そいとごえすの退避ブログ

2019-02-21 はてダから移転。

『セックス・スフィア』

退屈はしなかったが面白いとも思わなかった。自分の趣味には合わない。15年ぶりの再読なのだが前回読んだ時の記憶は残っていない。アクション映画のパロディのようなクライマックスの展開と唐突なオチもまったく覚えていなかった。前回は途中で投げてしまったのかもしれない。

マッドな科学者の実験によって三次元空間に足止めされてしまった高次元生命体バブズ(多様に変形するがとりあえずは小さな球体)と物理学者の主人公と原爆テロを企むテロリストたちが繰り広げるドタバタSF。帯には「正調マッドSF」とある。正調というのは作者ルーディ・ラッカーがまっとうな物理学・数学の知見に基づいて高次元生命体のあり方を設定し描いているという程度の意味なんだろう、たぶん。
書名に「セックス」とあるのは、この生命体が人間に対してエッチなアプローチをするから。かなり露骨な描写が次々と出てくるがあっけらかんとしていてエロさはほとんどない。
趣味が合わないというのは、この小説、登場人物の造形が薄くストーリーもかなりラフなんである。例えば、主人公の妻や義父が後半冗談のような変貌をとげる(正体をあらわす)のだが、前半部で伏線を張ってないから先の見通しのないまま週刊誌連載を始めてしまったマンガ家がひねり出した苦し紛れの後出し設定みたいになっている。ひどいことに最後は収拾をつけぬまま放り投げるようにして終わる。尻切れになるのは途中で想像がつくのであまり腹は立たないのだが。

作者は「はじめに」で、


 本書は、高次の次元と性愛とに関する小説です。後者について、多くの説明は必要ないでしょう。ある種の読者の目に異常と映ることがあるとしたら、それは唯一、わたしがセックスと愛とを、男性の視点のみならず女性の視点からも描いている点につきます。性差別主義への反対をあらかじめ前提として組みこんだおかげで、シュールかつコミカルな効果をもたらす視点から、わが主人公の性行動を誇張して描くことができたわけです。
(『セックス・スフィア』、p.11、ルーディ・ラッカー、ハヤカワ文庫SF)

と胸を張っているが、私は、作者の性愛観には妙に古臭いものを感じた。
以下ネタバレ含む。


高次元生命体バブズはある手段を用いて三次元空間から解放される。しかしすぐに本来の世界に帰ろうとはせず、人間たちを高次の世界に導こうとする。男たちは受け入れる。女たちの多くはこれを拒絶する。

なぜ自分を受け入れないのか、とバブズに問われ主人公の妻シビルは答える。


「その張型(はりがた)をなんでつっこませないのか教えろっていうの?」
 巨大な黄色頭がうなずいた。
「なんでそんなことするわけがあるのよ。人間がついてない、ただの部品じゃないの。そういうものでも、男は用が足りるかもしれないけど、女っていうのは……」
「女だじのほんどうの望みはなんなんだ?」
 ジグムント・フロイトがしてまわったのとおなじ質問。このエイリアン侵略者が、いまだにこんなまぬけな質問をしなければならないんだとしたら、人類にもまだ希望が残されているかも。
「それがまだわかってないんなら」とシビルはもう一本たばこに火をつけて、「あたしたちをひっかきまわすのはやめてちょうだい」
(同上、p.264)(太字部分は原文では傍点)

古臭いというより浅はかな男女観・性愛観だ。女だって、「人間がついてない、ただの部品」でも用が足りるだろ。あるいは、女がそれでダメだというなら、男だってそんなもの、本当の望みではないよ。馬鹿馬鹿しい。

まあ、本当の望みではないが。バブズの分身がうちに現われたら受け入れる用意はある。

セックス・スフィア (ハヤカワ文庫SF)

セックス・スフィア (ハヤカワ文庫SF)