【第5回】1945年8月 ハルピンにて
山崎倫子という女性がみえます。
医師であった彼女は1945年8月9日のソ連軍の侵攻を、勤務していたハルピン医大付属市立病院で迎えます。
日ソ中立条約が結ばれていた為、まさかソ連が侵攻してくるとは夢にも思っていなかった彼女ら同病院の医師・看護婦は、今後の対応に迫られます。
軽症患者は自宅に帰し、重病又は引き取り家族のない患者は満州人医師に託すことにしましたが、問題となったのは余命幾ばくもない確実に死期が迫っている患者の扱い。
彼女らは、敵に放置される前にその患者たちを死に至らしめる話し合いさえします。結果的に実行はされませんでしたが。
この部分だけを切り取れば「なんて非道な!」と現代人は思うでしょう。
しかし同時にこのことを銘記しておくべきでしょう。彼女ら医師や看護婦にも求めに応じて、青酸カリが配られたことを。
勿論、その場に「集団自殺」を強要する軍隊はいません。軍隊どころか普通の男たちさえ殆どが招集され、完全に無防備状態だったのですから。
そして戦争終結後。
彼女らに「先だっての死」を意識させた通りの地獄絵図が幕を開きます。
50万を越える見捨てられた開拓民家族、難民化した一般住民、結核チフスの大流行、幼い子どもたちの餓死、そしてロシア兵に暴行を受け中絶手術に並ぶ女性たち。
しかしこの極限状況の中で、まだ20代だった彼女は、ロシア語を完璧に操り、現地ソ連軍司令官らと交渉し、ハルビン市に国際病院を開設、自らの命を賭けて医師としての使命を実践し、現地日本人の生還に大きく貢献しました。
帰国後は、荒廃した日本の地域保健・公衆衛生の発展に大きく寄与し、日本女医会会長も長く勤め、日本汎太平洋東南アジア婦人協会会長、国連総会政府代表、日本国内ユネスコ委員など国際的な分野で活躍。日本で初めてのグループホームを私財をなげうって開設しています。
これだけ肝の据わった彼女の血筋の原点を手繰れば、なんと勝海舟に突き当たります。
彼女は勝海舟の三男、梶梅太郎の孫で、海舟にとっては曾孫に当たる人物なのです。
ここで注目して頂きたいいのは「強要する人間が誰一人としていないのに、生命を救うべき医師である彼女らが、ごく自然に患者の安楽死と、自分たちの自決を意識していた」という点です。
そして現実にソ連軍に侵攻された地域においては「死にも劣らぬ地獄絵図」が繰り広げられたと云うこと。
沖縄戦での結果だけをみて、とあるノーベル賞作家を筆頭に、最初から思考のバイアスがかかっている人々、そして「最初から結論を決めつけている」マスメディアはこんな結論に達するのです。
「降伏すれば助かったのに、なんで集団自殺なんか。きっと日本軍が強要したからだ。いや、日本軍の指揮官が虐殺したに違いない」と。
勿論、大前提として無謀な戦争に突入した国家に責めがあることは否定しません。
降伏するくらいなら死を選べ、と貴重な戦力である筈の軍人をみすみす死ぬように教育した軍隊が正しい筈もありません。
普通の生活をし、普通の精神状態をしているならば、誰も好き好んで自殺なんてしません。
集団自殺に追いやられた人々を作り出したのは、確かに国家であり、軍隊です。
ですが、現在のマスコミは、敢えて忘れたふりをしています。
鬼畜米英を叫び、戦争突入を叫んだ当時のマスコミを、
そのマスコミの報道を信じ、国に開戦を迫った当時の国民たちの存在を。
マスコミは現在進行形で、二重の過ちを犯しています。
太平洋戦争開戦前、自らが国民を駆り立てたことを隠蔽しているということ、
現在においては、当時の状況を敢えて曖昧にした上で、一方的な断罪を加えると云うことを。
彼らを表現するのに一番相応しい言葉はこれではないでしょうか?
「恥知らず!」
(続く)