TRPGは嘘の遊びだ。
「もし願い事がすべて叶うとしたらどうする?」
俺の世界の根本には、いつからか、常にこの命題が横たわっている。
なぜなら、GMにはキャラクターの望みをすべて叶える権限があるから。
「戦闘で死んだ仲間の蘇生を!」
「はいはい蘇生魔法ね」
「このルールでは蘇生魔法のない世界観だけど、1回だけのキセキを!」
「はいはいいいですよー」
「ウイッシュリング?!どんな願いでも叶うの?」
「ルール上制限があるけどね、えーと」
なんだそれ。
なんで魔法にルールがあるんだよ。
ルールで定義できるならそれは科学だろ。
いいじゃんね。
キャラクターが永遠の命を願ったら永遠の命を獲得すればいいし、世界全てを願えば与えればいい。
別にファンタジーものじゃなくたって、うちよそだって、物語構造を持つものであれば常に同じだ。
判定なんてしなくていい。
「次の願いは?」
「次の願いは?」
「次の願いは?」
だいたいこれを100回も繰り返せば、キャラクターは沈黙する。
本当にすべてが叶うから。
「世界と一つになって、すべて自分の思うとおりに」
「なったよ。今後世界は君の考えたままに、考える前に、すべてそうなっている」
頭の回るキャラクターならこうだ。
「先の見える人生などごめんだ。
俺の人生は俺が決める。
おれが死ぬときに、ああ、幸せな人生だったと思えるようにしてくれ。」
キャラクターはウイッシュの使用を忘れ、幸せに人生を終える。おめでとう。
単にウイッシュの力を捨ててもいい。
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ところがプレイヤーは面白くない。
キャラクター作成をした第一話でキャラクターは幸せな人生を終える。
一度ウイッシュを捨てたあとに襲う困難は、
そこに本当の苦悩があるのであれば、ウイッシュを捨てたことが頭をよぎる。
もちろん、それを自分の選択として誇ることもできる。
けれど、多くの人はそうではない。
煎じ詰めれば、TRPGは、冒険の、挑戦の、つまり障害に対する選択の遊びだから。
プレイヤーの深層的なウイッシュは
「キャラクターに障害が降りかかること。
解決不能と思われる障害を
すぐれたプレイヤー能力 / 世界からの寵愛
で克服すること」
だからだ。
ここで言う「世界からの寵愛」とはGMのことではない。
本当の寵愛とは、プレイヤー自身が世界に選ばれたものであること、幸運に恵まれること。
つまり「ダイス目に恵まれること」だ。
自分が幸運だと感じることは、人間にとってとても幸せだ。
幸運とは世界そのものからの絶対の承認。
ガチャの中毒性はここにある。
ノーコストで解決可能な障害は障害ではない。
障害を克服したときの快感は、プレイヤーが感じている障害の大きさに比例する。
単純に帰結させるなら、障害を大きく見せて、
まるで解決不能な課題をプレイヤーが解決したように見せればよい。
GMにはそれが可能だ。
例えルール通りに処理しても。
プレイヤーがGMより愚かなら。
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プレイヤーがGMより愚かでなければ?
挑戦のリスクを計算し、より効率的な選択肢を取り、80%の勝利を引き寄せる。
やったね。計算通り。
楽しい。時間効率も良い。大人の対応だ。
でも、10%の障害を乗り越えた快感にはかなわない。
5%の障害を乗り越えた達成感には及ばない。
1%の、
0.01%の、
数億分の1の奇跡を引き寄せたときの自己肯定感、
記憶の鮮烈さには達しない。
100個ならんだ80%の勝利と、
1つだけ輝く0.8%の勝利。
あなたはどちらを望むだろう。
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嘘はプレイヤーに見透かされる。
予定調和は見抜かれる。
それでもなお、奇跡への到達を望むなら?
成功率50%:失敗率50%の出来事が、10回成功したときだけ辿り着ける局面。
到達率は0.0098%。
選択肢の中で、わずかな解釈の変更で、1%だけ。
成功率を51%に動かせるとするならば。
言葉の表現、描写の調整、時系列の順序で、
成功率51%のできごとを、
成功率50%と感じさせることが出来たなら。
そんな遊びをしたりしていなかったり。