2011-03-21
■[日記]被災してから

取り敢えず書き残します。
日にちや曜日、時間の感覚がほとんどないので不明な点も多いと思う。
気持ちが安定しないので乱文。
3/11に被災した。
たまたま仕事がキャンセルになったので、母と仙台へ買い物へ行った。普段なら仕事が休みじゃなければ仙台なんて行かないのに。その日はたまたま行こうという話になった。
午前中から買い物をしてあちこち歩いて回った。
最後に藤崎百貨店のB1でチョコレートやお菓子を買ってそろそろ駅方面へ向かおうかと思ったその時、あちこちでけたたましくアラームがなった。
以前の宮城県の地震の時に確かに聞いた、緊急地震速報のアラームだ。
見知らぬ人たちと蒼白となった顔を見合わせた瞬間、ホワイトデーで賑わっていた売り場はパニックになった。
ぐらりと揺れ、足元が浮くような感覚の中では立っているのがやっとで、未だかつて体験したことのないこの揺れが、よくテレビなどで言う「立っていられないほど」の地震なのかと頭の片隅でぼんやりと思っていた。
きれいにディスプレイされたFAUCHONのカップや皿がガシャンと音を立てて割れ、破片がそこかしこに散らばって、おばあさんが悲鳴をあげて泣いていた。
それを横目に、私と母は離れ離れにならないように互いの腕絡ませながら壁際まで歩いた。が、思うように足が進まない。
後ろから迫ってくる色とりどりのお菓子の入ったガラスケースに、子供の泣き声に、百貨店の店員の危険を叫ぶ声に、出口へと急ぐ人の波に、恐怖だけを感じていた。
サービスカウンターまでやっとのことでたどり着いた頃、少し揺れが収まって、皆が安堵のため息を付いたのがわかった。
でも、また揺れ。
サービスカウンターには駐車券のスタンプを押してもらうために集まった人が我先にと人を押しのけカウンターへと手を伸ばす。
サービスカウンターのお姉さんは冷静に、並んでください!と声をあげ一人ひとりスタンプを押していった。
食品売り場担当らしい服装の男性店員が、まだ外には出ないで下さい、落ち着いて下さい、ガラスに注意して下さい、とパニックになっている私たちを宥める。
だが、その声も逃げ惑う人々に届いているのかはわからない。
10分くらいだったのだろうか。それとももっと短かったのか。
ようやく、本当にようやく人々の叫び声が落ち着いた時、外へと出ると歩道がガラスの破片でいっぱいだった。
余震が続く中、外へ出たり、また店内へ戻ったり、それを4、5回ほど繰り返してやっと店外へと出ることが出来た。
少しでも余震が来ると空からガラスの破片が降ってきた。
覚束ない足取りで、震える体で、ひたすらに駅方面へと向かった。
電車が止まっていることなんて重々わかっていたが、とにかく駅まで向かおうと思う気持ちだけが足を進めていた。
途中でアパレルショップの店員らしき人を何人も見かけた。
貴重品だけを詰めたビニールの透明な休憩バッグを抱えた彼女たちの格好は、半袖やショートパンツ、素足、サンダルで初夏のようだ。
ダイエーではビル上部から水が吹き出し、滝のようにビルと地面を濡らしている。
三角コーンと緊急用の黄色いテープで水浸しの歩道は歩行出来ないようにされていたが、通り過ぎる人々の足元を冷たい水しぶきが濡らしていた。
その後も駅に向かう道中、さくらの百貨店の壁が、固く重そうなコンクリート片がごろりと歩道に横たわっていた。
駅にはたくさんの人が溢れていた。
停電した仙台の街は車道まで人、人、人。
ワンセグを使ってテレビを見ると、岩手県の津波の様子が映されていた。
知らなかった。10mもの津波が来ているなんて全く知らなかった。
私の家は高台にあるので大丈夫だろうが、祖母や大叔母、叔父、いとこ、友人は?
海沿いに住んでいる知り合いたちは大丈夫なのか、それが気がかりで仕方がなかった。電話は全く繋がらない。
地元の状況も心配だったが、私自身も他人を思っていられるほどの余裕はない。
電車はもちろん使えないので、バスに乗ろうと思った。
でも福島県の海沿い、浜通りに向かうバスはないとのことで、私たちはいよいよどうする術もなくなった。
だんだんと気温が下がり、3月なのにも関わらず雪が降った。
雪はどんどんと強くなる。気温もぐんぐんと下がる。
建物内へと入れない中でみんなが寒さで震えていた。
避難所へ向かおう足を運んではみたものの、土地勘のない私たちはどの道を進めばいいのかそれすらわからない。
しばらく街をさまよっていると、無人になったマツモトキヨシで飲み物や食べ物を盗む人を見かけた。
冷たい刺すような風を避けるためにパチンコ屋の片隅で体を休めた。他にも私たちのようにさまよう人々が集まっていた。
パチンコ屋の店員が数人の男性に、今日の分はちゃんと後日戻ってきますから安心して下さい、といって回っていた。
地震が起きてから何時間経ったのかすらわからないが、父とやっと連絡が取れて迎えに来てもらえることに。
といっても、南相馬市から仙台までは普段でも2時間以上かかる。迎えがくるまではまだ長い。
進展はないものかと駅まで戻った。テレビ局の車が数台来ていた。近くの工事現場の人が夜間作業用のライトを持って来てくれていた。暗かった仙台駅は際立って明るくなっていた。
二台しかない駅の公衆電話には長蛇の列が出来ていた。
日が暮れるにつれて気温は下がる一方だった。隣にいた人が聞いていたラジオから、地震から5時間が経ちました、という言葉が聞こえてようやく時間の感覚を取り戻した。
5時間。5時間も寒い中コート以外の防寒対策もしないまま外をさまよい続けて、とうとう体が言うことを聞かなくなってきた。
思うように体が動かない。震えを止められない。カチカチと歯が鳴る。手と足の感覚はすでにない。
夜の9時頃、仙台駅から歩いて15分ほどのところにある避難所になっている小学校へ連れて行ってもらえた。
学校はたくさんの人で溢れていて、昇降口から廊下まで埋め尽くされていた。
毛布は全然足りていない。床に敷いてあるブルーシートの上に座って時間が経つのをただただ待った。頭が痛い。
10時を少し過ぎたくらいに父がようやく仙台駅に着いた。
母と避難所を出て仙台駅まで向かう。さっきより幾分足取りは軽い。
雪が降ったせいで地面は濡れて、一部がブラックアイスバーンになっていた。滑った。
駅で見慣れた車を見つけて泣きそうになった。暖房がついた車内は暖かかった。
南相馬市までの帰り道はひどいとしか言いようがない。
何度も何度も迂回した。絶望していた。
国道六号線は悲惨だった。新地町あたりは流木や泥が道を塞ぎ、走るのもままならない。
友人の実家が無事なのを見て少しほっとした。
だが相馬市に入ってまた絶望した。救急車が路肩に置き去りのままで田んぼが海のようになりすぐ横の道まで迫っていた。
バシャバシャと水の中を走り過ぎる間、海沿いに住む友人たちの無事を祈った。
深夜2時を回った頃、家についた。私の家は津波被害はやっぱり受けずに立っていたが、駐車場には亀裂が走り、地面が少し陥没していた。
家の中はめちゃくちゃだった。
はめ込み型の本棚が壁の中へとめり込んで、壁は亀裂だらけ、壁は一部剥がれて床が粉でまみれていた。
二階に上がる階段も少しだけ壁との間に隙間ができ、いつも以上にミシリミシリと音を立てた。
二階にある私の部屋はベッドやチェスト、タンス、本棚、デスク、全てが元の場所から離れていた。
長年集めてきたマンガも本も、CDも床にぐちゃぐちゃに落ちていた。
両親の寝室は、母の嫁入り道具の桐のタンスが倒れていた。
電気とガスはあったが水が止まっていた。
家の一角にある私と母の店を見に言ったら商品が倒れ、タオルは床に散らばっていた。
その日はそのままこたつで寝た。
翌朝痛む体を起こし、暫し考える。
昨日のことは夢ではなかった、それが分かると急に不安に押しつぶされそうになった。
どうしようもなく怖くてはたまらなかった。
友人や親族とも未だ連絡は取れずじまい。
命だけは無事で、ただそれだけを願った。
水道が止まって水がないので、井戸水の出る祖母の家へと向かった。祖母の家では炊き出しをやるらしかった。
トイレの水はお風呂の残り湯を使い、飲料水はもらってきた井戸水。
食料もそんなにある訳じゃないので、ご飯を多めに炊いて少しのおかずで食べる。
数日こうやって過ごせばきっとどうにかなると思っていた。
お店だってまた再開出来る。そう考えていた。
でもそうはいかなかった。
福島第一原発一号機が爆発したのだ。
もうしばらく様子を見ようと思いその日は家で過ごした。
■[日記]避難生活

13日朝、全く寝た気がしなかった。
こたつで寝ているので体中が痛む。喉が乾く。
すべての電源を抜き、ブレーカーを落とし、少しの食料と水、毛布、お金、通帳を持って、飼い猫2匹を連れ、着の身着のまま家を出た。
きっとまた戻ってこれると思って家を出た。
福島市までの道中、家族みんなが無言だった。
先のことを考えると不安しかなかった。
福島市はたくさん人が避難してきていたようで、二カ所ほど避難所を回された。
どこもペットは不可なので、私たちは避難所の駐車場で車中泊だ。避難所では毛布と少しの食料が配られた。水は福島市でも出ないようだ。
その日の深夜に猫が1匹車から飛び出していなくなってしまって、寒い中何度も何度も探した。
結局翌日の昼になっても見つからなかった。
そして三号機が爆発した。
福島県民は三号機がどれだけ危険か知っている。
三号機はプルサーマルで使用するMOX燃料を使っている。使用済み核燃料から取り出したプルトニウムとウランを酸化物の形で混合させて作るものだ。
MOX燃料はウラン燃料と比べて中性子が著しく高く危険度が高いといわれ、中性子は金属や30cmのコンクリートでも簡単に通り抜けるといわれているものだ。
私は詳しいわけでもなんでもないが、原発の付近に住む人間として危険なことくらいは知っている。
行方不明になってしまった猫には本当に本当に、謝っても謝りきれないほど、何をやっても償いほど申し訳ないが、もう1匹の猫を連れて会津若松へ避難することにした。
道中、涙が止まらなくて、行方不明になった猫は私の妹みたいなものだから本当に申し訳なくて、死にたくなった。
でもそんなことを言っている暇もなくて、無事に連れて来れたもう1匹を抱きながら先を急いだ。
14日の夕方、会津若松へついた。
どうしてもお風呂に入りたくて、ペットOKのボロい温泉旅館に一泊した。久しぶりのお風呂と布団に涙が出そうになった。
その日の晩、旅館のおじさんに、県から避難区域から避難してきた人には接触するな、とのFAXが届いたと聞かされる。
安全安全と国は言っておきながら、結局はこうだ。
翌15日はお礼を述べて早々に旅館を出た。
友人に教えてもらった避難所へ行くと防護服を着た係りの人に止められ、スクリーニング検査を受けろと言われた。
ガソリンに限りがある中、会津大へ向かうと中学時代の友人に会った。
南相馬市在住だった友人の親戚が一号機の爆発で軽度の被曝を受けたこと、避難区域外の新地町でも軽度の被曝者が出たことを知る。
怖い。怖い。怖い。怖い。
もうそれしかなかった。
スクリーニング検査には随分と待たされた。朝早くに受付をした私たちは2時間弱で済んだが、10時頃に受付をした人は夕方まで待たされたそうだ。
検査前に名前、生年月日、住所を用紙に記入して数十分後にようやく検査。
防護服を着た人の前に立たされ、腕を広げさせられる。
映画やドラマなのでしか見たことがないような丸いマイクのようなものが、目の前で体のあちこちを探るように行き来する。
前、後ろ、腕の内側、掌、靴の裏、顔、喉、頭。
頭のところ、ちょうど左の耳あたりだけ、針が少し振れた。
ここだけ反応ありますね、の言葉が耳から離れない。意味が分からない。
寒くてはマチコ巻きしていたストールの左耳のあたりだけ。
どうしてだろうと考えてたどり着いたのが、携帯電話だった。
親戚が被曝したと言っていた友人から携帯電話を借りて電話したことが頭に浮かんだ。
マチコ巻きしたストールの上から電話したのだ。
後々聞いたら、その友人は服の至る所から放射性物質の反応が合ったらしい。
ストールは洗えば良いと言われたが、ビニール袋に入れて捨てることにした。
その後、なんとか避難所へ入所する事が出来た。
。
暖かいし、床に畳まで敷いある。水も止まっていない。
何より食料が十分足りている。
それだけで十分幸せなんだと思った。
南相馬市の隣、浪江町の人に聞いた話だが、津波の被害が大きかったようで行方不明者がたくさんいるそうだ。
でも避難区域なので誰も捜索しない。出来ない。
例え生存者がいたとしても、だ。
浪江町の海にはたくさんのがれきと共に、たくさんの遺体が浮いている。
冷たい海の中、もしかしたらまだ生きている人がいるかもしれない。助けを待っているかもしれない。
でも私たちにはどうすることも出来ないのだ。
地震と津波は天災だが、原発事故は人災だ。私はそう思っている。
知り合いも多く家を流された。
それに加え原発事故での避難。
私たちは帰る家も、場所もないのだ。
避難所生活を始めて8日が過ぎて、もう精神的にも肉体的にも疲れている。
避難先に恵まれた私は食べ物や暖に困ることはないが、やはり固い床で、見知らぬ人を横に寝起きするのにも限界がある。
ガソリンが徐々に流通し始めた今、他県へ移動する人は少なくない。
毎日一家族、二家族と避難所を去り、一家族、二家族と新たにやってくる。
避難所では風邪が流行り、あちらこちらで咳が聞こえる。
巡察に来てくれる医者の診察を受ける人は増えるばかりだ。
医者が来てくれるだけここは恵まれているとは思うが、高齢の方は体力が限界に近い方も多く見受けられる。
子供たちも飽き始め、最近は随分と静かだ。
子供がいるところではもう地元には戻らないと言っている人も多い。
私も戻るつもりはない。
私は甲状腺疾患を患っているので恐ろしくてもう帰れない。
幸いにも、関東に叔父がいるので宛てはある。
だけど、避難している人すべてがそういうわけではないので、行く宛もなく途方に暮れている人も多い。
隣の家族には透析を受けている人がいるが、一番近い病院までタクシーで二千円、3時間の透析で一万円だそうだ。
お金も限られている中では大きな出費だが、命に関わるので4日置きには受けたいと言っていた。
他に喘息の人もいる。5月が予定日の妊婦さんもいる。生まれてそう経っていない赤ちゃんもいる。
他より恵まれた避難所ではあるが大変なことには変わりはないのだ。
みんな、みんな疲れている。
こんなこと言っては元も子もないが、「頑張って」はもうたくさんだ。
これ以上なにを頑張ればいいのかわからない。
正直、私たちが頑張って出来ることは生きることだけだ。
2010-01-05
■[日記]新年のごあいさつ

あけましておめでとうございます。
もう三が日過ぎちゃったけど、今年もよろしくお願い申し上げます。
こんな僻地の日記をアンテナに入れてくださったり、読んでくださる神のような方々にたくさんのハッピーを!
これからもハイパーマイペースで更新したいと思います。
■[日記]年末年始まとめ

30日の夜が結構きつきつでうわあああああ!!!!!ってなりながらもなんとか仕事仕事納め。
翌31日に大掃除して、DVDレンタルして、酒飲んで、紅白の結果も見ずに就寝(というか酔いつぶれた)。
1日。元日。目が覚めると14時だった。友人とご飯食べてカラオケ行く予定だったので目覚めに風呂に入るものの、目覚めるどころか湯船でうたた寝。もちろん遅刻。もつ鍋食って酒飲んでカラオケ。アニソンとボカロオンリーで、気の合う友達の素晴らしさを再確認。
2日は中学時代の同窓会なのに余裕の昼過ぎ起床。やっぱりいそいそと準備。久しぶりに恩師に会えたけど、70歳とは思えないほどの若さ(見た目とかノリとか)。子供と外国人と接してる時間外長いとそうなのかな。ソロプチミストだったんですね先生。一次会二次会三次会、ずっと飲みっぱなし。二次会で友人のおねいさまに遭遇。相変わらず美しかった。
3日も昼過ぎ起床。DVD見たり雑誌読んだり、ぐだぐだ。夜にビール飲む。
4日も昼過ぎ起床。DVD見て、そういえば私ほぼ日デビューしたのに書いてないじゃない!と気がついて取り敢えず書く。まだスタイルが決まらない。ウィークリーとマンスリーはどうにかなったけどデイリーはまだまだ時間が必要そう。夕方からウイスキー。
5日。最後の休日なので8時起床。部屋の掃除してからぐだぐだ。DVD鑑賞して今に至る。
さすがに今日は飲まない!……と思う。
2009-12-17
■[日記]

最近怒涛の忙しさ。
仕事もプライベートもいい感じに充実していて、おかげさまでtwitterもmixiもはてなもサボってばっかり…
とりあえず、覚えてることだけさらっと。
9/20 友人のお誕生日会。
9/25 オクトーバーフェスト@仙台。マイミクさんと行ってきました。「オーストラリア」と書かれたTシャツ着た外国人と仲良くなったり。
9/26 中学時代の友人と飲み。
10/27 携帯が壊れる。
10/31 友人と紅茶のイベント・グランマルシェに行って、杜の都コンサートで池辺晋一郎御大を見る予定だった。仕事が終わらず断念。
11/08 従兄弟の結婚式。
12/7 東京へ。朝4:56のバス。眠すぎる。
12/8 帰郷。
12/11 友人とタンゴのコンサート。たぎる。
12月のは後ほど書くとして、充実してたのは確かなのにあんまり記憶に残ってないのはなんで。
最近疲れが取れにくくて本当困っちゃう><
来月またひとつ歳をとります。
■[日記]12/7、8東京旅行

7日(月)
4:56発のバスで出発。
10:00に雷門で友人と待ち合わせだったのに友人の寝坊でしょっぱなから2hおし。
待ってる間に仲見世を2往復。
ご飯食べ終えてから、国立新美術館へ。
今回はTHEハプスブルクに行きたかったから東京に行ったようなもんなので、すっげーテンション上がった。
なんかもう凄すぎて圧倒。
ヴィンターハルターのエリザベートとベラスケスのフェリペが本当にえもいわれぬ感じでした。
そんな余韻に浸りつつ渋谷へ。
友人の買い物に付き合って109なんかにかなり久々に行ってみたり。若者こわい。
カフェで一服してたら隣の席に小森純ちゃんが!顔ちっちゃいしかわいいし、私ったらよく恥ずかしげもなく同性やってんのwwって気持ちになった。
橙の絞り汁とかかけるんだね。美味でした。
レバ刺し、馬刺し、ぎょろっけも食った!
実はぎょろっけ支持者。
THEハプスブルクで購入したストラップ。
すごく、中二病くさいです。
駄菓子菓子、それがいい。
8日(火)
昼から活動する予定が寝坊。
前日友人宅でマッコリ飲みまくったからだな、絶対。
時間がないのと特に行きたいってとこがなかったので新宿へ。
伊勢丹でお土産購入。
食べてみたかったツィムトシュトルネ発見して思わず買ったけどなんなのあの値段。
伊勢丹こわい。
そんでツィムトシュトルネ。
マジパン、シナモン、ナッツ好きにはたまらん。
そんなこんなで、帰郷。
帰りもバス。狭い。揺れる。
23:30くらいに帰宅。疲れた。
11日(金)
友人とタンゴのコンサートへ。
前半が現代曲で難解><
現代曲はあんまり得意じゃないので気の利いたことも言えない。
でもヤンネさんのヴァイオリンの音色に、特に高音にきゅんきゅん!
うまく言い表せないけど、きゅんきゅんしちゃう感じ。
後半はタンゴ。
個人的に好きなピアソラの曲が多めでした。
やっぱりヤンネさんの音にめろりん。
コンバスの長谷川さんが惚れてしまいそうになるくらいかっこいい!長谷川順子さん、要チェックです。
今回バンドネオンがヴィッレ・ヒルトゥラさんっていうフィンランドの方でした。
バンドネオンって生で見て聴くと凄くやばいのね。知らなかった。
タンゴって官能的なんだけどいやらしさがなくて私は凄く好きなんだけど、私の周りにはタンゴ好きがなんでいないの\(^o^)/




