとして。そしてそういう状況は、「遅れた自分をキャッチアップさせるため」その人にさらなる強い言葉を使わせます。

その後の伝播は上記の繰り返しです。子供にも、友達にも、同僚にも、妻にも、夫にも、荒ぶる感情、それを乗っける言葉は伝わっていきます。その過程で冒頭の同僚曰くの“アホな輩”が生み出されていくのです。

 

もちろんそれはテレビやラジオ、ネットでも日々行われていることです。ネット、SNSの普及,一般化は、伝播の速さを革命的なまでに進化させました。それは同僚曰くの“アホな輩”の量産スピードがあがっていることも意味します。そのような状況にあって、まず個人ですることは、「穏やかな言葉を使う」ことだと思っています。強烈な言葉を使わない。過剰な言葉を使わない。それは批判の際はもちろんですが、賞賛の言葉にもあてはまります。絶賛はしない方がよい。過剰な言葉で褒めない方がよい。感情は、上にも下にも、右にも左にも、いろんな方向に動きますが、どれか一方に強く動くなら、そこには同じ力の反動も必ず生まれます。絶賛は激烈な批判をうみます。それは伝播します。“アホな輩”が生まれます。新型コロナウイルスの影響が日々日々大きくなってきている今、そんな伝播が驚く程の速さで無数に起こっていることでしょう。同僚の「こういうときはアホな輩がでてきてとんでもないことをやるんですよ!」発言&荒ぶり加減はその一例を見たようで興味深かったです。

 

もう6年ほど前ですが、「言葉・感情の伝播」についてのブログを書いていました。

安倍晋三氏と小渕優子氏の後援会会員についてのものです。

【参考】 「断コミュニケーション」

https://narumasa-2929.hatenablog.com/entry/20141205/1417709877

 

 

昨日スーパーに歩いて買い物にいきました。10分くらいでした。その間、すれ違う人をみて、「マスクをしていない」、「ちょっと離れて歩こう」などを感じる自分に気づきました。「過敏になっているな」と思いました。私が住んでいる群馬県には4/7(金)に緊急事態宣言がでました。それを境に感染者数の状況がかわったわけではありませんが、意識、雰囲気はやはりガラッと変わりました。自分の“過敏さ”もその一例といえるでしょう。その過敏さに気づいてから、「これが深まっていくと“過剰”になるのだろうな」ということを思いました。「マスクをしていない」、「ちょっと離れて歩こう」と思うのは“過敏”です。そして、「なんでマスクをしないんだよ、こいつは!」、「もっと離れて歩けよ、バカが!」と言ったり、思ったりすることが“過剰”です。

“過敏”は今のような状況において当然意識の上にのぼってくることでしょうし、感染拡大を防止するためには必要なことです。対して“過剰”はどうかといえば、これはほとんどの場合マイナスに作用するものでしょう。人とのいざこざを生むかもしれませんし、自分の精神状態にストレスを与えることにもなります。

新型コロナウイルスを拡大させないためにも、みなが少しでも気分よく、気分が悪すぎない状態で生活していくためにも、“過剰”にならないことが重要なのだと僕は考えています。“過敏”から“過剰”にはどのような契機で移行するのかといえば、「感情の荒ぶり」ではないかと思っています。僕自身、“過敏”から“過剰”に移りそうなときがあります。新型コロナウイルス関連でいえば、会社でも家でも道端でもその契機は多々あります。ただ「“過剰”にいきそうだな」という客観的な視点をもつようにしています。それによって自分(それに連なる社会)を守っています。それには知識が大きな武器になります。「こういう状況は作っちゃいけない」「こういうことはしても大丈夫」「これには気をつけなくてはいけない」それらを判断する知識。それが「感情の荒ぶり」を抑えてくれます。

新型コロナウイルスの状況は世界的にまだ分からないことだらけなので、日々日々新発見、新想定がうまれています。それらを追っていくのはとても大変なことですが、“過剰”を引き起こさないためにも十分に必要なことであろうと思います。

 

 

先日のTBSラジオ「Session22」はとても勉強になります。

ダイヤモンドプリンセス号に乗船し、動画を公開した岩田健太郎医師へのインタビューです。専門知識がない人でもとてもよくわかる内容です。ご参考までに。

https://www.tbsradio.jp/473887

連休中は映画をたくさん観ました。


今年のお盆休みは長かったです。
8/10~18の休みの間、戦争関連のテレビ番組、本にたくさん触れました。
今住んでいるところにはJ:COMがもとから入っていることもあり、その中の映画チャンネルでたくさんの戦争関連の映画が放送されていました。
とりわけ素晴らしかったのが、『名もなく貧しく美しく』。戦争そのものが主題ではなく、「戦後の生活」を描いたものですが、これが実に素晴らしかったです。高峰秀子さん、小林桂樹さん主演。聾唖者二人の戦後の生活は実に過酷ですが、実に逞しいものでした。もう一度観たいと思い、観られる動画サイトを探したのですが、どうやらないようです。DVDレンタルでさらに探してみたいと思います。

 

戦争そのものを描いたものもいろいろと観ました。
連合艦隊司令長官 山本五十六』(1968年公開・丸山誠治監督/三船敏郎主演)、『野火』(2015年公開・塚本晋也監督/主演)、『私は貝になりたい』(1958年放送・加藤哲太郎原作/フランキー堺主演)、『ビーチレッド戦記』(1967年・コーネル・ワイルド監督主演)、『スターリングラード』(2001年・ジャン=ジャック・アノー監督/ジュード・ロウ主演)、『ひろしま』(1953年公開・関川秀雄監督/岡田英次山田五十鈴など)。これに、『日本のいちばん長い日』の1967年版(岡本喜八監督)、2015年版(原田眞人監督)の2本も観ました。
2015年版『日本のいちばん長い日』が劇場公開された際の感想がブログにありましたので、再掲します。今読んでも「なるほど」と思います。

 


以下、2015.8.12掲載
「今日の一作 〜 映画『日本のいちばん長い日』」

今日の一作 〜 映画『日本のいちばん長い日』 - 森の中の畑は森か

 

※ ネタバレあり


ここのところ、『野火』、『グローリー』と立て続けに素敵な映画を観ましたが、この作品もその流れに十分入る映画です。
「このタイミングだし観ておこう」くらいで観に行ったのですが、いやはや驚きました。
実に素晴らしい映画で。日本の戦争についてかなりの数の作品がこれまで作られてきていますが、その中でも相当質が高い作品だと僕は感じました。
それは、「真実が描かれている」とか、「戦争の批判が鋭い」とかそういうありがちなレベルではありません。(何が「真実」なのか僕にはわかりませんし)
「あの戦争そのものの一端がここにあるんではないか」という、根本的な部分に対する思考、さらに表現にチャレンジしていて、成功しているといった、「ありがち」を一段も二段も飛び越えているレベルにある映画なのです。
その具体的なところを書きたいと思います。

 

ポツダム宣言に対してどのように対応するか」がメインになっていて、それが最大の盛り上がりを見せた昭和20年8月14日を「日本のいちばん長い日」として描いています。
8月14日は昭和天皇の「ご聖断」がなされた日であり、これにより終戦が決定されたという「事件」なわけですが、これが要因になった別の「事件」が次々に起こりました。
陸軍のクーデター事件がその最たるもので、この映画でもそこは厚く描かれていました。
それもあって、この映画には陸軍、特に若い将校がたくさん出てきます。
彼らはよくしゃべります。とにかく自分の明確な意見を発します。
ただ、映画を観ながら感じたことは、「聞き取りにくいな」ということでした。
それはある種のストレスでもあったのですが、途中で気づきました。
「ああ、これこそ当時の陸軍軍人だったのか!」と。
「彼らは相手に届ける言葉を必要としていなかった。ただ自分の意見を述べることに集中して言葉を発していたのではないか!」
その象徴的な場面がありました。

 

東条英機が首相の座を降りたあとも何かと陸軍内における力を誇示しようとする場面が前半に複数あります。若い将校が集まる場所にも顔をだします。
そこで彼らに東条は質問します。その瞬間、「○○○であります!」と端的な歯切れのよい言葉で将校は答えます。他の将校も間髪を入れずに「○○○であります!」とこれまた要点のみの答えを発します。
東条は「よし!」といってその場を離れていくのですが、どうみてもそれは対話ではないのですね。
受験のときに散々勉強した一問一答です。
質問と答えを結ぶだけの作業しかそこにはありません。思考もなければ、それに基づくアレンジもありません。決まった言葉が答えなのです。
そしてその場面ではそれが求められていて、思考を介した自分流などまったくいらないのです。
質問したら、即回答する。それが「正しいふるまい」なのです。
そして重要なことは、そのふるまいが上記のような場面だけでなく、帝国陸軍(海軍も含まれるのでしょうが)におけるスタンダードだったのではないか、ということです。
つまり、帝国陸軍において「考えるな、覚えろ」ということが正解であり、それをできる人間が優秀とみなされたのではないか、ということです。
それがどのような状況を生み出すかを想像してみると、それは恐ろしいものになります。
対話がない、です。
常に返ってくることを考慮されずに、乱暴に投げつけるものであり、それは相手に届かなくてもよいものである言葉。
そのような言葉が帝国陸軍内では当たり前のものとして飛び交っていたのではないか、と想像してしまうのです。
そのような言葉は相手を想定していないので、相手が理解する必要性など二の次です。
大きな声でいかに即答、反応するか。それが「正しいふるまい」である組織において、相手に「聞こえますか?」などという気遣いは無用です。
そうすると、軍人の言葉の聞き取りにくさにストレスを覚えたとさきほど書きましたが、実は軍人同士も「聞き取りにくい」という状況にあったのではないでしょうか。
映画の観客だけの感想ではなく。
そしてその「聞き取りにくい」状況が普通であった帝国陸軍は、思考よりも、大きな声、淀みない言葉=決まった言葉、または自分が強烈に信じる言葉が圧倒的に力をもっていた組織だったのではないでしょうか。

 

ここにこの映画の素晴らしさがあると思います。
映画としては観客に聞き取りにくさを与えることはマイナスでしかありません。
どんな時代背景でもそれを無視して、観客に配慮するのが普通の映画です。それはそれで間違いはないでしょうが、この映画はその配慮をしませんでした。
それは制作のミスでも、観客を無視したわけでもありません。意図です。
「聞き取りにくさを感じてください」という意図です。
なぜなら、その「聞き取りにくさ」こそが帝国陸軍の特徴の一つだったのではないか、という考えによるからです。
そして、特徴を浮き彫りにすることは、その組織が大きな力をもって実行した日中戦争、太平洋戦争の特徴を表現する手段として極めて有効であるということです。
その意欲をこの映画から感じられます。
昭和前期の日本の戦争は後世からみると「なんでこんなことやったの?」という疑問がそこらじゅうにあるものです。様々な検証がされていますが、言葉の問題という根本にもその要因があったのではないでしょうか。思考を重要視しない組織であれば、アホなことをやってもある意味おかしくありません。

 

言葉の問題でいえば、もう一つ象徴的な場面がありました。
8月14日、陸軍将校が皇居(宮城)に乱入して占拠する場面です。
宮内省の侍従二人が天皇防空壕である御文庫に行くのですが、そこへの道に軍人が大勢います。
それをみて二人はひそひそ話をします。
「御文庫に行くというのはまずそうだ。御文庫に戻るというのはどうでしょう?」
「言葉の問題か?」
という会話の直後、軍人に
「御文庫に戻るのですが」と言うと、すんなりと通ることができました。
「言葉の問題でしたね」と侍従が小さな声でいってその場面は終了します。
くすっと笑ってしまいそうですが、ここは極めて重要な場面だと思いました。
この場面、急に挿入されているのです。特になくても映画の流れ上、まったく問題ありません。
そういう場面は大きな意味があるというのが物語の定石です。
この場面の意味とは?
それは、まさに言葉の問題でしょう。
「御文庫に行く」はまずいけど、「御文庫に戻る」はよい。
これは戦時中軍部が多用した言葉の言い換えを表現したものでしょう。
「撤退」を「転進」といい、「全滅」を「玉砕」といった言い換えです。
この場面は、帝国陸軍(海軍もでしょうが。しつこく)が言葉を疎かにし、弄んでいたことを意味するものと思いました。
「言葉なんてどうにでもなるんでしょ」という、言葉の軽視が当たり前のようになされていた帝国陸軍
そのことを無理やり差し込んだ意味はしっかり考えるべきことです。

 

この映画は、帝国陸軍における言葉の問題を主題にしたものだと思います。
ありきたりな反戦映画でもなければ、記録映画でもない。史実映画でもない。
このような視線からあの戦争を描いた映画を僕は他に知りません。
この映画の素晴らしい所以です。
本当に勉強になりました。言葉の問題から戦争を考えること。

「武器輸出三原則」を「防衛装備移転三原則」、安保法制を「平和安全法制整備法案」などと言葉を言い換える人がいます。
この映画は、言葉の言い換えをする人間、組織に注意しろ、と観る者に訴えています。

映画『新聞記者』がなぜ [特別]なのか?

映画『新聞記者』を観ました。
(以下ネタバレあります)

 

 

 

先週金曜日6/28(金)から公開になった映画です。公開前から話題になっていた映画なので、なんとなく知っているという方もいるのではないかと思います。
その話題になっていた大きな理由は、現在進行形で起こっている政治問題を(フィクションという形ではありますが)取り上げていることです。

実際に観て確認したところ、
加計学園問題
前川喜平氏の出会いバー報道問題
・山口敬之レイプ不逮捕問題
が率直な形で取り上げられていて、
森友学園文書改竄問題に関する官僚の自殺
も間接的に扱われています。

これらは今もって解決したわけでも、終了したわけでもないものばかりです。
まさに現在進行形。
ちょっと前に日本でも公開になった『バイス』という映画があります。
ジョージ・W・ブッシュ政権で副大統領を務めたディック・チェイニー氏を題材にした映画ですが、彼が副大統領だった時期は2001年~2008年です。今から11~18年前になります。
また、2017年制作の『ペンタゴンペーパーズ/最高機密文書』という映画も話題になりました。この映画は、ベトナム戦争を分析・記録したアメリカ国防総省の最高機密文書=通称「ペンタゴン・ペーパーズ」の内容を暴露した2人のジャーナリストの実話をもとにしたものです。
バイス』にもしろ、『ペンタゴンペーパーズ/最高機密文書』にしろ、政治に対峙する優れた映画ですが、それでも題材はあくまで「過去」です。
「あの時こういうことがありましたよ」という体裁です。
政治に対する映画はこれまでに数多く作られてきましたが、(その中で優れたものもまた多いです)基本「過去」を扱ったものがほとんどです。というか、全て、かもしれません。
映画制作を考えればそれは「当然のこと」ですね。
企画から、制作から、撮影から、編集から、宣伝からなどをひっくるめれば年単位の期間がかかる映画制作において、「今」を扱うことなど不可能に近いことです。
『新聞記者』はエグゼクティブプロデューサーの河村光庸氏のインタビューによると、企画始動から2年弱だそうです。

 

エグゼクティブプロデューサーの河村光庸氏インタビュー
「公開日にも確たる意図 映画「新聞記者」なぜリスク取った」

www.nikkan-gendai.com

通常ならどんなに急いで制作しても、上映される頃には「過去」になっているのが宿命ともいえる映画というフォーマットにおいて、“奇跡的”にも「今」のままであることにおいて、『新聞記者』は世界中見渡しても極めて珍しい映画と言えます。

ただ考えてみれば、一夜にして完成したわけではない『新聞記者』自体が特別なのではなく、映画の企画始動の2年弱前の問題が何の解決もすることなく、「未だに問題であり続ける状況」こそが特別だということに気付きます。
それは異常ともいえますが、それこそがこの映画を「今」を扱う映画に押し上げているというところに情けなさや悔しさや怒りや悲しみ、、、そんな入り混じった感情が湧き上がってきます。

この異常さ=「未だに問題であり続ける状況」を作ったのは誰でしょうか?
安倍政権でしょうか? 自民党でしょうか? 何をやっているのか不明な公明党でしょうか? 野党でしょうか? 官僚でしょうか? マスコミでしょうか? 国民でしょうか?
その全てでしょう。それに名を与えれば、「日本」という言葉にならざるを得ない。

加計学園問題を引き起こした(断言します)安倍氏、それを隠し、どうにか取り繕おうとする官僚、問題視しない自民党公明党、その問題を国会内外で追及しきれなかった野党(安倍氏、官僚などの明確な回答をしない度し難い態度も要因)、問題を“伝える”ことに国民の状況をみるとある意味失敗したマスコミ、加計学園問題の数多ある問題について考えない・知ろうとしない・許容してしまう国民。
それら全ての共同作業として、「未だに問題であり続ける状況」を作っているわけです。“オールジャパン”で仲良くて結構ですね。

今の日本だからこそ、『新聞記者』は特別な映画になったのです。
2017年5月に問題化した加計学園問題が、例えばその年のうちに解決(すべてが明らかになり、関連した人間が処罰される状態。当然主導者安倍首相は辞任)していれば、『新聞記者』は、『バイス』や『ペンタゴンペーパーズ』などの過去の政治系・ジャーナリスト系映画と同様、「過去」を描く“普通の”映画になったはずです。

この映画、それにまつわることは「2010年代の日本」を映すものとして記憶されるべきでしょう。
その意味もこめてブログに記しておきます。

そこあるのは、激しい怒りのみ。

自民党桜田義孝前五輪相(衆院議員)は29日、千葉市で開かれた同党参院議員のパーティーで、少子化問題に関連し「結婚しなくていいという女の人が増えている。お子さん、お孫さんには子供を最低3人くらい産むようにお願いしてもらいたい」と述べた。

 

www.yomiuri.co.jp

5/29(水)の桜田義孝氏の発言です。

 

その前日、5/28(火)に仙台地裁で旧優生保護法による強制不妊についての判決がでました。

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判決はまず、子どもを産むかどうかを自ら決定できる「性と生殖に関する権利(リプロダクティブ・ライツ)」が、幸福追求権などを規定した憲法13条によって保障されていると判断。不妊手術を強制された原告らは幸福を一方的に奪われ、「権利侵害の程度は極めて甚大」と指摘し、強制不妊に関する旧法の規定は違憲、無効だと判断した。

 そのうえで、「不法行為から20年が経過すると、特別の規定が設けられない限り、賠償請求権を行使することができなくなる」ことを前提に賠償責任を検討。旧法が1996年に改正されるまで存続したことや、手術を裏付ける証拠の入手が難しいなどの事情を考慮し、「手術を受けてから20年が経過する前に損害賠償を求めることは現実的に困難で、立法措置が必要不可欠だ」と述べた。

 

という判決で、「旧優生保護法違憲だけど、賠償は認めない」という、わかりにくいものでした。

この判決に対し原告の方々は控訴するそうです。

 

この原告となった方々は、宮城県内の60代と70代の女性です。

国によって、権力によって、法によって、子どもを産めいない身体にされ、出産の機会を奪われた方々です。

そして、それらによって強制的に生き方を変えられた方々です。

お二人は十代半ば不妊手術を受けさせられたそうです。

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この後50年間、60年間をどんな想いで生きてこられたのでしょうか。

それを想像すると涙が、出てきます。

 

強制不妊されたお二人の哀しみが癒されない判決が出た次の日に、桜田義孝氏は「結婚しなくていいという女の人が増えている。お子さん、お孫さんには子供を最低3人くらい産むようにお願いしてもらいたい」と発言したそうです。

 

この惨たらしい仕打ちは何なんでしょう。

子どもを産む機能を強制的に奪っておいて「子どもを産め」ですか。

 

彼が旧優生保護法のことを知っているかあやしいものですが、万が一知っていたとしても、「自分が制定したわけじゃないし」くらいのものなのでしょう。他人事なのでしょう。

しかし、政治家は、例え自分が生まれる前に制定された法であっても現在に影響があるなら、その法の責任を取るべきです。政治家誰もが「私が制定したわけじゃないし」と言い出したら、その法の下で生きてきた、影響を受けた人々はいかように救われるのか? その連続性が国の形です。その連続性を失ったら国は壊れます。(それは外交においても同じです。80年前の戦争であっても、被害国々があり、被害者々がいる現実は変わらない。その責任を「私の生まれる前なので」と放棄したら、それら国々との関係はひどいものになります)

桜田氏も当然、旧優生保護法の責任を負っています。

彼はそんなことを考えもしないのでしょう。

 

彼が政治家としてその資格がないことはとうの昔に明らかになっていますが、今回の発言で人間としても度し難くレベルが低いことが明らかになりました。(分かっていましたが)

子どもを強制的に産めない身体にさせられた二人の哀しみが広く報道された次の日に、「子供を最低3人くらい産むように」と発言した桜田氏。

 

そこあるのは、激しい怒りのみ。

 

 

優生保護法により、2万5000人に不妊手術が行われ、うち約1万6500人は強制だったそうです。

 

【旧優生保護法

「不良な子孫の出生を防止する」という優生思想に基づき、1948年に施行された。遺伝性疾患や知的障害、精神疾患などを理由に不妊手術や人工妊娠中絶を認めた。不妊手術の場合、医師が必要と判断すれば本人同意がなくても都道府県の優生保護審査会の決定を基に強制的に実施でき、53年の旧厚生省通知は身体拘束や麻酔薬使用、だました上での施術を認めた。差別的条項を削除した母体保護法に改定される96年までに約2万5000人に不妊手術が行われ、うち約1万6500人は強制だったとされる。

 

 

加藤典洋さんが亡くなりました。

加藤典洋さんが5/16(木)に亡くなっていたことが、昨日報道されました。

肺炎だったそうです。71歳。

 

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ちょうど今、加藤さんが書かれた『9条入門』を読んでいたところなので、なんとも言えない気持ちです。

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僕は加藤さんの著述をたくさん読んでいるわけではありませんが、とても大事なことを教えていただいた、と勝手に思っています。

『言語表現法講義』という本が印象深いです。

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この本の中で、加藤さんはこんな言葉は使っていなかったと思いますが、僕が今でも大事にしているものがあります。

それは、

「批評をするには、正直な人、誠実な人、善き人でなければならない」

といった内容です。

この本の本筋とは違うものだったかもしれませんが、このことがそれ以来ずっと頭の中にあります。そして、自分が文章を書く時、必ず思い出します。

とても大きな教えになりました。

 

ご冥福をお祈りいたします。

 

2019年は、橋本治さん、加藤典洋さんが亡くなりました。