.

『ヘミングウェイ短篇集』西崎憲・編訳

ゲラ直しなどがあって(いつもながら言い訳がましいかも汗)ちょっと日にちが経ってしまいましたが…西崎憲氏編訳による『ヘミングウェイ短篇集』(ちくま文庫3月新刊)を拝読しました。
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480426840/

これまでに同じちくま文庫でポーやV・ウルフの短篇集を編んできた西崎氏が満を持して上梓した二十世紀を代表する文豪の傑作集──などと概要を紹介するのもためらわれるほどに、そんな大文豪でさえこれまた困ったことに当方は『老人と海』とあとは「キリマンジャロの雪」ぐらいしか読んでいない。それも相当昔まだブンガクというものに純な夢を見ていた頃だ。『老人と海』は深いことは判らぬながらも(ライオンの夢とかいまだによく判らない)素朴に感動できたが、その後色々あって純文学に匙を投げミステリーとかホラーとかのほうに関心が移ってみると、どうやらヘミングウェイという作家はハードボイルドなるものの元祖のようにいわれてるらしいと知ってますます縁遠くなった。というのは日本のハードボイルドファンのコアの部分をなすレビュアーたちがどうにも救いがたく底が浅いくせにカッコばかりつけてる連中だと知って(そう、あいつやあいつのことだ)うんざりしたという経験が自分としては非常に大きい。お陰で元々好きだった本格ミステリのほうへますます傾くことになったが…しかしこのたび西崎氏によるヘミングウェイに触れて、そんな自分こそがやはり了見が狭かったようだとあらためて気づかされた。
 それは何といっても編者自身による巻末解説がとても示唆に富んでいることによる。その中で西崎氏はヘミングウェイに貼られがちなマチズム(男性主義)やロスト・ジェネレーションなどの「レッテル」に疑問を投げかけている──といってもそれらを否定するというよりは、頭から真に受けず読者自身の目で確かめることを提案しているようだ。例えば闘牛テーマの収録作「敗れざる者」については「ヘミングウェイは人間の中に誇りや勇気が存在することに確信を抱いていたわけではない」として、単純にマチズムの表象と見ることの一面性を説いている。あるいはまた略伝においては大不況下でも悠々と海釣りを楽しんだ文豪が「人々の反感を買ったことは記しておくべき」として、単純に冒険心と趣味に富んだ行動的作家としてのみ賛美することを戒めている。編集者が案出したであろう一見ミスマッチにも映る「弱く寂しい男…」という帯の句もそんな編者の意を汲んでのことだろう。個人的な見方でいうとそうした底意がヘミングウェイを所謂ハードボイルド的流れの元祖的存在に奉りあげることへの疑義と映り、大いに勇気づけられる気がした…というのはまあちょっと勝手すぎる解釈かもしれないが。
では仮にハードボイルドでないとすればヘミングウェイとは何だろうか(などとことさらに決める必要は勿論ないわけだが)。「ライオンの夢が判らない」といったが、他にも「キリマンジャロ…」の豹やハイエナなど謎めいた要素が目立つ作品が多いことからすると、実はむしろボルヘスあたりに通じるものがあるのかもしれないなどと思えたりもする…とはいえボルヘスの世界は地に足がついていない分判らなくてもどうってことはない?が、ヘミングウェイの描くものは結局現実世界に立ってるので、やはり判らないままで済ませるのはまずいということになる。例えばあるカップルが延々と禅問答めいた言い合いを続ける「白い象のような山並み」という短篇では恥ずかしながらオチが判らなかったので、思い余って検索してやっとそうかと納得したが(実は有名な話らしい)、他にもそれ以上に謎めいて一読後なお首を傾げたままの作品が幾つもあって、そういう謎かけ志向はあるいはそれこそ「本格ミステリ」にこそ通じる要素かもしれない!…なんていう田んぼ水の引きすぎはともかくとしても、解説によればそんなヘミングウェイの特性は「氷山の理論」(物語全容の一部しか書かない)と呼ばれるとのことで、西崎氏はその点に鑑みてか収録作個々についてはわざとわずかな説明しか加えず読者の想像力に委ねている。…うーんこれはやはり無知な読み手の予想がちょっと甘かったようだ。頭を冷してから遠からず再挑戦せねばと意を新たにした次第…勿論そんなふうに思わせるところがこの本の力だろう、「ああ良いものを読んだ」だけで終えられない何かがたしかにあると感じとれるから──謎が解読できるかどうかはまた別にしても。その意味で西崎氏がこの本の編者であることはヘミングウェイ入門者にとって(あるいは読み直し者にとっても)幸いなことと思う。事実氏は本書の狙いを作家の「新しい全体像を提示すること」としている。
それは例えば解説の末尾近くでの「駅」「カフェ」「移動」(いずれも収録作に頻出する要素)などを巡って記されているとても魅力的な一文についてもいえる(引用したいくらいだが控える)。西崎氏は駅を巡る創作を友人知人から募ってウェブ上で書下ろしアンソロジーを編んだりもしている(現在も進行中のようだ)が、その発想はこの本を編纂した経験とも関わりがあるのかもしれない?…
というわけで、西崎さんありがとうございました!
ヘミングウェイ短篇集 (ちくま文庫)