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2016-07-20

永田カビ『さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ』

 いま現在わたしの周辺で流行っている本といえばこれ。お友達にもバイトの後輩にも勧められた。酷暑の予想される今夏、レズ風俗ウェーブの到来を肌で感じずにはいられない。

 本作はレズ風俗レポという題をもっているが、実際のところ、作者(20代女性)の半生総括というべき内容となっている。総括というのは単にこれまでの出来事を直線的に羅列していくだけに留まるものではなく、それらが作りだす絡みあった糸のまとまりをほぐし、一つの物語として纏めあげる作業である。この物語の頂点は、いうまでもなく、レズ風俗だ。話が進むにつれ、彼女が抱えてきた難点が意味づけされ、来たるべきレズ風俗へと向う物語が構成されていくのを、わたしたちは目にすることになる。そのプロセスは巧みに作り上げられているので、この作品の納得感はきわめて高い。それを演出する小道具、とくに、異常なほど人格者であるパン屋店長をはじめとする周辺人物や、オナホ的質感で表現された「母という概念」みたいなメタファー的表現は、簡潔にして出色の出来といってよい。こうなると気になってくるのは、これほど器用に自らの来しかたを総括した作者が、これからどのような作品を描いていくことになるのか、ということだ。そればかりは今後の活動を注視していくしかないのだけれど。

 さておき、本作で注目すべきは「とりあえず誰かに抱かれたい」心情がページを贅沢に費やして描かれているということである。抱いてくれる人がいないという喪失感を表現しようという作家の努力に、毎晩ベッドの上で掛け布団をぎゅーっと抱きしめて寝ているわたしとしては、敬服せざるをえない。このごろ暑くなってきたので布団をタオルケットに替えたのだが、このボリューム感の下落にわたしのハートは対応しきれていない。抱きしめるという行為を性的な領域に閉じ込めてしまった我が国の文明は、大きな負債をかかえ続けているのである。

 ところで、同性である女性に抱かれたいと思うこと、そしてレズ風俗に行くことについて、自分が性別に属する人間として規定されることに対する抵抗感が、作中で理由に挙げられている。これは、じつに共感できる説明である。ただ、共感できるからといっても、わたしは男に抱かれたいと思ったことはない。わたしは、誰かに抱きしめられたいと常々思っているし、自分が男として定義づけられるのが嫌だが、だからといって男に抱かれたいと思ったことはないのである。わたしの理想は一つ。わたしが女性に変身して、女性に抱きしめてもらうことである。このような幻想を抱く男がどれだけいるのか分からないが、ここには男女の非対称性が存在する、とわたしは考えている。同性に抱かれることで、男女という泥沼な二項対立を解体できるわけではない。少なくとも理屈のうえでは。

2015-12-01

エロは三日で慣れる

 どこかの地方自治体で巨乳を大公開したポスターが問題になっているそうである。それのどこが問題かって、ポリティカル・コレクトネスとか色々な論点があるのではないかと思うが、やはりこれがアウトだった最大のポイントは、ワイシャツの第二第三ボタンがまるでもともと存在しなかったかのように堂々と開放されていたところにある。清純そうな巨乳美人が何ごとかをアピールしているポスターなど街を見渡せばどこにでもあるようなものだし。

 この件に関して「この画像を見てまずいと思わない人はエロ画像の見過ぎ」みたいな意見があったのだが、まったくその通りであると思う。私はその画像を見て何も思わなかったからである。そして、その原因は間違いなくエロ画像の見過ぎにある。私とてディスプレイから飛びださんばかりの巨乳を見てこれは性的なものだと思わないわけではないが、そこに実感として生理現象を引き起こすようなエロティシズムは存在しないのである。それがどういう感覚なのかというと、だいたい発情期の動物を見る感覚に似ている。私の近所にはちょっとした池があって鴨のたぐいが群れをなしているのであるが、ある季節がやってくとそいつらが目をギラギラさせながら子孫を残したいという欲求を顕わにする。グワッググッと声にもならぬ声を上げながら異性を追っかけまわし、しまいには後背位で交尾をはじめる。それで私は、閑静な住宅街でこんなことをやられては困るなあ、子どもには見せられまいと思うのであるが、下半身が反応したり、家に帰ってそれを自家発電の燃料にしたりすることは当然ないわけである。私がポスターの巨乳を見たときの気分は極めてこれに近い。

 むろん私は常識人であるので、自治体に勤めていてポスターを企画する立場だったとして、おっぱい丸出しイラストは発注しないと思う。12月にもなって第三ボタンまで外れている巨乳をエッチだケシカランと考える人がそれなりにいるということは、少なくとも想像できるからである。これはなんだか不思議だ。実態がどうであるかに関わらず「株価が上がると考える人が多いだろう」と多くの人が考えることで株価が実際に上昇するという現象と似ている。

 ここまで読んで、巨乳を見ても何も思わない私のような人間が生まれつきエロに対する感度が鈍いと思っている人がいるかもしれないが、そんなことはない。私もエロによって鍛えられたのである。私にはスカトロ趣味があるが、それでも、排泄物を見るのが気持ち悪くてしかたがないというときがあった。興奮している間はこれ以上無いほど魅力的なものに見えているのだが、ひとたびビッグウェーブが過ぎ去るとひどく見にくく思われ、ついでにそれに興奮している人間が存在するという事実さえ厭わしく感じられてくるのである。だが、経験を重ねるにつれてそういう嫌悪感は薄れ、いまではチョコ片手にCCレモンを飲みながら排泄物を鑑賞できるし、並大抵の排泄物ではなにも感じないようになった。結局、すべては慣れなのである。エロくあるために欠かせないのは希少性であるが、どこまでが希少でどこからがありふれているかというのは、各人の環境によるというほかない。

 今回のポスター問題に対する最も良識的な意見は「エロに関する基準はさまざまなのだから話合いながらどこまでがセーフか妥協点を見つけるべき」といったところであると思う。だが、日々変動するエロに関する基準に一時的な妥協点を見つけたところで何になるのか。

 問題は巨乳がさらけ出されているポスターがあるなどというチャチな点にあるのではない。世の中で行なわれているキャンペーンの多くがいかにも清純そうな女性モデルを採用していること、たとえば、公共福祉に関する広報の多くが、父+母+黒髪膝丈スカートの女子校生サッカーボールをもった男子小学生のようなステレオタイプ(と思われている)写真を採用しているというところにある。おっぱいが出ていようがいまいが、そんなことは副次的な問題であって、今回のポスターがセクハラか否かみたいなレベルで議論している人は、むしろ問題の根を浅く見積もりすぎている。

2015-11-29

アイドルの歌唱力は落ちたのか

1.

「最近のアイドルは昔より歌唱力が落ちた」と言う人がいる。

 そういう人たちの多くが「昔のアイドル」として頭に浮かべているのは、松田聖子中森明菜といった80年代アイドルだろう。たしかに彼女たちは歌が上手かった。ところが、80年代の後半になっておニャン子クラブが登場し、高校生の部活レベルの歌唱力で学芸会のような音楽をまき散らした。以来アイドル界はダークサイドに堕ち、現在の音痴AKBにいたる。

 というのが「歌唱力が落ちた」と考える人の多くに共有されている歴史観であると思う。要するに秋元康死すべきというわけである。

 おニャン子クラブの歌唱力が河合その子城之内早苗といった一部の例外を除き壊滅的であったというのは揺るがしがたい事実だし、おニャン子の原石ほうり投げ感やら、小泉今日子なんてったってアイドル」あたりがアイドルのあり方に一定の影響を与えたというのもおそらく事実である。

 そうだとしても、80年代後半を境にしてアイドルの歌唱力が低下したというのまで事実かどうかは、かなり疑わしい。

 そもそも、聖子・明菜は歌が上手かったとして、他の連中はどうだったんじゃいという問題がある。


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北原佐和子「マイボーイフレンド」(1982年


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原田知世時をかける少女」(1983年)


 原田知世は映画出身でしかもこれ以降どんどん歌唱力を上げていくし、北原佐和子80年代アイドルのなかでもマイナーな部類だから、この挙げ方はかなり恣意的である。それでも、80年代初頭のアイドルが下手でもデビューできたことを示すには十分だろう。というか、「歌がシロウトっぽくてかわいらしい」っていうのは80年代前半においてもアイドルの美点であった。

 結局、昔のアイドルでも音痴な人は音痴だったし、今のアイドルも上手い人は上手い、という当たり前のような状況が現実なのではないか。もちろん、昔のアイドルの平均値と今のアイドルの平均値を比べて議論することはできるだろうが、そういうのは昔の若者と今の若者を比べてどっちがクソか議論するのと同じくらい無意味であると思う。

 とはいえ、そういうふうに議論することができないわけではない。たとえば、「スター誕生!」(71-83年)の存在がアイドルの最低ラインを底上げしていたのではないかという話がある。「スター誕生」という番組はかなり厳しい予選を課していたので、音痴はデビューできなかった、というわけ。あとは、ピッチ補正ができるようになったから録音がいい加減でもよくなり、生歌が下手になっているという説も。事情はもうちょっと複雑なのではないかという気がするが、そういうこともあるのかもしれない。


2.

 ところで、ここまで「歌唱力」ということばを特に断りなく使ってきたのだが、このことば自体、「楽譜通り歌える力」と「音楽を表現できる力」とを曖昧に混合したものであり、扱いが難しいのである。

 岩崎宏美は「歌唱力」の最も高いアイドルとしてしばしば名前が挙がる。そして、その中でも歌唱力の高さが遺憾なく発揮されているのは「聖母たちのララバイ」のような歌謡曲調の楽曲とみて間違いないだろう。(もっとも、1982年時点の岩崎宏美アイドル枠に入れてよいのかはかなり微妙だけど。)


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岩崎宏美「思秋期」(1977年、「聖母〜」の動画は当時のものが見つからなかったので)


 文句なしに上手い。オケもパリっとしてすぐれている。こういうのを「歌唱力が高い」っていうわけである。

 で、ここで岩崎宏美とたとえば松田聖子の歌唱力を比較し、前者の方が上であるというとき、ここで使われた「歌唱力」ということばは、松田聖子の歌唱力が原田知世よりも高い、というときの「歌唱力」と同じ意味であるのか。

 松田聖子原田知世を比べたときの「歌唱力」はたんに音程があっている・声が安定しているといった技術の問題であった(わたしが前半で使った「歌唱力」もさしあたりその意味のつもり)。一方で、松田聖子岩崎宏美で比べられる「歌唱力」にも、声質の豊かさや柔軟さといった比較的技術的な問題が含まれているには違いないが、中心となるのは「表現力」の問題である。そして、その「表現力」なるものを説明するのは難しいのだが、なんというか、すぐれて「NHK歌謡コンサート」的なものであると思う。こんなこと書いても何も説明したことにはならんのだが。

 女性アイドルの世界は中森明菜あたりを最後に「歌謡コンサート」とは別の道を邁進している。だから、岩崎宏美の歌唱力を凌駕するアイドルがいまだ現われないという主張は正しい。第二第三の紫式部が現代に登場しないのと同じように正しく、同時にとくに意味がない。


3.

 歌唱力ということばは伸縮自在の多義性を秘めており、一種マジックワードだといえる。が、どのような歌が良いかという価値判断に対する基準は多様になっており、このことばの守備範囲でなんとかやっていくのも今では難しい(たとえば、きゃりーぱみゅぱみゅの「歌唱力」は高いのか?)。

2015-10-14

高見知佳を一人で聴く会

 高見知佳は1978年から1985年にかけて歌手として活動したアイドルです。

 大きなヒット曲こそあまりないものの、楽曲提供者はかなり多彩で、筒美京平馬飼野康二西島三重子加藤和彦高見沢俊彦EPO長渕剛矢野顕子など豪華な顔ぶれ。楽曲の水準も高いです。

 ベストCDは入手困難、ネット上で聴ける音源も限られているのではありますが、この記事ではその中から6曲を紹介してみます。


怒涛の恋愛(1985年

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作詞:戸川純、作曲:矢野顕子編曲戸田誠司

 いきなりラストシングルから。戸川純矢野顕子っていう取り合わせからして既にありがてえ感じだが、とにかくことばと音の切れ味が抜群。高見知佳の隠れた名曲といえばまずはこれです。


くちびるヌード(1984年

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作詞・作曲:EPO編曲清水信之

 いちばん売れた曲で、資生堂のCMソングでした。EPOセルフカバーしたヴァージョン「くちびるヌード・咲かせます」ってのもあって、それは昔どこかで聴いたことがあったのだが、こっちでひさびさに聴きなおしてみて、なかなかエロい歌詞だというのに気づいた。


シンデレラ(1978年)

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作詞:橋本淳、作曲:筒美京平編曲船山基紀

 デビュー曲。デビューからの三曲は橋本・筒美・船山のスーパートリオが担当していました。内容的には良くも悪くも優等生的なアイドルポップスといったところだと思いますが、澄んだ高音が印象的。


少しはわたしを好きでしたか(1979年

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作詞:門谷憲二、作曲:西島三重子編曲萩田光雄

 「池上線」の西島三重子提供曲。フォーク風味がかなり濃厚なのだが、高見知佳は旋律の受け流しが器用にこなせていて、胃にもたれないさっぱりとした情緒があります。同種の曲として高見沢俊彦作曲「しのび逢い」も紹介しておきたかったのだが、YouTubeで発見できず。


ジャングル・ラブ(1981年)

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作詞:安井かずみ、作曲・編曲加藤和彦

 安井・加藤コンビの曲です。実際なんてことはない曲だと思うのだが、半月に一度くらいの頻度で突如として脳内再生されるのでけっこう危険だ。


キャベツから恋が生まれれば(1984年

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作詞:荒木とよひさ、作曲:大野克夫編曲:菊池ひみこ

 これはなんといっても歌詞が良いと思う。「キャベツから恋が生まれれば 夢だけ食べて暮らしてゆける」なんつって意味分かんないけど痛快です。ふわふわした手触りだけあって中身なし。

2015-10-08

近況(勧誘された話)

 近況について何か書いてやろうと数日前から考えていたのだが、どうにも筆が進まない。現在の私は大変な苦境に立たされているのであるが、そういう時期にはありのままにネガティブなことを書いてもがんばってポジティブなことを書いても後から黒歴史になりそうな予感がする。

 苦境に立たされている、と書くだけでは本当かどうか疑いをもたれてしまうかもしれないので、私の苦悩ぶりを証するエビデンスを示しておくと……これまでの人生において一度もデートの誘いを受けなかったこの私が、ここ二ヶ月で三回も宗教の勧誘を受けている。三回目に勧誘されたときにはさすがの私も驚き、宗教に勧誘される奴ってどんな顔しているんだろうかとトイレで鏡の中の自分を検分してみたのだが、手入れを怠った顔面は私の文学的な苦悩を体現しており、あたかも修行に励んでいるかのような雰囲気すら漂っていた。もう少し太っていれば電車に貼ってある「強運」の人くらいの貫禄が出そうだ。宗教からスカウトが来るのも当然である。

 で、勧誘されること自体もびっくりだったのだが、その勧誘のカジュアルさ加減にもびっくりした。私のイメージだと、宗教の勧誘と言えばいきなり目の前に立ちふさがってあんた死ぬわよみたいなこと言われるって感じだったのだが、全然そんなことはなかった。ふつうに「すみません」って声かけてきて「何年生ですか?」とくる。これではサークルの新歓である。私は留年して以来、自分の学年を言うたびにHPが20ずつ削られていく特殊状態になってしまったので、若干しどろもどろに「四年です」という答えを絞り出した。すると、先方はこともあろうに「じゃあ就活ですね」とか仰る。「就活って言ったね? 父さんにも毎日就活って言われているのに!」私は激怒した。激怒したが、「顔に出さない、口に出さない」というカルピスの社訓にならい苦笑いを浮かべた。

 なんというか、こう言いたくなる気持ちも分かるのだ。私もサークルの新人勧誘だったら学年とか出身地とか無難なことを訊くし、もしそれで香川県って答えだったら「じゃあうどん好きなんだね」って言うにちがいない。だが香川県民の中にも蕎麦派はいるはずで、彼らは心ない人間からうどん好き認定されるたびにHPをすり減らしてしているのではないかと思う。

 しかし、だからこそ、宗教の勧誘は「香川県民はうどん好き」式の偏見から逃れているべきなのではないか。私がこれから宗教をはじめるとしたら、蕎麦好きの香川県民も参加できるものにしたいと思う。うどん好きの香川県民であれば、たとえば、バイト先の先輩が「おう!お前香川出身だったな!近所の美味いうどん屋しってるから連れていってやるぜ」と言って駅前のはなまるうどんに連れていかれても、温玉ぶっかけうどんを食べて満腹になれる。だが、蕎麦好きならそうはいかない。はなまるうどんに入るときも、あっちのほうが良かったなーとか思いながら隣の富士そばをじっとみつめてる。でもその片思いは叶わない。彼は観念してカレーうどんなど食べ、それなりにお腹も膨らむのだが、心にはスキマがある。そういう心のスキマを埋めるような宗教だったらけっこう流行るのではないかと思う。藤子不二雄Aがすでにやってそうだが。

 なんかいつものことながら話が脱線してしまった。本当はうまるちゃんがいかにかわいいかとか、立川駅で女子校生ワイシャツの隙間から下着が見えていた話とか書こうと思っていたのだが、今日はとりあえずここまでにしておきたい。