掛け値なく愛するということ

公立の学校って等しく子どもたちが来るところなので、いろんな家庭環境や経済状態の子がいる。
その当たり前の事実にはっとする時が、学校司書だって多々ある。
その子の具体的な事情を知らなくても、垣間見せる会話や表情や反応に厳しい現実を見て、学校に来ているだけで「よう来たなあ。それでいいやん。」と思う。

その時、その時に私のもっているもので、話したり聞いたりすることしかできないのだけれど。私は本を通してかかわることがほとんどなので、物語の世界からの対話(のになっていれば、いいのだが)になるから、直接そのことに触れる会話とは違うのだけれど。


まあ、私学の学校だって、経済的を除けば同じだろう。結局、子どもがたくさん通ってきて日常的に集団生活を送る場に居合わせれば、その背景も見えるということだ。

この「しずかな日々」(椰月美智子/作 講談社)を読んであらためて、その子に厳しい現実があっても、親でなくてもそれぞれまわりが愛をもってかかわることで、その子は前を向いていけるのだな、と思った。
また同時に、「しずかな日々」言いかえれば、毎日の暮らしを家族と丁寧に過ごす日々を求めていた少年の、かなわぬ悲しみが切々と伝わってきた。
いや、この言い方は正しくない。少年は、丁寧に日常を慈しむ生活をかなえたのだ。ただ、お母さんとの生活がかなわなかったのだ。その楽しい日々の裏に、少年の決意と彼は絶対言わないだろうけど悲しみが見えるのだ。
ここに、ぐっときた。

この子が安心するもの。
おじいちゃんの塩むすびだったり、家でつけた漬物だったり。
古屋の縁側だったり。

学区を超えた地域のある場所で、野球をすることだったり。

そして、ひょんなことから出来た友だち。
出来てしまったら、それまではいったいどうして過ごしてたんだろうとわからなくなるくらい、楽しい時間になる。

「エダイチ」というあだ名の由来も、おかしい。

あの子も、あの子も、この子のようにいろんな感情もってるんだろうな。
見えているところだけで解ろうとすると、ぜったいに解らない。
そんなことを思いながら、読んでいた。

そして、この本は主人公の母の描き方が強く印象に残る。

母の言い分を描いてないところが、私はいいと思う。
その分、あくまで少年から見た描き方になっていて、その主観がみずみずしいのだと思う。

おじいちゃんが、母(娘)を見つめる目も、少年(孫)を見つめる目もどちらもとても優しい。深い愛情を感じる。
少年の苦しみをわかった上で、母を案じる。そこが、大人だよなあ。

私は、どんな大人でいられるだろう。
椎野先生みたいに?

さてどうだろう。

丁寧な暮らしって、本当は誰にでも必要なものなのだけれど。
年末の仕事をあれこれしながら、この本の世界に行ったり来たりしてぼうっと考えてしまう。


この物語は、前を向いていく希望を描いているのだ。
少年らしい感性があちこちに顔を出す、
でも読後に、少年のきっぱり決意した顔を思い浮かべてしまう。
書名の「しずかな日々」の意味とその重さを、考えてしまう…そんな本だ。

この作者の「るり姉」は好きな本なのだが、この本もよい。私は「十二歳」よりもいいな。