『たとえば私の人生に目口もないようなもの、あれこそ嘘の精なれ』の感想

バタフライ・エフェクト」という映画があるけれども、僕がカオス理論に触れたのはもっと前、多分「YU-NO」というゲームのサターン版をプレイしたのが最初だったと思う。ゲームの「セーブ」という概念と、カオス理論の親和性が高かったことから、様々な作品、例えば「シュタインズゲート」のような作品が生まれたし、パラレルワールドの「平行」を意味するところが、広くではないものの、一般に広まったのだと思っている。
少し前置きが長くなった。バタフライ・エフェクトにおける「蝶の羽ばたき」という些事を、日常の些事に置き換えて、ループものにした、というのが柱で、そこに露悪的なものと、人の弱さを詰め込んだ、というかたちの作品だった。
巻き戻したくなる程の何かを、弱さ故に累積させてしまう主人公が、一般的なヒロイックな物語であれば抗うところを、徹底的に逃げに入り、一番「マシ」なものを無意識的に選択していく。ヒロイックでないが故に、カタルシスはなく、薄暗い共感が広がっていく。そこはどうしても、私小説的ではなかろうか、自画像ではなかろうかと勘繰りたくなる。表現とは、多かれ少なかれそういうものなのだけれども。
ただ、その蝶の些細な羽ばたき、つまり日常の些事を改変する度に、世界を取り巻く情勢は悪化していく。最初は普通の幼稚園の風景だったはずが、リピートを繰り返すうちに戦時下になっていく。ただ、そんな「世界の大事」よりも、「私の人生」にとっては、その「日常の些事方が大事だ」ということが、暗に含まれているように思う。これは全くその通りだと思う。明日自分が戦争に巻き込まれる、なんてことよりも、「納期に間に合わない」といった些事の方が、瞬間最大風速は大きいからだ。大きすぎる事象は、個人の知覚が及ばない。及ばないが故に鈍感になる。日常の些事には、あれだけ敏感になって、繊細になって、傷ついているというのに。
序盤から中盤、物語の筋から外れるようなモノローグが出てくる。大概、対義語(アントニム)のものだ。「他人」の対義語は「身内」か? いや「他人」だ。等。そのモノローグの意味は、主人公の出生の秘密にあり、主人公が演劇の題材を何故「桃太郎」つまり、おじいさんおばあさんと血のつながりのない子供が主人公の作品にしたのか、というところにもかかってくる。なので、その「些事」の発端は出生、あるいは教育にもある、という読み方もできる。
最後のシーン、いろいろな見方ができるかと思うけれど、僕としては「やっぱ強くてニューゲーム選んじゃいますよねー」だった。
途中若干和ませてからぶん殴る構成は、映画の「告白」をちょっと思い出した。お笑いの原則が緊張と緩和であるならば、緊迫させるためにはその逆、緩和からの緊張が効果的だ。
そのあたり、人のよさそうだった登場人物の殆どが、悪逆的な表情も出すというところや、あるいはループ表現でのビデオの巻き戻し的演出、敢えてへたくそに演じてみせるシーンなど、役者さん達が技量を発揮するには事欠かない演出だったし、それに役者さん達が応えていたと思う。
最後に僕自身の話をすると、以前はもっと、「些事」に拘っていたり、執着しているところがあったと思う。が、今はそれが驚くほど小さくなっているんだなということを、これを見ながら思った。巻き戻したいことはたくさんあるけれども、同時に巻き戻したくない何かも、また得ながら生きていけているのかなと思う。

世界摂食障害アクションデイ

縁あって、「世界摂食障害アクションデイ」に参加してきました。
https://www.jafed.jp/world-eating-disorders-action-day/
世界摂食障害アクションデイとは、6/2に、摂食障害に関する偏見や誤解を払拭する活動をという趣旨で開催されるものです。日本でのイベントとしては、6月4日(日)に、政策研究大学院大学で開催されました。
今回は、昨年の6月2日に発足したJAED(日本摂食障害協会https://www.jafed.jp/)主催のもと、いくつかの自助グループと共に開催しておりました。
※記事が長くなってしまったので、結論だけ読みたいという方は、まとめを読んでください。

いわゆる過食症、拒食症等を総称した、食事が思い通りに取れなくなる疾患のことです。
詳しくは後述します。

調査報告として、女性を対象とした認識調査の発表がありました。女性が多く疾患する病気ということで子宮頸ガンとの認知度比較や、「拒食症」「過食症」「摂食障害」といった、それぞれの言葉についての認知度調査です。
「拒食症」「過食症」を認識している割合は、子宮頸ガンと比較しても、多くの女性に認識されていましたが、「摂食障害」という言葉に関しては、認知度はまだまだ低い状態でした。

調査報告として興味深かったのが、この誤解、偏見に関する調査でした。
誤解、偏見が多くみられた項目を以下に転記します
摂食障害の一番の原因はダイエットである(68%)
・拒食症の人は自分の意思で拒食をしていると思う(36%)
過食症の人の多くは、肥満だと思う(32%)
過食症の過食は自分の意思でやめられる(27%)
摂食障害から完全に回復することは可能だと思う(21%)
(※可能なのですが、この問いにたいして「そうは思わない」「すこしそう思わない」の人の割合が21%ということです)
・母親の育て方が原因(21%)
自分の思ったことも加えつつ、ひとつずつ解説を。

僕も実はそう思っていた時期がありましたが、これをアルコール中毒に置き換えてみるとわかりやすいかと思います。「アルコール中毒の原因はアルコール摂取である」と言っているのと同じで、では大酒飲み、酒好きがみんな、アルコール中毒になるかといえば、ならないわけです。中には、脳の抑制機能不全的なもので、きっかけとしてのストレスはなく依存してしまうケースもありますが、多くの場合、何らかのストレスを発散したり、忘れたいことがあったときに、それをアルコールに頼り過ぎることで発症します。
拒食症の場合、一例ですが、ダイエットをしたときには、確実に褒めてもらえる、自己肯定できる、けれど他は何をやっても成果が得られるか不透明、そして一度痩せてしまうと、1gでも体重を増やすことが激烈にストレスになってしまう、という状態に陥ったときに、疾患してしまうのだと思います。

  • 自分の意思で拒食、過食している?

初期の頃は、引き返せる位置にいたのかもしれません。また例を挙げます。これは摂食障害患者の例に限らずですが、思春期は自我が芽生え、周囲は自意識に対して敏感になり、それぞれ自意識が過剰になります。仮に、過剰な勉強が身体に悪影響を与えるとしましょう。しかし、テスト結果の貼り出しで上位に名前が上がったことがある生徒は、果たして「身体に悪いから」といって、勉強をやめることができるでしょうか? そうなれば、もはや誰も「勉強教えて」と言ってはくれなくなると考えるでしょう。なんなら、自分の中で学友をランク付けしていて、自分が見下していた層に自分が入るという感覚になるかもしれません。それに10代の少年少女が耐えられるでしょうか? そういうことなのだと僕は理解しています。まして、先のアルコール中毒の例ではないですが、病状が進行し、拒食、過食行動に依存状態(離脱状態とも言いますね)になっていたとしたら、ちょっと意識がボーっとして、気がついたら食べ物を手にしていたとか、嘔吐していた、みたいなことすらあり得ます。

拒食と過食は行ったり来たりを繰り返すため、全体を見ると、過食症の方の体型は、標準体型を下回ります。
また、治癒にも段階があり、行きつ戻りつしてゆっくりと回復していくケースがありますので、体型等、見た目で症状を判断することは難しいです。

可能です。他の依存症や鬱病等の精神疾患と似て、ストレスがどういったストレスだったのかは人それぞれであるため、回復のしかたも人それぞれです。

  • 母親の育て方が原因?

調査が進み、家庭環境に問題がなくとも発症する例が多くあるという結果が出ています。過去に書かれた摂食障害に関する書籍や、著名人のエピソード等で、原因として母親が挙げられたことがあったため、そのように誤解をさせてしまっているということになっているようです。

  • 誤解の少なかったもの

「ストレスに関する疾患であること」
「重大な疾患であること」
「家族のかかわりが必要ないわけではないこと」
ということに関しては、世間にも理解されているようです。

  • メディアからの影響

この調査結果が最も興味深かったです。
調査内容としては、先程の誤解、偏見割合のうち、どんなメディアに触れた人が、どんな誤解、偏見を抱いているのかというものです。
全体としては、保健の授業、テレビ、インターネット、専門家の本や講演といった各メディアに触れた人の誤解、偏見率は低くなる傾向にあります。
ところが、2つの誤解、偏見に関しては、メディアによって助長された、あるいは古い情報のままになっている、という結果が出ていました。
摂食障害の一番の原因はダイエットである」
この誤解は、テレビ、インターネット、保健の授業で見た、という人に多く見られました。
僕の私見ですが、エピソードを語ったりする際に、「ダイエット」というワードはほぼ確実に出て来るかと思います。その印象が強いまま、「原因」に言及することなく、「現象」を見せたりすることが多いことで、こういった誤解が広がったのではないかと推察します。
摂食障害は、母親の育て方が原因だと思う」
インターネット、専門家の本や講演を見たという方に多く見られた偏見でした。前の項でも言及しましたが、情報が古かったり、著名人のセンセーショナルなエピソードがあったり、といったことで、個別の事例が、摂食障害全体に対する一般的な印象になってしまった可能性があるかと思います。

  • この調査の「まとめと提言」として語られたこと

・「摂食障害」という病名については、「拒食症」「過食症」よりも認知度が低く、今後認知度を高めていく必要がある
・本調査から、一般女性に多い誤解や偏見が明らかになった。誤解・偏見の多い項目について、啓発が必要である。
・メディアは摂食障害の啓発には有効であるが、特定のメディアからの情報入手が誤解や偏見を高めていることが考えられ、今後対策が必要である
※URLのものは昨年出たものですが、「摂食障害に関する9つの真実」という資料です。本講演で発表になったものではないですが、ここでご紹介しておきます。
https://www.aedweb.org/downloads/9-truths-about-EDs-japanese.pdf

主に、医療刑務所の現状についてのお話でした。
まず、一般刑務所での現状について。下関駅放火事件の犯人の動機が、刑務所に戻りたかった(他に居場所がなかった)ということがあって以来、いろいろと刑務所の状況も変わり、現在では社会福祉士の方が服役中の方が刑期があけた後どう生活していくのかの計画を立てたり、支援センターが関わったり、薬物で服役している人に対して薬物依存者の支援団体が関わることができたり、といったことができるようになっているとのこと。再犯防止に関する施策がとられているようです。刑務所に送られてくる方は、認知症や知的障害の方も多くいるということで、その対応について刑務所の所員への研修などもあるとのこと。
摂食障害の方は、吐き戻しなどを行っていると、膨大な量を租借するため、食費で経済的に困窮したり、あるいは「どうせ吐いてしまうのにお金を払うなんて」という意識になってしまったり、あるいは罪悪感が麻痺した状態になってしまったりで、万引きによる逮捕例が結構あるとのこと。(この後のシュチョーのところで再度話題になり、以前テレビでこのことが取り上げられたときには、万引きと摂食障害とを結びつけるとは何事かと、クレームが入ったという話もありました。確かに、いかなる病気なのかといった情報も正しく広まらないなかで、そういったことが語られると、「摂食障害患者=犯罪者予備軍」といったようなレッテル貼りになりかねない、差別を引き起こしかねないといったことは考えられるかと思います)
摂食障害の方も病状によっては医療刑務所、ということになりますが、各地の医療刑務所で手に負えないとなると、北九州の摂食障害専門医がいる医療刑務所に送致されるとのことでした。
刑務所内は食事が制限されており、間食等できないため、嚥下した食べ物を吐き戻して反芻したり、部屋のどこかに食事を隠したり(便器の裏にまで隠すようになるとのこと。もちろん衛生的に問題あり)するため、部屋にはカメラが設置されているとのこと。(※証拠があって書いていることではないので恐縮ですが、民間の行動制限による行動認知療法でも、似たような状況の施設もあると聞いたことがあります)
医療刑務所は、まだ縦割り行政の弊害等もあり、民間連携ができないとのこと。
治療内容は、食事を減らし、栄養剤による栄養の摂取をさせるのだそうです。拒食症であっても、食事の量を減らされるのはストレスになるとのことでした。
自分と向き合うように追い込んでいき、食べ物を食べたいと思わせるようにするとのこと。
(※僕もほんの少し心理学をかじったので、少し考えを。医療刑務所の課題は、患者であり受刑者に、生きて罪を償わせるという点にあります。そして、人間が一番「生」にしがみつく感情とは「怒り」だとも聞きます。治療としてやっていることは、条件付けの上書きです。「また食べられなかった」(欝状態でよく見られる、失敗の再確認のような行動にあたるかと)を、少量毎回完食させることで完食の成功体験と、「完食が普通」と常態化させ、また、徐々に食事の量を増やして正常な食行動に近づけば報酬を与え、減量に向かうアクションを行った際には罰を与えることで、これまで「減量」⇒「減量できたということそのことが報酬」という条件付けを外す、あるいは、離脱状態(依存状態)から脱却させる、というものだと思います。人権とか、尊厳といったことを考えてしまうと、拷問的な拘束や懲罰、若干洗脳めいたプログラムというのは、決して許されるものではないのかもしれませんが、精神疾患のうち、摂食障害の致死率が特に高いことと、拘留期間という限られた時間塀の中で、そこにまで至る重症患者を治療ということとなると、全否定はできないというのが正直な気持ちです。
ただ、おそらく怒りだけでは、命が繋がった後の回復には、なかなか行きにくい部分もあるかとも思います。その部分についての検証と、千葉で発生した精神病院暴行死事件のようなことが発生しないような、第三者的な目線もまた、必要なのではないかと思いました。)

  • 経験者の声

経験者の声は、Yahoo!ニュースの特集(https://news.yahoo.co.jp/feature/621)でも取り上げられた三名の方々に、直接語っていただきました。
手元のメモで恐縮ですが、抜粋をご紹介。

  • 金子浩子さん(みせすさん)

・体型のことをからかわれたりしたことがあった
摂食障害には個人差があります
・金子さんの場合では、認知行動療法とマインドフルネス(※禅の内観に近い感じでしょうか。瞑想等で客観的に自身を見つめて事実を受け入れるといったことです)で、改善していった
精神科医の客観的な視点でのアドバイスと、エビデンスに基づく治療も助けになった
・食事はコミュニケーション
・ストレスがたまる⇒人に会いたくなくなる⇒孤立する という悪循環があった
・社会活動の中で繋がりを持つことが回復に有効
・出口のないトンネルを歩いているようだ言われるけれども、完治する病気
(※みせすさんはパワーポイントを用意し、切り替えるきっかけの原稿も司会の方に渡していたようでした。内容も整理されてテンポ良く、また気持ちの入ったスピーチで聞き入ってしまったので、メモが少なくなってしまいました)

  • 名城美紀さん

・ダイエットには元々興味がなかったが、部活で痩せた際に「痩せてかわいくなった」と評価されたことをきっかけに、最初は「これをしたら痩せるんじゃないかな?」みたいな感覚だったのが、次第に体重が減るのが楽しくなっていった
・高校進学してすぐとなると、まず見た目を見られるため、好かれるためには痩せなければと、ダイエットに拍車がかかる。中学までは給食だったのが、お弁当になることで、自分でコントロールしやすくなったことも一因
・30kg台から歯止めがきかなくなり、危機感を感じる
・生理がなくなり、これではまずいと食べ始めたら過食に
・太ったら落ち込み過食嘔吐に。この時期が一番辛かった
・自分ではやめられず、一日一万円くらいが食費。奨学金もバイト代も食費で消えてしまった
・学校、睡眠以外は常に食事のことが頭に。自分を責めるように
・「つらい」と言いにくかった
・治るきっかけは社会人になり、容姿ではなく仕事で評価される世界になったこと
・新しい評価軸を見つけたことで改善に向かっている
・職場では摂食障害をカミングアウト
・食事はコミュニケーション。必須のもの。それがつらい
・誰かに心配して欲しくはない。特徴のひとつとして受け止めて欲しい
(※特にご両親との軋轢等はなく、また体型にコンプレックスがあったわけでもないのに、疾患してしまったという事例を紹介してくれています。誰しもかかる可能性がある病気ということが、わかっていただけるのかと思います)

  • 吉野なおさん

・ぽっちゃり系ファッション雑誌モデルということで、最初はバラエティ等、茶化しにくるようなメディアが多かったが、最近ではきちんと摂食障害について取材をするメディアも増えつつある
・生き方を摂食障害に左右されない
・人に言えない時期もあった
・この苦しみがいつまで続くのか? 未来は? 将来は? いっそ死んだ方がマシだと思った。残される方のことを考える余裕はない
・(回復に向けて)何か努力をしたわけではない。「今を生きている」ことが大事
・当事者も家族も、頑張らない
・誰しも起こり得ること
・自己否定感の低減をしていく
(※Yahoo!ニュースの記事も見ていただきたいのですが、立ち直りのきっかけは、様々な芸能人の写真を仕事で見る機会があり、いろんな体型の人がいるなと認識したことがきっかけだったということでした。何かをきっかけにして、不意に立ち直ることもあるのです)

  • 摂食障害 私がおもう支援や回復へのシュチョー

当事者の方々の、忌憚のない主張、そして日本摂食障害協会の鈴木眞理先生や、会場の方からも主張がありました。
こちらもメモからで恐縮です。
・疾患に際して、生きていくためにいろいろな補助の手続きをするには、診断書が必要。このことが、医師と患者との主従関係になってしまうのでは
・原因とされているのは、「環境」「気質」「社会風潮」
・「環境」に対しては、流されないで自立すること
・「気質」は、権威やコミュ強に対して卑屈にならないように心をもっていくこと
・社会的な立場があったり、コミュ強の人に対しては、どうしても威圧を感じてしまいやすくなるので、できるだけ穏やかに接して欲しい
・ダイエットが絶対善であるような「社会風潮」を変えることはなかなか難しいけれど、体型ではない「評価基準」を持つということも大切
・「自分達には(生きて行くことに十分な)力がある」「自分で選ぶことができる」「居たいところに居ればいい」
・自助会では、本音を言い合う
・基調講演が万引きというデリケートな話題でびっくりした。以前テレビで摂食障害患者による万引きのことを放送した際には、「摂食障害と万引きを結びつけるとは何事か」とクレームになった
・病気の面白さ。抑圧された自分からの衝動。
・病気なので、治さなければならないもの
・自分の欠点を見つめる、受け容れる、諦める
・自分を面白がるような客観視をする(※このあたりは、マインドフルネス的なお話かと思います)
・病気の背後にある、「何か」の発露としての病気
・その「何か」に気付き、改修する
(※その「何か」に気付かず、慢性的なストレスを背負って生きていくよりは、この病気をきっかけに、「何か」と向き合うことはいいことなのではないか、といった趣旨だったと思います)
・40代になって、くたびれ、諦めてくると治る
・症状を恥じなくていい
・欧米では家族は支援者。日本の場合、医者や親の支援の方向が違ってしまっているケースが多いのではないか。誰かを悪者にしてターゲットにしてしまう
・いかにうまく、楽しく生きていくかという方向性
・ケアがあってよかったと言える世の中に
・子供や患者の恨みを受けて立つのが大人
・逃げ場を増やす、選択肢を増やす
・家族にも逃げ場を、自分の本音を
・何故本音が言えないか「被害妄想に思われたくない」等
・どんなことにも理由がある。目に見えないところにも理由がある
・傾向を知ることは大切だが、一括りにしたり、決め付けてしまうのはよくない
・「想像すること」
・「できること、できないことを割り切る」
・「できることはやろうとする」
・「興味の有無」の確認
・「人に関心を持つ」
・正直なることは怖いこと。だけど言えたときに、自分の何かが見える
・人に期待をし過ぎない。割り切りが大切
日本摂食障害協会の鈴木眞理先生
・自分が摂食障害に取り組むきっかけは研修医の頃、メタボリックシンドロームの患者は厚遇され、摂食障害患者は冷遇されていたのを見たことがきっかけ。本来、どちらが苦しんでいるかといえば、圧倒的に摂食障害
精神科医の実に8割が、摂食障害の患者はわがまま、面倒なので対応したくないという
・医療者は、発症の原因となった「人生障害」を救えるわけではないけれど、命が救える。症状はなんとかできる
・医療、医師が全てを解決するわけではない(※外科手術のような意識があるのか、問題を全て医者が解決してくれると思ってしまう方もいるようです)
・いろんな治り方の過程がある
・今は様々なケア体制があるので、恐れなくていい
東北で患者、家族のサポートをしている先生
・私ができるのは、混乱した話の整理と、「一緒に生きていこう」と言うこと
・若い人なら必ず治る

  • 話を聞いて僕の頭に浮かんだこと

摂食障害の方々の話を聞いていると、だいたい「不安があった」というワードが出てきます。そして、摂食障害とはストレスが原因だとされています。
僕の推論は、鬱病の前段階というか、鬱病回避というか、無意識的逃避としての摂食障害なのではないかということです。鬱病が、「何をやってもダメだ」という症状だとすれば、「ダイエットさえすれば」に置き換わったものなのではないかと。ここで厄介なのは、例えば飲酒による逃避等は、自覚できるネガティブ行動であるのに対し、拒食の場合、ポジティブ行動だという思い込みがどこかで働くことと、「食行動」は生命維持に必要なため、遠ざけることができないということです。「食べない」ことも遠ざけることはできません。
拒食は体重減によって自身の行動が肯定されたかのように錯覚する現象、過食は腸内に快感の神経があるので、食欲で他の欲求不満を埋め合わせるというものなのかなと思います。食事は子供の頃の幸せな記憶と直結するからだという説もありますが。
10代で多く発症するのは、自我形成、学力競争、スクールカースト、ライフパス(将来像)の不透明感、コミュニケーション機会の喪失、太る=自律ができない劣った人という偏見、痩せることを無闇に賞賛する風潮、こうした社会的な環境因によって引き起こされるからなのではないかと思っています。
普通に生きていても、人間関係、受験等でストレスは必ず発生します。ストレス消化が上手くできればいいですが、個人の資質としてストレス消化があまり得意ではない真面目な人程疾患しやすいというのも、おそらくはそういうことなのではないかと思います。一意専心できることはメリットもありますが、硬すぎる鉄が脆くなる例と同様のことが起こっているように思います。適度な妥協、自家撞着、我田引水、甘えができる人が、ストレスに対して強いように思います。ちょっとのズルや不正を、自他に対して許容できる人、と言えばいいでしょうか。
摂食障害の方のうち、アルコール依存、薬物依存に陥る方もいらっしゃると聞きました。これも、人生に行き詰った感覚からの逃亡先として、AがダメならB、BがダメならCと、移行していった結果の可能性があります。
「安心毛布」あるいは「ライナスの毛布」という言葉があります。ライナスとは、スヌーピーの登場する漫画、ピーナッツで、常に毛布を持ち歩いている少年のことです。彼はそれを持ち歩くことで安心を得ています。(持っていないと不安になります)摂食障害や依存症は、この毛布が本物の毛布ではなく、似たものを常に持たされているような状態なのではないかと推測します。似ているため、手放せませんが、本物ではないため、常に不安が遅いかかり、よりニセモノの毛布に執着してしまうような状態です。本人も、その毛布を手放して自立するか、あるいは本物を探すべきだとはわかってはいますが、手放したり、探しに行ったりする勇気が1ミリも湧いてこず、それがまた自己嫌悪を誘発し、悪循環に陥るというような感じでしょうか。
この例も、毛布喪失という「鬱」状態、あるいは「恐怖」状態からの逃避として、ニセモノを掴むという事象があります。
ちなみに、鬱病もまた、鬱状態でこれまでできていたことができなくなり、それが鬱の深度を増してしまうという悪循環があります。
健常者は、一旦は盛大に悲しんだりもしますが、ニセの毛布で妥協したり、あるいは毛布への執着をやめたりといったかたちで、この問題を解決、あるいは永久に保留(忘却)していきます。しかし、真面目に「あれでなくてはならないんだ!」という強い執着があった場合、上記の悪循環と、更にそれを第三者に非難されるといったストレスも加わり、悪循環に歯止めがかからなくなるのではないでしょうか。
更に、そういった逃避行動にすら行かず、「あの毛布がなくなったなら、いっそ死んだ方がマシだ!」と思いつめてしまう人(鬱病)は、自ら命を絶つということも厭わないかもしれません。もちろん、悪循環で逃避できる許容量を超えたストレスが襲い掛かって、というケースもあるかと思います。
勉強のし過ぎが身体に悪かったら? という例も前述しましたが、きっかけとなるストレスは、単一の原因ではなく複合要因のように思いますし、それぞれに因果関係がある場合もあるように思います。
テストで悪い点をとったとしましょう。まず、テストで悪い点をとったというだけで既にストレスですね。手を抜いていないのならば、自分には力がないのではないかという不安も出てきます。クラスメイトにどう思われるかという不安も出るでしょう。親に伝えて怒られたら?
さて、ではこれは誰が悪いのでしょうか? そもそも善悪の問題でしょうか?
こういったことが、評価軸がひとつしかない(学校というひとつのコミュニティで自分がどう見られるのかにだけ、強く執着する)ことの問題点でもありますが、それは後述します。
では、環境要因だと僕が考えているものを、再度挙げてみます。
自我形成:自分で考えられるようになるということです。自我形成の際に自意識が芽生えますが、自意識のうち、細かい拘りが、あらゆるなんでもない行動にストレスを感じさせる要因をはらんでいます。以下、あくまでも一例ですが、自分から参加したい旨を躊躇いなく言える子と言えない子がいます。断られたらどうしようという気持ちがあるためです。これだけでひとつ生きづらい要因が生まれたとも言えます。逆に、言えた子は、断られるはずがないという根拠のない自信だったり、断られても別の子に参加したい旨を告げればいいだけだといった割り切りの心だったりがあるために、ストレスにならないというわけです。これはあくまでも一例ですが、ストレスで遠慮したことで、「ああ、やっておけばよかった」というようなストレスが生じたり、いろいろです。個人の資質なので、どちらが良い悪いというものではないですが、傾向としてそういうことがあるということです。あるいは、そういった考え方もある、みたいな考え方の多様性を幼少期に上手く伝えられれば、子供のコミュニティに、輪に入れない子に声をかける習慣みたいなかたちで解消される可能性もあります。
学力競争:資本主義の原則は自由競争ですが、お隣中国も社会主義ながら競争社会ですので、競争は結局のところ避けられません。競争で勝者、敗者が出るのも仕方がないことです。ただ、敗者に価値がないみたいな、悪いメッセージを送るべきではないということです。老年の域になって大成したというような方もいらっしゃいます。立場はなくても、例えば誰かの話を聞いてあげることができるだけで、役立つことができるということもあるでしょう。(自助会って、おそらくそういうことなんですよね)そういったメッセージを広めていく必要があるのかもしれません。
スクールカースト:人間は序列をつけたがるものです。アメリカでも、大学でクラブを権威付けして、みたいな描写が、映画「ソーシャル・ネットワーク」で描かれていましたが、必然的な気もします。彼らが所属する同年代コミュニティがもしその学校だけだった場合、下層に追いやられた人の逃げ場がなくなってしまいます。これは「コミュニケーション機会の喪失」にも通じる話ですが、別のコミュニティに所属することで、リスクヘッジができる可能性があります。テストの例を出しましたが、今の子供環境があまりに、「学校」「勉強」「スポーツ」「容姿」と、主に学校内での価値観しか入ってこない環境にあることが、おそらく過去こうした精神を病むようなことが少なかった時代と比べて、大きく変わったところなのではないかと思います。
ライフパス(将来像)の不透明感:目の前の受験のことばかりで、とかく不安を煽って勉強をさせるような状態が、僕らの頃にはありました。今はどうなっているかわかりませんが、まず就職の多様性を確保するべきだと思います。今は有効求人倍率もバブル期並みで、人が足りていない状態となり、結果としてそのようなかたちになっているかもしれませんが、どんな景気状況でも「誰も時代の流れで生きる力を失わない」セイフティネット的な制度が必要ですし、そのためのライフパスを小学生くらいの段階で示していいように思います。また、ライフパスは一本だけ示すのではなく、これが難しかったらこちら、といったかたちで、分岐条件を設け、いくつか設定するべきだと思います。
コミュニケーション機会の喪失:共働きの家庭が増え、働き盛りの両親となると、必然的に子育てにかけられるパワーウエイトが減ります。これは働き方改革の問題です。また、現在他人とのつながり方が、衆人環視外で発生していたりします。プライバシー、セキュリティの問題もありますが、地域コミュニティとの付き合いなど、コミュニケーションの一部肩代わりをしてくれる存在の確保等も課題かもしれません。親以外の大人の価値観に触れることで、親との関係性の閉塞感を打ち破るきっかけになることもあるでしょう。
太る=自律、自制ができない劣った人という偏見:自律、自制は脳の働きなので、例えばアル中は高確率で遺伝します。脳の機能以外でも、例えば栄養効率がよければ、少量の食事で事足りてしまいますし、そこには個人差があります。個人差測定は、優生学的、あるいは選民的な方向にいく危険性をはらんでいますが、個々人が自身の特性を認識し、「普通」といった言葉に振り回され過ぎないようにしていくこと、あるいはBMI的にやや太り気味が長生きするといったデータ等を、積極的に公開したりといったことがあるといいのかもしれません。現在、一日の摂取目安云々といった表示がありますが、あれが個々人に本当に適応するのか、また市販されているものに見合ったものなのか、きちんと検証する必要があるように思います。あらゆる「〜すべき」の数値目安は、ストレス要因になる可能性があるということを考慮に入れる必要があるかもしれません。というと、少し乱暴な言い方ではありますが。
痩せることを無闇に賞賛する風潮:これは、「痩せている=妊婦ではない」という、男性目線の本能的なものだと何かで読んだことがあります。しかし、結果的に摂食障害を引き起こす一番の引き金、「痩せれば無条件に賞賛される」という社会的動機付けの罪は重いと思います。やはり健康体重を強く意識し、美意識そのものを変えていかなければならないのかもしれません。
「痩せたね」で脳内麻薬がドバーっと出てしまう状況はヤバいということです。これは、別のことで同様の達成感を得ていても、食事が「自分でコントロールできる」からこそ、性質が悪く、陥ってしまうのだと思います。(だいたいの強い達成感を得られることは、自分以外の要因が絡んだりすることで、難易度や不確実性が増しているはずです。不確実性に関しては、痩せることも頭打ちになりますが)
ちなみにイタリアでは、摂食障害で亡くなったモデルの事例を受けて、過度に痩せすぎのモデルを広告に使用することを禁止しています。
一方、日本女性のBMI平均値は低く、マネキンの体系は細く、少し体重が増減しただけで安易に言及しますが、これらはとても危険だということです。
上記はあくまでも私見ですし、環境を語ったに過ぎません。例えばですが、本格的に発症する前に自助会のようなものに参加していたらどうなるのか等、考える余地はあるように思います。

治療に関して
医療刑務所のところで触れましたが、「痩せる⇒痩せることそのものが報酬」という条件付けを、いかに外すかということをしているのだと思います。
命の危険がある状態から、食事のことしか考えられない状態、そこを乗り越えて、意識レベルがどのくらいになれば、対話型への移行が有効になるのか等は、今後明らかになっていくのかもしれません。尊厳死の導入にも足踏みし、命を守るということが至上命題だとされてきた過去もある日本の医療、日本人の思考ですので、強引な手段も許容してしまうような思考が、まだ残ってしまっているのかもしれません。
ただし、もし密室で不適切な医療行為があるのだとすれば、その是正も必要となることでしょう。(暴行による死などもってのほかですが)
そもそもですが、「キ○ガイ」という言葉が放送禁止用語となった背景には、つまり精神疾患患者を、社会一般は差別的に見ていたという過去があったということでもあります。故に、現在でもまだ、人権を軽んずる風潮が、幾許か残っているということは、あるのではないかと思います。そのことが、初期受診を妨げている可能性もあるでしょう。
8割の医師が対応を嫌がるという話もありましたが、医師の態度の問題は、過去にも議論されました。過去の記憶からですが、そもそも「命を預かる」ということをまともに受け止めて、医者が感情に振り回されては困るといった意見もあり、では患者と接触するコミュニケーション専門の人間と高度な医療技術、医療知識を持った医師とで役割分担をしてはどうかという話も出ました。しかし、結局のところ病院経営も締め付けが厳しくなり、そんなことを言っていられなくなったというのが現状なのではないでしょうか。
もう一点、もう10年くらい前ですが、保健所の先生に取材した際に、今は薬の性能が上がっているため、カウンセリングよりも投薬治療が主になっていると伺いました。コミュニケーションによる力が、疎かになってしまっているのではないかという気も正直してしまいます。
もちろん、志を持ってやっていらっしゃる医師もたくさんいらっしゃると思いますし、だからこそJAED(日本摂食障害協会)という団体が立ち上がったのだと思います。
刑務所などでは、ケアサポートや自助会が、刑期中に干渉できるようになったという話を、今回の講演で伺いましたが、では私立病院でそういったことは可能なのでしょうか。
自由競争の原理と異なり、「緊急措置入院」の場合、患者に選択権ありません。経営のために長期入院させているのでは? みたいな疑いを抱く人もいるでしょうし、その払拭に行政がどうアクションするのか、みたいなことは、どうしても当事者の関心事になってきます。
一般の人に置き換えると、何らかの事故に巻き込まれて救急搬送されたら、とんでもない病院にあたってしまったことを想像していただければ、少しはわかるでしょうか。意識があるのに意識ナシと診断されて、みたいなことがもしあったら……ということです。
10代での発症が多いとなると、どうしても多感な時期ですし、体感時間で言うと、実は19歳が人生の折り返しだ、なんて話もあったりします。そういった時期に、いかに病気をなくしていくかというのは、世界的な課題だと思います。

  • まとめ

・今増え続けてきている「摂食障害」のことを知ろう(全世界で7000万人以上)
・自分の意思でやっているのではなく、薬物の禁断症状(離脱状態)に近い衝動的なもの
・衝動的だから食べ物を万引きをしてしまうこともある
・認知の歪みが発生して、痩せた自分を見ても太っているように思えたり、茶碗半分のご飯が大盛りに感じてしまったりする
・拒食と過食を行ったり来たりして心身がボロボロになる
・行ったり来たりしているため、体型で判断はできない
・10代の女性の発症が多い(男性も発症する。生まれや育ちは関係ない)
・でもダイエットが根本原因ではなく、ストレスが原因
・ストレスの原因や治り方は十人十色だから、医師に頼るだけじゃなくて自分でも原因を見つけるアクション(マインドフルネス等)していくと良い
・今は当事者、そして家族の自助会等があるので、そういったところに行ってみるのもいい
・完治する病気
・母親が悪いって昔の本には書かれていたけど最近の研究ではそうでないことがわかった
・30代、40代にさしかかって、自然と治る人もいるし、10年、20年と戦い続けている人もいる
・社会がダイエットを肯定し過ぎているというのも大きな原因のひとつと言われている
・患者にも当然人権があるということ、症状があるだけで同じ人間であるということを忘れないで

※最後にひとつ言い訳めいたことを。僕は講演を聞いた際、この記事を書こうと決めておりました。
本当は自助会のオープンミーティングを傍聴したかったのですが、説明書きがありまして、本音で話すため、中で語られたことは持ち出し禁止と書かれていました。なるほど、まず安全を確保しなければ、そりゃ腹の内は出さないよなと思ったと同時に、それを聞いたうえで僕が長文でテキストをアップしたら、いい気はしないだろうなということと、例えばそこで耳にした内容と僕が元々思っていた内容が重複したらよくないなといった考えがあり、参加は遠慮させていただきました。
ですので、以下の記事は10:15の調査報告から、14:40くらいの皆さんのシュチョーまでの内容から、書かせていただいております。

冗談や言い過ぎが通じないとき

会話とはキャッチボールだと言われる。
キャッチボールとは、相手がキャッチできる球を投げることで成立する。
例え本人がそのつもりでも、相手が「剛速球を顔面に投げてきやがった」となれば、それは一方的な言葉であって、会話ではない。

  • 冗談について

冗談とは、言葉を言葉通りに受け取らず、そこに込められた裏の意味を伝えるということになる。冗談が通じないというのは、言葉通りに受け取ってしまうということになる。
これはいくつかパターンがあって、普段冗談を言わないような人が冗談を言うとき、その冗談は通じないことが多い。それは、その人が冗談を言うというコンテキストが共有されていないためだ。
あるいは、冗談だとわかっていても、敢えて言葉通りの意味で受け取ることで、暗に「ふざけるなよ」と伝えるパターン。
そして、そもそもコミュニケーションに冗談を考慮に入れていない人には、冗談は通じない。
では、冗談はどこで生成されるのかと考えると、子供の他愛のない嘘からなのではないかと思う。悪意のない嘘、という体験から、冗談というところに行きつくように思う。

  • 冗談が通じない人には言い過ぎも通じない

さて、「そういうつもりで言ったんじゃなかった」は、冗談だけではなく、感情に任せて放ってしまった言葉についてもそうだ。
怒りに任せて出た「帰れ!」で帰ってしまうとか、そういう感じの。
ただ、そういうのは、従順な人程そうなのではないかと想像してみる。
先生の言うことをききなさいとか、基本的に「従う」ことを子供は求められているなかで、冗談や言い過ぎが通じる人は、言葉のなかにある茶番性に気付いているんだと思う。母親が怒ったとき、このワードが出たら折れておかないと面倒になるとか、そういうことが要領としてわかっている。
一方、従順な人はなまじ従順なので、そういうことが少ないのではなかろうか。同時に、反逆の機会も少ないのではなかろうか。
「帰れ」で帰るのは、唯一、従順を維持しながらとれる反逆行動であって、普段それがとれない人ならば、反動が大きく出てしまうこともあるように思う。
更に、そこに自身の利害というか、損得勘定が入らない感覚の持ち主だとしたら、自滅をもって相手に抗議することを厭わないのではないだろうか。
そう考えると、「冗談が通じない」=「純粋」などとは言えないなぁと、ふと思ったりしたのだった。
冗談も言い過ぎもコンテキストなので、これは「国語のテストをたくさん受けましょう」みたいなのが、実は正解だったりして、それもまた洗脳的だなーと思うのだった。

「個性」という言葉は恣意的に使用される

  • あらゆるマイノリティ特性を「個性」という言葉で表現していいかどうかというのは、誰にも決められないことだと思う。(結論)

ということで、結論から書いてしまいますが、LGBTにせよ、発達障害にせよ、左利きにせよ、視力の悪さにせよ、それを何と位置付けるかは、結局個々人の中でしかないものです。思想の自由があるわけですし。逆に、社会や多数決が決めるものではないと思っています。「個性」という言葉の範疇が広いため、それほど意味を為さないという意味で。
でもって、言葉というものは恣意的に解釈されるものです。「てめえ」という乱暴な言葉の元が、「手前」という丁寧な言葉から翻ったもの、という話は耳にしたことがあるかもしれませんが、まあそんなものです。皮肉としての「個性的な人だね」なんて言い方もするわけです。それが常にポジティブな意味を帯びているものではないです。
マイノリティであることに直面したときに、いろんな状態があるかと思います。例えば、何が問題なのかが全くわからない状態、問題はわかったもののそれを受け止めらえる心の余裕がない状態、問題を呑み込んで前に進もうとする状態。その状態によって、マイノリティであることを何と呼ぶかも変わってくるように思います。完全に問題から逃げていた人が、過程として、まずはマイノリティであることを知覚するために、それを個性だと思い込もうとすることは、誰も咎められないように思います。一般化しちゃうのはよくないですけども。
と、ここまでは当事者の話。
では、マジョリティにとって、それは感心のあることなのか、という問いが出てきます。答えはNOだと思っています。関心を得ようとすると、安易な感動ポルノになってしまうということもあります。それは、マジョリティがマイノリティの付き合い方を知らないということに尽きるのだと思います。人と人なので、画一的なマニュアルがあっても問題なわけで、僕はそこに対して、圧倒的に文学が足りていないのだと思っています。マジョリティ同士でも、相手のことは大半わかりません。その推量を可能にしているのが、結局のところ文学の存在のような気がしています。なので、これからマイノリティの人々が、優良な文学を世に広めていければ、あるいはマジョリティもどう接していいのかがわかってくるのではないかと思います。ただ、今や文学は死に体だとも思っていますが。
今、パラリンピックの開催国になろうとしているに際して、国がこれまで蓋をしていた問題に対して、改善を図らなければならないという動きをしているということだと思います。急速に理解を深めようとすれば、歪みが出てきてしまうこともあるかと思います。国は体裁を整えることが目標なので、当事者の利益とは必ずしも合致しませんし。
話はぜんぜん変わってしまいますが、阪神の震災をきっかけにまとめられた、ボランティアのマニュアルを見たことがあります。そこには、被災者の心理状況の推移が書かれており、ある種とても文学でした。
ちょっと話を戻して、例として「視力」を挙げたのは、これが「誰でも起こりうる」「技術で解決できている」ということで、便宜上「メガネキャラ」的な個性に行ったものということです。コンタクトの人もいますけれども。レンズのない時代で視力が極端に悪ければ、盲目に準ずるハンディキャップとなったことでしょう。ただ、発達障害のいくつかが理解され、適材適所的に配置され周囲から理解される事例みたいなことは、メガネの事例とは若干異なっているように思います。また少し飛んだ話をしますと、黒人が被差別者だった頃、同じ人間でありながら、人間扱いをされていなかったということがありました。そういう感覚に近いものが視線としてありますし、彼らを理解するには、文学が足りていないと思います。LGBTの方々に対する視線もそうですね。ハンディキャップを持った方々に対してもそうです。
自らの体験をそのある種の文学とするには、労力がかかってしまうというのが、マジョリティの本音でしょう。
ただ、人間はどうしようもなく何かを残そうとしたり、表現したりしようとしますし、技術は表現の手助けをするということは確かです。あるいは突然ベストセラーが世に出て、全てを解決する文学が生まれる可能性も0ではないと思っています。
それまでは、画面越しではなく、自分の眼で見たものを中心に、まずは考えていくしかないんじゃないかなと、そのように思いました。

精神保健福祉法改正案を取り巻く問題

先日、縁あって初めて委員会の傍聴をしてきました。議題が「精神保健福祉法改正案」です。
健常者の多くの方は、自分とは関わりのない世界の話、という感覚かもしれませんが(実際、以前の僕もどこか他人事なところがありましたが)ひとつには立法の在り方についての問題、もうひとつには人権の問題、さらにもうひとつには、精神衛生を取り巻く環境という三つの点で、誰しもが当事者になりえる、自らに降りかかってくる可能性のある問題、ということを前置きとして書いておきます。

  • そもそもどういう法案なのか

http://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/soumu/houritu/193.html
ここの上から四番目の法案です。
変更内容をざっくり言ってしまうと、
1.患者の人権の保護
2.患者が移転しても適切な医療を受けられる体制づくり
3.支援地域評議会の設置
4.問題のあった精神保健指定医制度の見直し
5.医療保護入院の患者の意思の介在
ということになります。
大原則として、法律というものは、恣意的に解釈されます。つまり、「明確に書かれていない箇所に関しては、都合のいいように解釈して良い」ということがあります。
1で人権への配慮を謳ってはいますが、2の移転後も医療を受けられる状態にするためには、個人情報を移転先の自治体に送らなければなりません。3の評議会に警察関係者が含まれないという記述もありません。
監視カメラ問題でもそうですが、プライバシー(人権)の問題と、安全の問題とは、相反することがままあります。盗聴法等もそうでしたが。
医療では、患者の回復を最優先させるという原則があります。例えば精神的に追い詰められて麻薬に手を出した患者がいたとして、その治療を優先させるため、警察に通報をしないことが可能となっています。(信頼関係を損なった状態での治療は難しいばかりか、裏切られたというストレスで、自殺をはかる可能性があるためです)この法の記載にも「医療の役割は、治療、健康維持推進を図るもので、犯罪防止は直接的にはその役割ではない。」とあります。

  • 法改正の背景

津久井やまゆり園で発生した「相模原障害者施設殺傷事件」をきっかけに、安倍首相が同様の事件を繰り返さないために、ということで始まった改正でした。事件当初、被告人に措置入院歴があったため、その後のケアの問題とされたため、この法改正になったという流れです。
しかし、調査が進むに及び、実は被告人に診断されたのは、「大麻精神病」「非社会性パーソナリティー障害」「妄想性障害」「薬物性精神病性障害」ということで、大麻使用者をめぐる一連の対応に問題があったことが原因であって、この事件を法改正の動機とするのは適切ではないということになり、法の文面に付記される予定だった相模原障害者施設殺傷事件への言及を削るという事態になりました。
もうひとつは、精神保健指定医の不正の問題です。
https://www.m3.com/open/iryoIshin/article/471367/
101人が不正を行い、89人が指定取り消しになったという事態を受けて、先の4番のように改正することになったということです。指定医に関しては、後でもう少し詳しく。

精神疾患の入院は、3つに分けられます。
医療保護入院
 →公権力の責任で行うものではなく病院と家族の意思に基づく「強制」入院。認知症以外の場合、強制でありながら、明確な入院基準が存在しない。(極端な例を挙げてしまえば、家族と医師が結託すれば、健常者でも入院させられてしまう)入院期間に制限がない。
 →判断が可能な家族または後見人や保佐人がいない場合、所在地の市町村長の同意で入院となる。
 →平均入院日数は53.1日
・任意入院
 →本人の同意で入院する場合。ただし、入院を否定しなかったということでも任意に含まれるので、必ずしも自らの意思で病院へ赴き、ということではない。
措置入院
 →自傷、他害の可能性がある場合、都道府県知事(または政令指定都市市長)の権限と責任において強制入院させるもの。
 →医療費は公費負担となる。
 →平均入院日数は88.2日
入院件数については、以下の厚労省のデータを参照。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/eisei_houkoku/13/dl/kekka1.pdf
入院患者の11%が転院を行うとのこと。
本来の治療行為に関わらない入院のことを「社会的入院」と言い、家族が退院を望まなかったり、あるいは本人が外の生活に不安を抱いたりということで、半世紀近くそのような状態になってしまうということも珍しくはないという。

日弁連のpdfの18ページにある通り、国連の拷問禁止委員会より、精神疾患患者への拘束に対する勧告が出ています。
https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/kokusai/humanrights_library/treaty/data/UNC_against_torture_pam.pdf
監禁や拘束は、刑罰としても問題視される向きもありますが、それを非犯罪者に執行し、且つその判断を下すのが、一人の「精神保健指定医」ということが問題としてあります。
更に、先の「相模原障害者施設殺傷事件」での判断ミス(本人に責任能力がある状態なので、警察との連携や、薬物依存者専門の機関への取次が必要だったと言われています)、101人の不正者、89人の指定取り消しを出した問題、また指定医の講習が座学のみ5年に1度だけ行われるといった体制の問題から、それだけの裁量を与えていいのか、入院の基準を設けなくていいのかという議論があります。また、仮に措置入院や保護入院を裁判に見立てるならば、刑罰に近い処遇をされるにあたって、弁護人に相当する人が存在しないということも、問題視されています。
また、障害者権利条約(障害者の権利に関する条約)に日本は批准しているため、それに対しても違反しているのではないかという指摘もあります。(13Pの(6))
https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/civil_liberties/data/2014_1003_01.pdf
自由権規約人権委員会でも、入院に際して、地域密着であること、最終手段としてのみ拘束を行うこと、虐待防止、拷問の禁止を謳っています。(14章)
https://www.nichibenren.or.jp/library/ja/kokusai/humanrights_library/treaty/data/liberty_rep6_pam.pdf

  • 精神医療審査会の意義

精神医療審査会とは、各都道府県にあり、訴えに基づいて入院や患者の処遇の妥当性を審査する機関です。
しかし、平成27年でいうと、18万3千件の入院手続きがあったのに対し、たった3件のみ入院不要の判断を下しているという状況です。処遇改善申し立ての実行に関しても横這い状態で、不服申し立て機関として、効果的ではないという見方もあります。
そもそもですが、こういった不服申し立てや処遇改善について、権利要綱を患者へ通知する義務が病院側にありますが、それも守られていないという状況もあるようです。
外部連絡を制限されている状態では不服申し立てができないため、外部連絡制限をしてしまうことの問題もあります。
一方で、弁護士が介入したら措置入院を解除されたという事例もあったりするようで、審査会の意義が問われています。
また、看護師による患者への暴行致死事件がありましたが、そういった事件の抑止も、本来的には期待されるのではないでしょうか。
施設の抜き打ち調査の実施等、権限強化が必要なのではという声もあります。

  • 退院後支援について

精神障害者支援地域協議会(個別ケース検討会議)によって退院後の支援計画を作成する義務が法で定められています。作成義務であって、それを受ける義務はないとしています。
この協議会の構成員は、帰住先の保健所設置自治体、入院先病院、通院先医療機関、本人・家族、その他支援NPO団体、福祉サービス事業者等から構成とされており、この「等」に警察が含まれないことが明記されていないこと、精神疾患患者の犯罪率が高いことをもって、監視対象にされる可能性について、患者側は危惧しています。委員会質問でしきりに濁しているところをみると、厚生労働省側に、警察を介入させたいという思惑があると思われても仕方がないかと思いました。
また、支援計画は、転居後には以前の計画を参照しつつ、変更される(その地域で協議会にかけられる)ということのようです。自治体によって、施設の充実度合いにバラつきがあるようです。
支援計画策定義務を根拠とした個人情報のやりとりに関して、患者は懸念を示しています。病気に関する細かな情報の漏洩は、個人の尊厳を著しく貶める結果になりかねないようです。
この支援計画は、作成義務であるため、海外移住を一時的にでも行うと、そこで途切れることになります。

  • 地域包括ケアシステムの活用という案

地域包括ケアシステムとは、高齢者増大に伴う諸問題を、地域で解決するために策定されているものです。
http://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/hukushi_kaigo/kaigo_koureisha/chiiki-houkatsu/
退院後支援は、この枠組みの中に含ませる方がいいのではないかという意見もあります。

  • グレーゾーンについて

グレーゾーンとは、序盤で少し説明した、「例えば精神的に追い詰められて麻薬に手を出した患者がいたとして、その治療を優先させるため、警察に通報をしないことが可能となる」ことのような事例を、「グレーゾーン」と言っています。こうしたグレーゾーンの患者のケアに警察が介入することで、治療が遅延、後退してしまうことを、患者だけでなく、医療従事者も恐れているようです。
こういった事例があった場合、担当医が自治体に報告するかの判断を行います。そして、自治体の最終判断があり、警察と連携をするという流れになります。そのことで、担当医が患者から逆恨みを受ける可能性というものは否定できません。この、「報告の判断をさせる」ということが、逆恨みを受ける原因となるため、現行では結局のところ、刑事事件に医療を巻き込む構造的な欠陥があるということになります。

  • まとめ

事前知識がほとんどなかったので、傍聴の最中も、これを書いているときも、知恵熱が出そうでした。
上記はまだ全ての問題に言及したとは言えないと思います。
イタリアでは、精神疾患患者に対するひどい状況がありましたが、現在では精神病院は撤廃されています。
http://ci.nii.ac.jp/els/contentscinii_20170522171208.pdf?id=ART0009878151
それ以前に、アメリカやイギリスでも、そういった運動が起こっています。
「総活躍」というと、とかく女性の社会進出に目がいってしまいますが、病気をした人にも再び社会生活が送れる、労働ができる機会をということも、「総活躍」ということになるかと思います。
諸問題が山積し、それが絡み合っているような状態でもありますが、まずは、こういったことを「知る」ことから始めて、できるだけ多くの人に問題意識を持っていただければいいなと思いました。

ポケモンGOに思うこと

玩具として、レゴが優れているといわれる所以は、その遊び方の多様性や拡張性をもってそう言われるんだと思う。ツールの利便性が想像力を大きく妨げないというか。
でもって、ポケモンGOですけど、「ジムバトル」「育成」「発見、捕獲」「コレクション」というのが、元々のゲームにある、ゲームの面白さ。それに対して、属人的な面白さとしての、ARでポケモンと写真を撮る、話題の共通項となる、というところ。あるいはGPSゲームにおける、「普段行くことがなかったところに行く動機」「普段全く気づかなかったスポットの発見」。他にも例えば、「ポケモンランニング」みたいなイベントを立てたら集まる可能性だとか、ひきこもりがゲームをきっかけに外に出てみたとか、二次的な効果もあると思う。
レゴも、ただ単品があっただけでは何の面白さもないわけで、そこに想像が加味されることで、面白さを感じるのだと思います。
それは、カニを食べるときに、食べやすく調理されたものよりも、殻をはがしながら食べる方が美味しく感じる様子にも、少し似ているような気がします。敢えて素材のままに近いものを出す的なところで。
調理されたものを出されたときに、他の料理に転化することはしませんが、イチゴをもらったら、「ジャムにしようかなー」という余地があるという意味で。
そんなわけで、「ゲームが楽しい」という側面ももちろんありますけれども、「面白がれる素地がある」ということが、今回のゲームでは大きいのではないかと思っています。今後、まーフォトコンテストは絶対開催されますよね。短時間で何匹集められるかの競争もあるでしょう。大きさの競争があるかもしれません。ポケモンビンゴなんて遊び方もあるでしょう。
そういったことが、このゲームの魅力だと思うのです。
最後に、僕が一番このゲームで気に入っているところを紹介しますと、それは先にも少し触れたGPSゲームという側面です。普段通らない一本向こうの道に行く、あるいはスポット登録されたところに、普段全く気づかなかった面白いものがあるということで、文字通り現実が(仮想方向だけでなく)拡張していった感覚がありました。これに関しては、そのスポット形成を担った「ingress」のユーザーのセンスの良さを素直に賞賛したいですし、感謝したい気持ちです。
願わくば、事故なく、楽しい思い出に包まれるようなゲームに、ユーザー自身がしていければなと思う次第です。

本というメディア

  • 「本」というメディアの権威性

「本」という分野は、知識の伝達を担ったという、過去のとても大きな功績があるわけで、やっぱりどうしても権威的な側面があるように思います。
その界隈の方に「読書に関して、電子デバイスを用いることで、既存の読書体験では得られないものを提供できるのでは?」という話をすると、だいたい「おまえはわかってない」みたいな反応をいただくことが多かったです。実際、当初やってたことは、紙の本の「再現」に拘っているように見えましたし。

  • 中の人との「本」に対する認識の差

ノスタルジーだとか、ただ文字に向き合うストイックさとか、なんか若干マラソンを趣味にしてる人とかの心境に近いものが多分あって、「自転車どうっすか?」「バイクもいいっすよ?」と言っても、「自分の足で行かないと意味ない」って返ってくる感じでしょうか。
趣味で走る人はそれでいいかもしれませんけども、じゃあ日本人全員がマラソンを趣味にするのかといえばそうではないし、今まで移動手段として仕方なく徒歩だった人が、乗り物もあるよと言われたら乗るし、サイクリングやツーリングを趣味にする人だっているよということのように思います。
まぁ、貸し本屋がレンタルビデオ屋にとってかわられたときに、そしてインターネットが普及したときに、とうにそこに気付いてたのに、見て見ないフリしてただけのような気もしますが。それは極論を言えば、ある意味でおばあちゃんが半ば趣味でタバコ屋とか駄菓子屋とか銭湯やっているのと、ほぼ同じことだと思います。

  • 「本」の各種役割

「本」とざっくり言ってしまっていますが、それが雑誌なのか漫画なのか小説なのか、はたまた辞書や写真集、料理本等、租借のポイントが異なるように思います。
提供側は、そのシーンをきちんと想定して、ベストなソリューションで提供できているのでしょうか?
例えばですけれども、料理本ならば、汚れないように防水処理を施してもいいかもしれませんし、本ではなく、作りたい料理の紙ペラ一枚を、冷蔵庫に貼り付ける仕様でもいいかもしれません。
時刻表等は、完全に携帯での検索が有利になってしまいましたね。地図も同様でしょうか。紙よりも、google mapのマイマップデータ等をシェアしてくれた方が、僕はありがたいです。
そういったところを、本当に考えていますか? 本という体裁に拘りすぎてませんか? と思うことは、僕が編プロにいた頃から思っていたことではあります。
 

  • 「本」に関わる人は職人気質が多い気がする

「本」という形式を何故残したいのかというときに、まぁ大きな業界ですし「業界を維持したい」という、営利団体として健全な気持ちと、「でも本というかたちに拘りたい」というある意味相反する感情があるように感じます。後者は、この業界が結構職人気質であるところがポイントのような気がします。
Webの記事は、後修正が簡単にできる分、校正がとても甘いです。まぁでも「巧遅は拙速に如かず」の言葉の通り、速さにかなう価値というのはなかなかないのですが、びっくりするような誤字脱字が当たり前のようにあります。掲載もとても簡単です。
しかし本になると、今の真逆なことが発生するため、そこにはライティングのプロ、編集のプロ、校正のプロ、印刷のプロ、プロモーションのプロなど、いくつもの職人さんが関わってきます。失敗が致命的になる分、彼らはより矜持を持って、職人気質にならざるを得ないところがあると思います。こういったところにも、「誤字だろうが読めればいいじゃん」的なライトな読者層との価値感の開きが出てしまうポイントのように思います。ガチ読者はその一点で興ざめになってしまうこともあるので、切実だったりするのですが。

  • 「本」を続ける意味

主に小説等の話になりますが、文字だけで想像力を喚起するというのは、確かにとても知的で尊い行為ではあります。わかりやすく俗っぽい話をすると、「官能小説」というものが成立するあたりが、人の形而上の素晴らしさでもあると思います。今のポルノに溢れた世界からすると、モノも見ずに文字だけで欲情できるというのは、人の想像力のたくましさと、人間の「状況」だとか「シチュエーション」あるいは「台詞」に対する、フェティッシュ性の現れでもあります。
そのレイヤーを理解する人口が減ってきていることへの危機感もわかります。でも、押し着せはよくない。寧ろ、どう他のメディアを使って、読書の面白さ、素晴らしさに誘引したらいいか、そういったことを模索したらいいのではないかと思います。
まーでも、ロードオブザリングから指輪物語への誘引とかは、割と人を選びますけどね(笑)ミヒャエルエンデのネバーエンディングストーリーとかは、本のギミックの素晴らしさもあるし、映画からの誘引もしやすかったのではないかと思います。最近テレビで流れなくなっちゃいましたが。
あと、国語の授業等で、読書の下地ができていない子に、「ほれ面白いだろ」と読ませても全く伝わらないので、「このときの心情」とかを聞くのではなく、もう少し「何が面白いのか」という視点で工夫したらいいのではないかと思います。まー、教育全般に言えますけれども。

  • どうせなくならない業界じゃないですか

というわけで、くどくど書いてしまいましたけれども、人も企業も、「驕れる者久しからず」です。売れなくなった理由の分析なんて、既に済んでいるのでしょう。基本的に、あの界隈は賢い人々の巣窟ですし。
図書館に新刊おろすのやめるとか、読者側というよりは、業界内の保守層を牽制するために言ったことなのではないかとも思います。
時代が進もうが、この分野が全く無しになるということはないですし。
個人的には、想像力豊かな層が増えていったらいいなと思いますし、「本が売れるから想像力豊かな人が増える」ではなく「想像力豊かな人が増えるから、本が売れる」という思考でいって欲しいなと思います。
って感じ。