否定と肯定

否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)

否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)

 本書は映画『否定と肯定』の原作である。2000年、第二次大戦をテーマにして、ナチスに好意的な内容の著書を数多く出している英国の歴史家、デイヴィッド・アーヴィングがデボラ・E・リップシュタットを相手取ってロンドンの高等学院に告訴状を提出した。リップシュタットの著書『ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ』で、ホロコースト否定者呼ばわりされて名誉を傷つけられたというのがアーヴィングの主張だった。
 第1部 前奏曲では、アトランタのエモリー大学で現代ユダヤ史とホロコースト学を教える教授であるリップシュタットが、急に裁判に引きずり出されて困惑している様子が描かれている。アメリカでは名誉毀損裁判では原告側に立証責任があるが、イギリスでは被告に立証責任があり、放っておけば、リップシュタットは敗訴してしまうのだ。アーヴィングは歴史資料を意図的に歪曲してホロコーストをなかった、ヒトラーには責任がなかったと主張するような歴史家であり、リップシュタット教授の友人には相手にする必要はないという者もいたが、この裁判には一人リップシュタット教授の立場にとどまらない意味があることがだんだん明らかになってくる。やっかいなのは、アーヴィングが誰も話を聞かないようなペテン師とは思われていないことで、名の知られた歴史家などがアーヴィングを優れた歴史家として認めていることであった。またアーヴィングはこの種の裁判をいくつも起こしており、出版社の中にはこうした裁判に関わり合うのを嫌がって、リップシュタット教授のような良心的な歴史家の著書を出版することを拒否したりする傾向にあったことだ。アーヴィングの訴えを無視して彼を勝訴させてしまうことは、まともな歴史家やそうした歴史認識を持つ良識ある人たちの言論の自由を脅かすものであった。また、リップシュタット教授自身のアイデンティティでもあるユダヤ人への名誉を傷つけるだけでなく、ホロコースト生存者への侮辱を見過ごすことになってしまう。アーヴィングは右翼系の政治団体やネオナチの団体とつながりを持ち、そうした会合での講演でホロコースト生存者たちを侮辱する発言を繰り返している(これらは裁判で次々と明るみに出される)。ホロコースト生存者の腕にある囚人番号の刺青を示しながら、「あなたはこれでいくら稼いだのか?」と発言したりしている。
 リップシュタット教授は裁判に向けてしなければならないことがたくさんあった。優秀な弁護士を見つけること、アーヴィングの著書の誤りを指摘して正しい証拠に基づいて論破できる歴史家を見つけること、莫大な資金を集めること(この裁判は6年に渡って行われた)、裁判中の生活をどうするか、など。これらが多くのユダヤ人や非ユダヤ人の協力を得て実現していく。これはこの裁判の重要性を物語るとともに、リップシュタット教授の業績と人格への敬意によるものであるだろう。
 第2部 裁判が本書の中核を成す部分であり、一番読み応えがある。裁判の記録を元に書かれているため、繰り返しなどもあり、臨場感がある。読んでいくうちにこれは本当に膨大な時間がかかる作業だと気が遠くなりそうだった。この裁判のために何年も資料集めや検証に時間がかけられたのも当然である。多くの出版社が尻込みをして先鋭的な著書を出版したがらないのもわかる気がする。そしてそれこそ歴史修正主義者たちの目的なのだとよくわかる。アーヴィングは敗訴し、莫大な訴訟費用を支払わねばならなくなったが、多くの団体や個人が彼に寄付をしている。また、あれこれと理由をつけて費用の支払いを拒否する。このあたりの様子は第3部 余波に描かれている。
 本書を読みながら、日本でも起こっている歴史修正主義者の活動は無関係ではないと感じる。南京虐殺はなかったとか、日韓併合朝鮮人が望んだことだとか、朝鮮人の強制連行はなかった、慰安婦はいなかったなど根拠のないデマが主張される。そういうのは昔からあったのだが、今はそうした言説が以前よりも力を持ち始めている。検定教科書レベルにまで浸透しつつある。リップシュタット教授も警告しているが、この闘いには終わりはない。事実を積み重ね、真実を語る努力をし続けなければならない。根拠のないデマであっても、そういうものを信じたい人にとってはそれが真実になってしまう。デマを流す方が、それがデマだと論証するよりもはるかに容易で、聞く方もデマを聞く方が簡単でわかりやすい。しかしたいてい事実は細かく、ややこしく、理解には時間と忍耐力を要する。世の中からそうした忍耐力がどんどん失われている気がするのが不安である。