さよなら2016年

年末になった。わたしは年が新しくなるたびに、今年は何を読んだのか、何を観たのか、記録をつけようと本当に心を改めようと決意する。しかし、なにしろ性分がダメなもので今年一年で何を読んだのかなんて、結局記録されてない。記憶にも残ってない。無精な自分に倒れそうになる年末がまたやってきてしまった。



それでも、今年は記憶喪失なわたしですら強烈に覚えているくらい、読者として、ものすごく幸せなことばかりだった。大好きな作家と会って、自分があなたの作品を好きだということ、愛してやまないということを、目の前で告白することができた。
イーユン・リーにだって会える2016年、ほんとにすばらしくない?サインをお願いして、写真を撮ってもらった。なんという未来。生きてるって素晴らしい。
津村記久子さんにはおいしいうどん屋教えてもらったし。



それでも、今年いちばん衝撃だったのはやっぱり雨宮まみさんのことなのだった。
ずっと心のなかでゆらゆらとしていて、動いては感情が揺さぶられての繰り返しなんだけど、わたしが雨宮まみさんとすれ違ったその一瞬についてを書いてみる。
書かずにいようか、迷ったけど、書いてみる。



2014年夏、友だちが雨宮まみさんの名前を出した。彼女が通っている上野千鶴子さんの社会人ゼミに雨宮まみさんを呼びたいというのだった。ちょうど、「女子をこじらせて」が文庫化されたばかりで、上野千鶴子さんが文庫版の解説を書いたご縁で、雨宮まみさんをお呼びして、読書会をしてはどうかという話になったという。友だちはコーディネータをやるから、わたしに書評をやらないかと誘ってくれた。作家の目の前で、しかも雨宮まみさんの前で自分の書評を発表するなんて、とても勇気が出ず、すぐには決められなくて、返事ができなかった。でも、むちゃくちゃおもしろそうだってその確信だけはたしかにあった。友だちとはその頃、国会前で毎日のように一緒にデモに参加してて、わたしたちはシュプレヒコールを聞きながら、どうしよう、どうしようときゃあきゃあと相談をしあった。絶望しちゃうような夏だったけど、あの時間はすごく楽しかった。わたしはその話を受けてみることにした。
そして、10月。上野ゼミの日。もうひとり書評を担当する友人も交え、わたしたちは雨宮まみさんを駅に迎えに行った。緊張で吐きそうだった。三鷹駅の改札の向こうから現れた雨宮まみさんは、岸政彦さんがどこかで書かれてたみたいに、ほんとにまさに「東京が歩いて来た」感じだった(この言い回し、だいすき)。一緒に歩くのも、何を話したらいいのかわからないくらいどきどきした。こんなにおしゃれで素敵なひとが、この世に実在するんだ!!!!わたしたちはものすごくおろおろしながら、ごくごく簡単な打ち合わせをした。なにしろ、そんな打ち合わせをそんなことしたことなかったから、なんかよっぽどひどいものだったのではと未だにおそろしく思い出すけれど、雨宮まみさんはにこにこと対応してくださって、あまつさえ持参してくださった「自信のない部屋へようこそ」にサインを入れてくれた。そのとき、わたしはペンネームでゼミに参加していて、雨宮まみさんが書いてくれたわたしの名前はペンネームだった。新しい自分が生まれた感じ、しかも自分で生んだ感じ、すっごくわくわくした。
その散乱した打ち合わせのとき、たまたま机に置いてあった文藝秋号の話になった。村田沙耶香さんの「消滅世界」、松田青子さんの「男性ならではの感性」が一緒に載ってるフェミ号(勝手に認定)で、駅にお迎えに行く前に友人たちにこれはおすすめだと布教するためだった。雨宮まみさんが「見てもいいですか?」と聞いて、ぱらぱらとめくっていたのをよく覚えている。
書評セッションはもう、言うまでもなく最高だった。それはもう、楽しかった。筆舌に尽くしがたいとはこのこと。「女子をこじらせて」をはじめの一歩に自分のことを語りはじめてしまったわたしたちの生きづらさにも、雨宮まみさんは真剣に耳を傾けてくれた。北欧ミステリをお勧めしてくれて、アーナルデュル・インダリソンの「湿地」がよかったとおっしゃっていた。懇親会では写真を撮ってもらった。家宝だ。未だに夜な夜な眺めてしまう。




そうそう、先ほど出した文藝秋号の件も、実は重要なので、書いておく。
一昨年の秋口に文藝秋号で発表された村田沙耶香さんの「消滅世界」、Twitterで岩川ありささんのツイートを拝見し、おもしろそーとすぐに書店に駆け込んだ。もう夢中になって読んで、読み終わってからはもう、すっごく興奮して、周囲に布教しまくった。セックスと生殖と結婚か分離した世界に嫉妬したし、同時にわたしが生きるこの現実はなんてディストピアなんだろうって絶望した。
単行本が出る直前に河出書房新社からメルマガが来た。ゲラを読者に事前に渡しての読書会を開催するという大ニュースだった。友だちにも速攻LINEで共有した。しかし結局、ふたりで応募したら、応募者多数で抽選になってわたしが落ちたのだった…くじ運がない(笑)
感想文を読書会前に事前にメールすることになったと聞き、図々しいわたしは友だちに一緒にレビューを送ってもらったのだった。
それが以下。



『単行本になった消滅世界を想像する。装丁はどんなだろう。スピンは何色だろう。そして、帯にはどんな言葉が書かれるんだろう。SFはわかるとして、ディストピアと書かれるのだろうか。少なくともわたしにとっては、現実の今の世界よりよほどユートピアに思えるのだけれど。
わたしにとって、現在のこの日本という社会はとってもディストピアだ。まずもって、一定年齢になると異性と交際していなければ真っ当な人間とはみなされない。しかも年齢があがるごとに、交際だけではなくその異性と社会的な契約を結ぶ(婚姻する)、子どもを持つという風に課されるハードルはどんどんあがり、「嫁き遅れ」てしまった女たちは自己反省の呪いをかけられる。仕事をしてみても、健常者男性に合わせた労働生活を送らねばらなず、一般職や契約社員という身分制度が横たわる。あまつさえ、30分早く来てポットにお湯を入れろなどと2015年現在に至るまで、若い女というだけで、そういうことを言われる。子どもを持っても、男並みに働かなければ預けるところもなく、預けた子どもが熱を出せば予定の変更を強いられるのは大抵女だ。これをディストピアと言わずして、なんというのか。多くの女にとってもそうで、少子化というのはある意味女の人たちの静かなる社会への反乱の意思表示なのではないかとも思ってしまう。
この小説に描かれている、生殖とセックスと婚姻がそれぞれ独立しているそれは、おそらく多くの女性が期待するものなのではないかと思う。好きな人とする結婚などというものは、わたしとの間にあまりに谷底が深すぎる。そんなものの暗闇を覗いていたら、心が狂って、自分を尊重できなくなってしまう。それくらい、強いられていると感じている。だからこそ、わたしは描かれたこの世界をディストピアと呼べるのか、わからなくなってしまった。子どもや欲望を管理すると言う点では確かにそうなのかもしれない。でも、文化として、社会として個人に強いられているものの重さを点検していくと、むしろわたしが期待するものはこれなのではないかとやっぱり思ってしまう。男の人が出産するという、BLにはよくありがちな、ところも含めて。
特に好きだったのは、マンガやアニメの好きだったキャラクターたちのことを祈るようにつぶやくところだ。子供染みたことかもしれないけれど、3次元の男の子(あるいは2.5次元の男の子)たちは私たちを傷つけない。いつでも完璧に王子様でいてくれる存在を期待してしまうこと、そしてそれを標として生きていくこと。その切なる、誰にも邪魔されたくない、でも誰かにその情熱を布教したい欲望がとってもよくわかりすぎて、泣けてきてしまった。「いい年して、そんなものに夢中になるなんて。」「わたしは友だちとして止めたんだよ。」なんて言い方をされると、わたしの欲望はそんなにも間違ったものなのかと、恥ずかしい気持ちにもさせられる。なぜだろう。よく知りもしない誰かを外見だけで好きになるよりも、わたしたちはこんなにも彼らのことをよく知っているし(身長や体重や好きな食べ物や、家族構成に至るまで記載されているものは全て覚えているのはオタクの基本)、誕生日になれば一緒にお祝いをするし、日々の日常を想像し、幸せを祈っているのに、それは向けられる先によって、気味の悪いものになる。なんでだろう。どうしてだろう。「真っ当」な趣味ではない、「真っ当」な恋心ではない気持ちを抱いているわたしは、常に言い訳や葛藤を強いられている。
わたしたちは消滅しうる世界に生きている。そして、消滅してしまってもいいのではないかとすら、わたしは思っている。わたし自身が婚姻も、生殖も今のところ選ぶことができない。静かに活力をうしなっていくこのディストピアで、すこしでも善く生きることだけを意識して、苦しみながらサバイブしていく。』
友だちは約束通り、感想文を一緒に送ってくれた。






そして、年が明けて2015年。1/21。
雨宮まみさんと村田沙耶香さんが「消滅世界」の新刊刊行記念でイベントをやることになった。
一読者として、なんの奇跡が起こったかと思った。その前の年に一番推してた作品と、たまたまその話をしていた憧れの存在・雨宮まみさんとが交わるなんて。いや、なにもかも偶然だ。でも、それでもよかった。だってそんなん奇跡じゃん。あの時、上野ゼミに一緒に参加した友人たちと「ヤバイ」を連発し、語彙を失いながら、気合を入れて、駆けつけた。
トークショーはとても楽しかった。雨宮まみさんが聞き手のインタビューは、今まで村田沙耶香さんの話を聞いた中でもいちばん楽しかった。
感激だったのは、トークショーの中で村田沙耶香さんが、ゲラ読みの読書会の話をし、印象的だったとあげた読者の感想が、わたしの感想だったことだった。いやあ、もう泣くしかなかった。泣くしかないでしょう。読者として、わたしは透明だし、ほんとに非力だとおもうけど、作り手の方の心に残ることもあるんだと、しかも大好きな作家さんに覚えていていただけることがあるんだと、信じられなかった。信仰心がますます深まった(こわい)。
サイン会はもう、村田沙耶香さんを前に騒ぎ、号泣する不審者だった。参加された方は何事かと思っていただろう。わたしの感想だったと伝えて、お礼を言って、何を言ったのか、覚えていない。好きなひとを前にすると記憶がなくなる。
引くほど泣きじゃくるわたしに、雨宮まみさんはティッシュを貸してくれた。真っ赤なティッシュケースでお花の刺繍が入っていた。素直に借りておきながら、動揺しまくっていたわたしは、ティッシュの中身が入ってなかったことを雨宮まみさんに報告し、わざわざ新しいのを開けてもらったのだった。



長くなったけど、これが、すれ違った一瞬のこと。それでもわたしにとっては、僥倖としか、言いようがなく。



それが雨宮まみさんに会った最後だった。
ファンとして、なんとしあわせな時間だっただろう。ティッシュ借りたのが最後だったなんて、間抜けだけど。
わたしはずっと雨宮まみさんみたいになりたかった。ううん、今もなりたい。そうTwitterに書いたら、「なれますよ」って直接お返事をくださったこともあった。ほんとかな。でも、同時に思ってて、わたしはこれから、何に憧れて、何を目指せばいいんですかってことで、それは今も見つかっていないんです。喪失感を埋めようがないんです。ただのファンなのに馬鹿みたいでしょう。
ファンとして、わたしはものすごくしあわせでした。個人的なおつきあいはなくとも、おっかけとして大変充実してました。そして、ものすごくエンパワメントされて、雨宮まみさんみたいになりたいって気持ちで、おしゃれをしたい!自分を好きになりたい!って本気で考えた日々でした。そのおかげで、とても、とてつもなく楽しかった。
ほんとにほんとにありがとうございました。この気持ちをまたどっかまでおっかけて、告白するみたいにご本人に伝えたかったなあ。



雨宮まみさんに憧れて買った真っ赤な口紅を差して、2016年最後の今日を見送ろうと思います。