人生なんて無意味だ

人生なんて無意味だ

人生なんて無意味だ

 デンマークの女性作家ヤンネ・テラーの小説で、デンマークでは中学校の副教材として使われているそうです。ヨーロッパではかなり有名のようですが、日本語版は2011年に出版されています。
 中学一年生のピエールという少年が「人生は無意味だ」と学校に来ることをやめ、すももの木に登り、そこから登校する他の生徒たちを眼下に見下ろしながら世の中に意味なんてないことを説きます。他の生徒たちはその言葉に腹を立てますが、それはピエールの言葉に真実が含まれているように思うからです。その生徒たちはピエールに意味が存在することを証明するために「意味の山」を造り始めます。それぞれ自分が一番大切にしているものを持ち寄ろうと言うのです。ところが各々が持ち寄った品物はどれも一番大切なものではありませんでした。これでは意味がないということで、他の人が「○○を意味の山に差し出せ」と要求することになり、それはどんどんエスカレートしていきます。はじめは高価な品物なのですが、エリーセの死んだ弟(夜中に墓場を掘り返してお棺を運んできます)、フサインというムスリムの少年のお祈り用の敷物、ソフィーの処女(レイプされたようです)、カイの十字架のイエス(彼は町の教会の息子で、十字架のイエスは教会に架かっている大きなものです)、ヤンの人差し指(彼はギターが得意だった)と、その人そのものに近いところまで差し出すよう要求されます。
 ヤンの人差し指を切り落とした(切り落としたのはソフィーです)あと、このことが公になってしまいます。警察に補導され、学校で指導され、家に閉じ込められます。しかし生徒たちにはまだピエールに意味の山を見せるという目的が残っているのです。アグネスが偽名を使って新聞社にこのことをばらします。地方新聞の記事になった意味の山の話は、瞬く間に世界中に広がり、この山は芸術か芸術でないかという論争に発展し、ついにアメリカの有名な博物館が買い取りたいと申し出てきました。生徒たちはこれだけ多くの人々が注目してくれるのであれば、意味があることなのだと得意になります。ところが、ある時、ピエールがすももの木の上から、「意味なんかないのさ。あるんならあれを売ったりするはずがないだろ?」と問いかけます。その後、売るという話について、仲間割れが生じます。お互いが血みどろの争いをする現場にピエールがやって来ます。そして、ソフィーに「お前は自分をいくらで売ったんだ?」エリーセに「お前は弟をいくらで売ったんだ?」他の人に聞いていきます。誰も反論できない中、急に生じた怒りのうちにピエールは撲殺されてしまいます。意味の山には火が放たれ、ピエールごと灰にしてしまいました。警察はピエールが放火したと判断し、生徒たちは罪に問われることはありませんでした。子どもたちはその後、その灰をそれぞれ瓶に入れて持ち帰りました。
 この作品を副教材としてどんな授業がされているか一度見てみたいものです。私は本書を姜尚中『続・悩む力』で教わりました。ピエールが「人生は無意味だ」とみんなが心の奥で何となく思っていることを口に出して言っているところが、みんなの怒りを買った原因だと姜尚中では言っていたように思います。また、「それでも人生にイエスと言う」という言葉も紹介していたように思います。ピエールはすももの木の上からニヒリズム的な言辞を弄して級友たちをからかいますが、意味の山のことを(見にいっていないのに)詳しく知っています。そして意味の山を売る話が出た時に、ピエールは怒ってさえいるようなのです。
 意味は相対的なものかもしれません。世界中にあるモノで作った神々に本当に意味があるのかないのかなど誰にも分かりません。意味を認める集団があるだけなのではないでしょうか。それがニーチェの言う、ルサンチマンから生じたものであろうがなかろうが。人だけでなくすべてのものは必ず消滅する、無常だ。だから人生に意味はない、とは言えない。人生における意味は、人間相互の承認関係だと姜尚中氏は言っています。『悩む力』の働き意味のところで、働くという行為は社会に自分が属しているという、その社会の構成員からのアテンションのまなざし(ここでは「ねぎらい」くらいの意味で使っています)をお互いに向け合うことだと説明しています。
 愛の対義語は無関心だとはよく言ったものです。ピエールはみんなが意味探しをしている時にある意味充実していたでしょう。意味の山はある意味、生徒たちとピエールの関係の意味の山でした。それが大人たちの芸術論に取って代わられ、ついにお金で取引された時、無意味になりました。お金はすべてを相対化する道具だからです。
 本書では本当の意味探しがいかに危険なものかを教えてくれます。同時に大人たちが意味と呼んでいるものがいかに薄っぺらいものであるかも示されています(本書の中では学校や家庭で「有名になること」が目標に据えられている)。意味を知ることは、本当は命がけのものなのだ、ソフィーは自分を賭けたあげく、「自分を傷つけたりすることがないよう守ってくれる施設」に入ります。ソフィーは「頭の切れる女子生徒」と紹介されていますが、名前も含めて痛烈な皮肉が込められていると思われます。形而上学的な「知」では対決できない戦いに挑んだのですから。