長友佑都

長友 佑都(ながとも ゆうと、1986年9月12日 - )は、愛媛県西条市出身の日本代表、セリエAACチェゼーナ所属のサッカー選手。ポジションはディフェンダーサイドバック)。明治大学政治経済学部卒業。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 生い立ち
1.2 大学時代
1.3 FC東京時代
1.4 海外移籍後
2 エピソード
3 所属クラブ
4 個人成績
5 経歴
6 個人タイトル
7 代表歴
7.1 試合数
7.2 ゴール
8 脚注
9 関連書籍
10 テレビ出演
11 関連項目
12 外部リンク
来歴 [編集]

生い立ち [編集]
スポーツ一家に生まれ、母方の祖父は日本競輪学校の第1期生である元競輪選手の吉田達雄。達雄の弟で、昭和30年代に競輪の一時代を築いた名選手であった吉田実は大叔父にあたり、彼らは「吉田3兄弟」として知られた存在であった。長友自身も「サッカー選手でなければ競輪選手になっていた」と語っている。父方の祖父も明大の元ラガーマン[2]。
小学校1年生時にサッカーを始め、6年次に愛媛FCジュニアユースのセレクションを受けたが合格できなかった[3]。西条北中学校時代に恩師である井上博に出会う。中学1年次はサッカーの練習に身が入らずにゲームセンターなどで遊ぶ事が多く井上に連れ戻されることもあった[4]。ここで現在の豊富な運動量のベースが作られ[3][4]、サッカーの強豪東福岡高校に入学し2年生時にレギュラー入りしたが、地区選抜などには選ばれず全国的には無名だったためスポーツ推薦を得られず、進学先の明治大学には指定校推薦で入学した。高校時代の同級生には近藤徹志ラグビー日本代表の豊田将万[5]などがいる。
大学時代 [編集]
明治大学入学直後に椎間板ヘルニアを発症し、試合に出場できずスタンドで応援する日々が続いた。長友の叩く応援太鼓はスタンドの話題となり鹿島アントラーズのサポーター集団IN.FIGHTから勧誘を受けるほどだった[6]。サッカーができないストレスでパチンコなど遊興に溺れた日々もあったが、実姉や大学の同窓生の叱咤激励もあってこれを乗り越えることができたと語っている。大学2年次の2006年にサイドハーフから右サイドバックにコンバートされた。明治大学所属時の神川明彦監督は長友をコンバートさせた理由について、フィジカルの強さ、走力、攻撃の完結力を生かすためであると語っている[7][注釈 1]。3バックで臨む際にはセンターバックを務めたこともあった[9]。ここから急速に頭角を現し、全日本大学選抜やユニバーシアード代表にも選出された。大学の2年先輩に小川佳純と福田健介、同学年には藤田優人林陵平橋本晃司などがいた。
2007年3月28日にFC東京小平グランドにておこなわれた明治大学FC東京との練習試合におけるFWのリチェーリとのマッチアップが当時の原博実監督などFC東京関係者の関心を引き[10]、FC東京強化部で明大サッカー部OBである石井豊から神川監督の元に「原監督が使いたがっているんですが…」という電話連絡があった[11]。神川が長友の将来を考えて了承し、5月から特別指定選手としてFC東京の練習に参加する事となった[12]。7月8日のナビスコカップ準々決勝で途中起用されJリーグ公式戦デビュー。さらにU-22日本代表として北京オリンピックアジア二次予選マレーシア戦に選出された。U-22日本代表は二次予選第5戦終了時点でアジア最終予選進出を決めていたため、第6戦のマレーシア戦は消化試合となっており、新戦力を発掘するための代表選出だった。この試合では右サイドバックで出場し、突破からの先制点に加えてPKを獲得するなどの活躍を見せた。
FC東京時代 [編集]


FC東京時代
大学卒業を待たずしてプロに進むことを決意し、2008年に大学には在学したままサッカー部を退部しFC東京と正式契約を結んだ[13]。3月のJリーグ開幕戦から、前年までのレギュラーだった金沢浄らを押しのけてスタメン出場を果たす。4月12日の東京ダービーでは、当時ゴールを量産していたフッキについて「超人ハルク対ゴリラ。絶対に押さえます!」と述べ試合でもフッキを抑え込んだ。 5月には岡田武史監督率いる日本代表にも招集された。5月24日のキリンカップコートジボワール戦にフル出場して代表初キャップを記録。さらに同年の北京オリンピック日本代表にも招集され本大会に出場した[14]。しかし、同大会では、後に「余裕がなかった」「思い通りのプレーはできなかった」と語っており[15]、チームも3戦全敗に終わった。11月13日のキリンチャレンジカップ・シリア戦では先制のミドルシュートを決め代表初ゴールを記録した。 FC東京加入後の主ポジションは左サイドバックであったが、同年後半には、城福浩監督は、FC東京のその時点でのチーム状況や対戦相手の選手の特長によって、右サイドバックを主としていた徳永悠平と長友を左右入れ替えて起用した[16]。
2009年からは土斐粼浩一フィジカルコーチとともにアップダウンの質の向上を目指し走法の改良に着手[17]。運動量と、強靭なフィジカルを活かしたスピード感のあるプレーに磨きをかけた。同年12月に日本代表の特別講師を務めた川本和久からは、代表選手の中で唯一長友だけが「文句なし」のランニングフォームであると評価された[18][4]。同年後半からは攻撃の駒としてサイドハーフに上がり、SBには椋原健太らが投入されるという起用法も見られ[19]、ナビスコカップ勝戦で勝利するなど、ユーティリティー性を発揮しタイトル獲得に貢献した。
2010 FIFAワールドカップ日本代表にも選出され、本大会のグループリーグ全三試合に左サイドバックでスタメンフル出場を果たした。第1戦カメルーン戦ではサミュエル・エトオを徹底マークし完封、第2戦オランダ戦においては途中出場したエルイェロ・エリアのポジションに合わせて右サイドバックにポジションチェンジするなど「エースキラー」として活躍し日本代表の決勝トーナメント進出に大きく貢献した。同大会から国際サッカー連盟FIFA)が導入したレーザー計測によると長友の「トップスピード」は第1戦(カメルーン)では時速30.13キロ[20]、第2戦(オランダ)では同26.70キロ[21]と、両試合共に対戦相手を含めて最速を記録した[注釈 2]。
ワールドカップでの活躍が評価され、この年の7月にセリエAに20シーズンぶりに昇格したACチェゼーナへ買い取りオプション付きでのレンタル移籍をした(チェゼーナマッシモ・フィッカデンティ監督からは、2009年夏にFC東京の試合を観戦したことをきっかけに注目されるようになり、ワールドカップ以前から高い評価を得ていた[24])。FC東京退団セレモニーの際は「みなさんと別れるつもりはありません。世界一のサイドバックになって、また青赤のユニホームを着たいです」と語り、サポーターから拍手でイタリアに送り出された[25]。
海外移籍後 [編集]
チェゼーナでは自ら希望した背番号5を付け[注釈 3]、左SBとして開幕戦(対ASローマ戦)からフル出場。テレビ解説を務めたジュゼッペ・ベルゴミからは「常に相手の動きを読み、絶妙に距離を詰めてサイドのスペースを埋めていた」と高評価を得た[27]。セリエAでの経験から、トップレベルの相手に対する間合いの取り方を体得。走力、フィジカルの更なる向上の手応えを掴んだ[28]。フィッカデンティ監督は「長友は左右どちらもいいが、ポゼッションとビジョンの点では左の方がいい」とし[29]、ルカ・チェッカレッリ(en)などが右SBに入るときは左SBに、マウリツィオ・ラウロ(en)などが左SBに入る時には右SB(試合展開によっては前線に入る)にと両サイドで起用。11月21日の第13節USチッタ・ディ・パレルモ戦ではチェゼーナ加入以来初となるアシストを決めた[30]。
12月18日の第17節カリアリ・カルチョ戦までフィールドプレーヤーではチーム唯一の全試合フル出場を続け、ロレンツォ・ミノッティ強化部長は「(長友は)とてもいいプレーをキープしており、人間的にも素晴らしくロッカールームを団結させる存在」であるが[31]、翌月開催のAFCアジアカップ2011に参加するとセリエAには8試合前後の欠場が見込まれるとして、同大会への代表招集を見合わせるよう要求[32]。しかし、日本代表側も長友を招集する意向を崩さず[33]調整の末、招集にこぎつけた。
2010年9月より、東京中日スポーツに近況報告を兼ねたエッセイ「月刊長友佑都」を掲載中。
エピソード [編集]

明治大学在学中に教職課程にも通った。卒論のテーマは「イギリス文化研究」[34]。
祖父も明大政経学部出身。
U-22代表に選考されたきっかけは、2007年1月初旬に明大の神川監督が同大の1年後輩であり当時U-22代表のコーチを勤めていた江尻篤彦に「どうしても見て欲しい選手がいるので、だまされたと思って一度(長友の)プレーを見に来て欲しい」と連絡し、総理大臣杯準々決勝を江尻が視察に訪れたことがきっかけとなった[35]。神川は「(後輩の)江尻がコーチでなければ電話はできなかった。直接話せる人がそういう立場にいることはなかなかないし、運命だった」と語っている。
大学を1年残して退部しFC東京とのプロ契約を決断した理由の一つに、「女手一人で自分を含む3兄弟を育てる母に経済的に早く楽をさせたかった」事を挙げている[36]。また、同様の理由から一流企業への就職を目指し就職活動の準備もしていた。
2010年2月、FC東京がキャンプ地としている宮崎県都城市の特派大使に任命された[37]。同市は、父方の祖父の出身地でもあり、名前の「佑都」もここから付けられた。5月には、既にFC東京選手会および城福監督が口蹄疫被害への義援金を同市に提供していたが、個人としても義援金を提供[38]。
地元愛媛県の久万高原天体観測館職員中村彰正は、自ら発見した小惑星(登録番号158241)に『Yutonagatomo』と命名している[39][40]。
くりぃむしちゅーの番組をDVDに録画し、2010 FIFAワールドカップ南アフリカに滞在中視聴していた。
好きなアーティストはEXILEモーツァルト。好きな女性タレントは堀北真希上戸彩。2010年7月にはイベントで堀北と対面を果たした。
2010 FIFAワールドカップで活躍したことで、エムデータ社によるテレビ露出量の調査で日本代表選手および代表監督の中で、岡田監督(第2位)や本田圭佑(第3位)を抑えて第1位のテレビ露出量となるなど[41]、知名度を上げた。