第28回 おれの持論は「人は排泄するために生きている」で、排泄本位主義と呼んでいる。言葉どおりに排泄が生きる目的だと言っているわけではなく、「排泄は快感であり、排泄を中心に据えると見通しがよくなる」程度の意味だ。

 文字通りの排泄以外にも、我々はいたるところで排泄から快感を得ている。暑い日に水分を我慢して、仕事が終わったあとの一杯のビールでプハー。これもひとつの排泄と言えるだろう。
 また、「物を買う」という行為も金銭を介した排泄行為と言えるだろう。衝動買いが快感なのは、それが排泄だからなのだ。
 ただし、消費とよく似た浪費は快感を伴うことが少ない。これは浪費が金銭の排泄ではなく分泌だからだと考えている。じわじわと浸み出て行くものに対して、人はあまり快感をおぼえないようなのだ。快感―排泄―には速度や勢いが必要なのである。


 このところ、万年筆やペン習字の方面に対して、おれはけっこう金銭を排泄した。ふつうに言えば「衝動買いしちゃいました」ってことなんだが、こういうとかっこよくないですか? ぜんぜん? あ、そう。
 忘れないうちに、排泄のここにまとめておこう。


 まずは『つやふきん』。漢字なら艶布巾だ。
 おれはどうにも『つやふきん』が覚えられず、スナフキンと言いそうになる。買い求めるときには「パイプを磨くイボタロウカイガラムシのあれ」と言った。なぜか長い虫の名前(後述)は覚えられたから。

 つやふきん。twitterで、ある方のつぶやきから知った逸物である。もとはといえばパイプを磨くためのタオルだ。好事家たちの間では万年筆を磨くのに用いても具合がよろしい、と有名な品だったようだが、おれはちっとも知らなかった。


 製作・販売は銀座一丁目の佐々木商店。パイプの品ぞろえが豊富なタバコ店だ。このご時世、なかなかつらい商売だと思うが、このつやふきんは140年の歴史を誇るオリジナル商品だそうだ。
 木でできたものであれば「此のつやふきんに依ってぴかぴかと心地よい光を増します」そうだし、真鍮や鋼鉄製の器物も「つやふきんで拭へば錆止めの作用をいたし何かと御便利」だという(「」内は能書きより抜粋)
 万年筆好きは、もちろんこれで万年筆を拭く。エボナイト製でも木軸でも、こいつで磨けばよい感じに艶がでてくるって寸法だ。


 見た目は安っぽい黄色のタオルだが、なんだかすごそうな成分を含んでいるらしい。
 それが先ほどの「イボタロウカイガラムシ」だ。この長い名前の虫(オスの幼虫に限る)が分泌する蝋の成分を染み込ませてあるのだそうだ。イボタロウというと、昔の男子の名のようだが、ロウは蝋を指すようで、「イボタ蝋」なる物質がちゃんと存在するそうだ。用途はもちろん艶出しや研磨剤など。
 だからイントネーションは「楽太郎」じゃなく「座敷牢」に近いってことだ。


 詳しく書くとこんな感じ。

 イボタロウカイガラムシ
イボタロウムシとも言われ、半翅(はんし)目カタカイガラムシ科の昆虫の1種。雌は球状でつやのある赤茶色、体長10mm。雄は有翅で体長約3mm。雄の幼虫は白色の蝋物質を分泌。この蝋塊はイボタ蝋と称し、家具のつや出しや薬用に用いられる。日本、中国、ヨーロッパなどに分布し、イボタノキ、ネズミモチトネリコなどに寄生。


 写真は見つけられなかった。たぶん、見ないほうがなにかといいんだろう。


 イボタロウカイガラムシの匂いを知らないのでなんともいえないが、つやふきん自体はよい香りがする。
 蝋成分が流れだしてしまうので、つやふきんを水洗いするのは厳禁だそうだ。佐々木商店で「どのくらいまで使えるものか」と尋ねたところ、ぼろぼろになったつやふきんを見せてくれて「このくらいでもまだまだ使えますよ」とのこと。
 1枚1000円也。これはよい東京土産になりそうである。


 海外の古いドラマで見る、揺り椅子に座ってパイプを磨く髭のじいさん。
 あんな姿もいいもんだと思っていたが、パイプ代わりに万年筆を磨くじじいになれるかもしれない。磨くってのはいいよな。削るのとはちがってさ。











 ここでペン習字erとしての疑問がひとつ。
 パッケージの「やふきん」は読めるのだが、その上の字がおれには「は」にしか見えない。手元の本で「つ」の変体仮名を調べたが、このような形は載っていなかった。ひらがなの「は」は漢字の「波」の変形だが、そう思ってみればこれは「波」に見えないこともない。となると『はやふきん』? 謎である。


 つやふきんの佐々木商店から2〜3分で伊東屋本店に着く。おそらく日本でいちばん大きな文具店だ。
 万年筆好きは世に多く存在するが、万年筆や関連用品を豊富に揃えている実店舗はとても少ない。おなじ伊東屋にしても、池袋の東武百貨店内にある支店となると、品ぞろえはぐんと減ってしまう。メーカーごとにコーナーが分れていて実物がディスプレイされているこの本店は、万年筆好きにとっては貴重な場所なのである。


 さすが伊東屋、と思ったのはパイロットのインク『色彩雫(いろしずく)』の全色17種類が試し書きできたことだ。
 1本ごとに異なる色のインクが入った試し書き用の万年筆が用意されていて、お好きにお書きなさいって具合だ。インクの色はサイトで見てもパンフレットで見ても、イメージはつかめるが実際の色がわからない。こうして本物の紙に試し書きができると、それだけでうれしくなって買っちまいそうになる。
 実際、買っちゃったし。おれが買ったのは土筆ね、つくし。


 せっかく伊東屋まで来たのだからもうひとつインクを買いたい。とインクのフロアーを物色していると、扱っているすべてのインクを使って作った色見本が壁に貼ってあった。しばしそいつを睨み、スカイブルーのインクに決めて、店員に話しかける。
 「ビスコンティターコイズを」。
 「少々お待ち下さい」
 で、在庫を調べて「申し訳ありませんが、ただいま在庫が……」。
 しょうがない、「ではコンウェイスチュアートのターコイズを」。
 「……ただいま在庫が……」。
 「プライベートリザーブインクのダフネブルーは?」
 「……すみません……」
 まるでないものを選っているようになっちまったが、第四希望のペリカンターコイズで手を打った。ついでにパイロットの試書用紙も何枚かいただいた。
 店員が在庫切れで謝り続けたぶんだけおれの位置エネルギーが相対的に上がっていて、頼みやすかったんだ。
 ついでにパイロットのコンバーターも2種類買っておいた。









 インクのつぎは紙だ。今回は紙のなかでも原稿用紙がほしい。
 伊東屋本店には原稿用紙だけが並んだ一角がある。
 紙の色は……、罫線の形は……とさんざん悩んだあげく、2種類のB5サイズ原稿用紙を買い求めた。
 ひとつは満寿屋のNo.101、もうひとつがライフの157。











 インクと原稿用紙を買って用は済んだのだが、めったに来ない本店なので、帰るまえに各フロアをひと巡りすることにした。
 できるだけ衝動買いはしないように気と財布の紐を引き締めていたのだが、つい買ってしまったのがこれ。プラスのリビングポスト・プチという商品だ。万年筆のケースとしてちょうどいい。









 じつは万年筆ケースとして漆塗りでガラス天板の入った木製ケースを考えていたのだが、いかにも「万年筆が趣味でござい」って感じがして引っかかっていたのだ。万年筆が趣味なのは事実だから隠す必要もないんだけど、たいそうに陳列して自慢する感じがいやだった。
 その点、このリビングポスト・プチなら、安っぽさが気楽さにつながっていい感じだ。材質は厚紙、色もビタミンカラーで、威張ってる感じが少ない。
 ひとつ買って、帰宅してから色厚紙を切って引き出しのなかに仕切り板を作った。おれってこんなにマメだったっけ? なんて思いながら。











 日が変わり、場所も移ってこんどは文京区の千石〜小石川界隈。
 まず最初の目的は、憧れの川窪万年筆店だ。住宅地のなかに溶け込んでいるという情報を得たので、事前に十分な下調べをしてから向かった。
 なにせおれは方向音痴なので、住所だけでは辿りつける自信がない。グーグルマップでシミュレーションをした成果で、1回迷っただけで店を見つけることができた。


 川窪万年筆店の外観は雑誌やサイトでよく紹介されているので撮影しなかった。
 万年筆店と、駄菓子屋の風情がある千石空房が長屋のように隣接しているのだが、川窪さんは空房のほうにいた。
 今日おれが訪問した目的は大別して3つ。ひとつは場所を確かめること。ふたつめは、先月末に買った昭和万年筆の領収書を書いてもらうこと。そして3つ目が、ペン先への彫刻について質問すること。
 店に着いた時点で、ひとつ目の目的は完了。
 2つ目の領収書もさらっと書いてもらうことができた。
 そして最後の彫刻についての質問。川窪万年筆店では世界でも類を見ない精度でペン先への彫刻を施すことができるらしい。ではこのロゴは彫れますか? と聞いておきたかったのだ。










 この図案は鼻行類=ナゾベームである。10年以上前に同名のホームページを開設していたときに、読者がくれたエンブレムだ。ホームページのトップでもこのエンブレムを使っていたし、その後もなにかにつけて使わせてもらっている。もし万年筆のペン先にこいつを彫刻してもらえたら、と想像するとわくわくする。


 川窪さんの答えはあっけなかった。
 「図と地を反転させればできますよ」。おお、やったぜ。まだやってないけど、やったぜ。
 いつになるかわからないが、川窪万年筆店におれのオリジナル万年筆の製作を発注する。素材は木だな。ごついやつで、キャップの先が3つに分れて鼻行類の鼻みたいになってたら最高だな。その鼻で直立すんの。歩かなくてもいいや。そしてペン先にはエンブレムの彫刻。
 妄想は、やむことがない。


 訪問記念に、オリジナルのインク1本とわらびペンを買った。
 わらびペンは、わらびをそのままペンにしたもので、つけペンとして使う。インクはYELLOW & ORANGE って色で、そのとき会計してくれた川窪さんのお母さんがこっそり端数をおまけしてくれた。























 試し書き(ほんとに投函した手紙だけど)した感じはこんなの。









 千石の川窪万年筆店を出て、つぎの目的は小石川にある橙灯という喫茶店。隣町である。
 地図での下調べはもちろん済んでいたが、実際に歩みを進めていると、塀で囲まれた広い空き地に進路を阻まれた。じゃまな空き地め、と看板を見たら、おれの出身小学校の敷地じゃないか。運動場が2つ、体育館も2つ、それとは別に講堂もある広い学校である。そのうえ空地まで所有してやがる。


 橙灯は、ふつうのアパートの2階にあった。1階にも喫茶店があるから、脇の階段を上りながら「喫茶店の上に喫茶店があってよいものか?」と不安になる。おまけに入口もふつうの民家のようだからなおさら。













 玄関で靴をぬぎ、スリッパで上がるタイプの珍しい喫茶店だった。
 民家をそのまま使った店で、半分がギャラリー、半分が客席。
 店内に入ったとたんに、面した通りの喧騒が消える。空気が落ち着いている。アイスコーヒーの姿を見ただけでこの店の実力がわかろうというものだ。自家製のジャムもすばらしかった。



















 客席と厨房を分ける場所に、木製の小引き出しがある。変形の箪笥ってことになるのか。小さな引き出しにはそれぞれ売り物が納まっているのだが、ジャムが入っていたり、焼き物が入っていたり、文具だったり。
 びっくり箱のようで、全部の引き出しを順番に開けてしまった。


 お目当ては、この引き出し。

















 満寿屋×文具王のtweet-sen。140文字のミニ便箋である。
 この便箋はほぼ非売品に近いような存在で、売っている場所はこの橙灯ともう一カ所だけらしい。










 このほかにも、8Bの鉛筆やら一筆箋やらを買いこんで、おれの排泄の日々は終わったのだった。
 排泄と引き換えに手にした物品を、つぎは消化・吸収・熟成する段階である。

2010年06月23日のツイート