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2017-09-10

オタクとコミュ障と差別と多数者による侵略

| 23:01 | オタクとコミュ障と差別と多数者による侵略を含むブックマーク オタクとコミュ障と差別と多数者による侵略のブックマークコメント

統計も取ってなければ歴史的経緯の裏を取ったわけでもない個人的観測と憶測記事です。

昔からもやっと抱えてきていた問題に、ここ数年で自分としては整理ができてきました。

飲みやtwitterで少し垂れ流すこともあるけど、どうしてもとりとめがなくなるのでここでまとめます。


まず論旨だけ簡潔に。わかりにくい部分は後ほど補完。


  1. オタク」という定義不明の単語が使われる源流には排除の意識がある。本質的にはコミュ障の排除。オタクという言葉が変遷する中で見えにくくなっている。
  2. コミュ障は基本的に少数者で、人間の多数派はコミュ障を無意識的に迫害する本質を持つ。
  3. コミュ障は治らない。コミュ障を明確な障害者として社会的に位置づけたほうが良い。
  4. コミュ障の救済として、対人スキルが不要もしく最小化できる娯楽・コミュニティがある。
  5. それが何かは社会と時代と変わる。現代日本では小説、漫画、アニメ、ゲーム等だった。
  6. 娯楽が醸成され、エンターテイメントとして質が向上してくると、多数者がそれを消費し始める。
  7. コミュニティで標準的なコミュニケーション力が要求され始め、コミュ障は排除される。

概要は以上。


以降はこう考えるにいたった個人体験とか観測とか見解。

長いです。




オタクと括りたがる属性の本質

オタク関連のニュースとかtwitterタイムラインを見るたびに、

そもそもオタクの定義って何?それを定義してから話したら?」と苛立ちます。


苛立ちの主因は、「オタク」と括りたがっている多数者は無意識的に排除を目的にしているから。

「自分たちとは違う=普通じゃない」

という図式が透けて見える。

そしてそれに括られるのがイヤなんじゃなくて、多数者が排除したい本当の属性を包み隠す形でオタクという括りが使われるから。


オタクを自称する側もなんで自分をオタクと括るんですかね。

オタクって括り、いりますかね。


括りはいる。ただ、本当に括るべきはオタクという言葉じゃないんじゃないかなー、って。




俺はオタク自認がありません。

もしかしたら差別用語として出て来たとか、そういう経緯を見て来た忌避感もあるかもしれませんが、漫画が好きだのアニメを見るだの、そういう行動様式で括っても意味ないだろ?と思うからです。


俺の一番特徴的な気質は、「何か作りたい。俺が作ったもので人に驚いて欲しい。俺が一番だ。俺が正しい。」かなと思ってます。

(もちろんそれなりの年齢なので、自分が一番でないことも、正しくないことも知ってます。気質の問題です。)


とにかく常に何か作らずにはいられない。

小説、ソフトウェアTRPGのルール、動画、こういう記事。


自らオタクだと自称している人たちを見ていても、コンテンツを消費してるだけでもオタクだという人も多いです。

まったく行動様式が違う。


アニメやマンガを好きならオタクなの?

時間をたくさんつぎ込んだらオタクなの?

一つのことにとにかくこだわったらオタクなの?


小説は?映画は?鉄道は?将棋は?プログラミングは?

自転車は?武道は?肉体改造は?日曜大工は?車は?


実は用語としてのオタクは若干定義されていたりもしますが、世間様がそれに従ってくれるわけでもない。

オタクって、すごい便利な、「何を根拠差別しているのか」を包み隠す言葉として機能してませんかね?


マニア、ネクラオタク、コミュ障、陰キャ。

時代変遷で領域を変えつついろいろありますけど、一番正解に近い「言葉」はコミュ障でしょう。


この文ではコミュ障の定義を

他者との交流に対する欲求が少ないもしくは能力が低いことによって、社会集団の多数側に所属しにくい、排除されやすいという障害を持つ」

としておきます。

「人と話そうとするとどもるとか緊張して話せない」だけではなく、「話そうと思えば話せるけど社交的な会話が嫌い」「話すのは得意だけど人の感情を受け取れない」というのもコミュ障だっていうことですね。

言語障害を含む医学的な「コミュニケーション障害」の定義があるようですが、それとは異なります。


世間コミュニケーション障害がある人間、つまり世間コミットしない/できない人間を排除したい。

これを明確に意識してから、俺はすごく生きやすくなった。

はっきり排除の原理が示された社会のほうが、世のコミュ障にとって幸せなんじゃないかなー。


俺がいまになってやっと理解したように、コミュ障はそもそもこの暗黙の了解に気付くことができない人が多いので、まだ気づいてないけどもやもやしているコミュ障の人の理解の一助になればと思ってこの記事を書いてます。


健常者の暗黙の趣味「人付き合い」

何年か前に人間の第一の趣味は「人付き合い」で、あまりにも普通すぎるからそれは趣味として認識されない、という言説を見て、目からボロボロと鱗が落ちました。


その瞬間に、

なんで学校でも会社で何人か連れだって食事するのか、

なんでずっと人のうわさ話をしているのか、

これまでの人生で理解できなかったいろいろなことがつながりました。


そうか。みんな仕方なく人付き合いをしてるんじゃなくて、

人付き合いが「したい」のか。


2010年頃に、人間の欲求生存、性、所属、尊敬、独立、消費、成長の7つに分けて心の動きをシミュレートするTRPGのルールを作っていました。

ルールとして作ってはいたんですけど、理解していなかった。

その瞬間やっと「あ、所属欲求が高いってそういうことか」と理解できた。


もちろん俺にも所属欲求はあるんですけど、そのレベルが違う。

そもそもみんなにとって人付き合いが一番大事なんだ、ということに、40いくつまで年齢を重ねてはじめて気付いた。


俺はTRPGのルールを作って、数字の挙動が現実と一致するのを見るまで理解できなかったわけです。

ひどいコミュ障ですね。


社会的動物の特徴

で、人付き合いが好きな人々っていうのは、そもそも多数者です。


生産力の低い社会では人間はそうでなくては生きていけなかった。

そしてつながる人間こそが子を為すわけだから、仮説としては淘汰もそちら側に有利に働く。


つながらないことは社会にとって「悪」ですよね。

だから人間の持つ様々な性質の中でもコミュ障っていうのは忌避すべき、忌避しなくても自動的に排除される特性ということになります。


意識するかしないかは別として、健常者はコミュ障に生理的嫌悪感を感じるでしょう。

私も言葉の通じない相手に対しては、害がないとわかってても嫌悪感を感じるので。

(もちろんそれを表に出すかどうかは別です。)


無意識の嫌悪の積み上げは対象に不利な社会的ルールとして現れます。

暗黙のルールこそが健常者、コミュニケーション強者の強味です。

健常者は暗黙の基準に従わない人に、「あの人は常識を知らない。私たちはあの人とは違うよね」と実に楽しそうに噂話をします。

自分たちが普通であること、「世間様」の一員であることの確認にもってこいですよね。




コミュ障という障害者

私の家族にも友人にも、鬱で適切な社会的対応がとれなくなった人が何人もいます。

深くその状況と向き合わなきゃいけないことも何度かありました。


会社でどう注意しても、人に言われると、やってはいけないことをやってしまう人がいます。

人から苦情を言われると、頭が真っ白になって、反論することができず、言われた通りのことをしてしまう。


会社でとてもコミュニケーションの苦手な人がいました。いなくなっちゃったけど。

俺とはそこそこ話せたので、コミュ障を馬鹿にする健常者との軋轢で捻じ曲がった部分は多いです。


俺のいまの結論は「知的な能力、社会的な能力は向上しない」です。


もちろん、骨折が治るように、治る心の病もあります。

ただ腕が切れれば生えてこないように、治らない心の病もある。

生まれつき目が見えない人のように、生まれつきあいさつのできない人間もいる。


手や足がなかったり、目が見えなかったり、耳が聞こえなかったりは、みんな「治らない」ものとして認識します。

生きやすいとは言えない社会ですが、「サポートしようよ」という合意も取りやすい。


知的な能力は学力テストがあるので認識されないわけではないけれど、社会的な能力はまだそうした共有される評価軸や体系化された教育がない。

「誰でも人付き合いはできるはず。直せるのに直さない人はおかしい。」と認識される。

目に見えず、計測されず、みんなはできるのが当たり前だから、できないのは本人の努力だと思ってしまう。


目が見えない障害者を社会が障害者としてサポートするなら、あいさつができない障害者も社会がサポートしないと辻褄が合わない。


肉体的トレーニングがそうであるように、知的・社会的トレーニングは無意味ではありません。

でも脚のない人に這ってマラソンしろ、とは言わないでしょう?


鍛えられること、改善できることはあるし、できないところもある。

改善できる素体能力のない人の社会的対応が悪い、常識がない、ってバカにするのは差別ですよね。


オタクキモイ」っていっても世間様的には笑って流されますけど、「障害者キモイ」っていったら大炎上ですよ。



コミュ障と相性のいい趣味や職業

小説・漫画・アニメ空想上の物語で社会や人間関係を取り扱う趣味はコミュ障と相性がいい。

ひとりで過ごせる時間、空想上での感情移入による所属欲求や尊敬欲求の充足。

現実と比較した時の情報量の少なさ。単純化と強調。


そして、特定の趣味に傾倒した場合、同じ趣味の相手とは話のすり合わせが少ない。

健常者は天気、相手の近況、芸能・スポーツと「多数とコミュニケーションするための社会的最大公約数の話題」を駆使しながら距離感を作っていきます。

コミュ障はこれができない。俺は必要性さえ認識できなかった。

他者が「自分とは違う」ことが理解できない。

だけど、特定の領域に強く興味を持つ相手であれば、いきなりリビドーの制御をせずに、好き(=自分)を話し始めても受け入れられる可能性が高い。


コミュニケーションに割く脳の情報処理が圧倒的に少なくて済みます。


また、ゲームというのもひとつの回答で、できることが決まっている=現実と比べて扱う情報量が少ない。

選択が相手に影響を与えるのであれば、それは簡略化された言語によるコミュニケーションです。

相手の応答の意味を考えなくてはいけない現実よりも少ないコストで明確な反応が得られ、コミュニケーション欲求、所属欲求が充足できる。


さらにTRPGは現実の人間を自分の前に長時間拘束して話を聞いてもらうという特性を持っています。

人に向けて口を動かして言葉を話す、というのはコミュ障が精神的には苦手でありながら、肉体的には快楽という行動です。


私の観測では、自分も含めて、昔のTRPG界隈にこうした人物は多かったと思います。

いわゆる困ったちゃん問題の本質はここにあるんじゃないですかね。




従って、オタクという言葉が差別的に成立したというのも、アニメ・漫画好きだからオタクなのではなく、いまで言うリア充的集団から排除されたコミュ障が多く集まり、集団としての社会的適合性が低いことへの嫌悪感から差別的な認識がされるという相互作用の結果じゃないの、と思うわけです。


コミュ障は自らを被差別者として自認するという傾向も見えますが、雑駁になるので割愛。


そしてクリエイター研究者という仕事もコミュ障と相性がいい。

なので、多数者が興味を持たない場所で、迫害されて鬱積されたエネルギーが技術やコンテンツを育てるという構造もあります。


オタク=コミュ障なんじゃなくて、コミュ障が多く集まる場所や職業がある。

別に全員がコミュ障なわけでもないし、コミュ障の程度も現れ方もいろいろある。




無自覚な侵略と排除

昔の漫画やアニメを見ると、結構目を覆わんばかりの荒い話も多いです。

その時代に作られていた映画はもっと質がいいし、小説はさらに。


ひとつひとつの作品の話ではないです。

時代の変遷でエンターテイメントは質が向上し、情報量が増え、快感の費用対効果があがる、という話。


そしてコンテンツがブラッシュアップされ、泥臭さ、コミュ障臭さが薄れた先に、人付き合いが趣味の健常者が、人付き合いのための話題としてそれらを使う時代がやってきます。


インターネットもそうなりましたし、アニメではジブリがわかりやすかったですね。


ライトオタクという言葉ができたり、オタク差別用語じゃないと言われ始めたり、人付き合いを普通にするけどオタクなんですと言ってみたり。

これ、「健常者がオタクになった」とか「オタクが増えた」んじゃないですよね。

コミュ障が逃げ出した先で、差別された情念を煮詰めて作り上げてきたエンターテイメントを、健常者が「オタクなんです」って名乗って消費するようになったってことです。


そして、ゆっくりと、あるいは急速にコミュニティに健常者が増えます。

すると、コミュニティでの人付き合いのルールがコミュ障のルールから健常者のルールに変わります。

これに逆らうことはできません。

なぜなら健常者はコミュニケーションすること、つながりあう専門家であり、コミュ障はその能力を持たないからです。


こうしてコミュ障は安息の地を追われます。

健常者は「なんで?いていいんだよ?」と言います。

無自覚に高い社会的応答を求めつつ。


いまのTRPGシーンとか、アイマス界隈とか、ソシャゲとかみてて、パイが大きくなって人付き合いを「したい」人が増え、一定の常識とか社交性を求められたりしてるのを見ながら、「んーw」と半目になっちゃうわけですw




ちょっと未来の話

ようするに何が言いたいかというと、

「コミュ障は差別されるし治らない。

 俺は自分がなぜ差別されるのかを理解するのにすごい時間がかかった。

 早く教えてくれよ。もっと生きやすかったかもしれないのに!

 あと、コミュ障の生きやすい社会(矛盾)にならないかな!」

ってことですね。


恨み言ばかり言ってても仕方ないので、前向きなほうを。


心の病というのはあるんだよ、というのがやっと社会に受け入れられるようになった昨今、もっと人間の心の仕組みがわかる時代が来ますよね。

目が見えない、腕がないと同じように、他人の話を聞く能力がない、共感する能力がないみたいに、欠損している機能が明確になって、誰でも見えるようになると世界が変わるのかもしれません。


この数年、VR、AIと来て、このあと人間社会を変えていく技術がバーッと出てきて楽しみで仕方がないです。


ただ、TRPG欲求値とか社会的関係性とかのルールを組んでいると、多様性の維持という錦の御旗こそあれ、人の生産性社会貢献度が数値化される世界はどうなるんだろうなぁ、と考えます。

正直、根拠のある差別という着地点もあるのかもなぁ。生物的にはそうだよねー。とか。

ただ数値化を煮詰めてると、これ個人の数値じゃなくて集団の数値じゃないのということもよくあって、人間とロボット境界があいまいになる未来には、アイデンティティーの解体からスタートかねぇ、とか思ったりもします。


まとまらないけど、書きたいことは書いたのでどっとはらい