容易には解けない。

原発依存の精神構造―日本人はなぜ原子力が「好き」なのか

原発依存の精神構造―日本人はなぜ原子力が「好き」なのか

斎藤環毎日新聞に震災関係の記事を月いちで連載しています。その中で紹介されていて、興味深いので読んでみました。
 相変わらずの斎藤環で、難しいことこの上ない。平易にも文章を書ける人ですが、精神分析用語と哲学用語が頻出するような文章も書き、本書の一部はそういう章もあってなかなか歯ごたえがあります。
 原子力が日本人にとって外傷であるがゆえにくり返しその毒に享楽してしまうというのは深い指摘だと思います。原発に一貫して反対していた小出裕章も「海外から日本人はなぜ原爆を体験したのに原発に反対しないのかとよく聞かれるが、むしろ被爆をしたからこそ原子力の平和利用という言葉に惹かれたのだと思う」と言っている。原子力が平和利用されなければ、原爆の被害者が浮かばれない、その死が平和利用の礎にならないということだと思います。斎藤環はもう少し残酷に、裏切られることが分かっているのに原子力に何度も享楽してしまうと言っています。残念ながらそうなのかもしれません。不適切なたとえかもしれませんが、何度もDVを受けながら、加害者がもうしないと涙ながらに訴えると何度でも許してしまい、結局DVから逃れられない被害者のようです。
 さすが斎藤環と思ったのは、戦後の日本のサブカルチャーに「原子力ヒーロー」が数多く表れるという指摘です。『ドラえもん』は小型原子炉を動力としており、『サイボーグ009』の動力源は小型原子炉、『仮面ライダーシリーズ』でヒーローの乗るバイクは小型原子炉が搭載されていて、『鉄腕アトム』も原子力をエネルギー源としている。『8マン』は動力源が小型原子炉であり、原子炉を冷却するために、タバコ型の強化剤を定期的に服用する必要があった。『起動戦士ガンダム』はトリウム原子炉を動力源としていたといいます。改めて指摘されるとぞっとするほど原子力に無邪気な夢を抱いていた当時の日本人が浮かびあがってきます。今こんな設定のアニメを放映したら各方面からクレームが来そうです。
 筆者はゴジラの描かれ方の変遷に原子力と日本人のあり方を見ます。初代のゴジラ原子力の申し子であり、原子力の暴力的な面を表していて、原爆と切っても切れない関係でした。しかし1964年に公開された第五作『三大怪獣地球最大の決戦』でゴジラは人類の味方として現れ、このゴジラ善玉化の時期はちょうど「原子力ヒーロー」が活躍した時代と重なり合っていると分析しています。
 ゴジラは平成のシリーズに入ると、原子力に異様な執着を見せるようになり、原子炉を襲って放射能を吸い取ったりします。「核中毒患者」として核なしでは生きていけない身体になってしまったのです。そして最終作品ではゴジラメルトダウンを起こして死んでしまいます。その放射能ゴジラジュニアがすべて吸収し、親子間での核燃料サイクルが形成されます。
 斎藤環の分析を読んでいると、人々の集合的な無意識が選び取って原発を進めているのか、仕掛け人がいて原発への親和性を高めるために「国策」として原子力が進められているのか判然としない気がしてきます。これも小出裕章が言っていたことですが、「わたしたちはだまされていた」というのはもう通用しないということです。戦争中大本営発表を信じていた国民はだまされていた、だから私たち国民は無罪だとは言えない。あの時やはり多くの国民が戦争に賛成し、反戦思想を持つ人を摘発し、進んで罰を加えたのではなかったか。原子力を進めてきたのは国家の仕業だ、国民には十分な説明がされず、マスコミも操られていた、それは本当だろう。しかしそれでも私たちには責任がないとは言えないだろう。小出裕章は「今の大人には全員責任がある」と断言しています。そして一番被害を受けるのは一番責任のない、子どもたちであると。