Hatena::ブログ(Diary)

negative_dialektik はてな村出張所 このページをアンテナに追加

2009-02-24

内田樹は「壁=System=記号体系」と言いますけど?

11:36 | 内田樹は「壁=System=記号体系」と言いますけど?を含むブックマーク

 時間がないのでメモのみ。

 (前のエントリで)http://blog.tatsuru.com/2009/02/18_1832.php

・人間の「本態的な弱さ」←具体的な話をするのはムラカミに(そしてそれを擁護せんとする自分に)とって大変不利なので、とにかく話を大きく、一般化する意図が読み取れる。


http://blog.tatsuru.com/2009/02/20_1543.php

・「ムラカミが語ったSystemとは、多くの人は実体的な制度と読んだようだが、自分は「記号体系」「言語」のことだと理解した」

 (ここにも話を極限まで一般化して、具体的、社会的、政治的文脈から逃避しようとする傾向が読み取れる)

 これは、あるレベルでは言い逃れ、であるが、学問的には、十分成立する議論。

 というか、人は言語という枠組みから出られない、ぐらいのことは、はるか以前から、丸谷才一だって言っているぐらい常識的なこと。

・さて、この内田樹の「System=記号体系、言語」という解釈を踏まえて検討する。ムラカミは、わたしは「言語(壁)ではなく、言語化できないSoul(卵)の側に立つ。たとえ卵がどんなに間違っていても」と語った、ことになる。しかし、文学者とは、たとえどんなに言葉というものが魂を裏切る非道な装置であっても、具体的な言葉を使って文章を記述し、言葉(という壁)と格闘する存在であるべきものだ。言葉の側に立たず、魂の側に立つ、と言うのなら、それは文学者ではないのではないか。あるいは、そんなことが可能なのは、失語症的存在だけなのではないか。(Soulの側に立つだけなら、小説家である必要もない。中二病だって、ひきこもりだって、自分のSoulの側に立って、壁を憎んでいることだろう)

・そして、実際には、ムラカミは、巧みなメタファーを使用して、多くの読者を魅了する、老練なる言葉(壁)の使い手であり、壁の側に立つ者の一代表者とも言えなくはない。その言葉の使い方の趣味、センスの是非はさておき。

 (ここにおいて、内田の解釈は破綻する、ように思われる)

 (あるいはハルキが二枚舌を使っているのか、どちらかであることになる)


 (内田の議論を離れて)

・ムラカミは、肝心なこと(中国での父の戦争経験)を語らず、それを曖昧にぼやかし、ほのめかす。(これについて、自覚的な操作なのだ、とご指摘されたブロガーもいらっしゃる。大いにありうる話だ)

・それが、仮に「父は戦時中、中国で、人を殺しました」「しかも残忍な方法で」と、言う内容だとしても、たしかに悲惨なことであり、人の心の傷として一生残る体験ではあろうが、文学にとっては、特権的な主題というよりもありふれた主題であろう。というか、文学的には、語ってしまったら、別にどうということのない主題ですらあるかもしれない。(もっと悲惨なことを書いた戦争文学は、凡庸な作、陳腐な作も含めて無数に存在するのだから。)

・だからこそ、それを語らず、ほのめかすことで、さも重要そうな幻想を維持する(→それがムラカミ文学の価値を担保する?)、という方法を取る? 天皇制と同じ構造? 

・大岡昇平は、自らの戦争体験を克明に描いた。戦争という極限状態を描くために『野火』という傑作を書いた。それは、悲惨な人間の真実から目を逸らさない、という態度から生まれた。

・大岡昇平は「自分は捕虜になった人間ですから資格がありません」という紳士的な(かつ巧妙な)言い訳を使って、天皇から勲章を授けられることを拒絶した。天皇批判。お前に、人を賞する資格があるのか?

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/negative_dialektik/20090224/1235443011
Connection: close