危険な偏食



 妊婦の「偏食」については、色々と聞いていた。曰く、ある和菓子屋のどらやき以外受け付けなくなったとか、それまで嫌いだった焼肉が食べたくてたまらなくなったとか。しかし、つわりがひどい時期にさほどの偏向がなかったので、私には無縁のことなのだと思い込んでいた。けれども、ここに来て恐ろしいものに取り付かれてしまった。
 それは、ホイップクリーム。糖と脂肪だけで構成された、ダイエットの天敵、いや悪の頭目、いやいやラスボスとでも言うべき存在である。


 先日、勤務中に突然「生クリーム食べたい」という妄念に取り付かれた。「こういう洋菓子が食べたい」とかではない。ただ、ホイップされた生クリームだけが私を呼んでいるのだ。スポンジケーキも、シュー皮もいらぬ。デコレーションやイチゴもいらぬ。ただただ真っ白なホイップクリームを食べたい!
 そうして私は帰途のパン屋で生クリーム入りのシュークリームを購入した。カスタードクリームなどという余計なものの入っていない、純粋なホイップシュークリーム。ああ、至福。


 だが、その時の私はまだ気付いていなかった。この妄念が継続するということを……。
 後日、朝起きられずに弁当作成をさぼったので、勤務先近くの自然食品の店でヘルシーなランチを購入した。野菜多目でバランスが良く、塩分・脂肪分控え目の理想的な食事である。そして、セブンイレブンの前を通って帰社しようとすると……その中から何かが呼ぶのである。もう手元には昼食があるというのに、何を買おうというのだ>私。
 そう、ホイップクリームの呼び声が再び現れたのだ。デニッシュ売り場に「新商品」のポップが付いた「それ」が私を待っていた。「コロネホイップ」……パウダーシュガーで飾られたクロワッサンのようなサクサクの筒状デニッシュの中に、真っ白なホイップクリームがぎゅうぎゅうに詰まっている。余計なことに、「おすすめです!」と手描きのラベルまで添えられている。これが買わずにいられようか。「コロネホイップ」はヘルシーなランチをぶち壊すデザートとなった。


 さて、いよいよ私も気がついた。こりゃマズイ。私はホイップクリームに取り付かれているのだ。何故コンニャクとか寒天とかじゃなく、クリームなのだ!何故だ!
 しかし、幸いにもシュークリームを箱買いしたり、コロネホイップを棚ごと買い占めたりはしたくない。ある分だけで満足、ただ一人分を食べられれば足りるようだ。また、それ以外が食べられないわけでもない。一安心である。そう思っていた。


 日曜日、一人で映画を見にでかけた。帰途、おしゃれな恵比寿の町でシンプルなクリームパンでも土産に買って帰ろうと思ったが、見付からない。カスタードとかナッツとかメロンクリームなんていらないんだ!真っ白な普通のクリームが欲しいんだよう。
 都会には素朴なデニッシュがないようだ。仕方がないので、以前シュークリームを買った地元のパン屋で調達することにした。勇んで店に入ったが、見付からない。店員に聞くと、売り切れているという。
「チョコシュークリームならございますが」
 いらないよう。私は真っ白な普通のクリームが欲しいんだよう。
 日曜日は色付きクリームの日なのだろうか。しかし、私にはセブンイレブンがある。あそこに行けばコロネホイップに会えるはずだ。勇んでオレンジと緑の店内に入ったが……デニッシュの棚は閑散としている。おかずパンはある。メロンパンもある。カスタードシュークリームもある。でも、私のコロネホイップは見付からない。
 好天の日曜日。幸せそうな人通りの中、クリームを求めて歩き疲れた私。ああ、もうこれ以上は探せない……。
 失意の内に帰宅し、寂しく水を飲んでいると、急な仕事に出掛けていた家人から「これから帰るよ」電話が入った。取るものも取りあえず、私は家人に尋ねた。
「近くにセブンイレブンある?」
「帰るまでに二軒あるけど……どうしたの?」
コロネホイップ、コロネホイップを買ってきて!(魂の叫び)」
 しばらくすると、家人から再度連絡があった。
「二軒とも見たけど、そのパン売ってないよ」
 そんな……そんなヒドイことがあろうか。
「カスタードクリームじゃダメなの?」
 ダメだよー、ダメなんだよー。他のクリームで我慢するくらいなら、生クリーム買ってきて自分で泡立てた方がずーっとマシだよー。
「じゃあ、そうすればいいじゃない。」
 え?


 帰宅した家人の手には、「タカナシ乳業・特選北海道純生クリーム47」があった。そして、その全て(200ml)が氷水を当てたボウルに空けられ、15gの砂糖と共に力強く泡立てられた。ボウル一杯に作られた、しっかり角の立つ生クリーム……。(ちなみに、クリーム+砂糖で940キロカロリー程度である。)仕事から帰ったばかりの人に、私は何をやらせているんだ。
 そのまま舐めるのでも良かったのだが、家人が入れてくれたコーヒーに浮かべ、ウィンナコーヒーとして頂戴した。コーヒーが見えないほど真っ白に浮いたホイップクリーム!もちろんスプーンは舐め放題!ああ、幸福。青い鳥は自分の家にいるのだ。理想のクリームは、うちの台所にあったのだ。「好きなだけ食べるが良い」というありがたい言葉をもらった私は、何度もおかわりをした。それでもクリームはまだあった。
 少量だが私に付き合った家人は、その直後胃もたれを訴えて夕食を食べられなくなった。


 ここまでやれば、もう気が済んだだろう。ボウル一杯の生クリームを(ほとんど一人で)食べたのだから。だがしかし、危険なのでセブンイレブンは避けて通ることにした。あそこには、「いざという時」だけ行くことにしよう。どうしてもどうしても必要になった時だけだ。
 それにしても小腹が空いた。何かが私を呼んでいる。小銭が手元にある。セブンイレブンが近くにある。角を曲がればすぐ見える……。