演出についてくだを巻く

まりあほりっく1話見てやめた。

なんだか「演出してます感」というようなものを感じて、とても絶望先生と同じ監督とは思えなかった。スムーズに感じなかったのはなぜだろう。1話しか見ていないので今はどうなってるか知らない。
黒神3話ぐらいで見るのやめた。

ドッペルゲンガーを見たら死ぬっていう伝説をベースにして荒唐無稽な設定で、

  • そっくりな3人が運を共有している
  • そっくりなヤツと会ったら片方が死ぬ
  • マスターとサブがいてマスターが残る
  • 残った方は運を吸収してすごいことに

てな具合。
原作者が韓国人だとかで米韓でも放送するとか意気込みがすごい。それじゃお手並み拝見と思ったんだけど、ダメだわ。韓国とか関係無い。むしろ日本人何してますか。なんかかなり残念なことになってると思うぞコレ。
設定が荒唐無稽なのは別に悪いことじゃなくて、作品の面白さに繋がる可能性があるから良い。中二っぽい思いつきみたいな設定でも面白い展開をさせる上で核になってると感じさせれば成功だ。だから何か面白いことになるまで見ようかと思った。
しかし演出が酷い。主人公がヒロインと「シンクロ」すると強いというのが表現された戦闘シーンがあったのだが、なんかもう「光って、ドーン!とか音がしたら強い」って感じでとても記号的というのか、「とにかく強いことになってるので強く見せました」って印象。RPGじゃないんだからさ。
それでも別にそういうルールなら良いんだけども、例えばドラゴンボールだったら金髪になったら強いというルールは作品中で先に示されているわけで、そういう積み重ねが全く無いところでいきなりやっちゃうのはいかがなものかと。
昔読んだ夢枕獏と菊池秀行の対談を思い出す。選考会で送られた作品を読んでいると説明の無い言葉に出くわすことが多いという。「真空飛び膝蹴りを放った」とか普通に書かれていることが許容できるかどうかという問題なのだが、それは「真空飛び膝蹴り」という言葉が共有された読み手かそうでないのか、受け手の理解を想定して表現しているのかということで、最低限考慮してないとそれだけで選考から落とされる。
記号的表現がいけないわけではない。ライトノベルなんかではその手の省略が歓迎されてると思う。想定される読者が理解している事柄をわざわざ説明しても読み難くしてしまうのだから、読者に合わせて必要最小限の説明をするのも技量だろう。
このような情報量のコントロールというのは何を表現するにしても大事なはずで、アニメは演出を頑張らないと作品を台無しにしてしまう。原作が有るならなおさら気をつける必要があるんじゃないか。
大体アニメファンというのは演出を良く見ていると思う。

以上で、省略したカットも含めて約35秒で、12カットである。しかも、その一つ一つのカットについて、キャラクターの感情が込められている。ただ、座るだけのシーンである。いくらでも楽をしようと思えばできるはずだ。だが、カットの積み重ね、キャラクターの仕草で状況を表現しようとしている。また、これだけの意味を引き出せるのも、今までの話数で巻いて来た「種」が生きているからだ。

このカラオケで座るシーンは素晴らしいものでした。

みなみけ」と「アイドルマスターXENOGLOSSIA」の主観視点について。

厳密にいえば、春香のおっぱいを映している仮想カメラ位置はちょい上からなので、真の視線と完全に一致しているわけじゃない。
しかし、それでも、ときどき真の顔のアップが挟まれることで、まるで、真が春香のおっぱいを凝視しているような効果が現れている。

そして「凝視」からアイドルマスターに話が移る。

普通の視聴者は、「まるで自分が巨大ロボットになって女の子と恋愛ごっこしてる」かのような、今までに味わったことのない異次元体験ができ、
また、原作ファンは「意味はよくわからないけど、ものすごく遠まわしに批判されてる」ような気分が味わえるということで、このアイドルマスター XENOGLOSSIAはとても価値あるアニメだと個人的に思う。

このアニメ、全く喋らないロボットの感情表現という結構面白いことしてたんですよね。ブレンパワードじゃあるまいしw

葵上が妹で素直クールすぎて源氏の君に判って貰えんというのが、櫛などの動きだけで判ってしまうのがたまらんのう。アニメならではだなあ。

映像表現のメディアなんだから台詞だけではないのが当たり前なんですが、昨今の「わかりやすい」ドラマなんかは台詞で成り立たせようとしているから「聞いてるだけでわかる」と言います。
アニメも台詞中心というのはあるわけですが。動かすの大変だし。
それにしても2話良かったなぁ。鶴ひろみGJ。笑っちゃうくらい哀しくてすごいのです。
関係無いけど豆知識。

ところで、源氏物語のキャラクターの名前ってみんな仇名なんだよな。住んでる場所とか。2ちゃんねるまとめ小説っぽくもあり。

「スペック:カテゴリは源氏。あとなんか光ってる」とか。

この指摘は良いなw

ここまで細かく見てしまうアニメファンは恐ろしい。
まぁアニメファンだけが良く見てるわけじゃなく、ファンというのはそういうものなのだが。

たとえば、主人公と同じ建物に住む盲目の詩人が見せるリリシズムはどうだろう。彼は、かつては何冊かの本を出版していた詩人であったが、ある時期から目がみえなくなってしまった。そんな男性が、これまでに愛読した本がならぶ書架の前に立ち、本を読むかわりに手でさすり、本の匂いを胸いっぱいに吸いこむくだり。そこで描かれる、言葉に対する慈しみのような、憧れのような情熱。すばらしい場面だとおもった。

素晴らしい。こういったシーンで余計な独白とか入れちゃうのは悪い癖です。台詞が無いと不安になるんでしょうかね。ライターが仕事をしすぎるのかもしれない。他のスタッフを信頼してないと台詞でカバーしたくなるということもあるものだろうか?
さて演出がどうこう言ってみたわけですが、最近のアニメは過去の作品を越えられないという声が良く聞かれると思います。どっかで見たようなものが多いと。
なんでそうなるかといえばアニメ見て育った人がアニメ作るからで、お手本が存在するなんてことは言うまでもない。しかし過去にアニメを作った人にしたところで何かを手本にしていたことに違いは無いのであって、じゃあ何が違うのかっていうと受け手が違う。
今現在アニメを見る人に向けて作る場合有効なパターンというのがあるはず。セオリー通りに作ればどっかで見た感じになるはずだ。そして佳作はできるが鮮烈なものにはならない。
グレンラガンの良さがわからないという話があって真ゲッターなんかと比較して魅力にかけるというのだけど、ゲッターの魅力というのは過剰なまでの勢いだろう。グレンラガンというのもそういう過剰さをウリにした作風だと思うのだが、過去を越えることは目指していないように感じる。過去作品を手本に「過剰さ」という様式を意識して作られたオマージュというか。
そういったものが今はあふれている。ガンダム00なんかもそうだろう。
そしてそういう「様式」を持つ作品はかなり具体的に受けてを想定し、理解しやすいパーツで構成される。ああこれは過去作品のアレに相当する部分だなとかピンとくるように「設計」する。
そうやって作るとわざわざ面倒くさい周到な演出なんかしなくても受け手に多くの情報を与えることができるので、20分ちょっとの間に平行して複数のエピソードを盛り込んだりするならこういう方法になるのは当然のようにも思える。物語を圧縮し高速化するとどんどん記号化する。
ガンダム00の違和感はこのせいじゃないだろうか。本来「戦争」というテーマはこういう方法に適していない。我々は戦争を知らないのだから、記号に圧縮して戦争を語ることなんてできない。時間をかけて細かく丁寧な演出をしないと「本当の戦争を描く」ということはできないはずだ。だから最初からガンダム00は本物の戦争を描けないことになっている。そこにあるのはあくまでも「アニメの戦争」なのだ。そしてそれは富野ガンダムと決定的に違うのである。Vガンダムなんて主人公の母親がどれ程印象を残したか。十代の少年が戦いに巻き込まれている点では同じでも、その悲惨さの描写されるレベルがまるで違う。00の悲劇は他人事である。

ガンダム00も、とある魔術の禁書目録もだが、見れば分かる事をわざわざセリフやメインキャラだけでご説明するから長いしダレる

それは設計図と鉄骨とコンクリを並べて「家です」というようなもので住めるか!

stonedlove

「やっぱりこいつら(作り手)全員、馬鹿なんじゃないか?」というあまりにも恐ろしい疑問が頭をもたげるのを必死でこらえ、「いやまさか! そんなことがあるはずない」と思い直したりしながら『00』を見ているんですが、

どうやらこの作品は、2007〜8年現在の日本の現実を、(意図せざるところで)かなり反映してしまっているのではないか?

端的にいえば、『00』は狂っている。それは、時代の狂気を映し出しているのではないか?

それこそ、「かたわ少女」のように。

「世界の歪み」とは、わたしたち、いまの時代を生きる者たちの、認識の歪みではないのか?

『00』に欠けているもの、『00』が描けていないもの、それこそが、いまという時代を反映しているのではないか?

とか考えながら見ています。

nuryouguda

世界の歪みを正すと言うアニメだと大上段に振りかぶってるのが正しく歪みかもしれないって言うのはブラックなユーモアがありますね。意図的ならすごいです。Vガンダムの時の富野監督とか、ガンダムと関わったらちょっとどっかおかしくなるのかもしれないですね。

nuryouguda

今思いついたんですけど、描写がどぎつい割に痛みが感じられないのは、事件が突発的でそれ以前のドラマに関連してないから必然性がなく、人間らしさが感じられないからかも。「こういう流れだったら殺人をせざるを得ないな、自分もこういう状況だったらどうしよう」っていう皮膚感ですかね。

00の場合は「流れは関係ない。個性的で狂ってるキャラだから意味の無い殺人くらいする」っていう。

イデオンのドバは家族ケンカだけど、社会の中での家の体面って言う形の無いものとか、大きな物に押し潰されるようなどうしようもない感じもあって、それは悲しいんですよね。00では女王とか戦争被害者とかいう要素はあるんですけど、それがキャラクター個人の問題だけで、大きなものとか視聴者にも共通する社会性や人間本能に繋がっている感じがしないので、他人事っぽいんですよね。

記号的なものはよくネタにされます。

文脈から切り離すと色々遊べるw
逆に日常的なテーマで演出意図がはっきりしていれば外人のじいさんにも伝わる。

別にガンダム00がダメだというんじゃなくて、面白がって見てるんですけどね。突然大変なことになったりしないかと期待してたりw
全滅オチだったりしてなwそれはないかw

韓国のガンダム裁判コピペはウソ?

この噂が、当初からありうる話としてささやかれた背景は、国際的な常識から言っても起こりうる話であると思われていたからである。これが常識に反した(裁判として正しいかどうかは脇において)異常な事態と考える方が、はっきり言って常識がないといわざるを得ない。なぜなら、固有名詞といえども、社会的に一般名詞化してしまうと、法的に商標として認められなくなってしまうのは世界的にほぼ常識といっていい事柄だからである。

日本においても、「エスカレーター(オーチス・エレベーター社の商標)」をはじめとして、「ういろう」「天むす」など、普通名詞化してしまっている商標など枚挙に暇がない。記憶に新しいところで日本と関連がある話では、2002年のオーストリアでのWalkman 商標裁判がある。

疑問なのだが韓国ではガンダムウォークマンと同じ程一般化しているのだろうか。
だったら韓国人に先行者を見せても「何だあのガンダムwww」と反応するのか?信じられんなぁ。

今現在、韓国ガンダム裁判が事実であると主張している人は、概ね2005年に出現したこの年表部分のコピペを根拠にしている。ご多分に漏れず、山口氏もこのコピペに全面的に依拠しているようだ。しかし、このコピペはそんなに信用できるものなの?

コピペは確かに信用できないかもしれない。だけどハングルできる人が自分で確かめれば良いことだし、本当にデマなら在日の反論とかありそうだよなぁ。

韓国特許法院をこそ分析してそれに依拠すべきなのだろうがと思うと、実はWikipediaのノートに既にそのような議論と分析が記載されていた。

年表のソースといわれた資料の内容がこのノートの分析どおりだとしたら、あの年表はかなりうさんくさいものと認識しなければならないのではないだろうか?コピペ年表を鵜呑みにして裏をとらずに記事にするのはいかがなものと思うんだけどね。

結局いえることは、ガンダムの商標登録のときちょっともめて、その事実に尾ひれがついて都市伝説化したというのが妥当な結論なのではないのだろうか?

はて、どうなっているのやら。

韓国特許庁のホームページを見てみたのですが、
http://rgst.kipris.or.kr/rgst/rgin1000a.do?rgstno=4003293630000
株式会社サンライズにより
1994年9月28日:出願
1995年11月30日:登録決定
2005年12月14日:商標権存続期間更新登録出願
2006年3月7日:登録決定
と、なっています。
少なくともWeb上の記録では、「商標登録無効」の事実は確認できません

確認しようとしたら、間の悪いことにシステムメンテ中みたいですね。

http://www.excite-webtl.jp/world/korean/web/?wb_url=http%3A%2F%2Frgst.kipris.or.kr%2F&wb_lp=KOJA&wb_dis=2&wb_submit=+%E7%BF%BB+%E8%A8%B3+

確認マダー?って今開いてもメンテ中の表示だった。