便乗

山田清三郎『白鳥事件』(新風舎文庫、2005年)という本です。
しかし、けっこう奇妙な本なのです。親本は1977年に、『白鳥事件研究』と題して白石書店から出版されたものなのですが、この文庫には、和多田進さんが、長い〈解説〉を書いているのです。
白鳥事件というのは、1952年に、札幌市で現職警察官で、治安対策の先頭にたっていた白鳥一雄警部が、何者かによって射殺された事件なのです。犯人は不明だったのですが、当時の日本共産党の札幌での幹部であった村上国治さんが「殺害の指示を出した」ということで逮捕され、結局は最高裁まで争って、有罪の判決をうけ、再審請求も棄却されてしまったというできごとです。
山田さんは、この事件がでっちあげで、村上被告は無実であるという立場からこの本を書いたのですが、和多田さんは、当時の関係者で、村上さんに不利な証言をした人にインタビューをし、その内容に基づいて、山田さんの意見をしりぞけているのです。文庫本の〈解説〉で、元の本の筆者の主張をひっくり返すということがあるのですね。
けれども、その関係者の方のインタビューからみえることは、今政府与党が提出を考えている「共謀罪」がこの当時あったならば、村上さんはそれだけで、たとえほかの証拠が一切なかったとしても罪にされるということなのです。1952年当時の日本共産党が、いわゆる「軍事方針」によって「中核自衛隊」なるものをつくっていて、その責任者が村上さんで、白鳥警部には天誅をくださなければならないということを話題にしていたという、その関係者の人の証言だけで、「共謀罪」は成立する危険性が高いのです。
しかし、和多田さんは、そういう方向にはあまりはなしを向けたくないようです。そうした「軍事方針」を今の共産党はどうみるのかということばかり気にしています。いちおう、参考文献として、『日本共産党の八十年』はあげられているのですが、和多田さんは、「日本共産党は、いったい第四回全国協議会、第五回全国協議会で『軍事方針』なるものを出したのか出さなかったのか、それを問いたい」(337ページ)と書いています。

けれども、『日本共産党の八十年』(日本共産党、2003年)にはこう書いてあります。

「五一年十月、徳田・野坂分派と『臨中』は、スターリンのつくった『日本共産党の当面の要求−新しい綱領』を国内で確認するために、『第五回全国協議会』(五全協)をひらき、『五一年文書』と武装闘争や武装組織づくりいっそう本格的にふみだすあたらしい『軍事方針』を確認しました。[改行]この方針による徳田・野坂分派の活動は、とくに、五一年末から五二年七月にかけて集中的にあらわれ、『中核自衛隊』と称する『人民自衛組織』や山村根拠地の建設を中心任務とした『山村工作隊』をつくったりしました。これらの活動に実際にひきこまれたのは、ごく一部の党員で、しかもどんな事態がおこっているかの真相は、これらの人びとにさえ知らされないままでした。しかし、武装闘争方針とそれにもとづくいくつかの具体的行動が表面化したことは、党にたいする国民の信頼を深く傷つけ、党と革命の事業に大損害をあたえました」(112ページ)
(「臨中」というのは、当時共産党の中央委員が公職追放をうけたので、中央委員会にかわる〈指導部〉として指名された人たちのことです=ねこぱんだ)

この記述が、和多田さんからは〈方針を出したのかがわからない〉ということになるようです。