ドア・イン・ザ・フロア



 ジョン・アーヴィングによる小説「未亡人の一年」の最初の三分の一の映画化作品。原作者をして(自身が脚本化した)「『サイダーハウス・ルール』よりも完成度が高い」と言わしめた脚本は、部分を切り取った分だけ実に原作に忠実な仕上がりとなっている。日本公開版では小説の翻訳者である都甲幸治氏が監修を行い、小説で読んだそのままの台詞が俳優たちによって語られる。


 時代設定を現代に移し、物語を発生順(理解しやすい順)に並べ替えた以外、ストーリーは原作の「役に立たないランプシェード」から「コールさんのところで働く」までをほぼ忠実になぞっている。
 児童文学作家兼挿絵画家(自称「子供相手の芸人」)のテッド・コール(ジェフ・ブリッジズ)は、美しい妻マリアン(キム・ベイシンガー)と4歳の娘ルース(エル・ファニング)と共に海辺の保養地ハンプトンに暮らしている。映画のタイトルは、テッドの手による絵本「the Door in the Floor」から取られている。床にあるドアの下にいる得体の知れない何かに以前子供を取られた母親が、今身ごもっている子供をこの世界に出していいものかと悩む物語だ。
 家中の壁には、娘が生まれる前に死んだ二人の息子の写真が飾られており、ルースは兄達のエピソードを聞きながら成長している。夫婦の間にはどこかよそよそしい空気が漂っている。海沿いの町は夏に入っても肌寒い。夫婦は別居を始める。別の場所に部屋を借り、一晩置きに娘の暮らすこの家で泊まるのだ。
 夏の間、テッドは助手としてエディ・オヘア(ジョー・フォスター)という16歳の高校生を雇う。彼は死んだ息子達が通っていた高校の生徒である。テッドにはエディを利用したある密かな計画があった。少年は、船着場まで迎えに来たマリアンに一目で恋に落ちる。マリアンは、エディが失った息子の一人によく似ていることに心惹かれる。死んだ息子達ができなかったことを、彼のためにしてやりたい……徐々にそう思うようになるマリアン。
 一方、画家でもあるテッドはその立場を利用して子供のいる女性(ミミ・ロジャース)に近付き、そのヌードを描き、果てには不貞を繰り返していた。しかし、彼の描くヌードは悪意に満ちていた。
 冷然としたマリアン、真剣すぎるエディ、魅力的だが子供っぽく自己中心的なテッド。策略と転機の夏が静かに始まる……。


 ええっと、ハダカの多い映画でした。しかも、一番多いのがジェフ・ブリッジズのヌード。ハダカじゃない時にも「ヘムレンさん」みたいなネグリジェ(?)着用率が高い。スカッシュする時にもネグリジェ捲り上げてやってたりする。(体以外にも)多才な面を見せる彼は、テッドの手による挿絵を自ら描いてもいる。イカ墨で描かれた迫力ある画風は(好悪は分かれようが)、いかにもテッド・コールが描きそうなものとなっている。


 原作よりも夫婦の年齢設定は高めのようだ。キム・ベイシンガー(51歳)は美しく、その演技も素晴らしいが、16歳の少年をも魅了するだけの「性的吸引力」があるのかは疑問だ。しかし、原作の「実際は39歳だが29歳にしか見えない」という現実離れした設定を生身の女優で実践しようとすると、本当に若いようにしか見えず説得力に欠けるのかもしれない。現れつつある老いを隠す外見を持ちつつも、幼くは見えないというのはいかにも難しい。それを思えば、ベイシンガーは望みうる限り最高のマリアン役なのだろう。
 ルース役のエル・ファニングは、ダコタ・ファニング実妹。撮影時6歳にして映画やドラマでは姉の幼年期を演じてきた長いキャリアがある。(ダコタも充分幼年なんだけどね。)「『床にドアのある家』に暮らす子ども」を充分な説得力を持って演じている。恐るべし、ファニング姉妹。


 感想とそれ以外のコメントを幾つか。
 映画館で驚いたのが、観客の年齢層の高さである。先日「トラベリング・パンツ」を見たのと同じ場所(恵比寿ガーデンシネマ)だったのだが、観客の平均年齢差は30歳くらいあるかもしれない。いやもう、デニム着用率は低いわ、スカート丈は長いわ、白髪率は高いわ、上映前に前の席のご夫婦が読んでいるのが健康雑誌だわ、空気がまるで違う!
 しかも、新橋ガード下の旧作専門映画館と違い(失礼)、何だか皆様お上品。私の左隣の女性二人は映画のビデオ(「眠る男」)と「海辺のカフカ」を交換したりしてて……ううーん、恵比寿恐るべし。この分だと、観客200人中で原作小説を読んでいない人はほとんどいないんじゃないだろうか?
 そこで疑問なのだが、原作を全く知らずにこの映画を見た場合、一体どのような感想を持つのだろうか?この映画に対する私の率直な感想は、「原作をよく再現できている・テーマが忠実に表現されている」というものである。映画としては、どなたにでもオススメしたい!と力説したいようなものではない。悲劇の後の癒えぬ傷を抱えた夫婦と、それを癒すことを期待されて生まれた(そして失望された)子供の物語である。くすりと笑わせるシーンはある(会場全体が含み笑いをしたような場面もあった)が、全体としては曇り空の下で人生の皮肉や悲しさを噛みしめるといった風情である。わざわざR-15指定にしなくても、お子様が見たいと思うような話ではない。
 小説を読んだ人には、試しに見るのも面白いと言うだろう。しかし、物語はルースが大人になってからのエピソードがなければ完成しないので、小説未読の方がわざわざ見るようなものではないとも思う。これを入口に続く三分の二を読むのもいいかもしれないが。★★★☆☆


 最後に、大きな声で主張したいのは、「ボカシを入れるな!」ということである。この映画ではあからさまな性描写(性行為及び性器)が行われ、R-15指定となっている。そういったシーンで、スクリーンにどどーんと入る巨大なボカシ。会場に来ている人は全員16歳以上で、何が描写されているのかなんて誰にだって分かっているのに。無差別に誰でも見ることができるTV放送でモザイクを入れるならまだ納得できるが、映画館で1800円を支払って席についている私までもが、何故望んでいないボカシを見にゃいかんのだ。
 念のために書き添えるが、私は局部や性行為が見たいからこんなことを言っているのではない。いやいや、本当だって。ただ、製作者が明確な意図を持って作り、また(ほとんどの)観客も承知の上で見ている作品を勝手に「改造」されるのが嫌なのだ。「性」は、この物語の中で必要(欲情させるためだけでなく、うんざりさせたり悲しくさせたりするため)があるからこそ語られる要素の一つである。しかし、(AVやポルノ映画のように)それ自体が目的ではないのだから、規制することに何の意味があるというのだろう。(目的だったらなおのこと隠したら意味ないとも思うが。)
 だいたい、ボカシやモザイクというものは何のためにあるのだろう。それがあることで、どのように「有効な」状況になるのだろうか。「その部分」さえ見えていなければ、誰に見せても恥ずかしくない画像になるだなんて誰も思っちゃいないだろうに。ボカシさえあれば青少年が健やかに育つか?犯罪が激減するか?……と、映画そのものそっちのけで「ボカシ不要論」になってしまってこのまま終了。