「たとえ合理的であっても、原発は嫌だ」という立場をいかに作るか


天秤 / iyoupapa


なにがキッカケかは分かりませんが、ひろゆき氏が反原発運動についての言及を長々としており、興味深く見ておりました。


西村ひろゆきさん @hiroyuki_ni 原発問題についてツブヤク - Togetter


とにかく「合理的」にものを考える、実に彼らしい発言です。「命と金銭を天秤にかけるな!」という反原発派のロジックをそのまま裏返して「命が第一なら移住だって出来るはずですよねえ」と展開するあたりも正攻法で、大変に意地が悪い。多くの原発賛成派が彼の主張に溜飲を下げる一方で、反原発派は「誠意がない。話にならない」と見切りをつける。こうして分断は続いていくのでしょう。震災以降こんな光景ばっかりです。


ところで先のやりとりの中で僕が気になったのがこの発言。


いや、あなた納得してないでしょうよ、と。。。おおむね「感情なら文句をつけても仕方がないですよね」という程度の意味と受け取るのが妥当なところです。そしてそれは断絶宣言にも等しい*1。ただ僕にはこれが、ひろゆき氏に特有の語り口とは思えなくて*2、多くの原発推進派はかなり近い立場でしょうし、反原発派さえも実は同じ土俵に乗ってしまっている気がしてなりません。


合理性を巡っては、たしかに「何をもって“合理的”とするのか」というレベルの議論はあります。あくまで経済合理性の観点から原発の必要性を訴える立場に対し、反対派はそのコスト計算の嘘を指摘し、あるいは心理的な、いわば不可視のコストをも含めることを要求した上で「不合理だ」と主張するわけです。すると賛成派からは、「恐れる根拠のないものに対する恐怖心まで面倒見れないよ」という反論がでて堂々巡り。残念ながら、この合理・不合理論争に決着がつくとは思えません。

さらに言えば、仮に原発の合理性が認められた時、果たして賛成に転じる反対派の人間がどれほど居るのでしょう。僕はほとんどいないように思うし、だとすればそれは「理屈を超えている」わけです。したがって問題は、賛成派が(積極的に)設定する合理性の議論に反対派までもが乗ってしまっていること。おそらくそこに根本的課題があるのです*3


震災以降の一年間。頻出したのは、『感情 < 論理』図式とそれに対する批判でした。でもむしろ事態はもっと深刻なのではないか?という思いを日ごと強くしています。すなわち、現代の社会問題(原発問題に限らず)を考えるにあたって、「われわれは合理性以外の判断基準を選べない」という事態です。
合理性・客観的視点といったものは、僕たちが物ごとを判断をする上で重要な指針となります。その一方で、均質化・統計化された指標は、個別具体的な事象を隠蔽し、例外を無視します。そこに実感との乖離が生じるし、このこと自体は不可避です。ただ合理性という指標は本来、あくまでも判断材料のひとつであったはず。にも関わらず、僕たちはむしろその「正しさ」――たとえば、「リスクはこれこれに限定されるのだから、正当な判断のもとでは恐れる根拠など無いはずだ」――によって判断させられている。したがっていま問題なのは、「合理性」という強力な根拠に対抗できる「別な基準」を僕たちが持ち合わせていないことではないか。いわば「合理性の脅迫」ともいうべき圧力が、この社会にはあるように思えてならないのです。


「たとえ合理的であっても、とにかく原発は嫌なのだ」という立場はあって然るべきです。しかし共感・支持を集めるために、合理的理由を(あえて言えば)でっちあげる態度、あるいはそうせざるを得ない社会の現状には大いに違和感がある。原発問題は、そうした現代的課題を浮き彫りにしたという意味でも大きな事件だったといえるし、その克服に僕は関心を向けています。

*1:ここで「納得」には「共感」のニュアンスを含むものとして解釈しています。ひろゆき氏の場合、「理解」に近いニュアンスで用いているのだとは思います。

*2:芸風としては特徴的ですけどw

*3:ただし、コスト面から原発に対する賛否を表明する立場そのものを否定するわけではありませんし、むしろ重要です。その観点で「しか」語り得ないことが不健全だと言いたいのです。