つながれ 光の輪よ 

人がつき動かされて、行動する時ってなんなんだろう。
誰かに言われてするもんではない。

自分で、強く思う時。


俊のおばあさんがまだ若いお母さんだった頃、ある夜野原に一人で立っている須藤さんを見かける。
寒い寒い冬の日。

「このひとは、ほんまにひとりぼっちなんじゃなと。このまま放っておいてはいけんのじゃないかと、わしはその晩考えたんじゃ。」

次の日、須藤さんに会いに出かけた若い日のおばあさん。
須藤さんは、朝、家の庭の睡蓮鉢でメダカを触っていた息子を追い立て叱り飛ばして学校に急がせる。そしてそのまま、息子とは会えなかった。原爆にやられて息絶えてしまったのだ。
須藤さんの、悔いと苦しみ。

読む私は、そんなこと思わないでと言いたくなる。
でも、もしも私が須藤さんだったら?
悔いて、あの朝のやりとりがこうでなかったら。
きっと何度も何度も再現されただろう。

若き日のおばあさんは、同じく子を持つ母としてかける声を亡くしながらも、ずっと須藤さんを見つめていたのだ。


そう思っても、おせっかいだと思われないかだとか、他の人が声かけるだろうとか、二の足を踏んでしまうことがある。
でも、違うんだな。
案外それ、当たってる場合が多いんだ。

そして、いろんな躊躇を乗り越えてかける声って、きっと届くんだなあ。

本当にひとりぼっちだった須藤さんを思い、そしてまっすぐに須藤さんに向かっていった若き日のおばあさんの心根に、ただただ涙が出た。


私も、まっすぐ声が出せる人でありたい。
そう思ったのだった。

広島に原爆が落ちて25年、まだ戦争の傷跡があちらこちらにある時代に中学生の希未たちが、身近な人たちとの触れ合いを通して戦争を知る物語、「光のうつしえ」(朽木 祥/著 講談社)を読んだ。
美術部の吉岡先生、希未のお母さん、また同じ美術部の俊や耕造の家族などに関係する原爆で亡くなってしまった人たちの話。

聞いていくうちに中学生たちの心が動き、それぞれの絵や彫塑を独創的に作り上げていくのが素晴らしい。
自分で考える。そして、思いを刻み込んで行く。それが、心を打つ。


「ソロモンの偽証」とは全然タイプの違う物語なのだが、子どもたちが自分で見つけていく過程を描いている意味では、同じものを感じた。
単なる戦争のお話ではなく、しっかりと次世代にどう受け継いでいくかを見据えた作者の思いを強く感じる。